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5 手遅れ悪役令嬢、パンを売る

「クリスちゃん、パン焼きあがったよ!」

「はーい! こっちはもう表に出しますね!」

 

 パン屋の朝は早い。太陽の出ないうちから起き出して働く。そんな生活にもすっかり慣れた。

 私、クリスティーネは今はクリスと呼ばれている。ただのクリスだ。もう貴族ではなく、ベルトワーズの名を名乗ることは許されない。


 私は粗熱の取れた鉄板を上に乗ったパンを落とさないように、よいしょと水平に持ち上げて慎重に運ぶ。

 ふっくらと丸く、表面の焼き色はつやつやとしてそれは美味しそうなパンだ。焼きたてのパンの香りがたまらない。

 鉄板はかなり重いが、もう慣れたものだった。最初の頃は貴族として労働とは無縁な生活していた細腕では両手でも持ち上げるのがやっとだったが、今はあの頃に比べれば腕も少しは太くなったし、力もついた。筋肉痛ももう起こらない。前世が庶民だった記憶のある私には、健康的でむしろ以前よりも自分の体が好ましいとさえ思う。

 鉄板の上のパンを籠に移し、その籠を店頭まで運ぶ。そして下げた鉄板を綺麗にして竃に戻す。それを何往復もやる。パン屋の開店前の準備である。

 厨房では店主のおやじさんが黙々とパンを焼いている。今日も職人技である。

 パン屋の厨房はとにかく熱がこもって暑いので、ちょっと動き回るとすぐに汗が出る。首にかけたタオル代わりの布でひたいの汗をぬぐった。


「クリスちゃん、これの味見ついでにひと休憩なさいな。少し休んだら店頭に出てもらうから」


 そう言って朝食の丸パンとスープを渡してくるのはこの『ブレイズ&ブレナベーカリー』通称『ブレブレ』というパン屋のおかみさんだ。体格がよく腕など私の倍はある。いかにもなおっかさん、というタイプの女性だ。気っ風がよくて面倒見のいい、親切なおかみさんだ。

 彼女がいなかったら私は路頭に迷っていただろう。

 やる気だけはあったものの、見るからに何も出来そうにない、訳ありの貴族風の女を雇ってくれたのだから。


「はい! いただきます!」

 受け取った焼きたてのパンは香ばしく外がカリッと中はもっちりしていて何もつけなくても美味しい。

香ばしい小麦の風味が素晴らしい。おかみさん特製の野菜スープとの相性もばっちりだ。

 しかもこのパンは自分で作ったものなのでなおさら美味しい。最近では自分の焼いたパンを店に出してもらえるようになっていた。かなりの大進歩だ。まだ少しだけだけど。

 ああ労働って楽しい!





 あれから一年が経った。

 私、クリスティーネはゲームの知識で知っていた通り、実家であるベルトワーズ家から勘当、放逐をされた。

 わかっていたとはいえ、優しい両親や兄達、仲の良かった弟…彼らに失望され、泣かれるのは辛かった。


 私はあの審問の後、父の配下の者に馬車で貴族街から下町に連れてこられた。

 下町の中でも比較的治安の悪くない辺り、個人の商店が軒を連ねる商店街に放り出されたのは幸いだった。下町だって外れの方はスラム街も同然の荒みようだし、娼館だってあるのを知っている。ゲームの知識だけど。それにゲーム内では娼館ってはっきり言ってはいなかったけどね。全年齢のゲームだから。


 馬車は私を降ろすとさっさと貴族街に戻っていった。時刻はそろそろ薄闇が訪れる頃。下町には魔法石を光らせる街灯も、街灯がわりの篝火もほとんどないから、既にかなり薄暗い。そのせいで人もほとんど歩いていない。いたとしてもこんな怪しい女、まともな人ほど声をかけてこないだろうけど。


 そんな時間に着の身着のまま……ずっと着ていた薄汚れた卒業パーティー用のドレスのまま無一文だ。

 私は前世でも今世でもただの学生。前世の知識をつかってチートなどできるはずもなく、あるのはこの薄汚れたドレスと母親ゆずりの美貌のみ……。一応貴族だったので、私にも魔法力もあるにはあるのだけど、出力が苦手でろくな魔法は使えない。潜在能力はそれなりに高いらしいのだけど役に立たないのなら意味がない。戦闘力に特化するとか何かあれば冒険者として身を立てる、なんて選択肢もあったのかもしれない。せめて自分の身を守るくらいできればよかったのだけど、残念なことに無力である。


 ただの貴族の令嬢だったらきっと途方にくれただろう。そしてその目立つ美貌のせいで悪人に拐かされたり騙されて娼館にでも売られたり、奴隷にされたり……きっと想像するのも恐ろしい、ひどいことになっていたかもしれない。

 だが今の私は幸いなことに前世の記憶がある。そりゃあチートは無理だけど、市井に紛れて働くことに忌避感はないというのは大きなアドバンテージだ。


 プライドなんて食べられないものはどうでもいい。綺麗なドレスじゃなくていい。とりあえず衣食住が必要だ。真っ暗になる前に早急に!


 そういうわけで私は商店街を駆け抜けて、ようやく見つけた、店仕舞いをしている古着屋さんに滑り込んだ。


「すみませんっ! 閉めるのちょっと待って! どうかこのドレスを買い取ってください! あと着替えが欲しいの! ええと、下町で若い娘さんが着るような服をお願いします!」


 とにかくこの悪目立ちするドレスをどうにかしなければ。

 私が着ているドレス、これは薄汚れているとはいえ、すごくお金のかかったドレスなのだ。売ればきっといくばくかのお金に……ならなかった。


「ええっ……!? そんな、無理よ無理!」

 首が取れそうなほどにぶるぶると首を振る古着屋の店主さん。


「そんなぁ……このドレスじゃ駄目ですか……? 汚いから……?」

「いいえ、一目見ただけでわかるわ。すごい値段するでしょう、そのドレス。そんなの高級過ぎてうちの店じゃ……ううんここいらの店じゃどこだって買い取れやしないわよ……」


 それほどとは思わなかったが、私が思っていたより相当いいドレスだったらしい。宝石のついたアクセサリーは没収されていたから、もうこのドレスで何とかする以外なかったのに。

 こんなドレス姿で飛び込んで仰天しただろうに、古着屋の店主さんは親切にも色々と説明をしてくれた。


 まず、貴族の着るドレスはオーダーでぴったりサイズで作る。確かにこのドレスもオーダーだった。なので買い取ったとしても体型が異なるために着られる人はほとんどいない。そもそも下町の古着屋で高級ドレスを買う人もいない。それが買い取れない第一の理由。納得である。

 そして第二の理由としては、もしドレスとしてではなく、ハギレとして、ドレスに縫い付けられているレースや装飾用のビーズといった部品取りとして買い取ってもらうにしても、それらの素材が高級すぎて、店のお金を全部かき集めたとしても釣り合わない、ということだった。確かに縫い付けられたビーズも一つ一つが宝石ではないものの細かくカッティングされ磨かれている。


 しかし正直に言い過ぎでしょう古着屋の店主さん。適当な金額で騙して買い取ってしまえばうんと儲けられるのに……。とはいえ買い取り不可は困ってしまった。このドレスが売れない以上、私にあるのはもう体だけなのだから。


「だけど、ねえ、お嬢さん、あんたどっかのお貴族様の関係の方でしょう? 理由があってこんなところにいなさるんでしょうけど。あたしはそういう込み入った話は聞きません。でもここの服を欲しいってのなら、市井に紛れて暮らすおつもりなんでしょう?」


 私は正直にそれを肯定した。

 この辺りは治安も悪くないし、商店街だから働く場所もあるかもしれない。そのためには服とか元手とかはどうしても必要なのだけど。


「だから、そのドレスはうちの店に質に入れるってことにするのはどうでしょう? 質っていってもうちの店はこのドレスを売る気もないし、ちゃんとしまっておく。その代わりにお嬢さんが着る服をこんな店に置いてあるもので良ければ好きなのを持って行って構わないから。それでもしこのドレスがお嬢さんに必要になったら返す、っていうのはどう?」

「……でもそれじゃ古着屋さんに利益が出ません」

「そんなの簡単だよ。お嬢さんが街中でその服素敵ね、どこで買ったのって聞かれたらうちの店を教えてくれればいいの。お嬢さんみたいな美人さんが着たらうちにあるような服でも垢抜けて上等な服に見えるし、うちの店もいい宣伝になる」

「そんな…でも…」

「困ってる人には親切にしなきゃ。それにお嬢さん、とてもかわいらしいから優しくしたくなっちゃうの。うちにもね娘がいるのよ。ね?」


 古着屋の店主さんの優しさに涙腺が緩みそうになる。

 私は頭を下げた。


「はい、それでお願いします!」


 そして店の奥で、下町で普通に着られているような服一式に着替えさせてもらった。さらに数日分の着替えと靴、鞄まで用意してもらった。親切すぎて頭が上がらない。


「お嬢さん、この後は行くあてがあるの?」

「いいえ……この近くで働こうと思っているのですが、どこかで住み込みで働けるようなところを知りませんか?」


「うーん、2.3日ならうちに泊まったっていいけどねぇ……でもうちの店は小さいからあたし一人で十分なのよ。ああ、そういえば、この先にパン屋があるんだけどね、美味しいって評判のパン屋でね、夫婦だけでやってるから人手が足りないっていつもボヤいていたよ。募集の張り紙をするって言ってたかしらね。まだ募集してるかもしれないから、聞くだけ聞いてみたらどう?」


 私は善は急げと立ち上がった。


「ありがとうございます!早速今から行ってみます!」

「パン屋は力仕事だから大変だと思うけど頑張ってね。それに朝が早いからもう寝てるかもしれないけど……」

「とりあえず行ってみます。何から何まで本当にありがとうございました!!」


 私はもう一度大きくお辞儀をして古着屋さんを飛び出した。



 そしてこのパン屋、ブレブレと出会ったのだった。


 無口だけどパン作りの腕がいい職人肌のおやじさん。親切で面倒見がいいおかみさん。寝る直前に飛び込んできた素性のしれない怪しい娘をすぐさま雇ってくれて住み込みまでさせてもらっている。

 奇しくも前世のわたしの家もパン屋だった。前世は学生だったから簡単な手伝いしかしたことがなかったけど、柔らかくて温かいパン生地、パンの焼ける香り、厨房の熱気、焼きたてのパンの味。全てが懐かしく愛おしい。






 朝食も食べ終わる頃にはすっかり汗も引いた。私は立ち上がって食器を片付けると気合を入れた。

 感謝の気持ちは労働で返さなきゃ。


 あとで古着屋さんにも顔を出してパンを差し入れして、私の焼いたパンを食べてもらおう。この商店街はいい人だらけだ。近所の人は私のような怪しい素性の女にも親切にしてくれる。


 ここに来てよかった。

 失くしてしまった家族や友人のことを考えると一年経った今でも辛いけど。それでも今はとても充実している。


「おかみさん、休憩終わったんで、店に出ますね!」

「はいよ。お願いね」


 朝一番の鐘の音が遠くから聞こえる。



「ブレブレ開店です! 焼きたてのパンはいかがですか?」


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