東雲
静かな……とても静かな場所だった。
争いの音はなく、木々を揺らす風の音がとても大きく聞こえるような、そんな穏やかな顔をした草原。
彼女が降り立ったのは、そんな場所だった。
その姿は、誰もが振り向くほどに美しかった。
艶やかな長い黒髪を揺らし、どこか物憂げな表情で、そっと手の中にある『物』に目を向ける。
それは――角だった。
鹿のような片方の角は、キラキラと金色に輝きながら、徐々に消えつつあった。
「ああ……呼羅。何と、何と愚かな選択をしたのであろうか……。本当に……」
まるで鈴の音色のような、心地よい声はどこまでももの悲しい。
だが……彼女は失った弟にあまり同情を向けていない。
彼女の深い憂いは、どこまでも自分のためであった。
あちらの世界に居る数多くの神の中で、彼女だけは、通常の手段を持って門を通過し、こちらの世界に来ることは叶わない。
ただ唯一、彼女だけは普遍的な例外かつ特別な存在であった。
彼女はあちらの世界、『修羅天』において主神の役割を担っていること。
あちらの世界を支える柱であったこと。
そういうこともあるが、もっと根本的な理由がある。
その、たった一つの理由により、彼女は門を通過出来ない。
いや、正しく言うなら、通過する神として選ばれないという方が正しいだろう。
彼女だけは……否定していたからだ――こちらの世界に来ることを。
彼女はあちらの地獄のような世界に満足していた。
引き籠るのに適した、あの世界に。
この全ての神が参加する侵略計画にて、彼女だけがただ一人の傍観者であった。
それでも彼女がこちらに来たのは、弟が命を使ってまで、縁によって手繰り寄せ、残り一枠であった門の通過権に押し込んだから。
それが彼女の望みにならないとわかっていても、弟、呼羅はそう選択した。
後を託すには、我が姉しかいないと。
「……はぁ。嫌だなぁ。本当に、嫌だなぁ」
彼女は呟く。
心地よい、そよ風が聞こえる。
その音が――とても不快だった。
小さな動物の動く可愛らしい音も、愛らしい声で鳥が鳴き、飛び立っていくその音も。
何もかもが、不愉快で、憎たらしい。
あちらの世界は、本当に凄惨かつ苦痛の絶えない世界であった。
全ての神が命を賭けてでもこちらに来ようとしたのは、恨み以外にもそれが理由であった。
だけど、彼女はそれで良かった。
どれだけ苦痛を感じる世界でも、どれだけ苦しい世界でも、あちらの世界でなら引き籠れた。
岩戸のように引き籠り、永劫の孤独を自ら選び、自分だけの世界とし、己を世界のシステムとして完結させられた。
そのために彼女は望んで主神となったというのに……。
修羅天という名の世界にとって人柱とも言える生贄に。
そう……彼女は、満足していた世界から無理やり引っ張られてきた。
ゆえに、不満を持たないわけがなかった。
孤独を愛する彼女にとってこの世界はあまりに騒がしい。
だけど同時に、彼女はそれなりに愛情深い存在でもあった。
弟が命を賭けてまで呼んだことに何も感じないほどに冷たくはなれなかった。
「……どうしようかなぁ」
空を見ながら、ぽつりと彼女は呟く。
やりたくない理由は、まあ山ほどある。
まず、面倒なこと。
それが一番大きい。
彼女は孤独を愛するだけでなく、極度の怠惰主義であった。
続いて、彼女の気性が温厚でかつ優しいということ。
こちらの世界の人々や神様に迷惑をかけるのは、何か嫌だなぁと感じてしまう。
例えそれが政敵であり、かつて自分達を追い出すよう画策した相手であろうとも。
あるがまま、なすがまま。
それが彼女の信条である。
その結果が追放なのだからと、彼女は今を受け入れている。
それと、こちらの『今の世界』があまり好きじゃないということ。
他の神ほどこの世界を魅力的と感じず、そして自分好みに変えるのは『面倒』とも感じる。
世界なんてのは本来神が管理せず、人が好き放題し神が見守る程度で丁度良いのだから。
まあ、あれこれ理屈をこねくり回しているが、結局のところ『面倒』だからやりたくないというのが、彼女の本音であった。
逆に『やらないと』と感じる理由は、たった二つしかない。
一つは、弟が命を使い、そう願ったから。
対して仲の良い関係ではなかったが、それでも身内に違いはなかった。
こんな時ばかりに頼ってきて……と呆れる気持ちもあるが、それでも最後の願いを無下にする程仲が悪くもなかった。
不器用同士だったけど、一応ちゃんとした姉妹をしていた。
もう一つは、他の神々があの苦しき世界を逃げ出したいから。
共に追い出され、共にあの世界を生きた神々は彼女にとって仲間そのものだった。
どれだけ自分が人間を護れ、大切にしろと言っても聞かず絶滅させた馬鹿であっても、自分の首を絞め続ける愚か者であっても、それでも……彼女にとっては大切な仲間であった。
やりたくない理由と、やるべき理由。
二つの天秤をゆらゆら揺らしながら、彼女は知らない道を歩き続ける。
騒がしいのは嫌いだが、散歩そのものは、そう嫌いではなかった。
しばらく歩いていると、一人の老婆が歩いていた。
ゆっくりと、だけど彼女を見ながらこちら側に。
老婆はニコニコと微笑み、彼女に声をかけてきた。
「おやおや、目が潰れそうなべっぴんさんが……。こんな場所に何用が? この辺りは危ないですよ。早く逃げなされ」
「危ない……ですか?」
「そう。お偉いさんがたが、怖い敵が来ているからと避難地区に指定しておってな。あっちにしばらく行けば、避難地区じゃよ」
「ありがとうございます。お嬢さんは逃げないのですか?」
「ほっほ。べっぴんさんは口も綺麗なんじゃね。私みたいなババアに。……生き先短いからの、最後まで、居たいんじゃ。あの人の傍に」
「一緒に逃げればどうですか。動けないとかなら手くらいなら貸しますよ」
「おや、だったら墓ごと動かしてもらおうかの」
「あっ……。その、ごめんなさい……」
「良いのよ。優しい貴女。だから、私みたいなのは放っておいて、逃げて頂戴。貴女はまだ若いんだから」
「……失礼します」
ぺこりと頭を下げ、彼女はその場を後にする。
良い人だ。
ただ心配だからわざわざ声をかけて来て、そして自分はもう助かるつもりもない。
最後の場所を決めるだけの覚悟を持って、それなのに、誰かに優しくなれる。
もう一つ、やりたくない理由が出来てしまったなと考えながら……。
「ああ、ごめんなさい。一つ良いかしら」
老婆に呼び止められ、彼女は足を止めた。
「はい。何でしょうか?」
「せっかく貴女みたいなべっぴんさんに出会えたんですもの。このままお別れはもったいないわ」
「と、言いますと?」
「私の名前はね、ボニーって言うの。若い頃はポニーポニーロバみたいなポニーって良く馬鹿にされたけど、嫌いな名前じゃないの」
「素敵なお名前です」
「ありがとう。それで、貴女の名前も教えて頂けるかしら?」
彼女はそれでようやく、老婆が自己紹介を求めているのだと気が付いた。
生き先短い中での出会いを大切にして、あちらの世界で大切な人と会った時の話題にでもするのだろう。
彼女は微笑み、答えた。
「――央照天・東雲。仰々しいのは嫌いなので、東雲と呼んで下さい」
「変わった名前ね、東雲ちゃん。でも、とても綺麗な名前。羨ましいわ」
「ありがとうございます」
互いに微笑み合い、頭を垂れ、そして今度こそ、本当にお別れを。
手を振り見送る老婆を背に、彼女は決意を決める。
この世界とは、正直戦いたくない。
良い人の多そうなこの世界で争いを起こし、そして世界を壊すようなことを僅かたりとも望めない。
先の女性のような人の笑顔を涙に変えたくない。
それでも――彼女は『東雲ちゃん』として生きるのではなく、『央照天』として生きることを定めた。
ついに、天秤は傾きを見せる。
央照天は己を、この世界に対する悪と定めた。
何故、自分はここに居るのだろうか。
リュエルは表情には、無表情の中に僅かな困惑が混じっていた。
ゴドウィンと別れ、馬車で送ってもらい、そしてフィライトに戻って来たその瞬間に、リュエルは連れていかれた。
いや、それはもう拉致と言っても良いだろう。
だけど、それにリュエルは何も言えない。
ここは大空を飛ぶペガサス馬車の中。
そしてその隣には、フィライトの女教皇カリーナが。
この国において白を黒に出来るカリーナが、ニコニコ微笑みこちらを見ている。
空気を若干読めるようになったリュエルが、逆らうことなど出来ようはずもなかった。
「さて……多少強引に呼びつけたこと、謝罪させていただきます、リュエルさん」
対して悪びれた様子もない口調のカリーナに、リュエルは「はい」とだけ言葉を返した。
「そして、貴女があそこで何をしていたのか、問い詰めるつもりはありません。何故貴女がヴェーダの方から、しかも軍用馬車から出て来たのか……気にならないと言えば正直嘘になりますが。ええ……。一体どういうことなのかと正直戸惑いますしどういう関係でそうなったのかと問い詰めたい気持ちはありますが……」
わなわなと震えながら、カリーナはそう口にする。
口調と言い態度と言い、その動揺っぷりがこれでもかと見て取れた。
「上手く説明出来るかはわからないけど、隠しごとはあまりないし話そうか?」
リュエルの言葉にぴくっと身体を揺らすカリーナ。
だが……。
「いえ、そのお言葉だけで十分です。正直、そんな余裕はありません。ぶしつけで申し訳ありませんが、お願いがございます。どうか手を貸して下さい」
「良いよ」
あっさりと答えたのを見て、カリーナはきょとんとした顔を見せる。
そう答えてくれるのは、正直予想していなかった。
彼女はあっけにとられた後、不思議そうな顔で尋ねた。
「どこか、雰囲気変わりましたか?」
「そう? でも……うん。たぶん、変わったかな」
そう言って、リュエルは微笑を浮かべた。
自分でどこがどう変わったのかわからない。
だけど、本当に少しだけ、世界が広がったような気がした。
自分の足で自分で歩けている、そんな感覚に。
「なるほど。ああ、それと、勘が鋭くなったという噂を聞きましたが、それも事実ですか?」
「……どこから来たのその噂。いや、事実だけど」
「何でも直感で人の気持ちや心が見えたり、未来が予測出来たりするみたいですが」
「一体どこの情報網? ちょっと怖いんだけど。私ストーキングされてた?」
「いいえ、そのことは決して」
「……わかりやすくなったけど、見えるというのは少し違うかな。人の気持ちや心がちょっとだけ視えやすくなっただけ。当然、未来なんてものは見えないよ」
「そうですか。……参考までに尋ねますが、私はどう見えますか?」
「……正直に言っても、怒らない?」
「ええ、神に誓って」
「……凄く怖いと思ってたけど、こう視てみると……なんか……普通の人? 凄いことしてるし出来るはずなのに、どこにでもいる普通の人っぽく視える」
「なるほどなるほど」
微笑みながら、何度も頷くカリーナ。
表情から内心は見えないけれど、どこか少し嬉しそうな感じにリュエルには視えた。
「それで、手を貸すのは良いけど私は何をすれば良い? それなりに自信はあるけど、それなり程度だし、出来ることも少ないよ?」
リュエルはそう口にする。
少なくとも、自分程度の実力のある剣士なんてフィライトにもそこそこ居るはずだ。
それ以前に、カリーナの方が実力は間違いなく上である。
例え彼女が近接能力を持たないとしても、その程度のことは関係ない。
彼女もまた、魔王十指の一人。
あのゴドウィンと同格である以上、弱いわけがなかった。
「単純に戦力として期待しています。人手が足りませんので」
「足りない? どうして?」
「国というものは、案外動かせる戦力が少ないんですよ……」
「世知辛いんだね」
「ええ、本当に……。ですので、貴女には私の護衛の一人となってもらいたいと思います。本音を言えばクリス様を招きたかったのですが……」
「今、どこにいるかわかる?」
「いいえ、わかりません」
「何でもわかるカリーナ様でもわからないの?」
「わからないことばかりですよ私も。特に、クリス様に関しては」
何となく、リュエルはカリーナがクリスの何かを知っていると察した。
だが、それには触れない。
以前なら、勇気がなくて逃げていたからだが、今は違う。
本人の居ないところで秘密を暴くような、恥ずかしいことをしたくないからだ。
既にリュエルは、先に進む覚悟を決めていた。
「そういうことならしょうがないよ。それで、作戦の内容は? もしかして、話せない感じ?」
「いえ、詳細はこれからですが、大筋はもう決めております」
「それは?」
カリーナは空を指差す。
モノクロとなった空に浮かぶ、白い孔。
それは以前よりも、相当大きくなっていた。
「あのゲートを封印します。つまり……最終決戦ということですね」
「なるほど――。わかった。私程度で役に立てるなら、護衛の役目を受けるよ。」
「ありがとうございます。差し当たってですが……、これから協力者の方と合流する予定ですので、どうかついて来て下さい」
「誰と会うの?」
「わかりません」
「わからない?」
「ええ、そこに共に作戦を行うに足る相手が居るということしか、私は知りませんの」
「……お得意の予言」
「まあ、そのように思って頂いて問題はありませんね」
相変わらずのぼやかした良い方にリュエルは苦笑を見せた。
「だったら、上手くいくということなんだね」
「……それは正直わかりません。ですが、一つだけ言えることはあります」
「それは?」
「成功しても、失敗しても、カリーナという存在は、ここで消える。そういうことです。……少し、話過ぎましたね。忘れて下さい」
そう言って、カリーナは微笑を浮かべる。
それがどういう意味なのか、リュエルにはわからない。
だけど、嘘を言っていないことだけは理解出来た。
ありがとうございました。