35 手遅れ悪役令嬢、念願の帰宅をする2
アンリ殿下はお父様が帰って来るまで滞在し、正式に婚約を交わしたという証明の書類を交わした。これの写しを王城に提出するらしい。
これで私は本当に正真正銘のアンリ殿下の婚約者である。
家族みんなから祝福され、なんとも面映ゆい気持ちでいっぱいになった。緩みそうな口を必死で引き締める。
「うーん、一度くらいは娘はやらん! ってのをやってみたかったな。今からでも駄目かね」
「あらまあフィドルさまってば……」
そうお父様はお茶目にウィンクをしながら言い、ニコニコと嬉しそうに微笑むお母様に腕を抓られていた。……さりげなくお父様ってお母様に尻に敷かれていると思う。でも腕を抓られても嬉しそうなお父様はちょっと引きます……。夫婦仲がいいのはいいことですが!
……そしてフィリップお兄様は何故か泣いていた。白いハンカチをビショビショに濡らしている。
グレンお兄様がそんなフィリップお兄様を自室に押し込んで来てくれた。さすがにアンリ殿下に見苦しい兄を見せるのは躊躇う……が私もアンリ殿下の前でベチャベチャになるまで泣いたこともあったことは忘れたい……。
「おそらくクリスティーネが結婚する情景を思い浮かべただけだと思いますので、放っといて大丈夫です。婚約おめでとう。……よかったですね、クリスティーネ」
戻ってきたグレンお兄様からそう祝いの言葉をもらう。
「ありがとうございます。グレンお兄様」
私は微笑んだ。
家族に認めてもらえることは本当にうれしい。一時はもう会えないかもしれないと思っていた。
「おめでとう姉上。でももう出戻ってこないでよね」
エミリオはそう素直ではない言い方で祝ってくれた。しかし自分のせいではないとはいえ、マティアス殿下との婚約破棄の前科があるので、私には何も言えないのだった……。もう婚約破棄する気なんてこれっぽっちもないけれど!
そしてようやく二人きりになった、というかお母様が「ここは若い人達だけにしましょうね」と応接間からお父様達を連れ出してくれたのだ。……お見合いか!
しかし二人きりになったのはなんだか久しぶりな気がして恥ずかしい。
「あの、なんだか私の家族のお見苦しい所を見せてしまってすみません……」
「そんなことないよ。僕達のことを祝ってくれるのは純粋にうれしいし、君が祝われて喜んでいるのを見るのも楽しかった。それに、君と結婚したらあの優しい人達が僕にとっても家族になるのは素敵なことだと思う」
そうか……。結婚というのはふたりだけのことではない。前世の世界よりも婚姻による繋がりが強まるこちらの世界では、私の家族は将来的にはアンリ殿下の家族にもなるということだ。
「……僕の父母とは完全に没交渉だからね。パトリシアだけが僕の家族のような存在で、ずっとそれでいいって思ってたけれど、家族が増えるって不思議で……なんだかうれしいことだね」
ふわり、とアンリ殿下が微笑む。どこか遠くを眩しそうに見ているような眼差しで。
アンリ殿下の寂しさに触れた気がした。すごく胸が切なくなってたまらなくなる。私は手をぎゅっと握りしめた。
「あの、アンリ殿下のこと……絶対に幸せにしますから!」
「……それは僕の台詞だよ、クリス」
思わず意気込んで言ってしまった台詞を、アンリ殿下に笑われる。でもその微笑みはなんだかすごく満足そうだった。この2週間ほどでアンリ殿下は表情豊かになった気がする。私がアンリ殿下の表情を読むのに長けてきただけかもしれないけれど、それはそれでとてもうれしい。
「クリス、これを」
アンリ殿下がどこからか取り出した小箱を私に渡してくる。手のひらに収まるほどのビロードの小箱……これってもしかして。
受け取ったその小箱を開けると、そこには指輪が入っていた。
銀色の指輪の全周にダイヤモンドがグルリと入っているエタニティリング。そしてその中央の石だけ紫と黄色。それは私とアンリ殿下を象徴する色だった。
「これ……!」
「婚約指輪、と言いたいところだけど、正式なのを用意するのが間に合わなかったんだ。中央の石だけ付け替えてもらったんだけど、どうかな?」
「……とても素敵です。普段使いもしやすそうでいいですね」
「よかった」
アンリ殿下は私の左手を取り、薬指にはめてくれる。サイズはぴったりだ。以前ドレスの採寸をした際に指輪のサイズも採寸されていたようだ。かざしてみると、ダイヤモンドがキラリと光る。
こちらの世界でも婚約指輪や結婚指輪なんかの決まりごとは前世と変わらない。しかし王族が用意する正式な婚約指輪は前世で言うところの給料三ヶ月分なんてものではない。親指の爪より大きいダイヤモンドや王族に代々伝わる希少宝石を組み合わせたような非常にゴツい、ある意味武器にもなりそうな指輪だったりする。王妃になったら当然家事なんかしないだろうから、そんな指輪でも邪魔にはならないのだろうけれど。マティアス殿下と婚約していた時も、卒業したらそういうのを贈られる予定だったのだ。
しかしその手の指輪は前世の感覚が残っているせいでどうにも普段使いしにくい。式典とかの見せなければいけないタイミングなら我慢するんだけど。だからこういう普段から付けられる指輪があるというのはとてもうれしい。
「普段から付けておいて欲しい。クリスが僕のものって印に」
「ふぁっ……!」
思わず顔がボッと熱くなる。
アンリ殿下に僕のものって……いやいやいつも照れて絶句してるだけではよろしくない! 私だって少しくらいは成長しなければ! この綺麗な顔だって多少は見慣れてきたんだから!
「そ、そうですね、私はアンリ殿下の婚約者ですから! だ、大好きな婚約者に頂いた指輪は毎日付けますね!!」
よし、途中若干どもったものの、言い切れた!内心ドッキドキだけど!
「クリス」
アンリ殿下は私を抱きしめる。
うぐ……やっぱりこの顔に慣れるのは無理! 心臓が!
「殿下、はやめてくれないかな? せめてふたりの時くらいは。婚約者なんだから」
殿下を付けないで呼ぶなんて、確かにしたことがない。
「えっと……アンリ様、ですか?」
結婚したら、毎日アンリ様って呼ぶのよね? お母様もお父様のことフィドル様って呼んでいるし。
緊張するけど……練習ってことで。
「様もなしで」
「えっ! そ、それはダメです!」
呼び捨てなんてとんでもない!
私は抱きしめられたまま、上半身をのけぞらせて両手をパタパタと動かした。
「何故? エレナ嬢はマティアスのことを呼び捨てにしていたよ?」
「それはお互いの合意があれば……あっ!」
「うん。だから僕のことも呼び捨てで呼んでみて?ね、クリス」
「うう……」
私は一度目をぎゅっと瞑った。
「わかりました……あ……あ、アンリ……これでいいですか!」
顔がカーッと熱くなるのを止めることができない。
「……僕のクリス、可愛いよ。ねえ、君も『私のアンリ』って呼んで欲しいな」
「ひゃ……わた!?」
私は首をぶんぶんと振った。むーりーでーすー!
「だって、君は僕のものだけど、僕も君のものでもあるんだよ? ね、僕のクリス……ほら言ってみて?」
「わた……私のあん……あっ……アンリ殿下! 無理ですー!」
私はギブアップした。
恥ずかしすぎて涙がにじむ。
「ごめんね、ちょっとからかいすぎたかな」
アンリ殿下はちょっと笑いを含んだ声で、頭をポンポンと撫でてくれたけど、恥ずかしすぎて顔を上げることはできなかった。
「じゃあ練習しておいてね」
「えっ!?」
そんなやりとりをしていたらドアがノックされた。
私はこれ幸いとアンリ殿下から離れてドアを開けた。……だってなんだかちょっと意地悪なんだもの。そりゃドキドキしたけど!
ドアをノックしたのはフィリップお兄様だった。
「クリスティーネ、晩餐の支度が整ったからダイニングホールにアンリ殿下を連れてきてくれるかい?」
「わかりました」
「……クリスティーネ? なんだか顔が赤いような気がするけど……まさか何かされたのかな……?」
「い、いえなんでもないです! ちょっと暑いかなって」
私は慌てて否定する。
フィリップお兄様は決して悪い人ではないのだけれど、少し心配性すぎるところがあるのだ。グレンお兄様がいれば適度なところでストップかけてくれるのだけれど。
「……嫁入り前なんだから、変なことをされたら急所を蹴って逃げるんだよ? もし婚約が嫌になったらいつでも言いなさい。我慢してはダメだからね! 家の為に嫁ぐなんて考えず、一生家にいたっていいんだよ? クリスティーネはいつも黙って我慢してしまうから」
「大丈夫ですから!」
私はフィリップお兄様を押し返す。
しかし私の左手薬指を胡乱げな視線で見ていた。
気が付かれた! 目ざとい!
「……その指輪……ふぅん」
じっとりとした視線はお父様とそっくりで拗ねている時の合図である。非常に面倒くさい。
あーグレンお兄様助けて……フィリップお兄様を連れて行って! 私は必死に心の中で二番目の兄を呼んだ。……が、助けは来なかった。
「その指輪は僕がプレゼントしたものですが、どうかしましたか?」
ニコニコ、と余所行き用笑顔のアンリ殿下と、何故同じく笑顔になったフィリップお兄様。
「いいえ、とても可愛らしい指輪ですね。クリスティーネ、よかったね。大切になさい」
だがその笑顔はどういうわけか非常に寒々しく感じる。
「あっアンリ殿下、ご案内いたしますね」
私は慌ててフィリップお兄様を押し出して、アンリ殿下をダイニングホールに案内するのだった。
婚約の宴でもある晩餐が終わるとアンリ殿下は帰っていった。
しばらくは王妃やカステレード公爵家関連の後処理があるから忙しくなってしまうらしい。私もまだ逆恨みした残党なんかに狙われる可能性があるらしく、外出はしないようにと言われているのでしばらくは会うこともできない。
本当ならば下町に行ってブレブレやマルゴさんの店に顔を出したりもしたかったが、それももうしばらくは無理なようだ。せめてアルノーさん経由でも無事であることを伝えてもらおう。
アンリ殿下を玄関先まで見送った後、グレンお兄様が私をちょいちょいと呼ぶのが見えた。
「なんでしょう?」
「兄上が落ち込んでいたので……ああその指輪が原因ですね」
私の左手を見ていう。そこにはアンリ殿下からもらった指輪があった。
「……あ、これはアンリ殿下からいただいて」
私は左手薬指の指輪を右手で握り込んだ。
「ああ、違います。責めてはいませんよ。いいものを貰いましたね」
グレンお兄様は私の頭を小さな子供にするように撫でた。こんな風にされるのは慣れっこであるが、グレンお兄様は私と2つくらいしか年齢が変わらないのだ。むしろ精神年齢なら前世の分だけ私の方が上でもおかしくないのだけれど、自分では全然そんな気がしない。
「兄上のことは放っておいても大丈夫です。クリスティーネがもうすぐお嫁に行ってしまう実感が湧いたんでしょうね」
「もうすぐとは言っても、ずっと先の話ですよ」
なにせ婚約したばかりな上に、王城は今大変な時だ。落ち着いてからでないと結婚の準備もままならない。私でさえまだ結婚の実感からは程遠い。落ち着くまでに何年かかかるかもしれない。
「1年や2年なんてすぐですよ。兄上は兄弟皆を愛していますが、中でもことさら貴方を可愛がっていました。それはね、貴方が女の子で、いつかお嫁に行くからです」
「結婚してもたまには帰ってくるつもりです。……マティアス殿下と結婚して王妃になるならそれも中々難しかったかなと思いますけど、アンリ殿下ですし」
「そういうこととは少し違います。お嫁に行くということは、自分の力だけではどうにもならないことが多々あります。自分の努力次第で未来を切り開ける男と違い、女性は夫の意思で、子が成長すれば子の意思で進退が決まります。母上は父上と結婚をして幸せのようでしたが、愛する人と結婚しても不幸になる人もたくさんいますからね。だから貴方のこともずっと心配していました」
「そうですね……」
例えばパトリシア。旦那さんが戦死をして、きっと苦労をしただろう。彼女は今はアンリ殿下に仕えて不幸ではないにしろ、幼いアンリ殿下を守るのも大変だっただろう。
例えば、王妃様。愛する陛下と結ばれて立派な息子を授かったのに、企みを捨てきれなかったせいで残りの生涯は幽閉されて生きるのだ。それは自業自得だけれど、カステレード公爵家の女性だって公爵の連座で処分を受ける女性がたくさんいるのだろう。
「ですが、アンリ殿下は聡明な方ですし、クリスティーネのことを考えて大切にしてくれるようです。兄上もそれをちゃんと分かっています。だから、貴方が本当に結婚してしまうのが分かって寂しいのですよ」
「寂しい、ですか……」
そればっかりは私にはどうにかできることでもない。
「そう。ただ寂しいだけなのですよ。だから、たまには兄上にパンを焼いてあげてください。チーズ入りのパンが好きなようですよ」
「わかりました」
私はクスッと笑った。やはりアルノーさんが毎日買ってくれていたパンは家族みんなが食べていてくれたのがわかったから。
「グレンお兄様は、どれが好きでした?」
「そうですね、バゲットが美味しかったです。歯応えがザクザクとして香ばしいところが特に」
「わかりました。近いうちにチーズ入りのパンとバゲットを作りますね」
そういう私に、またグレンお兄様は少し微笑んで頭を撫でてくれるのだった。
それで話は終わりかと思われたが、グレンお兄様はお父様が書斎で待っていると言付けを伝えてくれたのだった。