4 手遅れ悪役令嬢、求婚される
「はっ……?」
思わず口から漏れたのはそんな間抜けな言葉だった。先ほどまでの淑女たらんと作っていた顔は完全に崩れ、ぽかんと口を開いたひどい間抜け顔になってしまっていることだろう。
衛士もギョッとした顔でアンリ殿下を見ている。そりゃあ驚きますよね。罪人の女を王族が突然口説きはじめたんだもの。
「ああ、うん。クリスティーネ、僕と婚約……」
「き……聞こえています……!! ちゃんと聞こえていますから!」
私は慌てて遮った。顔だけはものすごく好みなのだ。突然こんなことを言われて脳がフリーズしてしまうし、更に2回も言われては心臓に悪い。
驚いた心臓はまだバクンバクンと言っている。顔は赤くなっていないだろうか。汗は少し出ているかもしれない。アンリ殿下の口を物理的に塞いでしまいたかったが、さすがにそれはまずい。また取り押さえられてしまう。
「そう、聞こえなくて聞き返されたのかと思ってね」
「な……なんなのですか急に!」
「僕は君のことが好きみたいなんだ。口約束で構わない。この婚約を受けてくれたら君に悪いようにはしないよ」
好きみたい、だなんて全くそんなそぶりのない顔で言われても……。私は一周回ってだんだん落ち着いてきた。
こちらが間抜けな顔を晒したというのに、アンリ殿下は憎たらしいほどに表情に変化がない。ただ目だけは私をしっかり観察しているのがわかった。
王族の言葉を真に受けてはいけない。これを言ったのは公爵家の立派な当主であるお父様だ。きっと、こう言うことなのだろう。
そして私はようやくフリーズしていた脳が動いてくれたようで、言われた意味を理解することができた。
「ああ……取引というやつですか」
自分でも驚くほど固い声が出た。
アンリ殿下の立場なら、何を望むのか、それを考えなければならない。
私がエレナにしたことは、心としては許されざる行為だが、騒ぎにはなったとは言え大きい事件性があることではない。はっきり言って、ただの女性貴族同士のキャットファイトはありふれている。そしてエレナが怪我を負っていないのなら傷害罪にもならずに処理される程度のことだ。エレナ本人は、おそらく謝罪すれば心よく許してくれるだろうことは簡単に想像がつく。エレナはそういう娘なのだ。明るく優しくまっすぐで、輝いていたヒロイン。
もしも私が「エレナをびっくりさせようと押しただけ。非常に反省している」とでも涙ながらに語れば通常ならばそれで解決するだろう。ましてや覆されないほどの身分差がある。そういうことにして周囲は収めるだろう。貴族社会とはそういうものである。
王族が関わったことで大事になった今回の事件であるが、逆に言えば王族の醜聞、マティアス殿下の心変わりが原因とも言えるため、口外しにくいだろう。
せいぜい学園を騒がせた結果として、停学か、重くて退学、といった程度だろうか。醜聞は残るが揉み消す、もしくは時が経って他の貴族が見てみぬふりをするようになるか、その程度のものだ。普通の貴族ならば、そうする。
けれど、ベルトワーズ家の事情は少々異なる。
ベルトワーズ家は大貴族でありながら、むしろ大貴族だからなのだろうか、家の名をかかげて不正を働くことを父も母も最も嫌う。自分に厳しく真面目で潔癖、そして民には優しくと本当に立派な人達だ。まさにノブレス・オブリージュというにふさわしい彼らが、自らの娘がよその令嬢にしたことを良しとはしないだろう。絶対に責任を取らされるはずだ。
エンディングにあったように、公爵家からの勘当、そして放逐となるのは間違いない。そして、蝶よ花よと育てられた公爵令嬢が放逐されては、そう簡単に生きていけるはずがない。
だが、そこに一つだけそれを回避できる道がある。それがアンリ殿下との婚約だ。
もしも私がアンリ殿下と婚約、もしくはその約束をしたのならば、アンリ殿下の手前、ベルトワーズ家は私を勘当をすることができなくなってしまう。それは王族の意思をないがしろにするような所業になってしまうからだ。
おそらくは結婚準備と称してほとぼりが冷めるまでどこか地方の別荘地送り、あたりになるだろう。
私の方のメリットは貴族という身分が剥奪されずに済む。生活の労苦もないだろう。なんせこの体は労働とは全くの無縁だったのだから。肉体もプライドも守られる。王族からの婚約破棄をされた醜聞も、同じ王族のアンリ殿下に嫁げばプラマイゼロになるだろう。将来的には元々マティアス殿下と私が婚約していた事実さえ有耶無耶になり、アンリ殿下と婚約、そして結婚したという事実だけが残っていくことだろう。
さて一方アンリ殿下へのメリットは……これが実はかなり大きい。
問題児な娘を引き取ってもらえたなら、父ならきっと感謝をしてアンリ殿下の、ひいては彼の派閥の支援をするだろう。
勿論、今は私がエレナとのいざこざを起こした負い目があるから、当面はマティアス派のふりのままだろうけど、そもそもの事件の理由はマティアス殿下が婚約者の公爵家の娘のクリスティーネを捨てて男爵令嬢を選んだことが発端である。私は両親からこれ以上なく愛されていたことをよく理解している。ベルトワーズ公爵の愛娘を蔑ろにしたことになるわけだ。私がもしもアンリ殿下と結婚したなら、ベルトワーズ公爵家はゆっくりと、けれど確実にマティアス派からアンリ派へと変わっていく。
そして大貴族であるベルトワーズ公爵家が、王弟のアンリ派になるということは影響がとても大きい。王弟であるアンリ殿下は王位継承権の上位だ。現在、直系の男子は王位継承権1位のマティアス殿下、本来第2位に当たる第二王子はマティアスの同母の弟で、まだよちよち歩きの幼児だと聞いたことがある。つまりまだまだ影響力が乏しい。そして第3位がこのアンリ殿下だったはず。
つまりマティアス殿下さえどうにか失脚させてしまえば後はどうにでもできてしまうのだ。マティアス殿下の新しい婚約者になるであろうエレナには後ろ盾がないのだから。
ベルトワーズ公爵家だけではない。動向を見守ってる貴族たちもアンリ派が有利になればそっちにつく人が増えるはずだ。貴族界の勢力図が塗り換わるだろう。
つまり、アンリ殿下の婚約しよう、とは、アンリ派とベルトワーズ家がタッグを組んでマティアス殿下を失脚させましょう、という誘いに他ならないわけだ。
けれど……。
「お断りいたします。いえ、聞かなかったことにしておきます」
私はきっぱりとお断りをした。
私の言葉にアンリ殿下はパチパチと目を瞬く。表情はほとんど変わらないけど、私の意見に驚いたらしい。
「どうして?悪い話ではないと思うけど」
「わたくしのことを見くびっておいでですか。確かにわたくしはあんなことをしでかしてしまいましたが、それでもまだ……エレナを友と思っております。もう二度と会うことは許されないでしょうが……それでもエレナとマティアス殿下には幸せになってほしいのです」
「マティアスを恨んではいないと? エレナは貴方の友人だから複雑かもしれないけど、マティアスは貴方を裏切ったのに? 」
別に元々マティアス殿下に恋愛感情はなかったのだけど。自分の立場……というより家のメンツの問題がなければマティアス殿下とエレナのことはむしろ応援したいくらいだった。だから恨みなどない。
王族との結婚に個人的なメリットもない。王族の一員であるアンリ殿下に面と向かって言うのは憚られるが、元々ベルトワーズ公爵家はもう十分すぎるほどの権力を持つ大貴族であり、王族との婚姻で得られるものは名誉だけ。むしろ私個人には不自由なことの方が多い。はっきり言ってしまえば面倒くさい。
もう面倒くさいのはこりごりだし、何よりもマティアス殿下が失脚したらエレナが不幸になってしまうではないか。マティアス殿下にも恋愛感情はないとはいえ、長い付き合いで幼馴染のようなもの。それなりには情もある。将来的にはいい王になり、民衆を率いていける器であるとも思う。だから私の一存で貴族界を騒がせ、マティアス殿下が失脚する可能性は避けたい。
「わたくしはマティアス殿下のためを思って婚約を承諾いたしましたし、わたくしがマティアス殿下の幸せの邪魔になるというなら引くだけのことです」
「クリスティーネ嬢……貴方は……マティアスを……」
アンリ殿下が何か言いかけたところで扉がノックされる。別の衛士が慌てて入ってくる。
「大変申し訳ありません、アンリ殿下……!これ以上抑えておくのは無理です……!どうかお戻りを」
「もう……か。わかった」
アンリ殿下は私に向かって軽く挨拶をして扉に向かう。
「先ほどのこと、考えておいてください。あれは冗談ではありません」
彼は一度だけ振り返ると最後にそう言って出て行った。いつものニコニコした表情に戻って。でもその笑顔は決して楽しいからでもうれしいからでもないのだ。あれが彼の処世術なのだとわかった。
だってそれはクリスティーネの貴族風の強がりと同じなんだもの。
「アンリ殿下、貴方は笑ってない方が素敵ですよ」
私は衛士達に聞こえないように小さく囁いた。ちょっとした意趣返しのつもりで。本当に小声だったから本人にも聞き取れなかったかもしれない。
アンリ殿下は二度は振り返ることはなく部屋から出て行った。