顔も、声も、誰なのかすらもわからない。何故なら彼は、ただの文通相手だから。
私は、裕福な商家の娘として生まれ、両親に愛されて育った。
生まれた時に誰もが持つ魔力の性質は大したものじゃなかったけど、それでも両親には関係なかったようだ。
エリザベスというありがちではありながらも可愛らしい名前を私につけ、お姫様のように、大事に、愛情深く育ててくれた。
でも、そんな幸せな毎日は、私が六歳の時、馬車の転落事故で両親が死んだことで終わりを迎えてしまう。
事故の後、唯一の親戚である叔母夫婦に引き取られ、育てられるようになった私に彼らはいつも辛い仕事を押し付けた。
最初は良かった。それまで、一度も会ったことの無かった彼らは、とても優しくしてくれていた。だけど、引き取りの手続きが全て終わり、彼らの家に到着してからその態度は豹変した。
まるで奴隷のように扱われ、使用人以下の生活を送る。
ボロ布同然の服を着せられ、馬小屋の藁の上で眠る日々。罵倒され、鞭で叩かれ、毎日のように泣いていた。
だけど、その頃の私にとって唯一の救いだったのは私には話し相手、いや、文通相手がいたことだろう。
私の魔力の性質は『紙の支配』、大層な名前のわりには出来ることは少ない。
一度触れたことのある紙に魔力のパスを繋ぎ、丈夫にしたり、浮かせたり、修復したり。他にも、思ったことを文字にして念写したり、逆に書かれたことを把握できる程度の能力だった。
昔は、よくそれをお父様と飛ばして遊んだ。当然、ほとんどは誰にも届かず返事は帰ってこない。だけど、稀にそれが返ってくることもあって、一つの遊びとなっていたのだ。
そして、風の強いある日、見つからぬように紙を一枚くすねると、『何か、書いてください』という一文だけを浮かび上がらせ、それを飛ばした。
別に返事を期待していたわけでは無かった。ただ私は幸せだった日々の記憶に縋りつきたかっただけなのだ。
しかし、その媒介となる切れ端を服に縫い付けたまま、それを忘れ始めた頃。脳内に誰かが文字を書いたことが伝わってきた。
≪もう嫌だ≫
それは、私に向けたものではなく、誰かのただの独白だった。
思い返すと当然だろう。父がいた頃は彼が説明を書いてくれていたけれど、その頃の私は幼くて、ただ何か書いてくれとしか伝えていなかったのだから。
たぶん、この文通を始めた頃の彼も別に誰かに伝えるつもりなんてなくて、ただ、口にはできないことを偶然見つけた紙に、書き殴っただけなんだろう。
≪どうして?≫
相手は、自分の文字が消え、書いていないはずの文字が浮かび上がったことに動揺したのか変な線が紙に走る。
だが、幸運にも興味を持ってくれたようで、新たにちゃんとした文字が書き綴られた。
≪君は、だれ?≫
≪私は、エリザベス。あなたは?≫
≪僕は、アルフォンス。これは、一体?≫
≪私の魔力≫
≪紙で、会話ができるの?≫
≪そう。それで、何が嫌なの?≫
仕事が終わらなければ鞭で叩かれてしまうので、作業をしながら会話をする。
もしかしたら、馬の糞尿の掃除はとても臭くて、少しでも気を紛らわせたかったというのもあったかもしれない。
≪誰も僕に優しくしてくれないから≫
≪あなたもそうなんだ≫
≪君もなの?≫
≪うん≫
≪じゃあ、仲間だね≫
その言葉は、当時の私にとても深く刺さった。過去の幸せな記憶だけを拠り所にして生きていた私にとっては、世界で唯一の味方のように感じられたから。
≪うん、私達は仲間。とっても嬉しい≫
≪僕も嬉しい。僕たちはずっと仲間だ。約束だよ?≫
≪うん。約束する≫
≪もう嫌だったけど。ほんとに嫌だけど。もう少しだけ頑張ってみようかな≫
≪私も。嫌で、嫌で、毎日泣いてるけど。あとちょっとだけ頑張る≫
≪君は、何がそんなに嫌なの?≫
≪お父さんとお母さんが死んでから、みんな私にひどいことするの≫
≪例えば?≫
≪悪口言ったり、鞭で叩いたり。それに、ご飯も固いパンだけなの≫
≪ひどい!≫
≪ひどいよね?叔父さんも、叔母さんも、ローラちゃんも、執事さんも、メイドさんもみんな嫌い!≫
≪ローラちゃんって誰?≫
≪叔母さん達の家の子。すごく意地悪なの≫
そう言って、私は彼に自分の辛さを吐きだしていった。誰にも言えず、ずっと暗い影となっていたその辛さを。
≪聞いてくれてありがとう。スッキリした≫
≪仲間なんだ。いつでも聞くよ≫
≪嬉しい。ほんとは、誰にも言えなくてすごく辛かったの。貴方は、言いたいことある?≫
≪僕の話も聞いてくれる?≫
≪うん。仲間だから≫
その仲間という言葉は私達にとってずっと魔法の言葉だった。それを言うだけで、元気の出る魔法の言葉。
≪ありがとう!僕はね、お兄様達とお母さんが違うんだ。だから、いつも馬鹿にされる≫
≪どんな風に馬鹿にされるの?≫
≪難しい言葉をいっぱい。下賤な血がなんとかってよく言われる≫
≪下賤ってどういう意味?≫
≪なんか、お母様みたいな、身分の低い女性のことを指すみたい。よくわからないけど≫
≪それはダメなことなの?≫
≪みんなにとってはダメみたい。僕がたくさん頑張っても、全部そう言って馬鹿にされる≫
≪ひどいね≫
≪ひどいよね。それに、お母様もいつも僕に泣きながら謝るんだ。ごめんねって。だけど、僕はきっとお母様は悪くないと思ってる≫
≪何も悪いことしてないなら、悪いわけないよ≫
≪うん。でも、お父様はぜんぜん助けてくれないから。僕がお母様を守るんだ≫
≪それがいいよ≫
≪ありがとう。いつか、お兄様達を見返してみせるよ≫
≪頑張ってね。ずっと応援してるから≫
はたから見ている人がもしいればお互いの傷の舐め合いをしているだけと思ったかもしれない。でも、幼い私達にとって、それは、自分の心を保つための大事な拠り所だったのだ。
だから、私達はたくさんのことを二人で共有した。辛いことも、悲しいことも、それこそ負った傷の場所や、今日食べた物、そんな些細なことも全部。
≪昨日は、どうしたの?話しかけても、返してくれなかった≫
≪お母様がね、死んじゃったんだ≫
初めて話をしたときから一年が経った時、彼の母親が死んだ。
彼は、いつも努力していて、懸命に守ろうとしていたけど、それでもダメだった。
幼い彼の手で守れるものなんてたかが知れていて、母親は周りの悪意に徐々に衰弱し、彼に謝りながら息を引き取ったらしい。
彼の顔は見えないし、何も言わなかった。だけど、滲んでは戻る紙の感覚が彼が泣いていることを教えてくれた。
≪大丈夫?≫
≪すごく、悲しい。それに、悔しい。みんなが優しくしないから、お母様が死んだんだ!≫
穏やかな彼らしくない強い筆圧で、支離滅裂な怒りや悲しみの文章が続く。
しばらくして、全てを吐きだし少し落ち着いてきた彼は、さっきまでとは逆の弱々しい文字で尋ねてきた。
≪エリーはいなくならないよね?≫
彼は、私のことをエリザベスではなく、お父様やお母さまが使っていたエリーという愛称で呼ぶ。
彼の中では、他とは違う特別な愛称で呼ぶことが二人の絆の強さの証拠だったらしいから。
≪アル、安心して。私は、絶対いなくならないから≫
≪絶対?約束できる?≫
≪うん。約束する。だって、私達は、仲間だから≫
≪そうだね。うん、僕たちは仲間。ずっと一緒だ≫
彼の母親が死に、私達の両方ともが守ってくれる肉親を失ってからは、二人の関係は更に深く、強くなっていった。
≪エリー、なにかあったの?三日も、返事がなかった≫
≪ごめん、アル。頭を打って気を失っていたみたい≫
≪それは、どうして?≫
≪木に登っている時に手を滑らせちゃって≫
≪また、誰かが君を虐めたんだね≫
≪うん≫
≪エリー、待ってて。頑張って、力をつけて、いつか必ず、僕が君を助けに行くから≫
≪ありがとう。でも無理はしないで≫
そして、ある日、私が叔母夫婦のローラちゃんに無理やり木に登らせられ、しばらく気を失った日の後。彼は、今まで以上に、それこそ身を壊すのではと思うほどに努力を重ねるようになった。
それは、何度、私が諫めても変わらず、彼は太陽のような熱量を持って高みへと進み始めた。
◆◆◆◆◆
お互いが十六歳を迎える年。振り返ると、あれから、もう十年近くの時が経っていた。
お互いが成長し、外見や思考、その全てをが大きく変わる中でも、その文通は今でも変わらず続いている。
だけど、そろそろこの依存し合った関係から彼を解放しなければいけないのかもしれない。
この残酷な鳥かごから外に出れず、話せるような人もいない私は、世間の情報から隔離されている。
それこそ、教育も幼少期で止まっているのだが、彼が色々と教えてくれるのでそれらを吸収することで私は知識を得ていた。
ただ、こちらから伝えられる情報はあまり無い。自分の住んでいる場所すらも朧げにしかわからなかったし、家名も無いので特定できるような情報は一切伝えられなかった。
逆に彼もあまり自分の家名が好きではないのか伝えてくることは無かったが。
だけど、今日たまたま木に引っかかった新聞記事を読んだとき、私は初めて彼の家名とその立場を知ることとなった。
なんとなく貴族かなとはわかっていた、しかし、その想像は少し甘かったようだ。
読んだ記事は、この国の皇太子である、『アルフォンス・リ・ジルコニア』が成人したというもの。
横には人物画とともに、簡単な人物像が書いてあった。
突出した能力故に、他の兄達を退け序列一位に昇りつめた側室の子。そして、その文章の下には輝かしい来歴が所狭しと連なっている。
当然、それだけでは、分からなかった。だが、最後に書かれた本人からの言葉がその人とアルが同一人物であることを教えてくれた。
刻まれた言葉は、≪手紙の主へ、必ず、迎えに行く≫
ただそれだけ。でも、私達にはそれで十分だった。故に、私は彼の本当の身分を知り、同時に水に映る自分の姿を見て思った。
水浴びだけは馬用の水を使ってやれているから垢やフケはそれほど問題は無い。
だけど、ボロ布を纏った貧相な体に、ボサボサの髪。茶色く日焼けした肌に、あかぎれ塗れの硬い手。
そこには、どうしようもないほどみすぼらしい姿をした自分が立っていた。
本当は自分達の身分差に気づき始めた頃から分かっていた。
私達の人生が交わることは無い。いや、交わってはならない。
取り柄が無く、ただ、彼が一番辛いときにたまたま縁があっただけのしょうもない女。
何も持たない私は、これまで、ずっと彼との関係だけに縋りついてきた。
だけど、もうそれは終わりにしなければいけない。
輝かしい彼と、どうしたって光りようのない私。
本当は、救って欲しい。助けて欲しい。でも、二人の関係がかけがえの無いものであるからこそ、私はここで身を引かなければいけない。
それに、こんな姿を見せて、幻滅されるのが何よりも怖かった。
先送りにすれば弱い私は必ずそれが出来なくなる。それが分かっていたから、すぐに彼に最後の言葉を送った。先にする後悔は何と呼ぶのだろう。そう思いながら。
≪アル。愚かな私は、貴方が皇太子であると今日初めて知りました。輝かしい貴方、だけどそれに対して、私は醜く、何の取柄もない女なのです。貴方の未来を汚したくない、だから、今日で手紙は最後にするつもりです。貴方がこれまでにしてきた血の滲むような努力を他でもない私が裏切るわけにはいかないから≫
≪今まで、ありがとう。そして、さようなら≫
涙が溢れ、視界が歪む。そして、私は服に縫い付けた手紙の切れ端を力強く引きはがすと、炉に入れ燃えるのを黙って見届けた。十年以上の彼との記憶、それらも一緒に消し去るような気持ちで。
◆◆◆◆◆
誰とも会話をすることなく、ただ辛い日々を心を凍らせながら過ごす。
自分には何もない、楽しさも、嬉しさも、それこそ未来も。ただ、黙って過ごすしかないのだと自分に言い聞かせながら。
だが、そうして、淡々と過ごしていた時、何故か叔母夫婦の屋敷に騎士達がなだれ込んできた。
彼らは、出入り口を全て封鎖すると、順番に並ぶように屋敷内の全員に指示する。
「ねえ、これって例の名前狩りじゃないの?」
「たぶんね。私の親戚の家もやられたらしいわ」
隣から、使用人たちの小さな話し声が聞こえてくる。
私は知らなかったが、どうやら、色々なところで行われていることらしい。
そして、全員が並び終わると、騎士が最敬礼をしながら、一人の男を出迎える。
「ご苦労」
皆が騒めき、跪く。そこにいたのは、この国の皇太子であるアルフォンス・リ・ジルコニア。その人だった。
一人ずつ帳簿と照らし合わせながら、名前が確認されていく光景に、私は彼が何をしようとしているかに気づいた。
当然、私は彼と話したいし、真実も伝えたい。だけど、それではダメなのだ。
彼の未来の幸せのためにも、私は何があってもエリーだとバレるわけにはいかない。
幸い、彼に伝えてきた情報はありふれたものだ。叔父と叔母の名前は伝えていないし、ローラとエリザベス、そんな名前なんて腐るほどいる。
だから、何を聞かれても違うものを答えればいい。そして、そう思っていると遂に私の目の前に騎士が立った。
「お前の名は?」
「エリザベス」
その名を聞き、彼がこちらをジッと見るのが分かる。
私は、それに対して伸びきった髪が前にかかるように俯き、その視線を遮る。
「こいつの魔力はどんなものだ?」
「確か……………………痛みを軽減するものだったはずです」
問われた横のメイドが、思い出すようにそう答えた。
この屋敷に来て、痛がらないことが彼らの興味を削ぎやすいことに気づいてからは、ずっとそう答え続けてきた。それこそ、両親が死んでからは、彼以外に魔力の性質を伝えたことは無い。
そして、騎士がアルを振り返り、指示を仰いだ。合致する情報のない中で、その騎士は恐らく別人だと判断したのだろう。
「両親はいるか?」
アルが、こちらを見ながら静かに問いかけてくる。私は、怪しまれないよう、質問に淡々と答えていく。
「おりません」
「どうしてだ?」
「幼少の頃に亡くなったそうです。私はあまり、覚えておりませんが」
「木に登ったことは?」
「ありません」
お互い知っているはずの情報を彼が矢継ぎ早に確認し、私がそれに淀みなく、それでいて私だとわからないように答えていく。
「お前は、下賤という言葉を知っているか?」
「はい」
「では、どういう意味だ。簡単に言ってみろ」
一瞬、意図を考える。しかし、その情報だけでは判断も付かず、時間をかけるわけにも行かないので昔、彼に聞いた通りその言葉を説明した。
「身分の低い女性のことです」
「…………身分の低い女性と言ったか?」
「はい」
その言葉を聞いた途端、彼の雰囲気が変わる。そして、突然立ち上がり近づくと汚い私の髪をかき分け頭の後ろの傷跡に手をなぞらせる。
そして、優しい笑みを浮かべると私を抱きよせた。
「助けに来たよ、エリー。僕の、僕だけのお姫様」
なぜ、バレたのだろう。いや、何か、弁明しなくてはいけない。
そう思いつつも、何故か涙が止まらず、声が発せられなくなる。
汚らしく、みすぼらしい自分。だけど、アルは、まるで宝物のように丁寧に、大事そうに私を抱きしめてくれた。
◆◆◆◆◆
泣き続ける私を横抱きにした彼は、恥ずかしがり、彼の手から抜け出そうとする私の肩を強く抱きとめたまま叔母家族の捕縛を命じる。
そして、後日徹底的に調べ、私の両親の殺害容疑が明らかになってくると、彼女らを死罪とした。
どうやら、私を引き取ると同時にその資産を引継ぐことが目的だったらしい。
哀れに思う気持ちは一切ない。しかし、彼らの末路にスッキリするわけでもない。
どうなろうが、私の大事な両親が二度と帰ってくることが無いのはわかっているから。
それに、そんなことはもうどうでもいい。それよりも今のが遥かに問題がある状況なのだから。
私は、彼の住まう王宮に連れて行かれると、すぐに盛大なもてなしをされた。
自分でしようとしても、一切それを拒否され、専属のメイド達に身の回りのことを全てされる。
体を洗うのすらも自分でできず、見たことの無いような高価そうな服と宝石で着飾らせられる。
毎日、彼と二人で食事をし、二人で過ごし、彼の寝室に連れて行かれる。
そして、耳元で囁かれ続けるのだ。『僕たちはずっと一緒だ』と。
「愛しい、エリー。君は、ずっと僕の横にいればいい」
「……アル。ダメよ、私にばかり構ってちゃ。貴方の未来を狭めたくないの」
「君がいなくなるくらいなら、僕は全ていらない」
「でも」
「エリー。僕はね、本当に君以外に価値を感じていないんだ。だから、何を言っても無駄だよ?それに、君は離れたいの?」
「それは、…………私も一緒にいたいけど」
私がそう言うと、彼は蕩けるような、絡みつくような笑みを浮かべた。
「なら、ずっと一緒だ。それこそ、どんなことがあろうとね」
体温も、香りも、その全てを逃さないように、彼が私を全身で抱きしめてくる。
恐らく、今後私が魔力を使う機会はもう訪れない。だって、手紙を交わすほどの離れた距離に彼がいることはもうないだろうから。
息苦しさと、幸せの板挟みにあいながら、回らぬ頭で私は、ふとそう思った。
幼少期の漢字は、本来ならひらがなにすべきですが、読みやすいように漢字にしております。
※下記は作品とは関係ありませんので、該当の方のみお読みください。
【お誘い】絵を描かれる方へ
絵に合わせた作品を執筆してみたいと思っております。興味を惹かれた方は一度活動報告をご覧頂けると幸いです。