幕間 アンリ・アンゲルブルシュトの憂鬱2
お茶会に出たあの日が、僕のその後の人生を決めるターニングポイントだったんだろうと思う。
あの7歳の頃、僕は王家にのみ伝わる秘術の魔法を密かに学んでいた。たった7歳であったが、僕の魔法力は高く、多くの適正を持っていた僕は魔法に関して少々自惚れていたのだ。それがどれだけ危険なこととも知らずに。
その中で僕に適性があり、非常に便利そうな秘術を見つけた。それは人を操ることのできる秘術だった。しかしその存在は王族の中でもごく一部にしか伝わっていない。非常に危険だからだ。
人を操るという使い道が多そうな秘術だが、実際には魔法力の高い貴族には抵抗されることが多く、王族にはほぼ効かないと言っていい。
では何に使うかといえば、侍女や下男に扮した他国の間者や暗殺者の足止めから、王家に敵対する危険人物を、事故や自殺に見せかけて殺すなど多岐に渡る。
王族は命を狙われやすい。特に戦争中などは常に危険でもある。その為、王族か近しい人間の中で、この秘術に適正の高い者にのみひっそりとこの秘術を教え込み、王の側に控えておくという裏の役職があるのを僕は知っていた。
マティアスが王になった時に、僕がそういった暗部を受け持つことで、自分の居場所ができると思っていたのだ。愚かにも代償のことはあまり深く考えていなかった。
しかしその秘術の代償は恐ろしいものだった。
僕はその秘術を学んでいる間、毎晩悪夢を見た。乳母が、あの愛らしく微笑む少女が、僕の目の前で繰り返し死んでいく夢。発狂するかと思った。実際にこの秘術を何度も使ううちに発狂したり廃人になる人間が後を絶たなかったのだそうだ。
この秘術の代償は最終的に術者を発狂させ、主人に言うなりの暗殺者を作ることが目的とされていたのだ。人を操ることができるという絶大な魔法なのだ。そんな人間が野放しになるのは恐ろしいからと、手綱をつける目的での代償だったのだろう。
その恐ろしさを身をもって知った僕は、使うことを封印した。
そして、人を操る秘術には適正がなかったふりをして、違う秘術を学び始めた。
それは王族がお忍びの際によく使うという、気配を薄くする秘術だった。そこにいるのに、意識を払われなくなる秘術。いてもいなくても変わらない僕にはぴったりだった。
そして何より、便利な割には代償はかからない。歴代の王族の誰かが自分で使うように開発したものだからなのだろう。ただ気に止めにくくなるというだけで、認識されなくなるわけではないごく軽度なものだ。
それの効果により徐々に僕は、マティアスに比べて茫洋である、いるのかいないのかわからない、毒にも薬にもならないから放置でよい、という仮初めではあるが安全な位置を手に入れた。
そしてきちんと愛情を受けて育てられたことがないせいか、表情を作るのが苦手だったが、可愛げのない子供と思われないように、毎日鏡の前で笑顔の練習をして常にニコニコするようにもなった。
幼児期からの数年で、ようやく今の僕のベースができたわけだ。
あのお茶会から4,5年が経った頃だった。
僕にとっての唯一の味方が乳母のパトリシアである。彼女だけが真実僕の心配をしてくれ、安全に気を配ってくれる。彼女のおかげで僕は安心をして毒の入っていない食事を食べることができた。
他の侍女の中には、兄や他の貴族からの息がかかった者が紛れているのに気が付いていた。
当然、パトリシアとの会話にも聞き耳を立てられているはずだ。だからパトリシアとの会話にも気を緩めることはできなかった。……もしかしたらパトリシアでさえも……。しかしパトリシアは僕に愛情を注いでくれていたことは間違いなかったし、パトリシアに頼らなくては僕は生きていけないほどに無力だった。
しかし会話は筒抜けかもしれないが、むしろ僕が王位を狙っていないということは積極的に伝えたい事柄なので好都合だ。
ある時、パトリシアが僕にお茶を淹れてくれながら、会話を振ってくれたことがあった。婚約についての話だった。
「アンリ様、そろそろアンリ様も婚約をお考えになる頃合いですわね。好みの女性のタイプはおありですか?」
「そういうのはマティアスの方が先でしょう。僕はそのうち臣籍降下すると思うし、その後でもいいんじゃない?」
「まあまあ、それでは遅すぎですよ。それにマティアス様の方もお話が進んでいるそうですよ。まだすぐ婚約というわけではございませんし、探すだけなら早い方がよろしゅうございますからね」
「そうだなぁ……」
ぼんやりと頭に浮かんだのは、あの銀糸の髪に紫水晶の瞳の少女だった。
「銀の髪に紫の目の子がいい」
思わず口に出てしまった言葉に乳母は笑う。
「あら、ベルトワーズ公爵夫人かしら。あのお方はお子様が4人もいらっしゃるのに、美貌に全く陰りがないのですわよ。羨ましい気持ちもなくなるほどのお美しさですけれど、残念ながらお年が離れすぎてますわね。それに既婚でいらっしゃいますし」
「そ……そっちではなくて……。ベルトワーズ公爵家には娘がいたと思う。……僕と同い年の」
クリスティーネがいいだなんて恥ずかしくて言えやしなかった。
「ねえ、ベルトワーズ公爵家に婿に入るのはどうかな」
今にして思えばただの子供の思いつきだけど、当時は妙案である気がした。
将来的には臣籍降下して王族じゃなくなるにしても、僕が公爵位をもらうということは王家の直轄地を大きく分散させることになる。
だが10年以上前に隣国と小競り合いをしていた時の負債がまだ国庫に響いていて、あまり余裕がないのも知っていた。先王である父上の遊興費も随分かかったそうだし。
その点、他の貴族の婿に行くなら、恥ずかしくない程度に持参金代わりとしての分があればいいだろう。既に譲られている土地や財産なんかもほぼ使わずにそのままあるのだし。多少は国庫への負担も減らせるはずだ。
だが僕の言葉にパトリシアは顔を曇らせた。
「……クリスティーネ・ベルトワーズ様は、すでにマティアス様との婚約のお話が進んでいらっしゃいます……。どうか、お諦めください」
そんな言葉で僕の楽観的な夢想は打ち砕かれた。僕と釣り合いが取れる同い年の公爵家の令嬢なんて、マティアスにとってもいい物件であるなんて当然のことだった。
「そう……。ベルトワーズ公爵家なら、もう跡継ぎもいたはずだし、気楽に婿に行けて丁度いいと思ったんだけど、残念だなぁ」と本気で残念がっているようには聞こえないように努めて明るく言った。
「それじゃあやっぱりまだ僕には婚約はいいよ。王立魔法学園を卒業したら、兄上に頼んで公爵にしてもらうんだ! きっとその頃には景気もよくなってるでしょう。僕は寒いのは好きじゃないから、南の方の領地が欲しいんだけど、いいところないかなぁ」
何もわかっていない楽観的な子供のふりをして、無邪気にこの話を終わらせた。
僕は、本当に欲しいものだけは、手に入れられないようになっている。
例えば両親からの愛。
本音を語りあえる友人だとか、僕が僕らしくいられる居場所。そういうもの。
――そして初恋の少女。
今にも割れそうな薄氷の上をそっと忍び足で歩き続けるような毎日。
そんな日々が何年にも及び、僕の笑顔の仮面はどんどんと分厚くなっていった頃、ようやく王立魔法学園に入学する年になったのだ。
そしてその数年の間には兄上と正妃の間にもう一人子供が生まれ、跡継ぎになれる男子が二人になったことと、マティアスとクリスティーネが婚約し、ベルトワーズ公爵家に繋がりが出来たことでマティアスの王位継承が盤石になり、僕への監視もぐっと減った。
更に学園の近くの別邸に移り住んだ時に、適度に侍女の入れ替えをした。これでようやく理想的な気楽なポジションを得ることができた。あとは無事に学園を卒業さえできれば、自分の意思で王族ではなくなることができる。
……けれど僕と同じクラスには、マティアスと婚約をした彼女がいる。
銀糸の髪と神秘的な紫水晶の瞳を持つ、あの人形のように美しい少女、クリスティーネ・ベルトワーズが。
――彼女があの愛らしい微笑みをマティアスに向けるのを、僕は毎日見なければならないのだ。
決して笑顔を崩してはならない。
胸に燻る思いを決して出さないように、分厚い笑顔の仮面を、僕はしっかりと被り直した。




