第1話 棋戦が消えて、子どもが増えた
最初に仕事が一本消えたとき、正直そこまで気にしていなかった。
「スポンサーの都合で、来期は見送りになりました」
連盟の事務局から、そんなメールが届いたのは三年前の春だ。
十数年続いていた中堅タイトル戦。優勝賞金は決して高くはないけれど、棋士たちにとっては貴重な舞台だった。
そのときは、「まあ、ひとつぐらい減ることもあるか」と思っていた。
次の年、別の棋戦がネット配信専用になった。
対局場は残るが、観客はゼロ。現場にいるのは、記録係とカメラだけ。
配信画面の端には、AIの形勢バーと推奨手が、当然のような顔をして並んでいた。
――プロの対局より、AI同士の自動対局のほうがよく見られる時代。
そんな記事を、ニュースサイトで何度か見た。
そして今年、とうとう、僕が十年近く打ってきた棋戦そのものが消えた。
名ばかりの段位と、減っていく仕事。
カレンダーの空白が、じわじわと広がっていく。
ただ、皮肉なことに、そのいっぽうで別の数字は増えていた。
「最近、“考える力がつく”ってので、囲碁教室人気なんですよ」
学童や塾の担当者が、そんなことを言い始めたのも、ここ数年だ。
プロの世界はAIに押されていくのに、子どもの習い事としての囲碁は、算数やプログラミングと同じ棚に並べられ始めていた。
――プロとして食うのはきつくなってきている。
――でも、「頭の体操」としての囲碁には、まだ需要がある。
その矛盾が、やがて僕たちの仕事の形を変えていくことになる。
◇
「でさ。今日も“教室のほう”の話なんだ」
連盟の会議室で、事務局の若い職員がホワイトボードの前に立ってそう言った。
「“ほう”じゃなくて、もう“そっちがメイン”って言っていいんじゃないか」
隣に座っていた同世代の棋士が、小声でつぶやく。
僕は、その言葉に苦笑するだけだった。
ホワイトボードには、「地域囲碁教室パイロットプロジェクト」と書かれている。
名前だけは立派だが、要するに「棋戦が減って空いた棋士の時間を、子どもの教室に振り分けよう」という話だ。
「各地区にモデル教室をつくります。最初は首都圏で三か所。
基本は平日夕方と土曜日。担当の先生を、こちらで指名させていただきます」
指名。
その単語に、部屋の空気が少しだけざわつく。
「もちろん、対局の予定が最優先です。ただ……」
職員は、少し言いにくそうに続けた。
「ご存じの通り、今後は棋戦の数も、規模も、どうしても縮小せざるをえません。
そのぶん、子どもたちへの普及や教室運営が、棋士の大事な仕事になっていきます」
――大事な仕事。
きれいに言っているが、「ここで食べていくしかない」と言っているのとほとんど同じだ。
配布資料に目を落とす。
そこには、「モデル教室担当棋士案」という一覧が載っている。
スライドの画面には映されていない。僕らにだけ、こっそり渡された紙だ。
自分の名前のあたりを探すと、すぐに見つかった。
「東西線○○駅前教室 担当棋士案:高原 祐一」
――ああ、やっぱり。
心のどこかで、そう思っていた。
◇
会議が終わったあと、廊下で同世代の棋士に声をかけられた。
「高原さん、教室担当なんだって?」
振り返ると、女流のタイトル経験者、白石 結衣が立っていた。
細いフレームの眼鏡越しに、こちらをじっと見ている。
「“なんだって?”って、自分の紙見てただろ」
「いや、ほら、改めて。……おめでとう?」
「どこがだよ」
ため息まじりに返すと、白石はくすりと笑った。
「私は、まだ『対局優先』枠らしいよ。女流棋戦があるぶん、仕事は残ってるって」
「それは、よかったな」
「よくないよ。女流のほうも、そのうち減ると思う」
白石は、さらりと言った。
「だから、教室の話は、きっと“他人事じゃない”」
彼女は、僕の配属先をちらりと見る。
「○○駅前、だっけ。……あそこ、子ども多そうだね」
「駅前に大きい公園と、小学校が二つ。
資料には『潜在的な需要あり』とか、きれいに書いてあったよ」
「いいじゃん。ちゃんと“戦場”だよ、それ」
戦場。
言葉の選び方が、棋士らしいと思った。
「高原さん、子どもに教えたこと、あったっけ」
「イベントでちょっと。詰碁プリント配って、“ここに打つと相手の石が取れます”って説明するくらいだ」
「じゃあ……これから、もっといっぱい『ここに打つといいよ』を言うことになるんだね」
白石は、それが少し嬉しそうでもあり、少し寂しそうでもあるような表情で言った。
◇
その日の夕方、連盟を出て、○○駅まで足を運んでみた。
東西線の改札を出て、北側の階段をあがる。
駅前ロータリーには、チェーン系の飲食店とコンビニ、古くからありそうな文房具屋が並んでいた。
資料には「駅から徒歩三分」と書かれていた教室予定地は、その文房具屋の二階だった。
錆びた外階段を上がり、まだ看板のついていないドアの前で立ち止まる。
鍵はかかっていたが、ガラス越しに中の様子が見えた。
白い壁。
折りたたみの机がいくつか並び、そのうちの二つに十九路盤が立てかけてある。
隣には、九路盤が数枚。まだ新品の碁石セットがダンボールのまま積まれていた。
――教室、ね。
独り言のようにつぶやいて、ドアノブから手を離す。
対局場ではない。
タイトル戦の掛け軸もなければ、記録係のための小さな机もない。
けれど、盤と石が置かれるということは、「ここでも誰かが石を置く」ということだ。
戦い方が変わるだけで、戦場であることには違いないのかもしれない。
◇
教室開設の日取りは、一か月後に決まった。
その間に、内装と備品の準備、チラシ配布、小学校への挨拶回りがあるという。
担当棋士も、連盟の職員と一緒に動くことになった。
「すみませんねえ、先生。こんな雑用まで」
地域担当の職員が、コピーしたチラシの束を抱えながら恐縮して言う。
「いや、こっちの仕事だろ、これは」
そう答えながらも、自分でもまだ、「先生」と呼ばれることに違和感があった。
高原 祐一、三十七歳。
棋士になって十六年。
タイトル戦の挑戦は一度だけ。七番勝負で四連敗して、そこからずるずるとランクを落としてきた。
最近の名刺には、「プロ棋士」の肩書きのほかに、小さな文字で「囲碁教室アドバイザー」と印刷されるようになった。
――アドバイザー、ね。
電車に揺られながら、その文字を指でなぞる。
「先生って、対局のときも教室のときも『先生』って呼ばれるの、なんか変じゃないですか」
連盟の若い職員が、雑談のときにそんなことを言っていた。
「『対局のときは対戦相手で、教室では先生』って切り替えるの、大変そうだなって」
「こっちは、呼ばれ方が変わっても、やってることは石を置いてるだけだよ」
そのときはそう返した。
けれど、教室の準備が進むにつれて、「石を置くだけ」では済まないことが増えていくのが分かった。
体験会の案内文。
教室のルール。
月謝の仕組み。
「最初の三か月でここまで打てるようになります」という目安。
それらの文面を、連盟の職員と相談しながら決めていく。
「最初は九路盤で、『アタリと取り』と『地のイメージ』くらいですよね?」
「ああ。いきなり十九路盤に座らせても、石を並べて終わりだ」
「“黒い石は“攻める石”、白い石は“守る石”って説明してる教室もあるみたいですけど……」
「それはそれで分かりやすいけど、最後にちゃんと“陣地を作るゲームだ”って戻さないと、どこかでズレるな」
そんな話をしているときは、久しぶりに「仕事をしている感覚」があった。
盤上での一手ではなく、教室での一手。
子どもたちが最初に覚える言葉を決めることが、こんなに神経を使うものだとは思っていなかった。
◇
開設一週間前、準備中の教室に顔を出すと、既に一人、先客がいた。
十九路盤の前に座って、紙を見ながらなにやら配置を確かめている、小柄な女性。
背中越しに見覚えのある雰囲気があった。
「……白石?」
「あ、高原さん」
彼女は振り向き、少しバツが悪そうに笑った。
「ちょっと見学。東西線で一本だったから」
「お前は教室担当じゃないだろ」
「今のところはね」
白石は、盤上に並べた黒石を指先でとんとんと叩いた。
「でもさ。女流のほうも、いつどうなるか分かんないし。
“棋士が教室で何やってるか”くらい、知っといてもいいかなって」
「……そうか」
「それに、単純に興味あるんだよね」
白石は、九路盤を持ち上げて僕のほうに向ける。
「ここに、初めて碁石置く子が座るんでしょ」
「ああ。最初の体験会は、九路盤からだ」
「その子がさ。十年後、二十年後、どこで何してるか分かんないけど。
“最初に石を置いた場所”は、ここなんだなって思うと、ちょっとだけ胸熱くない?」
彼女の言葉に、僕は少し黙り込んだ。
十年前、自分が初めてタイトル戦の盤に向かったときのことを思い出す。
緊張で手が震えて、最初の一手をどこに打つかだけで、前日まで何時間も悩んだ。
今、ここに座る子たちは、そんなことは知らない。
十九路盤の大きさすら、まだ想像できないかもしれない。
それでも、最初の一手は、たしかにここに置かれる。
「……教室も、盤の上なんだな」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「ん?」
「いや。棋戦が減って、“盤から離れるんじゃないか”ってどこかで思ってたけどさ」
九路盤のマス目を指先でなぞりながら言う。
「ここもちゃんと、盤の上だ。
ただ、相手がプロじゃなくて、子どもになるだけで」
白石は少しのあいだ黙っていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
「うん。
それならやっぱり、“教室で戦う”って表現、そんなに間違ってないかもね」
教室で戦う。
棋士たちが、棋戦の場から追い出されて、仕方なく流れ着く場所――ではなく。
囲碁で生きていくための、もうひとつの戦場。
それを、自分の言葉として受け入れるには、まだ時間がかかりそうだった。
けれど、「完全に他人事ではない」と認めるところまでは、ようやく来ていた。
◇
教室の床に、新しい碁盤と椅子が並べられていく。
九路盤は全部で八枚。十三路盤が四枚。
奥の棚には、十九路盤が二枚立てかけられていた。
「最初の三か月で、九路から十三路に進める子が何人出るか、ですね」
連盟の職員が、チェックリストを片手に言う。
「それが全部ではないですけど、ひとつの目安にはなります」
「……昇級点みたいなものか」
「はい。囲碁教室版、昇級点です」
昇級点。
対局結果で積み上げてきた、自分の「点」とは、小さく形が違うけれど。
それをこれからは、子どもたちの盤面で見つけていくことになるのだろう。
高原 祐一、三十七歳。
仕事をいくつか失った棋士は、
新しい戦場でどんな一手を打つのか。
その答えは、まだ見えない。
ただ、少なくとも――
ここに並んだ九路盤のどこかに、
その一手の始まりがあることだけは、確かだった。




