第2話 最初の九路盤
教室の開設日は、あっという間にやってきた。
正式名称は「○○駅前こども囲碁教室・体験会」。
チラシには連盟のロゴと、「頭の体操」「考える力がつく」といった、僕の口からはなかなか出てこない言葉が並んでいる。
開始時刻は、土曜日の午後二時。
その三十分前には、僕と連盟の職員が教室に入って準備を始めていた。
「九路盤、ここに四枚。こっちの列にも四枚……」
折りたたみの机の上に九路盤を並べ、その横に子ども用の椅子を置いていく。
碁石は、ガシャガシャと音が出ないよう、あらかじめ小さなプラスチック容器に分けておく。
「十三路は、今日は出さないんですよね?」
「うん。最初は“やり足りないくらい”で終わるほうがいい。
“いっぱいあってよく分からなかった”って帰ると、次に来なくなる」
そう口では言いながら、自分でも少し緊張しているのが分かった。
棋戦の対局室に入るときの緊張とは、まったく質の違うざわつきだ。
秒読みの声もなければ記録係もいない。ただ、小さな椅子とテーブルと、真新しい九路盤があるだけ。
「先生、チラシの反応、どうでした?」
職員が、プリントアウトしたばかりの参加者リストを見ながら尋ねる。
「……正直、怖くて聞いてない」
「ですよねえ。でも、問い合わせはぼちぼちありましたよ。
ここから徒歩圏内の小学校三つに配りましたし、学童さん経由でも何枚か」
職員が、リストの一番上を指さす。
「今のところ、事前予約は五名です」
「五人……」
多いのか少ないのか、よく分からない。
棋戦の観客数と違って、教室の“適正人数”というものが、まだ自分の中に基準を持てていなかった。
「当日飛び込みもありそうですし、十人くらい来てくれたら御の字ですね」
職員は明るく言う。
――十人、か。
九路盤は八枚用意してある。
全部埋まったらどうするか、という話も一応シミュレーションはしてきた。
でも、終わったあとに盤が一枚も使われなかったときのことは、まだ想像しないようにしていた。
◇
時計が二時少し前を指したころ、最初の親子がドアを開けて入ってきた。
小学二年生くらいの男の子と、三十代半ばくらいの母親。
男の子は、教室に入るなり、九路盤より先に十九路盤のほうに目を奪われている。
「すごーい、おっきいマス目」
その声に、少し肩の力が抜けた。
「こんにちは。本日は体験会に来てくださってありがとうございます」
用意しておいた台詞を、できるだけ自然に口に出す。
「高原といいます。よろしくお願いします」
「あ、今日はお世話になります。○○と申します」
母親が軽く会釈する。
男の子は、こちらを興味深そうに見上げていた。
「この子、ルールはまったく分からないんですけど、大丈夫でしょうか」
「もちろんです。最初は九路盤という、小さめの盤から始めますので」
そう言って、教室の中央に並べた九路盤を指さす。
「ここに座ってもらって、石の置き方から、一緒に覚えていきましょう」
そのあとも、ぽつぽつと親子が入ってきた。
恥ずかしそうに母親の後ろに隠れる子。
友だち同士で来て、九路盤を指さしてはしゃいでいる子。
父親に連れられて、少し緊張した面持ちの子。
二時十分。
予定していた五人に、飛び込みが三人。
最終的に、八人の子どもが九路盤の前に座った。
八枚用意しておいてよかった、と心底思った。
◇
「じゃあ、まずは“黒い石と白い石”を見てみようか」
子どもたちの前に立ち、黒石と白石の入った容器をそっと持ち上げる。
ざらり、と石の触れ合う音が教室に広がった。
その音に、何人かの子の目がきらりと光る。
「黒と白、どっちがいい?」
そう尋ねると、ほとんどの子の手が黒に伸びた。
「じゃあ、今日はみんな黒を持とう。
先生は、白を持つね」
そう言って、各九路盤の黒石の容器を子どもたちの前に配る。
「囲碁の石は、マスの中じゃなくて、“まじわるところ”に置きます」
九路盤の一番上の横線と、左から二番目の縦線が交わる点を、人差し指で軽く叩く。
「ここ。まじわるところ。そこに、置く」
言いながら、一つ白石を置く。
カツン、と控えめな音が、板の向こうから手に返ってきた。
次に、盤の向かい側の男の子のほうを見て、笑ってみせる。
「やってみる?」
「……うん」
男の子は、少し緊張した顔で黒石をつまみ、僕の石から少し離れた場所の“まじわるところ”に置いた。
カツン、と少し高い音がした。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんと熱くなる。
――ここが今日の「最初の一手」か。
◇
「囲碁は、“囲んだら取れるゲーム”です」
僕は、すぐそばの別の九路盤に黒石と白石を並べてみせる。
「この白い石の周りを、黒い石で四つ、こうやって囲みます」
上下左右の四箇所に、黒石を一つずつ置く。
「そうすると、この真ん中の白は、もうどこにも逃げられない。
こうなったら、“取られた”ってことになる」
真ん中の白石を指でつまんで、盤から持ち上げる。
何人かの子が、「おおー」と小さく声を上げた。
「逆に、黒い石も、白に囲まれたら取られます。
だから、囲まれそうになったら、助けに行ったり、逃げたりするゲームです」
できるだけ単純に説明する。
「呼吸点」とか「ダメ」といった言葉を、今日はあえて使わない。
「先生、全部囲んだら勝ちですか?」
ひとりの女の子が手を挙げて聞いてきた。
「いい質問だね」
僕は、思わず本音でそう言っていた。
「本当の囲碁では、“石を取る”だけじゃなくて、“自分の陣地を作る”のも大事なんだ。
でも、今日は最初の日だから、“石を取るゲーム”から始めよう。
陣地の話は、もう少し慣れてからにしようか」
子どもたちは、それぞれうんうんと頷いている。
説明がどこまで伝わっているかは分からないが、「分からないから退屈だ」という顔はしていない。
「じゃあ、隣の子とペアになって、ひとつずつ石を置いてみよう」
そう言って、最初に黒石を置いた男の子の盤に戻る。
「今度は、先生と対戦しようか。
黒は、さっきみたいに、“逃げたり攻めたりする役”だ」
「……うん」
男の子は、黒石をひとつつまむと、さっき僕が置いた白石のすぐ横に打った。
「お、攻めてきたな」
僕は、少しオーバーに驚いてみせる。
「じゃあ、白も逃げないと」
そう言って、白石を一つ隣に置く。
九路盤の上で、簡単な追いかけっこが始まる。
隣の盤でも、反対側の端の盤でも、それぞれの小さな追いかけっこが広がっていく。
石をつまむ手つきはぎこちない。
たまにマスの中に置きそうになったりもする。
それでも、「囲んだ」「取れた」と小さく喜ぶ声が、教室のあちこちで上がっていた。
――盤は、ちゃんと動いている。
◇
体験会が終わるころには、子どもたちの頬はうっすら赤くなっていた。
「今日は、“囲んだら取れる”までを覚えました。
次に来てくれたら、“じぶんの陣地を作る”ことも、少しずつ練習していきましょう」
最後にそうまとめてから、一人ひとりに簡単なプリントを渡す。
九路盤の簡単な詰碁が三問。正解は裏面に小さく印刷してある。
「おうちでやってみてもいいし、ここに来たときに一緒にやってもいいよ」
子どもたちは、それぞれプリントと小さなシールを受け取って帰っていった。
入口のところで、「楽しかった」と言ってくれた子もいれば、無言でうなずいて出ていく子もいた。
最後の親子がドアを閉めるのを見届けてから、ようやく大きく息を吐く。
「……どうでした、先生」
椅子を片づけながら、連盟の職員が遠慮がちに尋ねてきた。
「思ったより、ちゃんと“石を置いてた”」
それが、最初に出てきた感想だった。
「途中で飽きて、走り回る子もいるかと思ってたけどな」
「そうですね。
“取った・取られた”が分かりやすかったのかもしれません」
職員は、プリントの残りを数えながら言う。
「ただ、やっぱり保護者の方のほうが、いろいろ考えてましたね」
「……ああ」
体験会の合間に、何人かの保護者と話した。
そのなかの一人、中学生の長男と一緒に来ていた父親が、こんなことを言っていた。
「正直、プロの世界は大変だってニュースで見たんですよ。
AIに勝てないとか、棋戦が減ってるとか。
それでも、囲碁自体は“頭の体操にいい”って学校の先生にすすめられて」
僕は、その言葉にどう答えるか、ほんの少し迷った。
――AIに勝てない。
――棋戦が減っている。
それは、紛れもない事実だ。
けれど、ここで「そうなんですよ」とだけ返してしまうと、この教室の意味を自分で否定してしまうことになる。
「たしかに、プロとしては厳しい時代ですね」
結局、僕は正直なところから話し始めることにした。
「AIのほうが強いですし、対局の仕事も昔より減っています」
父親は、少し申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、変なこと聞いて」
「いえ。
ただ……子どもたちにとっての囲碁は、“プロになるための囲碁”じゃなくていいと思うんです」
九路盤の上で、黒石と白石が追いかけっこをしているのを横目に見ながら続ける。
「考えることとか、最後まで粘ることとか、人の話を聞くこととか。
そういうものを身につける場所としてなら、囲碁はまだ、役に立てるんじゃないかと」
自分で言いながら、「きれいごとかもしれない」とどこかで思っていた。
でも、今まさに石を置いている子どもたちの姿を見ると、そのきれいごとが、少しだけ現実と重なっている気がした。
父親はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……たしかに。
この子、すぐ投げ出す癖があるんで。
せめて、“一局は最後までやりきる”って感覚がついてくれたら、いいのかもしれません」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少し軽くなった。
――プロとしての価値は、たしかに前より軽くなったのかもしれない。
――でも、「石を置く意味」が全部なくなったわけじゃない。
◇
「先生、これ、今日の出席リストです」
片づけがひと段落した頃、職員が一枚の紙を差し出した。
「来週以降も続けて申し込みしてくださった方に、丸をつけておきました」
見ると、八人中、四人の名前の横に小さな丸がついている。
「半分、か」
「はい。
最初の体験会としては、かなりいい数字だと思います」
職員はそう言ったが、僕は数字そのものよりも、「名前が残っている」という事実のほうに目がいった。
さっき黒石を最初に置いた男の子。
恥ずかしそうにしながらも、「また来たい」と小さな声で言ってくれた女の子。
碁石の音ばかり気にしていた子。
友だちと来て、最後には別々の盤で打っていた子。
その一人ひとりと、これから何度、九路盤を挟んで向き合うことになるのだろう。
高原 祐一、三十七歳。
棋戦の数を数える代わりに、教室に来る子どもの名前を数えるようになった棋士は――
この先、どんな盤面を一緒に眺めることになるのか。
まだ、よく分からない。
ただ、今日の九路盤の上に並んだ石の形は、
僕にとっての「新しい仕事の初手」として、
はっきりと記憶に残るものになりつつあった。




