38 手遅れ悪役令嬢、念願の帰宅をする5
お父様の書斎から出て、私はふと考えこんだ。
寝るにはまだ早い時間だったが、今からやることは思いつかず、とはいえどこかへ行くわけにもいかず、とりあえず久しぶりの自室に戻ることにした。
自室は去年から掃除だけはされていたようで、何も変わったところはない。全てが懐かしく、しっくりと馴染むようであった。
懐かしい侍女達もそのままで、久しぶりに会えた喜びもあったが、先ほどまでの会話のせいで、彼女たちとおしゃべりに興じる元気もなかった。
疲れているからと、侍女に一声かけてひとりにしてもらったところでドアがノックされた。
私にはゆっくり悩む時間さえないのかと、口をへの字にして、やや乱暴気味にドアを開けると、そこにいたのはフィリップお兄様だった。
「やあ、クリスティーネ。もしかして暇かなと思って本を持ってきたんだけど、どうかな?」
差し出された数冊の本は経営学に関するものばかりだった。
そのラインナップを見て、フィリップお兄様にはお父様が何を話すかまでお見通しだったことを察した。そもそもフィリップお兄様はお父様の名代として仕事をすることもしばしばなので、そこらへんの事情を知っていてもおかしくはない。
「ありがとうございます。ちょうど経営の勉強をしようと思っていて……」
にこやかにお礼を言ったつもりだったが、笑顔はだんだん曇っていって、お兄様を心配させないようとした作り笑顔さえできず、私は俯いた。
先程の会話がまだ響いているのは間違いない。
フィリップお兄様は見た目も中身もお父様に似ている。勿論違う人間だとわかってはいるが、今は一番顔を合わせたくない人だった。
「……クリスティーネ、ちょっとおいで」
ちょいちょい、と手招きするフィリップお兄様。見覚えがあると思えばグレンお兄様も同じような仕草をしていたのを思い出して、兄弟だと仕草も似るものなのだとそちらに意識をとられた。私にも自分では気がつかない似た部分があるのかもしれない。
「暇つぶしに散歩でもしよう」
散歩といっても夜なので屋敷内でだ。ベルトワーズ家の屋敷はタウンハウスにしてはやたらと由緒正しく歴史のある、だだっ広い屋敷なので屋敷内をウロウロするだけでも十分に軽い散歩になるのは間違いない。
おとなしくフィリップお兄様についていくと、お兄様の目的地はコンサバトリーであったようだ。
コンサバトリー、――ガラス張りの温室のことなのだが、屋敷にくっついて建てられており、室内から直接行き来できる出入り口がついたこのコンサバトリーには、テーブルセットが備え付けられており、昼間は日差しを浴びながら庭園を眺められる場所であった。太陽が出ている時には冬場でも暖かいのでお母様のお気に入りの場所だ。
夜のコンサバトリーは室内に魔法石の灯りがあるから暗くはないが、自慢の庭園もこの時間では黒々としたシルエットだけしか見えない。しかし密閉されていたせいか、まだほんのりと暖かく感じる。
「星は少ししか見えないなぁ」
フィリップお兄様はガラス張りの天井を見上げて言う。
私も同じように見上げたが、室内が明るいだけでなく、ガラスに照明が反射して星はほとんど見えなかった。
「照明を全部落とせば見えるかもしれませんね」
「今度、ひとりの時にやってみるよ」
「うっかり寝てしまって風邪をひかないでくださいね」
「それをやりそうなのはグレンかな。あれはしっかりしてそうでたまに抜けているんだ」
私はグレンお兄様が椅子に座って空を見上げたまま寝落ちしたのを想像して少しだけ笑った。
「……あの、フィリップお兄様は、私が小さい頃に高熱を出したのを覚えていますか?」
「ああ覚えているよ。最初は風邪っぽいだけだったのに、夜中に急に熱が高くなって、治療師が呼ばれて来ていた。私達兄弟にうつらないようにとクリスティーネだけ隔離されて可哀想だった」
「私、覚えていないんです……治ってからのことも、それからしばらくのことも……」
お父様はフィリップお兄様は勘付いているかもと言っていた。
私もそれには同意見だ。私が7歳ならフィリップお兄様は11歳くらいのはずだ。そのくらいの歳なら分別もあるし記憶もしっかり残っていておかしくない。
「……そうだなぁ、治ってからのクリスティーネは少しだけ活発になっていたよ。それから1個しか食べていなかったパンを2個食べるようになった。……それから遠くの別荘に療養に行って、しばらくして戻ってきたらパンを1個しか食べなかったから心配してた」
「は? パン……ですか?」
私はぽかんと口を開けた。どうも思っていた答えと違う。
「そうだよ。クリスティーネは小さい頃からポヤポヤしていて忘れっぽいんだから、何を忘れていても何を知っていても、クリスティーネはクリスティーネだし。それよりも食べてるパンの数の方がよほど重要さ」
「……私、そんなに忘れっぽいですか? 小さい頃から?」
心外なことにエミリオにもよく言われるのだが、忘れっぽいことに実感はない。
「そうだね、クリスティーネが3歳くらいの時かなあ。まだエミリオは赤ちゃんだったし、クリスティーネは私やグレンと遊びたがってついて来るんだ。だけど私達は外で遊ぼうと思うとまだ小さいし女の子のクリスティーネが邪魔でね、『ついてくるな』って言っていた。今思えば我ながらひどいよね。でもクリスティーネはその場では泣き出すのに次の日にはやっぱりついてこようとして、この子はなんて忘れっぽいんだって思ったものだよ」
……なんだかそれは違う気がする。それはただめげなかっただけで忘れていたわけではないのでは……。そしてみんなが言うほどにポヤポヤしていたとは思えない。
「ポヤポヤしていたとも。母上もそうだったから顔だけでなく性格まで母上似だって思っているよ。いい言い方をすれば穏やかだとか気が大らかだとか悪くない性質だと思うよ。……ちょっとぼんやりもしているし大雑把なところもあるけどね」
……言葉にしないのに考えていたことがばれてしまった。
うう、と頰を手で押さえた。
確かにお母様似だとは思う……けど。
「クリスティーネの考えることはわかりやすいからね。ポヤポヤしているわりに変なところで思い込みが激しくて、時折突拍子もないことを言い出す。そういうところは小さい頃から何も変わらないよ君は」
「そんなこと……」
ない、と思いたいが、アンリ殿下にも同じようなことを言われたことがあったのを思い出して口を噤んだ。
……なかなか結構な言われような気もする。
「でも優しい子に育ったよ。私の自慢の妹だ。だからね、一年前の卒業パーティーで君が暴力事件を起こしたって聞いた時は何かの間違いだと思った。けれど、かなり多くの目撃者がいたと聞いて、次は貶められたのだ、と思ったんだ。婚約者であるマティアス殿下に近付きたいエレナ・ヴァリエ嬢に騙されたことでカッとなったのか、とね。しかし君は言い訳もしなければ反省のそぶりも見せなかった」
「それは……」
「今はちゃんとわかっているよ。ただ当時としてはポーズだけでも反省してくれればやりやすかったんだけど、君は衆人環視の中で啖呵を切ってくれたからね、罰を与えないわけにはいかなかった」
私は曖昧に頷いた。
ゲームのシナリオ通りに動く以上、抗ったとしても仕方がないと諦めていた頃の話だ。
自分の勘違いっぷりでどれだけ迷惑をかけてきたのか。ダメ元で打ち明けてしまうことだってできたのに。
「それで勘当をされたことはわかっています。お父様がアルノーさんをこっそりつけてくれていたのも」
「うん、最初は『勘当された場合はこういう場所に頼れる人もなく放り出されるぞ』という脅しで市民区画に連れて行かせたのだけれど、君はお得意の突拍子もないことをやらかして即座に住み込みの職を得てしまった。報告を受けた時は驚いたよ。私とグレンはすぐに迎えに行こうと言ったのだけれど、父上が止めたんだ。ここまで手際がいいのは、エレナ嬢とのことも全てクリスティーネが仕組んだ『家から出るための作戦』なのではないか、と言い出したんだ」
なるほど、私の記憶を弄ったことに負い目があるらしいお父様からすれば、私がそれに勘付いて家から出る選択肢を取るという可能性を考えていたのだろう。
「逃げ出したくなるほどマティアス殿下との婚約が嫌だったのかと考えたり、やりたいことをずっと我慢させていたのかと思って、それならば出来る限り影で支えて、クリスティーネには好きなことをやらせてもいいかと思ったんだ。クリスティーヌが住み込みをした辺りは比較的治安がよかったから、それでも一応アルノーをつけて安全だけは確保してね。それに昔からパンが好きだったし、よく炭みたいなパンもどきを作ってはエミリオに食べさせていたからパンを作る仕事がしたかったのかと納得したんだよ」
「す、炭みたいなのは1回だけです!あとはちょっと失敗したこともあったけど……」
確かにちょっと膨らまないとか、ちょっと硬いということはエレナとお菓子やパンを作っている時にはたまにあったことはあったけれども……! 成功してちゃんと美味しくできたこともあったのだ。
ちなみに今はひどい失敗をすることはほとんどない。
フィリップお兄様はクスクスと笑う。
そういえば私がお菓子を作って帰るとフィリップお兄様は家を留守にしていることが多かった。不味いものを食べさせられないようにと逃げていたのだ。
私はそれに気がついて頬を膨らませた。
「もう! そんなこと言うとチーズ入りのパン作るのやめます!」
「わーごめんって」
必死に謝るフィリップお兄様が可笑しくて、私は吹き出す。
お兄様と話していると、つまらないことで悩んでいてもしょうがないという気分にさせられる。
お父様を即座に許すということではない。許せないものは許せない。不信の感情はどうにかなるものでもない。
しかし、ただ悩んでも失った昔の記憶は取り戻せないし、やりたいこともやらなければならないこともたくさんある。悩んでいるだけの時間がもったいない。
ただそれだけだ。
それに、私がどうであれ、クリスティーネは家族に愛されているのだとわかっただけで十分だ。
「フィリップお兄様、ありがとうございます。チーズ入りのパンはちゃんと作りますよ」
私は少しスッキリした気分でフィリップお兄様と別れて部屋に戻る。
話しこんでいる間に遅い時間になっていたので、侍女を呼んで寝支度を済ませ、借りた経営学の本をベッドで寝そべりながら開いて、3ページ目に差し掛かる頃には眠りの世界に落ちていた。




