第3話 一局だけは投げ出させない
体験会から一週間。
○○駅前こども囲碁教室は、正式に「第1回」と呼べる日を迎えた。
紙の出席リストの「体験会」の欄の隣に、「第1週」「第2週」と手書きの項目が増えている。
そこには、あの日に丸がついていた四人の名前が並んでいた。
――四人、か。
多くはない。
けれど、まったくゼロでもない。
棋戦のリーグ表で、自分の名前の縦に白星がひとつだけ灯っているような、そんな心持ちだった。
◇
土曜日の午後、二時少し前。
九路盤を四枚だけ机に出し、石の容器を並べ終えたところで、教室のドアが開いた。
「こんにちはー」
最初に入ってきたのは、体験会で一番に石を置いた男の子だった。
Tシャツの胸には、ゲームのキャラクターのイラストが派手にプリントされている。
「お、来たな」
思わず、棋士どうしのような口調が出そうになって、慌てて言い直す。
「こんにちは。今日も来てくれて、ありがとう」
「おれねー、家でプリントやったよ」
男の子は、ランドセルからくしゃくしゃになった紙を取り出して見せてきた。
九路盤の簡単な詰碁三問。そのすべてに、鉛筆で石が描き込まれている。
答えはところどころ合っていて、ところどころ間違っていた。
けれど、それよりも先に、「ちゃんと全部埋まっている」ということが目に飛び込んでくる。
「全部やったんだな」
「うん。分かんないとこは、とりあえず置いてみた」
その言い方が、少しだけ頼もしかった。
ほどなくして、ほかの子どもたちもやってきた。
体験会で恥ずかしそうにしていた女の子は、今日は友だちと一緒だ。
碁石の音ばかり気にしていた子は、今日は箱を開ける前からわくわくした目で九路盤を眺めている。
出席リストの四つの名前に、今日の日付と小さな丸印が増えていく。
「じゃあ、今日からは“体験会”じゃなくて、“教室”です」
全員が席についたのを確認してから、僕はそう告げた。
「これから、毎週少しずつ、新しいことを覚えていきましょう。
最初の約束はひとつだけ。“一局始めたら、最後までやりきる”」
四人の視線が、こちらに集まる。
「途中で負けそうになっても、眠くなっても、きっと飽きても。
石がなくなるか、“もう打てません”ってところまで、一緒にやってみよう」
自分で言いながら、「どこまで守らせられるか分からない約束だ」とも思っていた。
それでも、「最初に宣言しておくこと」に意味がある気がした。
◇
「じゃあ今日は、“自分の陣地”の話を、ちょっとだけしてみようか」
九路盤の一角に、黒石で小さな四角形を作って見せる。
「前に、“囲んだら取れる”ってやったよね。
今度は、“囲んだらじぶんの場所になる”って考えてみよう」
「取らないの?」
碁石の音が好きな男の子が、不満そうに聞いてくる。
「取ってもいい。けど、取らなくてもいい。
この中は“黒の陣地”だから、最後まで残しておいても、ちゃんと黒の点数になる」
そう言いながら、石と石のあいだを指でなぞる。
「全部を相手の石でつぶすゲームじゃなくて、“どれだけ自分の場所を作れたか”をくらべるゲームです」
難しい話をしている自覚はあった。
けれど、いつまでも「取った・取られた」だけで引っ張るわけにもいかない。
「じゃあ、これ、“黒の陣地”?」
さっきプリントを見せてくれた男の子が、自分の九路盤で作った形を指さした。
黒石が三つ、斜めに並んでいる。周りはまだ空点だらけだ。
「うーん。どうかな。
先生、黒の石と白の石を、一個ずつ置いてみるよ」
僕は、彼の黒石の周りに白石を打っていきながら説明する。
「ここに白が来たら、黒の場所は減っちゃうね。
だから、“相手の石が入ってきても守れる形”じゃないと、本当の陣地とは言えないかもしれない」
「じゃあ、どうしたらいいの」
「一緒に考えよう」
そう言って、僕は彼の手に黒石を一つ渡した。
◇
その日の教室は、ほとんどが「小さな陣地づくり」と「簡単な一局」に費やされた。
九路盤の一角に、黒と白で囲い合いをして、最後に数を数える。
「ここはどっちの場所?」と尋ねると、子どもたちは一つひとつ指でなぞりながら考えていた。
「ここ、黒と白、両方の石から近いけど……」
女の子が、盤の中央を指さす。
「いいところに気づいたね。
そこは、“まだ決まってない場所”だ。
黒も白も、あとから打てる。だからこそ、だれが先にいい場所を取れるかが大事になる」
専門用語で言えば「ヨセ」だとか、「価値」だとか言いたくなる。
けれど、ここではそういう言葉を飲み込んで、「まだ決まってない場所」とだけ呼ぶことにした。
「ふー……」
最後の一局を打ち終えた男の子が、大きく息を吐いた。
「これで終わり?」
「今日はここまで」
僕はそう言って、盤上の石を一緒に片づけ始める。
「一局、最後までやったな」
「うん。途中で負けそうになったけど」
「途中で“負けそう”って分かるのも大事なんだよ」
そう言いながら、自分でも「誰に向かって言っているのか分からない言葉だな」と思った。
プロの世界では、負けそうだと分かっていても、簡単には投了できない対局がある。
スポンサーの手前や、タイトル戦の格式や、いろんなものが絡む。
ここでは、それとは別の意味で、「最後までやりきる」を教えなければならない。
◇
子どもたちが帰ったあと、教室の片隅で、僕は一枚のメモ帳を開いた。
そこには、体験会の日からつけ始めた、簡単な記録が並んでいる。
「○○くん:最初の一手は星。石をつまむ手が慎重。
△△さん:囲まれるとすぐに笑ってごまかす。
□□くん:石の音ばかり聞いているが、アタリには敏感。」
今日の分を、新しく書き足していく。
「○○くん:家でプリントを全部やってきた。“分からないところも、とりあえず置いた”。
△△さん:陣地のイメージが強い。まだ間違うが、“ここはまだ決まってない”に気づく。
□□くん:取られると悔しがるが、最後まで座っていた。」
棋戦の研究ノートとは違う種類のメモ。
それでも、「盤を挟んで向かい合った誰かとの記録」という点では、何も変わらない。
メモを書いていると、教室のドアが小さくノックされた。
「すみません、先生」
顔を出したのは、体験会のときに「プロは大変ですよね」と言っていた父親だった。
「あ、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。……ちょっとだけ、いいですか」
彼は教室の中に一歩入ってきて、さっきまで息子が座っていた椅子をちらりと見た。
「さっき、帰りのエレベーターで、息子が言ってたんです」
「なんと?」
「“最後まで打ったら、ちょっと気持ちいいかも”って」
それを聞いた瞬間、心臓が一拍だけ大きく跳ねた。
「うちの子、ゲームでもなんでも、負けそうになるとすぐリセットするタイプで。
それが、囲碁だと最後まで座ってるっていうのが、こっちからすると不思議なくらいで」
父親は少し笑った。
「正直、まだ囲碁の何がそんなに面白いのか、本人も分かってないと思うんですけど……
“途中でやめないで終わらせる”って感覚は、たしかにここでしか味わってないのかな、と」
僕は、何と言えばいいか一瞬迷ってから、正直な感想を口にした。
「……それを聞けただけで、今日はだいぶ救われます」
父親は、少し驚いたような顔をしたあと、「そうですか」と小さくうなずいた。
「先生たちも、大変ですよね。
プロの世界も、変わってきてるって聞きますし」
またその話か、と一瞬身構えた自分を、自覚する。
「大変、ですね」
僕は、苦笑まじりに認める。
「ただ――」
教室の真ん中に並んだ九路盤を一枚、指先で軽く叩く。
「こうやって、“最初の九路盤から始める子”がいるうちは、
なんとか、盤のそばにいられればいいかなとも思ってます」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。
父親は、少しのあいだ黙ってから、深く頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
◇
教室を出て、○○駅のホームに立つ。
土曜日の夕方の電車は、平日の終電前よりはずっと空いていた。
窓に映る自分の顔は、相変わらず冴えない。
けれど、その奥にある疲れの種類が、少しだけ変わっているような気がした。
棋戦で一局打ち終えた日の疲れとも違う。
ただの事務仕事をこなしたあとのぐったりとも違う。
九路盤の上の小さな一局を、いくつも見届けたあとの、妙な充足感。
高原 祐一、三十七歳。
「投了」のタイミングばかり気にしていた棋士は、
子どもたちに「最後までやりきる」を教える立場になった。
それが、ほんとうに誰かの役に立つのかどうかは、まだ分からない。
けれど少なくとも――
今日、あの教室の九路盤の上で、
「一局だけは投げ出さなかった子ども」が一人いた。
その事実を、しばらくのあいだ、
電車の揺れの中で、何度も繰り返し噛みしめていた。




