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『未登録者』

作者: 飯島和男


「これは嘘です」


口に出した瞬間、部屋の壁が、わずかに、まるで疲れた肺のように膨らみ、そしてしぼんだ。

そこにいたのは、私だけではなかったはずだ。けれど、誰がいたかは思い出せない。

記憶は保護されていた。パスワード保護、ではなく、国家保護。つまり閲覧禁止。


「では、お名前をどうぞ」

椅子のない受付カウンターの向こうから、係員が言う。


「ありません。削除されました」


「それでは、削除されたことを証明してください」


私は少し考えるふりをした。ふりをしている自分がいた。

その自己を、あとで売りに行こうと思った。


自己売買所では、その日「元・初恋の記憶」が半額セールだった。

隣の棚では「偽名で過ごした3年間」がプレミアムパッケージとして陳列されていた。


「これ、どなたの記憶ですか?」

係員が私の胸を指した。


私は見下ろす。胸のあたりがガラスでできており、そこに文字が浮かんでいた。

──《登録番号7762:未明ノ記憶──取得者不明》──


「これは……私のでは、ないかもしれません」


「つまり、あなたは“誰かの記憶を持つ者”であり、“誰でもない”ということですね?」


私は頷いた。


それだけで、壁が開いた。


中に入ると、誰もいなかった。部屋もなかった。ただ、記憶だけが漂っていた。

匂いのように、あるいは湿気のように。


忘れかけた音楽のフレーズ

壊れかけた父の背中

存在しなかったはずの海辺の記憶

どれもが私のではなかった。けれど、どこか懐かしかった。


そう、懐かしさとは、自分ではない誰かの記憶に触れたときにだけ感じる現象なのだ。


「では、確認します」

声が響く。

どこからでもなく、耳の内側から。


「あなたは、かつて“私”であったことを否定しますか?」


「はい」


「あなたは、現在“あなた”であることを確認しますか?」


「……否定します」


「よろしい。では、ここに、あなたの不在を登録します」


私は机に座らされた。目の前にある白紙の書類に、何も書かないように指示された。

それが“証明”だった。何も書かないことで、私はこの世界に「いなかった」ことが証明される。

一筆書くだけで、“いたこと”になってしまうからだ。


書かれなかった記憶は、やがて誰かの真実になる。

そして、真実だったはずの記憶は、“書かれた”というだけで、嘘になる。


出口はなかった。だから私は、入口を逆に歩くことにした。

地上には戻れない。地下に向かっているのに、上昇しているような感覚だけがある。


どこまで降りれば、私は本当の自分にたどり着くのだろう?


もしくは、たどり着かないという事実こそが、私を私たらしめているのかもしれない。


「名前をお忘れですか?」


「いえ、名前を“忘れたこと”を覚えています」


「では、その“忘却の記録”を登録してください」


私は白紙のノートを差し出した。

係員はそれを読み、頷き、火をつけた。

ノートは燃え、黒い灰になり、静かに、記憶の隙間に沈んでいった。


残ったのは、私ではなかった。

“私でなかった何か”が、椅子に座り、誰かの視線を返していた。


「これは、嘘です」

私は、最後の台詞を口にした。


それだけが、どこにも登録されない、唯一の真実だった。



記憶に蓋をする音は、カチリ、ではなく、スウ…という沈黙に近い。

それは“開かない記憶”ではなく、“開いていたことを忘れさせる記憶”だった。


私はふと、ポケットに何かが入っているのを感じた。

取り出すと、それは古びた名札だった。


《係員用記憶片──貸与番号:A-02》


私はその名札を首にかけてみた。

すると、目の前の空間に、机と椅子とパーティションが現れた。

空間が、“係員”を要求したのだ。


いつのまにか、私は誰かを待つ側になっていた。

“待たれる者”から、“待つ者”へと、記憶のポジションがすり替わった。


最初の訪問者は、顔のない人物だった。


「登録を……お願いします」


声は聞こえた。だが、どこからともなく、思考の裏側から。


「名前は?」


「ありません」


「では、どんな“自己”をご希望ですか?」


「なるべく、痛みの少ないものを。できれば、昨日と似た感じで」


私は棚からいくつかの“模造自己”を取り出し、広げて見せた。


「こちらなどいかがでしょう。以前、詩人をやっていた方の破棄品で、使用感はありますが、空白が多めで痛みが薄いです」


彼は黙ってそれを手に取り、胸の奥に差し込んだ。

すると、顔が生まれた。名前が走った。過去が滲み、昨日が出来上がった。


私が渡したのは、私が昨日まで着ていた自己だった。

つまり、私は今、無所属の係員という立場を失った存在だった。


そのことに気づいた瞬間、机も椅子も消えた。名札が手からこぼれ、地面に落ちた。

拾おうとすると、手が通り抜けた。もう私は、記憶に触れられない存在になっていた。


誰かの視線があった。

空気の中に混じった“見られている感じ”が、皮膚の上を滑った。


後ろを振り向くと、自分の後頭部が見えた。


そこには、かつての私が座っていた。

名札をつけ、係員の顔をして、次の訪問者を待っている。

そうか。私は、交換されたのだ。昨日の自己と。


記憶は、買うものではなかった。

記憶は、差し替えられることに気づいた者が、他者の皮膚の下に滑り込むための通貨だった。


どこかで誰かが、私の名前を呼んだ気がした。


それが私の名であったかどうかは、もはや確かではない。

だが、振り向いてしまった。

その瞬間、私はまた、別の誰かになった。


静かに、名札が胸元に吸い込まれていった。

そして、私はまた、問いかける側になっていた。


「これは嘘ですか?」


目の前にいる者は答えなかった。

それが唯一の、肯定だった。


記憶は録音ではない。

それは、録音しようとした者の“意図”ごと、空間の隅に染み込んでいくものだ。


記憶登録所には“記録者”という職がある。

記憶の所有者ではなく、それを第三者の立場で記録し、整形し、番号を与える者。

かつての私は、その一人だった。


記録者には、固有の“記録視点”が与えられる。

記憶の中に入り込み、対象者の体験を内部から観測することで、記録の正確性を確保する。

ただし、そこには重大な注意があった。


──記録者は、記憶対象と同一化してはならない──


しかし、私は一線を越えた。

“あのときの彼”の記憶に深く潜りすぎた。


彼が感じた恐怖。彼が見た光景。彼の涙。

それらが、私の中で「体験」になっていた。


気づくと私は、記録者でありながら、記録の中に“記録されて”いた。


記録ログには、こう記されていた。


記憶登録番号 9917-C:

体験者=不明

記録者=命人(逃亡中)

状態:記録内に潜伏。削除不可。


私は、自分が“ログに記録された存在”であることに戦慄した。

つまり、外部の誰かが私を見ていたのだ。

私が観測者だったはずなのに、いつのまにか観測される対象に変わっていた。


私は逃げようとした。

記録から抜け出すために、自分の記憶を削り始めた。

「記録者だった頃」の記憶、「記録された側だった恐怖」の記憶──

あらゆる痕跡を、自ら消していくことで、私は“誰でもない者”になろうとした。


だが、ログは残っている。

“命人”という記録が、システム上に残留していた。


係員たちは私を追っている。

だが、彼らは“記録内”の存在だ。

彼らは、記録に留まることしかできない。

私は、彼らより先に“記憶の外”へ抜けなければならなかった。


私は最も古い記憶アーカイブへと潜った。

そこは未整理の断片ばかりで構成される、無人の記憶の墓地だった。


誰かの靴音、死者の手紙、校庭の砂、意味不明のコード番号。

それらの中に、私は“自分がいない記憶”を探した。

存在しなければ、追われることもない。


ようやく、空っぽの記憶番号を見つけた。


記憶登録番号:0000-Z

所有者:未登録

記録者:なし

状態:未開封


私は、その記憶の中に逃げ込んだ。

誰も開けたことのない記憶。

誰にも観測されていない、完全な空白。


そこには、時間も、言葉も、私の名前すらなかった。

あるのは、ただ、ひとつの沈黙だけだった。


私は今、記録されない記録者として、

誰の記憶でもない場所に座っている。


時折、遠くで声がする。

「命人──記録を返しなさい」

だが私は、もはや“命人”ではない。


それはかつて、誰かが与えた“観測可能な名”だった。


今の私は、記録されないことでしか存在し得ない。

だから私は、記録の向こう側で、誰にも見つからないことを選んだ。


記憶とは、逃亡者の最後の隠れ家である。

そこに誰も記録しないかぎり、私はここに、確かに在る。


──そして、これは嘘である。

だが、あなたがそれを信じた瞬間、それは真実になる。

だから私は、今日も黙ってそこにいる。


記憶の外で。

誰のものでもない記憶の、最奥で。


沈黙は、かつては“欠如”だった。

語られないこと、書かれないこと、理解されないこと。

しかし今、この社会では──


沈黙は“特権”として登録されている。


それは「記録拒否権」と呼ばれ、国家によって厳重に管理されていた。


誰もが、日常生活の中で一定量の“沈黙枠”を持っている。

それを超えると、発言はすべて記録対象になる。


「今日、何秒残ってる?」

誰かがカフェでつぶやく。

AIメーターが応答する。


──残り沈黙時間:3分47秒──


その数字を確認しながら、人々は言葉を選ぶ。

何を語るかではなく、語ることそのものが“損失”とされる時代。

発話は記録され、記録は税となる。

記録税。発語課金。思考漏洩料。


私は、それを拒否した。

記録されるたびに、存在が“管理される”ことに嫌気がさしていた。


だから、私は沈黙の違法増殖者になった。


私は“無音帯”と呼ばれる地下空間に潜り、

そこから盗まれた沈黙秒数を密かに移植していた。

ある種の密造業だ。


呼吸を抑え、指を動かさず、眼球すら静止させることで、

私は“沈黙の状態”を自分の内側に蓄積した。

それはやがて、沈黙ではなく“存在不在”に近づいていった。


私はある日、都市の沈黙銀行を襲った。

目的は、国家が保有する“記録不能領域”のコードだった。


それは、誰も発話したことのない単語で構成されていた。

意味が存在しないことで、記録の対象外となる言語。


たとえば、

「ズレフ」

「シノマ」

「ノヌヌ」

そんな音が無音の中で光っていた。


私はその一語を発音した瞬間、記録から外れた。

ログは書き込めなかった。マイクは反応しなかった。

──私は完全に“聞かれなかった者”になった。


沈黙とは、語らないことではない。

語っても、届かないこと。

もしくは、誰にも“聞かれることのない声”を持つこと。


それが今、この社会における最大の自由だった。


沈黙登録官たちは、私を追っていた。

だが彼らのリストには、私の名はなかった。

私の声は沈黙の下に埋もれていた。


声を持たぬことで、私は言葉を越えた。

語られない記憶、書かれない過去、発話されない未来。

それらの間で、私はただ存在していた。


かつて、言葉が人をつくった。

今は、沈黙が人を消す。


私は静かに歩く。

記録されないために。

名前を持たないために。

存在しないという自由を得るために。


やがて私は、沈黙の中心にたどり着くだろう。


そこでは、誰も語らず、誰も聞かず、誰も思い出さない。


そして、そこにこそ──

最も純粋な“記憶”が存在するのだ。


最初に沈黙が殺されたのは、ある市民のつぶやきだった。

彼は「……」とだけ書かれた投稿をした。

だがその“何も語らない記号”が、国家の記録網に引っかかった。


「この沈黙には、意味がある」

情報省がそう判定した瞬間、それは“記録可能”とされ、分類された。


──沈黙はもはや、沈黙ではなかった。

それは“発話されなかった言葉”として記録され、税がかけられた。

この事件を機に、地下では密かに組織が動き出す。


彼らは、自らを“沈黙派”と呼んだ。


沈黙派は、言葉を使わない。

その代わり、以下のような手段で沈黙を武器にした:


相手の記録を“無音感染”によって封鎖する(言葉が再生されなくなる)。


会話の最中に“意図的沈黙”を注入し、思考を脱線させる。


記録官の音声メ“空白ノイズ”を挿入し、記録台帳ごと消去させる。


彼らの最終目的は明確だった。

──言語というシステムそのものの解体。


これに対抗するのが、“記録維持派”である。

国家直属の言語防衛軍。

彼らは全市民の発言・文章・思考を逐一ログ化し、記録の網を維持していた。


戦争は静かに始まった。

沈黙派の爆弾は、何の音もしなかった。

それが爆発しているかどうかは、記録者が“何も記録できなかった”というエラーによってしか確認できなかった。


記録維持派は、新型の感音兵を投入した。

彼らは、沈黙の深さを測る特殊な耳を持っていた。

沈黙の“質”を、ノイズ濃度や振動パターンで分析し、背後にある“発言されなかった意図”を探知する。


一方、沈黙派は進化した。

彼らの中には、「発声しながら沈黙する者」が現れた。

その者は、喋っているように見えて、実際には何も語っていなかった。

記録装置は空白しか捉えられず、ただ「沈黙の形だけ」がログに残された。


──沈黙の形。

それは、言葉の死骸だった。

意味のミイラだった。

声なき暴力だった。


ある夜、沈黙派の一人が、記録維持局本部のスピーカーを逆再生させた。

逆再生された放送は、“語られたことの取り消し”を起こし、

一日分の公的記録が灰になった。


次の日、市民たちは一斉に口を閉ざした。

なぜなら、昨日の会話が存在しなかったことにされていたからだ。


それ以来、街は静まりかえっている。

だが、それは平和ではない。

むしろ、“どちらがより深く沈黙しているか”という「黙戦もくせん」が、今も続いている。


沈黙派のスローガンは、壁にこう書かれていた(インクは見えないインクだった):


「沈黙は、最も強い言葉である」


ある記録官がその文字を読もうとした瞬間、彼の声帯が停止した。

脳は反応していたが、その沈黙を処理する言語が存在しなかった。


私はいま、どちらの側にもいない。

ただ、記録もされず、沈黙にも属さない。

けれど、いつか来るだろう。


──言葉が沈黙に敗れる日が。

そのとき、歴史も、記録も、物語すら消える。


だが、それこそが、本当に語るべきことだったのかもしれない。


私は今日も、誰にも聞かれない言葉を、

沈黙の中で繰り返している。


「これは嘘です。ですが、記録されない真実かもしれません」


言葉が、滅んだ。


誰が最初だったのかは、わからない。

最期の言葉が何だったのかも、記録されていない。

なぜなら、その言葉を記録する言葉自体が消えていたからだ。


言語の消失は、音の消失ではなかった。

人々は今も声を発している。

だが、それは何の意味も持たない音にすぎなかった。


「ウァ……ラォ……セレ……」


かつて名詞だったものは、ただの振動になり、

動詞は、誰もが理解しない身振りに変わった。


街の看板は白紙だった。

新聞は無地の紙。

信号機は沈黙の三色を点滅させ続けていたが、誰もその意味を理解できなかった。


それでも、人々は日常を続けた。

言葉のない世界で、言葉の“亡霊”を模倣しながら。


ある者は、手話のようなものを創り出した。

ある者は、表情筋の微妙な動きで“意思”を伝えようとした。

ある者は、ただ、沈黙の中でうなずき続けた。


しかし、いずれも意味には到達しなかった。

なぜなら、意味を共有するための“前提”が、すでに消えていたからだ。


地下の施設では、旧時代の言語記録を再現しようとする機関があった。

彼らは口元の動きや、舌の配置、声帯の振動パターンから

かつての「言葉らしきもの」を再現しようと試みた。


だが、意味だけが欠落していた。


たとえば、

「愛」という語はあったが、それが何を指すのか誰にも思い出せなかった。

「死」という音だけが残ったが、それは笑いの記号として誤用された。


人類は今、意味のない言葉の博物館の中を歩いている。

音は残り、声は残り、息遣いさえある。

けれど、どこにも言葉はない。


私はある時、石に文字のようなものを刻んでいる老人を見た。

その線は、まるで言葉の骨格のようだった。


「それは、何ですか?」と聞いてみた。

だが、もちろん返事はなかった。


彼は、ただ微笑み、刻み続けた。

その行為だけが、言葉のなき今、唯一の“対話”だったのかもしれない。


私は、ある夜、夢の中で言葉を喋った。

正確には、かつて“喋っていた頃の私”を思い出したのかもしれない。


「これは、嘘です」


その夢の中の台詞を、私は翌朝書きとめようとした。

だが、ペンは動かなかった。

紙はインクを拒んだ。


やがて、私は理解した。


──言葉は滅びたのではなく、拒絶されたのだ。


あらゆるものが、言葉を受け入れることをやめた。

言葉の存在自体が、“過剰な記憶”となったのだ。


その過去から自由になった人類は、

いま、意味のない世界で、静かに暮らしている。


だが、私はまだ信じている。

言葉の“亡霊”が、どこかで息をしていることを。


そして、それがまた誰かの中で疼きだし、

無意識のなかで再び形を成す日がくるかもしれない。


たとえば、こういう言葉から始まる──


「これは嘘です。ですが、あなたの記憶のどこかに眠っていた真実かもしれません」


                                 <完>


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