冷え切った心に
あの時、運命を感じた。
あの人も、運命と言ってくれた。
だからリュエルはそうなのだと思った。
愛する二人の運命の出会いだと、信じたかった。
だけど……ずっと、苦しかった。
胸が痛くて、心が苦しくて……そして、彼のことを知ることが怖くて。
ずっと今日まで、その気持ちに見ないふりをした。
恋というものは、胸が苦しくなるものだと本に書いてあった。
だからこれは恋したからなんだと思っていた。
思い込もうとした。
だけど……もう、自分を誤魔化すのは終わり。
現実逃避という魔法は解かれる。
リュエルは、逃げ続けた己の真実と向き合わねばならぬ時が来た。
リュエル・スタークの愛は、錯覚でしかなかった。
相手を知りたいと思わない愛など愛にあらず。
知ることを怯えるような日々など幸福の日々にあらず。
その愛は錯覚であり、その執着は紛い物。
故に、リュエル・スタークは孤独であった。
幻想が砕け、現実だけが残る。
愛しても、愛されてもいなかったという現実が。
そう……リュエルは友達が出来て、普通の感性を手にした。
それ故に、知ってしまった。
孤独というものが、どれだけ恐ろしいかを。
今まで知らずに済んでいたのに、友達が出来たことで知ってしまった。
『自分だけが人間で、周りが化物』
リュエルの世界は、その言葉通りのものであった。
友達が出来ようとも、周りの人達を信じようとも、孤独が消えたことは一度たりともなかった。
がくりと、膝から崩れ落ちる。
何もかもを失った。
もう、リュエルの手には何も残っていなかった。
楽しいと思い込んでいた日々も、一人じゃないと信じたかった昨日も……そして、幻想でしかなかった一目惚れも。
その様子を、男は憐れむように見つめ、涙を流した。
惨いとしか言いようがない。
戦闘兵器として生み出され、孤独以外に生きることが許されず、逃避としてぬいぐるみに傾倒し、その果てに錯覚を恋と思い込んだ。
男でさえも、憐れむこと以外何もできない。
だからこそ――救う価値があった。
たとえ己の命を全て失ってでも、彼女を救う意味が。
彼女は、底に穴の開いたグラスである。
何も残らないのにずっと心を注ぎ続け、零し続け苦しんで来た。
そんな彼女が救われないのはおかしい。
確かに、この世界は理不尽なことばかりで、未だ多くの人が幸せとなっていない。
個人ができることなどたかが知れているのは知っている。
それでも、多くの人々を救い続けた自分だからこそ、彼女の在り方は到底納得できるものではない。
そう……だから、だからこそ、私が彼女を救おう。
この世界の誰もが彼女に手を差し出さないのならば、私だけは彼女のために生きよう。
そして、彼女を幸せにしてみせよう。
少なくとも男はそう覚悟を決め、全てを費やし、この場を用意した。
「大丈夫。君の不幸は、今日――終わる」
男はそう呟き、ぽんと、リュエルの肩を叩いた。
救うことなど出来ない?
ならば男は彼女の前に現われていない。
ここに呼んだ時点で、既に準備は全て終えていた。
まず、己の寿命の九割九分。
今回のために男が費やした前提の対価。
おそらくあと数年も生きられないだろうが、男に後悔はない。
続いて、秘匿魔導技術による魔法陣。
ハイドランドが極秘に用意した転移術式を応用した。
この術式を用意させるのに、男は白猫に相当の苦労をかけた。
そしてそれを起動するための魔石。
クリス達が盗まれた魔石の何十倍もの大きさを誇る、国宝以上の代物。
それは騎士国の秘宝だが、人を助けるためと勝手に拝借させてもらった。
実際、盗んだのは白猫だが。
最後に、術式強化のためのアーティファクト。
神により用意されし聖遺物。
それはこの世界の神のものではなく、今襲ってきている神の代物であり、『アンサー』と呼ばれる男の宝物。
彼が大切にしていたものだが、人命救助のためと勝手に男は拝借した。
そうして全方位に喧嘩を売るが如く無茶をした男だが、後悔は一ミリもない。
救われぬ者を救うためならば、男は神に命を投げ捨てることも、悪魔に喧嘩を売ることさえも躊躇うつもりはなかった。
そうして全てを用意して消費し、男は最後の仕上げとして鏡を用意した。
これまでの代物よりは劣るが、色々と曰く付きな呪われた鏡。
大きな円形の鏡は魔法陣の上に宙に浮き、そして真実を映し出す。
リュエルは鏡の向こう側を見て、目を丸くした。
そこに映っていたのは自分の顔ではなく、見知らぬ大勢の男女であった。
十人を超える彼らのことを、リュエルは知らない。
だけど……リュエルは彼らが何なのか自然と理解できた。
彼らは……自分と同じものだ。
これまで感じていた虚無ではなく、人と接しているという実感を、リュエルは生まれて初めて理解できた。
「彼らは、貴女と同じ種族の方々です。……という言葉は、必要ありませんよね。理解し合える貴女達には」
男はそう言って微笑を浮かべる。
今、彼女は初めて人の温かさを感じているはずだ。
だから邪魔をしない方が良い。
穏やかな表情で、男はリュエルを見つめた。
男の言うとおり、リュエルはそうだと感じていた。
間違いなく、自分は彼らと同じものだ。
不思議と自分の気持ちが彼らに伝わってることを理解出来るし、同時に彼らの気持ちも何故か直接理解出来た。
彼らは自分を心配し見つめている。
そして同時に、こっちに来いとも……。
「これは……一体……」
「ゲートですね。まあ、あちらとこちらを繋げたものと思って下されば」
そうとだけ男は答える。
軽い口調だが、実際それは神さえも不可能なこと、《外側との接続》である。
惑星があり、神域があり、銀河があり、宇宙があり、更にその外の外。
それは距離の話ではない。
どれだけ距離を縮めようともそこに繋がることのない、距離の外の世界。
そんな場所と、この鏡は直接繋がっていた。
有史以来、誰もそんなこと出来た者はいない。
それでも男は、前代未聞の偉業を成し遂げた。
人類のためでもなければ知識欲のためでもなく、ただ、リュエル一人のためだけに。
「話せるだけ、なんてけち臭いことは言いませんよ。ここは通れます。つまり……貴女は、本当の貴女の世界に帰ることが出来るんです!」
ゲート向こうの彼らは、リュエルのことを事前に聞いたらしく、既に迎え入れる気でいるようだった。
親代わりらしき人が、そこにいた。
子供に恵まれなかったから、リュエルにその分愛情を注ぎたい。
だから娘になって欲しいとばかりに見つめている。
先生がそこにいた。
例えどれだけ遅れても、必ず勉学を教えよう。
学問の楽しさを知り、学ぶ楽しさを知ってもらおう。
彼らは村ぐるみでリュエルを愛すると決めていた。
ずっと苦しんでいたと聞いたから、その分幸せになってほしいと皆が願っていた。
その気持ちが、リュエルに届いていた。
今までのような一方通行でもなければ、共感性が感じられず孤独も覚えない。
彼らは同種で、仲間で、慈悲深くて、そして、愛している。
彼らは、リュエルを正しく愛していた。
そういう向こうの集落を、男は探し見つけ、用意していた。
孤独で苦しんだというのなら、もう二度とそんな思いをさせないように私達は誓おう。
だから――私達と共に生きよう。
そう、彼らは手を差し伸べた。
男の言葉に一切の嘘偽りはなかった。
この先に行けば、リュエルは幸せになれる。
リュエルの幸福、ただそれだけが男の生きる意味となっていた。
全てを失ったリュエルが、その優しさに逆らうことは出来ない。
錯覚でしか愛情を感じたことのないリュエルが、真の愛情を感じさせられ、抵抗することなんて出来るわけがない。
リュエルは吸い寄せられるように、ふらふらと、ゆっくり、鏡の方に近づいていった。
偽りの愛は剥がされた。
リュエルは孤独であった。
孤独を恐れていた。
それが故に愛情を錯覚し、そのために生きようとし、そして目が覚めた今、全てを失った。
事実だけでなく、己が愛したということさえも失った。
本当の本当に、空っぽになった。
そんな空っぽの中、本物の愛が向けられた。
割れたグラスになみなみの想いが注がれた。
そして、あと一歩進み、手を伸ばせば本物の愛が手に入る。
なぜかわからないが、わかってしまうのだ。
彼らの自分への想いは本物で、彼らは善良なる村人で、本心から自分を愛し、受け入れる準備をして待ってくれていた。
この先に進めば、本当の幸せになれる。
わかってしまうのだ。
その想いに、気持ちに、善意に逆らうことなど出来るわけがない。
人は苦しさや辛さには耐えられても、幸せに耐えられるようには出来ていない。
だけど……それでも……。
「……私は、何もない。全部、全部、ぜーんぶ、なくしちゃった」
「今度こそ、手に入れられますよ。貴女の欲しかったものは、全部」
「うん。そうかもね。ありがとう。貴方も、そして、たぶん言葉が通じてないけど鏡の先の皆も」
「お礼なんて良いんですよ。貴女が幸せになってくれたら」
「そっか。……変な人」
微笑み、鏡に一歩近づく。
そしてリュエルは――その場で、深く頭を下げた。
「ありがとう。だけど、ごめんなさい。そっちには、行けません」
リュエルは、はっきりそう口にした。
その言葉に、誰よりも驚いたのは男だった。
「え、遠慮はいらないんですよ!?」
「遠慮じゃないよ」
「不安なのはわかります。でも、何も騙してません。貴女はあちらで幸せになれるんです」
「うん。疑ってないよ。心から信じてる」
「ならば……ならば何故! 何故ですか!? 貴女は行かなければならない! 何故ならばこちらに貴女の幸せはないからだ! 貴女は、世界から拒絶されてるんですよ!?」
「そうかもね」
微笑みながら、同意する。
世界の拒絶。
それが比喩ではないくらいに、リュエルは孤独であった。
「だったら……だったらどうして!?」
「……そう、だね。どうしてかって言われたら難しいね。正直、後で後悔するだろうし」
「後悔するくらいなら動けば良いでしょう!?」
「そうだね。馬鹿だなって思うよ。それでも……」
「何が……何が貴女をこの世界に縛り付けるのですか。何がこれ以上貴女を苦しめているというのですか!?」
「……全部ね、失ったの。私は、全部を……」
そう呟き、リュエルは目を閉じる。
瞳を閉じるだけで、孤独に苛まれる。
寂しいを通り越し、恐ろしい。
大切にしていたものは、全て偽物だった。
自分を構成していた全てが剥がれ落ち、消滅した。
恰好つけていた見栄も、意地を張った強がりもなくなり、残ったのは、醜い感情にのみ染まった、誰にも見られたくない自分。
愛のために生きてきた過去は幻だった。
勇者候補という肩書さえ滑り落ちた。
リュエル・スタークは、何一つ特別を持たない、単なる孤独な少女と成り果てた。
傷付いた。
苦しんだ。
悲しかった。
そうして何もかもを失って、瞳を閉じて孤独となって……そこに居たのは……。
「彼がね、居たんだ」
「……彼、ですか?」
「うん。目を閉じるとね。まだ、彼が」
「一体……何のことを……」
「始まりは、確かに錯覚だった。今なら、受け入れられる。それは本当のことだった。私は、今日まで空っぽだった。だけど……それでも……」
ほわりと、胸が暖かくなるのを感じた。
孤独という吹雪を癒すにはあまりにも頼りない、小さな小さな暖かさ。
消えかかった蝋燭のような『淡くちっぽけな炎』。
だが、それでも、リュエルの中にそれは確かに宿っている。
それだけは、嘘偽りの錯覚ではないリュエルの『真』だった。
「私は、彼と……クリス君と一緒に居たい。だからごめんなさい。そちらには行けません」
改めて、リュエルは彼らに頭を下げた。
「貴方もごめんね。せっかく用意してくれたのに」
「……貴女は……貴女はそれで良いんですか!?」
「うん」
「貴女が変わったわけじゃない。今寂しくないのは同胞がそこに見えているから。このゲートが消えたら再び貴女は世界で一人になるんですよ!?」
「うん。覚悟してる……とは言い切れないけど、それでも、わかってるつもり」
「なぜ、簡単に幸せとなる道があるのに、貴女はそれを捨てるんですか!?」
「確かに、辛いよ。だけど……クリス君と会えなくなることは、もっと辛いから」
「だからっ……その想いは、錯覚で、偽物です! 同種と会えない寂しさが生んだ、偽の――」
「最初はそうだった。だけど、今は違う。……そう、断言できるよ。貴方のおかげで」
全てを失ったからこそ、リュエルは己の『ただ一つ』が見えていた。
勇者候補なんて肩書きいらない。
剣士なんて、冒険者なんて名前もいらない。
孤独なんて知らない。
苦しさなんて、怖さなんて知るもんか。
胸にある、小さな暖かさ。
自分の中にある確かな恋心。
それしかないのだから、それを無視することなんて、できるわけがなかった。
彼の見た目じゃない。
彼が自分と違う種族であることもわかっている。
更に言うなれば、彼はきっと自分のことをそういう目で見たことなど一度もない。
それでも、好きだと思えた。
彼が彼だから好きだと。
だから――この想いは、本物だった。
「きっと、向こうに行かなかったことを苦しむ日は来る。だけど、それでも、彼と離れる方がもっと後悔するってわかるの。だって、私はクリス君が好きだから」
そう言って、微笑んだ。
今度のこれは、嘘じゃない。
他の誰でもなく、そう教えてくれた男に、リュエルはそう告げた。
「それで、それで貴女は幸せになれるんですか……。貴女にとってこの世界は……」
「なれるよ、きっと。だって自分で選んだんだもの。だから、ありがとう。そしてごめんなさい」
そう言って、リュエルは鏡に向かって手を振る。
彼らもそんなリュエルの想いを理解したのか、同じように手を振って――そして、鏡は単なる鏡に戻り、静かに、ゆっくりと地面に降りた。
異なる世界を繋ぐ時間は終わり、そして、もう二度と繋がることはない。
リュエルは再び孤独に苛まれる。
それでも尚――リュエルは笑っていた。
「後悔は、ないんですね?」
「わからない。だけど、幸せになるために頑張るよ」
それはリュエルにとって、本当の意味で初めての選択だったと言っても良いだろう。
そうして孤独な少女は自らの真を知って、苦しむのではなく選んだ。
少女は確かに、大人になった。
男は、少女を救えなかった――。
「くくっ……はは、あはは……あーはははははははは!」
男は叫ぶように笑った。
笑うことしかできなかった。
だってそうだろう。
誰にも救えず、自分が救わねばと思った少女を救うことができなかった。
何故ならば、少女は自らで自分を救ったのだから。
こんなことは初めてだった。
救われるべき存在が、己の手で幸せとなった。
そんなこと、これまでなかった。
つまりそれは、誰しも自分を救えるということ。
世界中全ての人が幸せになる可能性を、男は見た。
それは神でさえ成し遂げられなかった奇跡だった。
夢物語とも言える、世界全てが幸福になる可能性を垣間見たのだ。
男にとって、こんな嬉しいことはなかった。
リュエルが剣を構えていることなど、誤差でしかないくらいに。
「ごめんなさい。私にとって貴方は恩人。それは間違いないんだけど……」
「構いません。些細なことです。ですが、理由を教えていただけたらとは思います」
「……貴方の救済で、救われる人は確かにいる。私みたいに。だけど……」
「だけど?」
「それ以上に、貴方によって苦しめられてきた人が居る。貴方が救おうとするたびに、多くの血が流れる。貴方は振り返られないから。そして救済を止めることもできない。貴方にはそれしかないから。貴方は、苛烈過ぎる」
「そうですね。私は止まらない。たとえ貴方の言う通りだとしても、私は死ぬまで、誰かを救い続けます」
「そう、貴方はそういう人。だから――皆が大好きな貴方のために、貴方を殺す」
リュエルの刃を、男は避けることができなかった。
それは、愛で構成されていた。
憎しみは一ミリもなく、憎悪や憤怒ではなく、理不尽さえもない。
徹頭徹尾、相手を想う心であった。
だから、避けられなかった。
他者の幸せだけを願ってきたからこそ、自分の幸せを願った、その刃を男が避けられるはずがなかった。
リュエルは、涙を流す。
「貴方が救おうとするたびに……貴方は人を殺す。自分の幸せがわからない貴方は、苛烈な答えしか導けないから。だから貴方は――この世界の毒でしかない。救いたいと叫びながら世界を壊す貴方は――きっと、私の同類」
リュエルは生まれて初めて、心の底から他者を憐れんだ。
「ああ……そうか。そうなのですね。なるほど。だから私は、いない方が良いんですね」
「うん。だから――」
再び、リュエルの刃が男を襲う。
命を奪う覚悟だけでなく、その命さえも背負う覚悟の刃。
それに命を絶たれるというのは、男の人生の締めくくりに最良であると言えるだろう。
そう感じられたからこそ、男はその刃に殺されるわけにはいかなかった。
「それは――駄目です。申し訳ないですが、受け入れられません」
男は己の左腕を犠牲にし、リュエルの刃を避ける。
左腕が切断されながらも男は止血をし、リュエルから距離を取った。
幸せになること。
それだけは、どうしても受け入れられなかった。
まだ世界には不幸な人が沢山いる。
そんな中で、自分だけ幸せに終わることなど出来ようはずもなかった。
「リュエルさん。私の間違いを指摘してくれてありがとうございます。それでも、それでも私は私のやり方で、皆を幸せにしてみせます。最後の最後、この命が尽きるまで」
呟き、男は姿を消した。
「――はぁ」
溜息を吐きながら、リュエルは剣を鞘に納める。
絶対に殺さないといけない相手を逃がしたのは大きな痛手だが、仕方がないだろう。
相手は間違いなく格上だった。
今は殺されなかっただけ有難く思っておこう。
そう気持ちを切り替え、もう一度深呼吸をする。
例え孤独であろうとも生きると覚悟をしたからだろうか。
空気が、やけに澄んでいるように感じられた。
とくんと、胸が鳴る。
彼に会うことを考えると、やっぱりとても怖い。
だけど、この怖さは今までのものとは違う。
勇気で乗り越えられる怖さだ。
とくんと、もう一度。
それは、嬉しいという気持ちからの高鳴りだった。
ありがとうございました。