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棋士たちは教室で戦うことにした  作者: 柚木 いと


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第3話 一局だけは投げ出させない

体験会から一週間。

 ○○駅前こども囲碁教室は、正式に「第1回」と呼べる日を迎えた。


 紙の出席リストの「体験会」の欄の隣に、「第1週」「第2週」と手書きの項目が増えている。

 そこには、あの日に丸がついていた四人の名前が並んでいた。


 ――四人、か。


 多くはない。

 けれど、まったくゼロでもない。


 棋戦のリーグ表で、自分の名前の縦に白星がひとつだけ灯っているような、そんな心持ちだった。


 



 


 土曜日の午後、二時少し前。

 九路盤を四枚だけ机に出し、石の容器を並べ終えたところで、教室のドアが開いた。


「こんにちはー」


 最初に入ってきたのは、体験会で一番に石を置いた男の子だった。

 Tシャツの胸には、ゲームのキャラクターのイラストが派手にプリントされている。


「お、来たな」


 思わず、棋士どうしのような口調が出そうになって、慌てて言い直す。


「こんにちは。今日も来てくれて、ありがとう」


「おれねー、家でプリントやったよ」


 男の子は、ランドセルからくしゃくしゃになった紙を取り出して見せてきた。

 九路盤の簡単な詰碁三問。そのすべてに、鉛筆で石が描き込まれている。


 答えはところどころ合っていて、ところどころ間違っていた。

 けれど、それよりも先に、「ちゃんと全部埋まっている」ということが目に飛び込んでくる。


「全部やったんだな」


「うん。分かんないとこは、とりあえず置いてみた」


 その言い方が、少しだけ頼もしかった。


 


 ほどなくして、ほかの子どもたちもやってきた。


 体験会で恥ずかしそうにしていた女の子は、今日は友だちと一緒だ。

 碁石の音ばかり気にしていた子は、今日は箱を開ける前からわくわくした目で九路盤を眺めている。


 出席リストの四つの名前に、今日の日付と小さな丸印が増えていく。


「じゃあ、今日からは“体験会”じゃなくて、“教室”です」


 全員が席についたのを確認してから、僕はそう告げた。


「これから、毎週少しずつ、新しいことを覚えていきましょう。

 最初の約束はひとつだけ。“一局始めたら、最後までやりきる”」


 四人の視線が、こちらに集まる。


「途中で負けそうになっても、眠くなっても、きっと飽きても。

 石がなくなるか、“もう打てません”ってところまで、一緒にやってみよう」


 自分で言いながら、「どこまで守らせられるか分からない約束だ」とも思っていた。

 それでも、「最初に宣言しておくこと」に意味がある気がした。


 



 


「じゃあ今日は、“自分の陣地”の話を、ちょっとだけしてみようか」


 九路盤の一角に、黒石で小さな四角形を作って見せる。


「前に、“囲んだら取れる”ってやったよね。

 今度は、“囲んだらじぶんの場所になる”って考えてみよう」


「取らないの?」


 碁石の音が好きな男の子が、不満そうに聞いてくる。


「取ってもいい。けど、取らなくてもいい。

 この中は“黒の陣地”だから、最後まで残しておいても、ちゃんと黒の点数になる」


 そう言いながら、石と石のあいだを指でなぞる。


「全部を相手の石でつぶすゲームじゃなくて、“どれだけ自分の場所を作れたか”をくらべるゲームです」


 難しい話をしている自覚はあった。

 けれど、いつまでも「取った・取られた」だけで引っ張るわけにもいかない。


「じゃあ、これ、“黒の陣地”?」


 さっきプリントを見せてくれた男の子が、自分の九路盤で作った形を指さした。

 黒石が三つ、斜めに並んでいる。周りはまだ空点だらけだ。


「うーん。どうかな。

 先生、黒の石と白の石を、一個ずつ置いてみるよ」


 僕は、彼の黒石の周りに白石を打っていきながら説明する。


「ここに白が来たら、黒の場所は減っちゃうね。

 だから、“相手の石が入ってきても守れる形”じゃないと、本当の陣地とは言えないかもしれない」


「じゃあ、どうしたらいいの」


「一緒に考えよう」


 そう言って、僕は彼の手に黒石を一つ渡した。


 



 


 その日の教室は、ほとんどが「小さな陣地づくり」と「簡単な一局」に費やされた。


 九路盤の一角に、黒と白で囲い合いをして、最後に数を数える。

 「ここはどっちの場所?」と尋ねると、子どもたちは一つひとつ指でなぞりながら考えていた。


「ここ、黒と白、両方の石から近いけど……」


 女の子が、盤の中央を指さす。


「いいところに気づいたね。

 そこは、“まだ決まってない場所”だ。

 黒も白も、あとから打てる。だからこそ、だれが先にいい場所を取れるかが大事になる」


 専門用語で言えば「ヨセ」だとか、「価値」だとか言いたくなる。

 けれど、ここではそういう言葉を飲み込んで、「まだ決まってない場所」とだけ呼ぶことにした。


 


「ふー……」


 最後の一局を打ち終えた男の子が、大きく息を吐いた。


「これで終わり?」


「今日はここまで」


 僕はそう言って、盤上の石を一緒に片づけ始める。


「一局、最後までやったな」


「うん。途中で負けそうになったけど」


「途中で“負けそう”って分かるのも大事なんだよ」


 そう言いながら、自分でも「誰に向かって言っているのか分からない言葉だな」と思った。


 プロの世界では、負けそうだと分かっていても、簡単には投了できない対局がある。

 スポンサーの手前や、タイトル戦の格式や、いろんなものが絡む。


 ここでは、それとは別の意味で、「最後までやりきる」を教えなければならない。


 



 


 子どもたちが帰ったあと、教室の片隅で、僕は一枚のメモ帳を開いた。


 そこには、体験会の日からつけ始めた、簡単な記録が並んでいる。


 「○○くん:最初の一手は星。石をつまむ手が慎重。

  △△さん:囲まれるとすぐに笑ってごまかす。

  □□くん:石の音ばかり聞いているが、アタリには敏感。」


 今日の分を、新しく書き足していく。


 「○○くん:家でプリントを全部やってきた。“分からないところも、とりあえず置いた”。

  △△さん:陣地のイメージが強い。まだ間違うが、“ここはまだ決まってない”に気づく。

  □□くん:取られると悔しがるが、最後まで座っていた。」


 棋戦の研究ノートとは違う種類のメモ。

 それでも、「盤を挟んで向かい合った誰かとの記録」という点では、何も変わらない。


 


 メモを書いていると、教室のドアが小さくノックされた。


「すみません、先生」


 顔を出したのは、体験会のときに「プロは大変ですよね」と言っていた父親だった。


「あ、今日はありがとうございました」


「こちらこそ。……ちょっとだけ、いいですか」


 彼は教室の中に一歩入ってきて、さっきまで息子が座っていた椅子をちらりと見た。


「さっき、帰りのエレベーターで、息子が言ってたんです」


「なんと?」


「“最後まで打ったら、ちょっと気持ちいいかも”って」


 それを聞いた瞬間、心臓が一拍だけ大きく跳ねた。


「うちの子、ゲームでもなんでも、負けそうになるとすぐリセットするタイプで。

 それが、囲碁だと最後まで座ってるっていうのが、こっちからすると不思議なくらいで」


 父親は少し笑った。


「正直、まだ囲碁の何がそんなに面白いのか、本人も分かってないと思うんですけど……

 “途中でやめないで終わらせる”って感覚は、たしかにここでしか味わってないのかな、と」


 僕は、何と言えばいいか一瞬迷ってから、正直な感想を口にした。


「……それを聞けただけで、今日はだいぶ救われます」


 父親は、少し驚いたような顔をしたあと、「そうですか」と小さくうなずいた。


 


「先生たちも、大変ですよね。

 プロの世界も、変わってきてるって聞きますし」


 またその話か、と一瞬身構えた自分を、自覚する。


「大変、ですね」


 僕は、苦笑まじりに認める。


「ただ――」


 教室の真ん中に並んだ九路盤を一枚、指先で軽く叩く。


「こうやって、“最初の九路盤から始める子”がいるうちは、

 なんとか、盤のそばにいられればいいかなとも思ってます」


 それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。


 父親は、少しのあいだ黙ってから、深く頭を下げた。


「これからも、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 



 


 教室を出て、○○駅のホームに立つ。

 土曜日の夕方の電車は、平日の終電前よりはずっと空いていた。


 窓に映る自分の顔は、相変わらず冴えない。

 けれど、その奥にある疲れの種類が、少しだけ変わっているような気がした。


 棋戦で一局打ち終えた日の疲れとも違う。

 ただの事務仕事をこなしたあとのぐったりとも違う。


 九路盤の上の小さな一局を、いくつも見届けたあとの、妙な充足感。


 


 高原 祐一、三十七歳。

 「投了」のタイミングばかり気にしていた棋士は、

 子どもたちに「最後までやりきる」を教える立場になった。


 それが、ほんとうに誰かの役に立つのかどうかは、まだ分からない。


 けれど少なくとも――

 今日、あの教室の九路盤の上で、

 「一局だけは投げ出さなかった子ども」が一人いた。


 その事実を、しばらくのあいだ、

 電車の揺れの中で、何度も繰り返し噛みしめていた。

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