彼の願い
正直言えば、安心感があった。
実力もそうだが、それだけではない。
ただそこに居てくれるだけで良い。
リュエルにとってクリスとはそんな『安心できる』存在であった。
傍にいてくれると嬉しい。
傍にいると、どんなことでも何とかなるような気がする。
心から元気をもらい、活力が内からどんどん湧いてきて、世界がぽかぽかと温かく感じる。
リュエルにとってクリスとは、空気のような存在であった。
いてくれるのが当たり前。
いなくなると、生きていけない。
同時に、太陽でもあった。
いつでも元気をくれ、安心させてくれる。
そんなクリスの腕が――千切れた。
ブチリと、生々しい音と共に、小さな可愛らしい腕が飛ぶ。
それをした男、ロイアは表情一つ崩さずクリスへの加虐を続行する。
クリスはあらゆる攻撃に対し強い耐性を持つという、限りなく卑怯に近い特殊能力を持っている。
だからクリスがそうそう大きな怪我をすることはなかったのだが――ロイアには、そんなものまるで通用していなかった。
鼻歌を歌いながら顔面をぶん殴り、足を持って地面に何度も叩きつけ、逆さ吊りにしながら膝で何度も蹴り上げて。
カリーナが必死で助けようとしても一切意味をなさず、彼女を無視して加虐を続けていた。
スリをやめ、物を取らず、代わりにクリスを痛めつける。
倒すためでも殺すためでもない。
ただ憎しみを暴力に変えるだけ。
だからそれは、加虐という言葉以外に適したものがなかった。
「リュエルさん!」
カリーナの呼びかけに、はっとリュエルは我に返る。
あまりのことに脳が現状を認識できず、つい硬直していた。
リュエルは残酷な行いをただ見ていただけの自分に憎しみを覚えながら、その場で剣を振る。
ゴドウィンに借りたその技。
リュエルの剣筋から、赤い閃光が迸る。
それには少しだけ慌てたのか、一瞬だけロイアは隙を作り、その間にリュエルはクリスを救出した。
「それ、どしたのリュエルちゃん、すごいね」
いつもみたいにまったりした空気で、クリスは微笑んだ。
片腕は先からなく、全身の美しい毛が血で汚れながら。
「そんなのどうでもいい! クリス君は休んで……」
「それは駄目。私も戦う」
「もう戦える怪我じゃ……」
「逆だよ」
「……何が?」
「動ける程度の怪我で休ませてくれるほど、敵は優しくない。彼は……ロイアは私の敵なんよ」
昔のリュエルなら、気付かなかった。
きっとそれを、使命感と思っていた。
だけど、そうじゃない。
それは、拒絶であり、独占欲。
クリスにとって敵というのは、恋人よりも貴ぶべき、そんな存在であった。
「……パーティーメンバーとして、負傷が増えるのは許容できない」
「むぅ。痛いところを。じゃ、手伝ってくれるかな? 一緒に戦おう」
リュエルはこくりと頷き、クリスの前に立つ。
指揮、指示出し、連携、バックアップ。
その手の行動は、クリスより上手い人をリュエルは見たことがなかった。
だからやっぱり、リュエルは安心してしまっていた。
クリスの指揮は冴え渡っていた。
いつものように。
絶対の信頼を置くリュエルは、その指示に一切逆らわない。
まるで身体を他人に操られているかのような感覚にも、不快感を示さない。
それだけの信頼があった。
本来の力を十倍、二十倍にまで引き出せる状態。
負傷したクリスの代わりに前へ出る自覚が、覚悟をさらに研ぎ澄ます。
今のリュエルは二ランク上の武器を握り、直感という本分を掴み、神との戦いで成長を遂げていた。
だが、そう感じられない。
赤い閃光は、片手で作られた小さく薄い障壁に阻まれた。
直接攻撃も、剣の方を見もせず避けられ、時には指で掴まれる。
クリスを庇っているはずなのに、彼は何度も殴られる。
自分は無傷なのに。
彼だけが、執拗に殴られ続ける。
何も……護れていない。
足場が崩れるような衝撃が、胸を締め付ける。
当然と言えば当然だ。
この状態でも、リュエルはカリーナにさえ届いていない。
そのさらに上のロイアに、勝てると思う方がおかしい。
当然のことなのだが、強者として生きてきたリュエルに、この現実は想像以上に重かった。
決して無駄ではない。
人数が増え、連携が複雑になり、相手の動きをわずかに削いでいる。
腕をもがれていた頃と比べたら雲泥である。
だが、護れない今に誇りも意義も感じられない。
止まれば、クリスが嬲られる。
だから無力感に苛まれながらも、必死に動く。
必死に、必死に──。
これで正しいのかという迷いを押し殺しながら。
それでも、戦闘は続く。
クリスだけが負傷を重ねていく、歪んだ戦いが。
カリーナの多種多様な攻撃呪文を、ロイアは軽々と相殺していく。
彼の本職は魔法使いではない。
分類で言えば神職、つまるところの僧侶なのだが……彼の場合は色々と事情が異なる。
一応信仰を糧として呪文を発動するスタイルではあるが、別に信仰がなくともある程度の実力は出せる。
魔法であって魔法にあらず。
魔術でありながらも魔術とは一線を画す。
彼の魔法行使法は彼だけの、完全オリジナルなものであった。
元々独自色が強くはあったけれど、クリスの知る二百年前はこうではなかった。
それは、二百年隠れ研ぎ澄ませてきた牙。
凡庸な劣等種が、理不尽なる化け物に突き立てる為だけに存在する鋭利な牙であった。
ただまあ……カリーナの魔法を軽々相殺できる理由は、そういった事情や背景とは関係なく、非常に簡略化できる事柄によるもの。
単純に、魔力の出力。
本当に、ただそれだけ。
この場を圧倒しているのに、クリスの肉体を傷つけられているのも、ただ放たれる魔力が膨大であるという一点のみの理由であった。
魔法をはじき、リュエルの剣技を素手で相手し、すり抜けてクリスの元に向かい――一撃。
振り下ろされる拳により、地面に叩きつけられ、鈍い音と共に大地は大きくひび割れる。
情け容赦ない一撃を放ち、リュエルのカバーリングとなる斬撃をロイアは回避し、クリスから距離を取った。
実力差の分だけ、クリスに負担がいっている。
リュエルもカリーナもそれがわかっているけれど、どうしようもなかった。
「大丈夫。次、頑張って行こう!」
落ち込む二人に、謎の他人事のような慰めを口にするクリス。
ボロボロになり、血の跡が池になって、よく見ると爪が何本か地面に落ちている。
殴るついでにロイアは爪を故意に剥いでいるらしい。
それでも、クリスは笑っていた。
ロイアの偽物の笑みと違って、本当の笑みを。
いつもみたいに楽しそうに、なぜか幸せそうに。
痛かった。
リュエルの心は、傷つくクリスを見るたびに悲鳴をあげる。
好きな人が痛めつけられて、苦しまないわけあない。
だけどそれ以上に、今クリスが笑えていることが、痛かった。
どうして笑っていられるのか、今ならわかる。
本当に嬉しいからだ。
つまり……クリス君にとって日常は、この痛みよりも苦しいものだった。
だから、笑える。
腕を失い、拷問まがいのことをされ、いつ殺されるかわからない状況であっても、彼にはそれは嬉しいことなのだ。
彼は、心の底からそれを望んでいた。
そうなることを……いや、その先を。
これより先?
一瞬リュエルはそれが何かわからず考え込み……そして、気づく。
敵に出会い、死ぬかもしれない状況の先なんてのは、たった一つしかない。
『死』
つまりクリス君の本当の狙いは――。
「ふざけるな!」
叫び、リュエルは剣を振るう。
「リュエルちゃん?」
自分の指揮から外れ、己の意思でロイアに攻撃をするリュエル。
だけど、クリスはそれを咎めようとはしなかった。
自分の意思で戦う方が健全だし、なにより……その刃は、想像以上に鋭かったからだ。
銀の残光は美しく、そして鋭い。
回避したロイアさえ、その残光に驚き、目を見開いた。
丁寧で、静かで、冷たくて。
斬撃の後に銀の三日月が輝く。
ビームを放ったわけでも斬撃を飛ばしたわけでもない。
ただ斬撃が後に残り見える程、一閃が鋭く美しいだけ。
それは才能を生かしたものでもなければ、がむしゃらな努力が生んだものでもない。
理想を見つけ、忠実に再現し、日々憧れを胸に反復を繰り返したからこそ到達した領域。
簡単に言うなら、基礎。
剣を振るという基礎を忠実に高めたリュエルだからこそ、一段上の領域に到達していた。
ロイアはその輝く斬撃をあっさり回避してみせる。
軽々と躱し、意味がないように見えるが、そうではない。
指で掴むことも、スることもできなくなっている。
正しくそれが刃物であると、相手が判断するようになったのだ。
ロイアが『当たると危ないな』と思う程度には、その斬撃は鋭かった。
「リュエルちゃん。右!」
クリスの指示に、リュエルの身体は勝手に動く。
不快にはならない。
無理やりではなく、それが信頼であるから。
そしてその斬撃がロイアの身体を捉える。
獲った。
そうリュエルは確信するも――。
ドン……と、鈍い音が一つ聞こえ、リュエルの斬撃が止まる。
ロイアは剣の間合いのまま、中腰で拳を突きつけるような格好をしていた。
拳が届く距離ではない。
だが、リュエルの腹部に、爆弾が直撃したような、激しい衝撃がかかって、内臓がかき回されたような感覚に襲われる。
ロイアの表情は、本当に不満そうだった。
そうしたくないというのが、ありありと見て取れる。
殴りたくなかったけど、しょうがなかった。
どうせそんなことを考えているのだろう。
リュエルは胃液が出そうになるのを堪え、再び剣を構える。
そうでなければ、あの人が死に傷つけられるから。
あの人が死に向かうから。
「……すいません」
なぜか謝るロイアに、リュエルは苛立ちを覚える。
敵のくせに、なぜそんな謝り方をするのか。
苛立ちのまま、リュエルは斬撃を放つ。
だが、その斬撃は先ほどのように鋭くなく、銀の三日月は生まれない。
腹部のダメージによる肉体的変化と、苛立ちによる精神的変化。
それらを抱えたまま理想の一撃を打ち出せるほど、リュエルはまだ成長していなかった。
一瞬だけ追いつけたと思ったが、結局は逆戻り。
いや、クリスの負傷に加えリュエルも痛みを抱えている分、むしろマイナスである。
――結局、無意味だったのかな……。
リュエルはそう考えた。
自分なりに必死で頑張った。
頑張ることを知らなかった自分らしくないことをした。
成果が出たから、何とかなると思ってしまった。
その分だけ落差は激しく、リュエルの精神は不安定になるほど落ち込んでいた。
だが……。
「ありがと、リュエルちゃん」
「え?」
「おかげで間に合った。まだ私が口を動かせるうちに、身体が動くうちに、この状況になった」
「一体、何のことを――」
ロイアの拳が、会話を遮る。
鋭く伸びたストレートパンチ。
それはクリスの顔面を狙い、当たる寸前――。
ぱしっ。
軽い音とともに、拳は防がれる。
その直後だった。
まるで台風を思わせるような、巨大な風が辺りを襲ったのは。
草原は揺れ、鳥は飛び立ち、風の音がすべての音を上書きする。
一瞬だけの暴風。
そんな突風の末、そこに男が現れた。
その男の印象は、はっきり言って最悪だった。
無数のネックレスをじゃらじゃらさせ、妙にチャラい金髪で、ヘラヘラと笑っている。
女のように細い腰が露出するような奇妙なファッションもどこか癇に障り、普通の女性なら危機感か苛立ちを覚えるだろう。
逆に、一部の軽いタイプの女性には人気になりそうだ。
そんなチャラチャラした不良ルック。
だが、その男はどこからともなく現れ、ロイアの拳を片手で止めるだけの実力を持っていた。
「ちわーっす女王様。救援に来ましたー」
態度も口調も軽いまま、にへらとした笑みをカリーナに向ける。
リュエルはイラっとしたが、ある事実に気づく。
『こいつ誰だ』という顔をしているのは、自分だけだった。
どうやら、皆彼を知っているらしい。
ロイアに至っては一旦距離を取り、男を慎重な目で見ていた。
「ありゃ。リュエルちゃんは俺のこと知らない感じ?」
リュエルは怪しむ視線のまま、小さく頷いた。
「あちゃー。ま、いっか。ついでに名乗りもしとこっと」
男はこきこきと首を鳴らし、なぜかカリーナとリュエルに向かってピースサインをした。
「つーわけでお待たせ。ハイドランドより救援に来ました。大魔王ジークフリートの四天王、序列四位ヘルメス。特技は美女を愛でること。趣味は裏切り! 以後よろしく!」
どこから突っ込めばいいのかわからない自己紹介を、ヘルメスは堂々とやってのける。
ぽかーんとするリュエル。
きゃっきゃと嬉しそうなクリス。
そしてカリーナは、この隙にこっそりとクリスの腕を治療し、生やしてみせた。
ずっとやろうと思っていたが、ロイアに予測され妨害され続けていた。
ロイアがカリーナの治療を忘れる程度には間抜けな自己紹介であり、そして彼から目を離せない程度には、ヘルメスの実力は確かなものだった。
ありがとうございました。