6 手遅れ悪役令嬢、パン屋で求婚される
ブレブレが開店すると、まだ早い時期なのに続々とお客さんがやってくる。朝が早い職人なんかの仕事の人が朝食用のパンを買っていくのだ。
ブレブレのパンは美味しいと評判なので開店からしばらくはお客さんがひっきりなしだ。
おやじさんは追加のパンをどんどん焼いて、おかみさんは厨房から店先まで動き回って品出しをしてくれる。私は売り子だ。3人しかいないので朝一番のこの時間とお昼時は戦場のような忙しさだ。
「はい、丸パンが3つですね。こちらです。ありがとうございましたー!」
「こっちにも2つね」「こっちは4つちょうだいな」
「はーい! お待ちください!」
お客さんが適度に減って来た頃、顔見知りのおじさんが買いに来る。
「やあ、クリスちゃん。今日はクリスちゃんはどれを焼いたんだい?」
お父様と同じ年頃のおじさんは毎日買いに来てくれている常連さんだ。ここら辺の人にしてはちょっといい身なりをしている。パンが美味しいから散歩のついでにわざわざ寄り道をしてくれているのだとか。うれしいことだ。
「今日はこの丸パンです。いい焼き色でしょう? おやじさんのお墨付きですからね!」
「じゃあそれを5個ね。うちの家族は毎日クリスちゃんの作ったパンを楽しみにしてるんだ」
そしておじさんがいつも買う数は5個。私の家族、お父様とお母様、上のお兄様と下のお兄様……それから弟のエミリオを思い出す数だ。
「いつもありがとう。おじさん!」
しんみりしそうな気持ちを押さえ込んで笑う。
「そういえば、前に干した葡萄の入ったパンを作ってたけど、あれはまた作らないのかい? あれ、うちの一番下のちびが気に入っててね。それからうちのカミさんは胡桃の入ったやつがお気に入りって言ってたよ」
「レーズンパンですね。おやじさんの許可が取れたらまた作りますね。胡桃のは上手く行けば明日出せるかな」
「それは楽しみだ。明日はカミさんが一日機嫌よさそうでありがたいことだね。それじゃクリスちゃん、ありがとうね。また来るよ」
常連のおじさんは袋を受け取ると帰っていった。
「僕はあれが好きだな。あの……メロンパンって変わった名前の甘いパン。ねえ、あれは作らないの?」
お客さんが途切れた瞬間に話しかけてきたのは、まさかのアンリ殿下だった。
「いらっしゃいませ。また来たんですか。毎日毎日暇なんですか。それからメロンパンは試作品だからしばらくありませんよ」
どういうわけかアンリ殿下は下町のパン屋で私が働いているのを見つけたらしく、それ以来毎日パンを買いに来るようになっていた。
最近は以前のニコニコとした貼り付けた笑顔はめっきりと出さなくなった。私の前では大体無表情でいるのが常だが、アンリ殿下にとってはこの無表情でいる方が楽なのだな、と私は早々に気がついていた。私が邪険な態度を取っても平気な顔で飄々としている。なんというか、同じクラスだった時は気がつかなかったが、どうも随分と変わった人のようだ。
こんな下町のパン屋に王弟が買いに来るなんて信じられないことだが、事実そうなのだ。王城からだと結構な距離があるというのに……。ああ、ここでは王族がいるってばれたらおおごとになりそうなので、殿下とは呼ばないように気をつけている。
「暇じゃないから朝にしか来れない。クリスが作ったのはこの丸パン? ひとつちょうだい」
アンリ殿下は顔面があんなに美しさマックスな顔をしているというのに、どういうわけか平民が着るような服を着ると存在感が埋没するのである。不思議な人だ。それともそういう魔法を使っているのかもしれない。王族には王族だけに伝わる秘術がたくさんあるそうだから。
「はい、丸パンひとつ、お待ちどうさま」
アンリ殿下にパンの袋を渡そうとした手がつかまれる。アンリ殿下の大きい手で握られてしまう。いつも避けようとするのに、どういうわけか毎日絶対に捕まってしまうのだ。これも秘術かもしれない。きっとそうだ。
そしてその後は毎日同じ。
「クリス、どうか僕と結婚してほしい」
こうして手の甲に口づけをされるのだ。
「っ……!」
どくん、と心臓が音を立てる。頬というか耳が熱い。
毎日のことだが、これは本当に心臓に悪い。
何度も言うがアンリ殿下の顔は本当に好みなのだ。そんな顔の人に毎日求婚され、手の甲に口づけをられるだなんて。
上がった心拍数に収まれ……と念を込めたあと、アンリ殿下に向き直る。
「なっ……何度言われてもお断りです!」
「そう。じゃあまた明日来るよ」
「もう!」
私とアンリ殿下の会話を聞いていたおかみさんは肩を震わせている。
恥ずかしくなってそっぽを向いた。
アンリ殿下が帰るとおかみさんが笑いをかみ殺しながら話しかけてくる。
「あのお兄さんも懲りないねえ。でも仕方ないね。クリスちゃんはとんでもなく美人だもの。そう簡単には諦められないんだろうから」
「ち、違うんですおかみさん! からかってるだけなんですよ。あの人……!」
慌てて手をぶんぶんと降った。顔が熱い。
「そう? 悪そうな人にも見えないけど、あんまりしつこくされたら、うちの人に頼んで怒鳴りつけてもらうから、困った時はそう言うんだよ?」
「大丈夫ですって。そのうち来なくなりますよ」
まさか毎日パン屋の店員を口説きに来ているのが王族のアンリ殿下だとは言えないし、怒鳴りつけるなんてどうなってしまうのか考えるだけでも恐ろしい。
大体、1年間平民としての暮らしの間に、私の自慢だった腰より長い白銀の髪は手入れが大変なので胸元程度まで短く切ってしまったし、労働を知らない細かった腕もパンを捏ねるうちにたくましくなった。顔だって日焼けしたし常にすっぴんだし。身分だけでなく、見た目まですっかり庶民になった私をいくら変わり者とはいえ、アンリ殿下が本当に求婚するなんてありえない。
貴族として過ごしていた頃は家族や友人に囲まれて何不自由ない、穏やかで幸せな毎日を過ごしていたが、案外このパン屋生活も悪くはないと思う。このままパン屋で働いて、当分はそんな気になれないけど、何年かしたら同じような下町の人と結婚するかもしれない。……そしていつか自分のパン屋を開けたらいいなって思う。第二のブレブレを目指すのだ。それが、今の夢。
毎日やってきては求婚していくアンリ殿下の本心がどういうつもりなのかはわからないけど、王族は忙しい。それにあの卒業パーティーからもうじき一年になる……。同じ学年のエレナ、そしてアンリ殿下は今年卒業するのだ。
審問した責任から様子を見に来ているだけなのかもしれないし、マティアス殿下に頼まれて私の監視をしているのかもしれない。それでもいつか、彼は来なくなる日が来るのだ。
もしかしたら、たまたま買ったブレブレのパンが美味しくてハマってしまったってだけかもしれないし。そうだったらいいなぁなんて思ったり。
実は前世での実家がパン屋だったこともあり、パンのチートだけはしているのだ。
とは言っても限られた材料だけでなので簡単なお惣菜パンや菓子パンなのだが、そっちも案外評判がよくてお客さんも増えたとおかみさんが言ってくれる。
勿論ブレブレのパンが売れる一番の原因はおやじさんが作るパンがとっても美味しいことなんだけど。
アンリ殿下も以前試作品として試しに出したメロンパンは気に入ったみたい。でもこの国にはメロンがないからメロンパンで通じないのよね。網目パンって名付けようかな。おやじさんのOKが出たらまた作ろうって思ってる。次もまた食べてもらえるだろうか。
一年の間に私を取り巻く環境はすっかり変わってしまった。
本来なら私もそろそろ卒業だった。卒業パーティは来週だったか再来週だったか……。去年の今頃に一年後、貴方はパンを捏ねてます、なんて言われても信じられなかっただろう。
学生じゃなくなればアンリ殿下だってこんな下町のパン屋にはきっと来なくなる。それまでにメロンパンは間に合わないかもしれないな。
来なくなったらあの綺麗な顔も見られないのか……。毎日来るのにはうんざりしていたからせいせいする……はずなのに。
どういうわけか胸がもやもやとして、それを深く考えないように努めて明るい笑顔を作る。
「おかみさん、お店の方もちょっとひと段落ついたし、古着屋さんのところに差し入れに行ってきますね」
「ああ行っておいで。マルゴによろしくね」