骨の髄まで苦労人だった
神を信じない。
世界を信じない。
人を、信じない。
非信街というのは、信じるものを失い己さえも信じることの出来ない人たちが寄り添い生きている。
だが、そこに親愛や友好はない。
一人でいるより大勢いる方がまだ被害に遭いにくいから同じような立場同士で最低限協力し合っているだけ。
そう、彼らは信じるということが出来なくなっている。
縋る事を忘れる程に、彼らの過去は重い。
ここはスラム同然だがスラムではない。
スラムになるほど彼らに熱意も野心もない。
彼らに強い執着はなく、何か高い理想や強い思想があるわけでもない。
ただ、痛い思いをしたくないだけ。
苦しい思いをしたくないだけ。
つまるところ……『放っておいてくれ』というのが、彼らの願い。
彼らは生きたい訳じゃない。
死のうとしたけど辛くて死ねなかったから、ただ死んでいないというだけ。
だから、彼らには何の希望もない。
ただ怠惰に生きたい、堕落したい。
何もせずに、緩やかに、眠るように死にたい。
それだけが、彼らの願いであった。
彼は、そんな彼らの為に現われた――。
「そう! 青空仮面スカイマンここに参上! さあ我の施しを受けると良い!」
そう言ってから、変態マスクマンは大きなイノシシの群れを広場に放り投げた。
広い、何もない空間に積み上がっていく新鮮なイノシシの死骸。
非信街の人たちはその様子を、ただ遠巻きに見つめるだけだった。
「どうした!? 遠慮せず持っていくが良い! ふぅははははははは!」
高笑いをする変態に対し、誰も反応しない。
そこそこ長い事この街に居る癖に、マスクマンは未だ彼らの事が良くわかっていなかった。
血抜きし、肉を捌き、加工し、料理とする。
そんな道具誰が持っている?
そして道具があったとして彼らがそれをやるだろうか。
不審と怠惰に染まった彼らが、獣の死体をありがたがるわけがなかった。
「……むぅ。これでも駄目か。贅沢な。これより大きな獲物を探すのは我とて少し億劫なのだが――むっ! 我が第六感にて良からぬ気配!」
ただ耳が良いだけなのを第六感なんて恰好付けてから、マスクマンはしゅたっと高い所から降りた。
「では我はここを去る! 困った事があれば我が名を呼ぶが良い! 我が名は『青空仮面マスクマン』! 信仰なき者の救世主である! とうっ! てあっ! たぁっ!」
謎の掛け声と共に、クラウチングスタートにて全力ダッシュ。
その直後に、クリス、リュエル、アルハンブラの三人がその広間に到着する。
彼らの目線には大きなイノシシの死体が山になる光景だった。
「……何、この……これ? 嫌がらせ?」
リュエルは呆れ顔で呟いた。
実際街の人達もそれをチラチラ見て困っている様子だった。
「嫌がらせではない! 我が施しだ!」
マスクマンはこっちに戻って来て、それだけ言って、そのまま再び全力ダッシュで消えていった。
「……すまない我が友よ。追いかける約束をしてはいるが……これは少々見過ごせない」
アルハンブラは不快そうに呟いた。
この広場は別に公園の様な憩いの場ではない。
だが生活用水が使える水場でもあり、洗濯などに使う人がいる。
もしこの水場が汚染されると住民の何割かは困窮するだろう。
このまま放置すると、イノシシは腐り落ち、腐敗した血が流れ、水場が汚染される。
だからといってここの住民がこのイノシシを処理する気力や能力があるかと問われたら否定せざるを得ない。
それを放置するのは、アルハンブラの矜持に反する行いであった。
例えそれが、誰か他人のやらかしたことであっても――。
「アルハンブラはどうしたいの?」
「……どう、というのは?」
「誰かが困るが嫌。だからあのイノシシの群れを何とかしたい。で合ってるよね?」
「ああ。その認識で正しいよ。本当ならこんなことあの痴れ者を追いかけるのが筋なのだが……」
「それは後で良いんよ。問題は、あれをどうしたいの?」
「……ああ。心情的な問題ではなく、どうするかという意味での問いだったのかい?」
「うぃうぃ。どうしたいかわからないとお手伝い出来ないんよ」
「――すまない……ではないな。ありがとう、我が友よ。とは言え私も困っている。まだ鮮度も落ちていないから解体は出来るが……水場の傍で血抜きは避けるべきだろう。だからどうしたものかと……」
「血抜きの問題さえクリアしたら、ら解体出来る?」
「ああ。それはもち――」
「あの量でも?」
アルハンブラは一瞬黙った。
四、五メートル級の特大イノシシ合計十二頭。
それを毛皮を剥いで解体するのにかかる時間は……。
「血を気にしなくても良いなら。私がバラすよ。解体の仕方知らないから本当にバラバラだけど」
リュエルはそう呟き、アルハンブラに目を向ける。
それはつまり、教えてくれたら上手くやるということだった。
「……あー……我が友よ。これは限りない無茶ぶりだと思うのだが……」
「うぃうぃ。何かな?」
「血をこの場から綺麗に消滅させることは……出来るかな?」
「そのつもりだよ」
けろっと言い放つクリスを見て、アルハンブラは苦笑を見せた。
「本当、手札の多いことで」
「アルハンブラには言われたくないんよ」
「はは、私は小手先ばかりさ。というわけで我が友よ。君の手を借りたい。良いかね?」
「うぃうぃ。報酬は……お肉料理とかどう?」
ちらっとイノシシ肉を見ながら、クリスは呟いた。
「ふむ……。まあ、解体の費用分位貰ってもばちは当たらないだろう」
アルハンブラの返事を聞いて、クリスはニコニコ顔を見せた。
クリスには多くの『力』がある。
いや、力しかないというべきだろうか。
封印されても尚消えぬ黄金の呪いとも言える『才能』。
封印されても尚残る記憶の残滓、かつての『経験』。
封印されながらも漏れ出し形となっている『オリジン』という名の神秘。
大きくわけてこの三つ。
才能は成長こそしないものの、戦いに関すれば万能とも言える力。
経験は工夫せねば使えないが、多くの人が壁とし諦めるその先の答えそのもの。
そしてオリジン。
魂の渇望、己の根源とも言われるその力をクリスは現在三つも保有している。
一つは観察眼。
万物を見渡す瞳……の劣化版。
クリス自身は嫌っているが、同時にクリスが最も使っている力でもある。
一つはその毛皮。
一流程度なら物理、魔法問わずあらゆる攻撃を完全に無効化するという規格外の力。
同時に自分の攻撃さえも無効化するというリスクを抱えていたが、かつての経験により今はオンオフが可能になった。
それはもう、オリジンが完成したと呼ぶに等しいだろう。
そして最後の一つは、召喚術。
三体の戦闘力を低い僕をランダムに召喚するという能力。
悪くない能力ではあるが、前者二つと比べたら劣ると言わざるを得ないだろう。
とはいえ、オリジンというのは案外そういうものである。
一流の冒険者が身に着けたオリジンが『掃除が上手になる』とか全く関係なかったり役に立たなかったりという事も少なくない。
全く役に立たない能力と比べたら十分使える方と言えるくらいだろう。
まあ……クリスの場合は色々な意味でそのような常識に当てはめるべきでないが。
召喚、退去を繰り返すクリスを見てリュエルは尋ねた。
「今回呼びたいのはスライム?」
クリスは頷いた。
クリスが呼べるのは自然をそれとなく操れる『小さなアルラウネ』と体躯の割に力が強い『子熊』と『小さなスライム』の三つ。
リュエルが知る限り役に立ったのは小さなアルラウネこと『プチラウネ』だけで後二つは使ったところを見た事もない。
それ以前に、スライムに至っては出て来ることさえ嫌がっているそぶりさえあったくらいだった。
「クリス君スライム呼ぶの嫌がってなかった?」
「嫌というよりも、要注意? 目を離さなかったらまあ問題ないけど」
そう呟き、次の召喚にスライムが呼び出された。
うねうねした三十センチくらいの小さなスライム。
それをクリスは手に持った。
「さ、アルハンブラ。血抜きして。その血を食わせるから」
「……えっと……その、小さなスライムにかい?」
「うぃ」
「どう考えても――ああいや、我が友が無駄な提案をするとは思えない。とりあえずやってみよう」
「割と無駄な提案することもあるよ、クリス君は。今回は大丈夫だと思うけどね」
ぽつりとそう呟くリュエルにアルハンブラはどんな顔を見せれば良いかわからなかった。
最初は、感心だった。
吊るされたイノシシから零れる血を、一滴も漏らさずそのスライムは取り込んでいる。
小さい割に良く吸える。
とはいえ、あまり期待してはいなかった。
青い体が早々に赤くなったからだ。
イノシシ一頭分吸っただけでも大したものだとアルハンブラは思った。
だが、クリスから出た命令は続行だった。
召喚獣使いが荒いなとも思ったが、アルハンブラは特に文句は言わなかった。
言える立場ではなかった。
二頭、三頭と立て続けに血を吸うスライム。
逆らえない命令があるとはいえ良く頑張っているもんだ。
同情や憐憫を持ちながらも、アルハンブラは続行する。
ふと、スライムにおかしな変化があることに気付く。
膨張……している訳ではない。
むしろあれだけ多くの血を取り込みながらも三十センチのサイズのまま。
そうではなく、形の方。
スライムは、滴る血から逃げるのではなく、血が滴る上に上に体を伸ばしていた。
そこで、勘違いに気付いた。
嫌がって苦しんでいるのにクリスに命じられているのかと思った。
だけど、そうじゃない。
スライム自身が、血を啜ろうとしている。
いや、違う。
あのスライムは、肉さえも貪ろうとしている――。
十頭を超えた辺りで、えもいわれぬ恐怖をアルハンブラは覚えた。
何か怖いのかわからない。
だけど、あのスライムを見ていると胸の底がゾワゾワと来る。
近いところで言うなら、腹黒い政治家を見た時の様な感じ。
つまり……底のない、悪意。
感情が悪意であると気づけば、確信が持てた。
あのスライムは、自分に悪意を向けている。
「我が友よ。……アレは、アレは何だ?」
もう小さな事なんて気にもしない。
ただの粘液集合体なんて事も思わない。
あれは一般的なスライムではない。
モンスターという意味でもなければ、意思ある魔族的な意味でもない。
そのどちらのスライムでもなく、それ以外の何か。
つまり、化物――。
「今はただのスライムだよ。ちょっと目を離すと危ないけど」
「危ないというのは、具体的には?」
「人の中に入って、内臓を焼くと思う。死なない程度に」
「何故、そんなことを?」
「そういう存在だから? だから目が離せないんだ」
「なるほどね。……逆に言えば、目を離さなければ問題ないのか?」
「うぃ。戦闘能力もそれほどないし、良くも悪くも嫌がらせが精々なの」
「そう……なのか? 私は世界を滅ぼす邪悪と言われても納得するのだが?」
「……なかなか鋭いの」
ぽつりと、クリスは呟いた。
「今、何か言ったかい?」
「何でもないの。実際たちのわるい悪戯くらいはするから早く終わらせるの」
「そうだな。では、そっちは頼む。ところで、許容量の方は問題ないのかね?」
「これの百倍でも問題ないの。最悪お肉全部処分も出来るよ」
「そうか。もしもどうしようもなくなったら頼むよ」
そう言って、アルハンブラはその場を離れ肉の解体作業に入る。
それは早々に作業をする為という理由もあるが、スライムの悪意から逃げたいという気持ちも多分にあった。
ありがとうございました。