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そう言って口元に浮かべた笑みはどことなくぎこちない。瞬きはゆっくりとした動きになっており、瞳は時折虚空を見詰めて動かない。
拭えない違和感がスクートを満たし、疑問を舌に乗せるより先にジルはひたりと焦点を合わせた。
「きみには南部に入り次第、別行動を取ってもらう」
「……別行動ですか?」
「そう、別行動。きみはラタクに入るより先に視察団から離脱するんだ」
ジルの様子がおかしかったことよりも、脳内に上書きされるのは新たな疑問だ。
スクートはアエストリゴ領で開催されるパーティーに出席の予定である。とはいえ、アエストリゴ領に向かうのはラタク領へと視察団を護衛として送り届けてからのことであり、ジョンたちがラタクでの用事を済ませる間に数日間離れるだけの予定である。
しかし、当初の予定を崩してこのように直前になって別行動を指示されることは、まったくの予想外の出来事であった。
金色の瞳が訝しげにジルを見上げ、その真意を問おうとする。
「予定を変更するほどの事態が起こっているのでしょうか」
「国内の魔物が増加傾向にあることはきみも知っていると思うけれど、これの調査に当たって欲しいんだ。きみが出張るような問題では無いと、時間さえあれば解決すると思っていたのだけれどね、その肝心な時間があまり無いようなんだ」
残念だ、と肩を下げるジルに、スクートは脳内に南部を思い描きながら訊ねる。
「南部にその原因があるということでしょうか」
「グライドの森を始めとした南部で、狼等の動物の背に乗った不審な集団の目撃情報が相次いでいる。だからきみには集団と魔物、両方の調査に当たってもらう。その集団はおそらく、並の人間——というよりも、へヴァーゲンらの手には余るだろうから」
グライドの森とはアエストリゴ領とその隣、ベスタガ領に跨り、大森林に及ばずとも魔物の生息数も国内最多とされている森だ。
国内の魔物は大森林に比べて脅威度は下がるものの、それでも数が増えれば十分に脅威は跳ね上がる。数の力というものは凄まじく、人間と違い魔物ともなれば尚更だ。
そのような事態が起こっている中、視察団のラタク領入りを見届ける前に離脱するとなれば、素直に頷くことははばかられるもので、スクートは首を振った。
「それなら尚のこと、陛下の身の安全を優先すべきではないのでしょうか。件の集団の目的が不明なのであれば、視察団を、陛下やジル様の身を狙っている可能性も視野に入れなくてはいけません」
スクートがそう食い下がれば、ジョンは冷たい眼差しを向けてくる。
たとえどれだけ煙たがられようと、スクートは盾としての役目を放棄するわけにはいかない。
自身が離れたことにより、警護が薄れたことで件の集団が現れたり、魔物が大群となって押し寄せたりでもしたらと考えれば離れるという選択肢は避けるべきと思うのだ。
とはいえ、視察団やジョンを狙うことは有り得るが、ジルを狙うということの愚かさを説くのはいささか難しい。というのもマクァラトル国民であれば、ジルを狙うことの無意味さは天と地をひっくり返すことと同義であると血に刻まれているようなもの。つまるところ不可能の代名詞であるというのが周知の事実だ。
しかしここへ来てへヴァーゲンの手には負えないと、ジルの口から零されたのだからこれは国外からの関与が濃くなったということを示唆している。
そう確信した上で、少なくともラタクに入るのをしっかり見届けるべきだというのがスクートの考えであった。
「これは王命だ。貴様は視察団より離脱し、魔物急増とそれに関与していると思われる集団、双方の調査を命じる。これについて異論は認めない」
しかしそんなスクートの考えを、ジョンはあらゆる異論の拒否をもって吐き捨てる。
スクートはさらに言いかけた言葉を飲み込み、そして渋々ながらも頷いた。
「……謹んで拝命いたします」
スクートの懸念は“王命”という一言の前には無力であり、王国の意思を体現する国王であるジョンの命令には逆らいようがなかった。
隣に座るジルが窘めるように足先でジョンを小突き、安心するようにとにこやかに言う。
「心配しなくとも、僕がいるのだから——」
しかし、笑みを向けてきたジルは言葉を不意に途絶えさせたかと思えば、大きく目を見開いた。
「あっ——」と、漏らした声は短く小さかった。
パンッと乾いた音が鼓膜に届くより先に、スクートは瞬時にジョンの隣に移動し、同時にその頭をようにして身を伏せさせる。
驚愕を体ごと押し潰されたジョンは、それでも権威ある者として取り乱しはしなかった。
下手に取り乱して暴れず、身を任せてされるがままに守られてくれるジョンに感謝しながら、スクートはひたりとジルに視線を合わせたままに次の挙動を見逃すまいと瞬きすらしない。
スクートの視線の先、ジルは脱力したように体をもたげ、ただ顔面が爆ぜた状態で在った。顔面が爆ぜる——およそ日常的には使わない表現ではあるが、それが事実であり、あのジルに傷が付いたという事実が何よりも非日常的な出来事であった。
内側から外にめくれ上がるようにして弾けているジルの顔面だが、本来であればグロテスクな中身、所謂脳味噌などの血肉が飛び散っているはずであった。しかし、強烈な弾け方を晒しているにもかかわらず、そこに広がるのは空洞であり中身はなく、ましてや断面はまるで樹皮のようにも見える。
スクートに頭を押さえつけながらも何とか覗き見て、ジルの姿を目にしたジョンは喉の奥で声にならない悲鳴とともに息を呑む。
ジルが傷を負うことの意味と、もしも自分がその対象であったらと考えれば、次第に背中に伝う冷や汗にぶるりと体を震わせる。不可能の代名詞であるジルへの襲撃が、今まさに目の前で行われたのだ。
取り乱してしまいそうなのを意地と矜恃で抑え込もうとするものの、ジョンの呼吸は次第に荒くなっていく。
何者にも脅かされない存在であったはずのジルがこうして派手に傷を負う——傷と表現するには悲惨な見た目をしているが——有様を見て常識を覆された衝撃は国王として教育された精神でも厳しいものがある。
パキパキと軽快な音を立て、傷口というか断面図にはヒビが広がり始めており、修復を試みようとする小枝も無惨にも伸びては枯れていくばかりだ。
馬車の中にはジルの体を侵食していく音と、ジョンの荒い呼吸だけが響いている。
スクートは警戒を解かぬまま、けれど動きのないジルを案じてようやく口を開いた。
「……ジル様?」
ジョンの呼吸音が苦しげになっていく中、スクートの訝しげに伺う声にぴくりとジルの体が反応した。
頭部を損傷した体ではバランスが取りづらいのか、体を起こそうとして一度ぐらついたものの、再度手をついて身を起こしたジルは足を組み、悠然とした姿勢で座り直した。
「ジョン、良い子だからしっかりと息を吸いなさい。大丈夫、きみはまだ大丈夫だ。——そう、良い子だ」
頭部を失い、発声器官を失っているはずだが、伽藍堂の中から聞こえるのは確かにジルの声だ。聞き分けのない幼子をあやしているかのような、努めて一音一音をはっきりと、けれど穏やかな声音でもって導く口調であった。
ジョンはジルの言葉に次第に息を整え、びっしりと額にかいていた汗を拭おうとすれば、スクートも手を退ける。姿勢を直す頃にはジョンはすっかり冷静さを取り戻しており、満足そうにジルの足先が揺れたかと思えば、彼の体はスクートへと向けられた。
「もし、獣を繋ぎ止める必要が出た時は、カインが連れているこの白い鳥に言うんだよ」
なんの脈絡もなくそう紡がれる言葉にスクートが問いを返すより先に、視界の中央で不釣り合いな白が動いた。
ジルの破裂した頭部から出てきたのは真っ白な鳥であり、顔のめくれ上がった縁に立つと一度首を振ってから飛んだ。ジョンに向かおうとしていたその鳥を、スクートは横合いから鷲掴みにすると、くりくりとした目が驚くと同時にばたばたと逃れようと暴れ出す。
「離せ、それがわたしを害することは無い」
ジョンが呆れを含んでスクートの肩を掴んだことで手を離し、ばたばたと激しい音をたてて再度飛んだ鳥は馬車内を旋回してからジョンの肩に止まった。
鳥の丸い瞳がスクートを批難するように見詰めていたが、反射的に伸ばした手を後悔するようなことは決してない。
「僕は少しの間離れるけれど、この——」
ジルの言葉は再度不意に途切れ、パキンッと甲高い音を立てたかと思えばさらさらと崩れていく。崩れた先から砂となり、砂は空気に溶けるようにして消えていく。
痕跡もないジルがいた空間に二人の視線は固定されたままであり、意味と状況を把握するのにはあまりにも唐突過ぎた。
理解しようにも情報が断片的であり、スクートは早々に諦めただただ受け入れるだけとした。咀嚼出来なければ呑み込んでしまえばいいだけであり、未だ脳内で反芻し続けているであろう険しい面持ちのジョンへと目を向ける。
肩に乗った白い鳥がじっと見詰め返してくるが、スクートの目に映るのはジョンだけだ。
スクートはジルがいなくなったことで先程の、視察団から離れるという命令を再度受け入れるべきか否かを検討していた。
既に王命が下されている以上、原則としては受け入れる他ない。しかし、それはジルがいるという前提のもとであった。たとえスクートが抜けようと、ジルというスクートよりも遥かに強大な力がその穴を埋める。だからこそこの魔物が活発化している中、視察団から離れるということを是としていたわけだ。
だが、今となってはその前提は覆されたのだ。故にこそ、スクートは再考の余地ありとしたのだが、問題はどうジョンを説き伏せるかという点である。
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