27 手遅れ悪役令嬢、真実を暴く
「お、お待ちください……坊っちゃま……いえ、アンリ様!」
アンリ殿下の後を追いかけて、よろよろと走って来たのはパトリシアだった。
パトリシアはアンリ殿下の階段を駆け上がるスピードについて来られなかったのだろう。ひどく息が切れている。
ようやく追いついたものの扉にすがりつき、荒い息を吐いていた。
「なぜ……何故なのです」
ぜいはあと息をつく合間に、パトリシアは私を睨んでいるような、泣いているような目で見てくる。
私はアンリ殿下の腕の中からそっと抜け出し、パトリシアの方に向き直った。
「パトリシア、貴方は長らくアンリ殿下のことを守ってくれました。……ありがとうございます。ですが、もう大丈夫です。王妃様に、アンリ殿下の行動を全て報告しなくて、もう……いいんですよ」
パトリシアは驚きに目を見張ると、くにゃり、と足の力が抜けてその場にへたり込んだ。
……それは全てを肯定したも同然であった。
私からアンリ殿下の顔は見えない位置だったが、悲しい顔をしているのだと思う。いや、きっとアンリ殿下だって、そのことに気がついていただろう。
「王妃様にとって自分の息子達を脅かす位置にいるアンリ殿下は邪魔な存在でした。パトリシアはそんなアンリ殿下が毒殺されないようにと、自らアンリ殿下の会話や行動の全てを報告する間者の役割を担い、王妃様達への反意がないという意思を示していたのでしょう?」
「何故……それを知って……」
パトリシアは青い顔でへたり込んだまま私を見上げる。
彼女は王妃に脅され、アンリ殿下を裏切るような報告をさせられていた。そしてまたアンリ殿下も元乳母のパトリシアのことを大切に思っていたから、それを知りつつも見ないふりで放置するしかなかった。そうしてお互いが人質の役割となり王妃の言うなりだった。そういうことなのだろう。
きっとヨシュアもそうだったのだろう。人質を取られているか脅されているのかはわからないけれど……。
「そしておそらく王妃様から、私とアンリ殿下が共謀しないよう、出来るだけ一緒にいられないように引き離せという命令があった……」
「……そうだね、確かに僕は兄上の政務の肩代わりをしたり、警戒令が出て王城に留められたりしていたけれど、少し不自然なほどだったよね? いつもならあまりに忙しくしすぎる僕を、縛り付けてでも休憩させようとするパトリシアがさ……」
「あ……アンリ様……」
私をアンリ殿下の婚約者として丁重に扱いながらも、パトリシアは私の動向を見張っていた。そしてアンリ殿下と話す機会は奪われていた。
本来、パトリシアほど優秀で、そして気遣いのできる侍女であれば、アンリ殿下や私の意図をもっと汲んで、婚約者同士なのだからと短時間でも話せるようにしてくれたはずだ。
そして元乳母で、食事や衣服を王城まで持ってこさせるほどに信用しているはずのパトリシアに、アンリ殿下は私の事情を話していなかったこと。
私はそれらのことから、パトリシアには真実を話すことができない事情があると察したのだった。
パトリシアは顔を手で覆い、聞きたくないと嫌々をするように無言で首を振っていた。きっとパトリシアはずっと苦しんでいたのだろう。でも、ひとりでアンリ殿下を守るためには王妃に従うしかなかった。
それをアンリ殿下に知られてしまったことが辛くてたまらないのだ。
暴いてしまった私も辛い。彼女にこんな思いをさせたいわけではなかった。
……でもアンリ殿下にいち早く真実を伝えるのが、どうしても必要だったのだ。
「だから、私はアンリ殿下にどうしても伝えたいことを、手紙にしたんです。その手紙はパトリシアがアンリ殿下に渡してくれたんですよ」
「嘘です! そんなこと……書いてなかった! どこにも!」
「ええ、普通に手紙を書いたのでは、パトリシアに読まれてしまうと思ったので、パンの生地の中に手紙を入れて焼いたんです」
私がアンリ殿下への手紙を託したとしてもパトリシアが手紙の内容をチェックし、王妃に報告するであろうことはわかっていた。
なので、わざと読まれてもいい手紙を添えた上で、陛下の病が呪いであり、それを解く方法は聖魔法に適性を持つエレナに文献を読ませ穢れ払いの秘術を使わせることだと書いた別の手紙をメロンパンの中に入れたのだ。
……安全な食事であればアンリ殿下の元へと必ず届けてくれる。パンを調べられたら簡単に失敗になる案だったけれど、前回パンを焼いた時は普通に届けてくれたようだったからこれに賭けるしかなかった。
「ああ、添えてある手紙には僕への労いの言葉と、『メロンパンのクリームは良い出来でした』と、それから『ちょっと失敗した箇所があるから、まじまじと見ないでくださいね』と書いてあった。だけどね、僕が前に食べたメロンパンにはクリームは入っていなかったんだよ、パトリシア」
「そうです。メロンパンを作れるのはこの世界に多分私だけですし、そのメロンパンのクリームの有無を知っているのも、アンリ殿下を含む、私が試作で作ったメロンパンを食べたほんの数人だけなんです」
「それを読んで、僕はこの中に秘密のメッセージが入れられているのだと悟った。そしてそれは誰にも、……パトリシアにも見せるな、という意味だってね」
「はい……アンリ殿下でしたら、きっと気がついてくれると思っていました」
私は微笑む。
きっと王妃にも、陛下の病を治したい気持ちもあるだろうけれど、アンリ殿下が言い出したことを信じるとは思えなかった。むしろ疑われて絶対に近付けなくなる可能性すらあった。だから秘密裏に進めるしかなかったのだ。
「そして僕はマティアスに連絡を取ってエレナに文献を読ませ、秘術を使わせるように頼んだ。結果、それは成功し、兄上の病は消えた」
パトリシアは項垂れたまま動かない。いつもすっと伸びていた背筋が丸まって、弱々しく小さく見える。
「パトリシア……」
アンリ殿下はパトリシアの傍に寄ると膝をついた。
「僕が子供の頃から、ずっと、守ってくれてありがとう。パトリシアがいなかったら、僕は王妃に飲まされた毒でとっくに死んでいたと思う」
「わ、わたくし、は……」
パトリシアが顔を上げる。頼りなげな迷子の子供のような目をしている。
「わたくしは、アンリ様のことを守るためとはいえ、今まで王妃様にアンリ様を売ってきたも同然でございます……。合わせる顔もございません……。わたくしのことなど、どうか、切り捨ててくださいませ……どうか……」
「パトリシア、それでも僕は……貴方を、本当の母のように思っています。生みの母は僕を抱いてすらくれなかった。けれど貴方が、僕に安全な住みかと母の愛情を注いでくれました。だから僕はここまで大きくなれたんです。ありがとう、母上……」
アンリ殿下の優しさの滲む声だった。
「これからはその恩を返す時だ。ねえ、安全な場所を用意しているんです。母上は20年近く働き通しだったでしょう? 少しだけ、休憩しませんか? 今度は絶対に僕が守りますから」
パトリシアの顔がくしゃくしゃに歪み、ボロボロと涙を零した。
その背中をアンリ殿下が優しく撫でている。
……私はそれを見て、ああこの人を好きになって本当によかったと思ったのだった。
それから、パトリシアはアンリ殿下に付き添われて自室に戻った。
パトリシアを匿ってくれる場所に送る前に、一旦荷物を纏めるという。
パトリシアは普段の毅然とした態度からは信じられないほどに弱々しく憔悴し、一気に10も20も老け込んだようだった。
私はアンリ殿下が戻るのをそのまま応接間で待ちながら、オルガからパトリシアの話を聞いていた。本人以外から過去を聞くのもよくないだろうが、私が暴いた以上、彼女のことを知っておくべき責任があると思ったのだ。
やはりアンリ殿下はパトリシアと王妃が通じていることは知っていたのだという。オルガやアンヌはアンリ殿下に雇われてパトリシアの見張りも兼ねていたのだという。侍女兼護衛兼諜報という役どころだ。実に忙しい。けれど、そのおかげで私がパトリシアを出し抜こうとした時に、快く手伝ってもらえたのだ。
そして、いずれ落ち着いた時には、パトリシアを引退させて彼女がのんびりと幸せに暮らせる場所をずっと用意していたのだという。なんというか、アンリ殿下には敵わない。私なんかよりもずっと先のことを見ている。
やっぱり私に出来ることなんか、パンを焼くだけだったのだから。
パトリシアは兄弟の多い子爵家の生まれだったそうで、嫁いだ相手も同ランクのごく普通の貴族だった。
しかしパトリシアの妊娠中にベクレイアとの戦争が始まった。
嫁ぎ先はベクレイアとの国境の近くだった。領地や民、そして妊娠中のパトリシアを守るためにと真っ先に旦那さんが兵を挙げたのだが、……ベクレイアからの襲撃を受け、悲しいことに亡くなられたのだという。
……警戒令が出たときの慌てようはただの演技ではなかったのだ。本当にベクレイアとの戦争が始まると思い、過去を思い出して戦々恐々としたのだろう。
そしてパトリシアの悲劇は続き、産まれた子供は産声をあげなかった。
魔法はあるものの回復魔法などという便利なものはごく僅かしか使い手がいない。そのくせ医療は発達しているとは言えないこの世界。多産多死がごく身近なのだ。
夫も子供も失ったパトリシアは嫁ぎ先にいることはできず、かと言って実家はもう兄夫婦が継いでおり帰る場所もな……、ちょうどその頃アンリ殿下が生まれたことで乳母として雇われたのだそうだ。
そしてパトリシアはアンリ殿下を自らの子供のように大切に育てた。
アンリ殿下が生母に愛されない分を補って愛し、安全に生きられるように常に気を使い、毒の混じらない食事や毒液の付着していない衣服を与えてきた。
そして王妃と取引をして、情報を渡す代わりにアンリ殿下の身の安全を守ったのだ。
まさにパトリシアがアンリ殿下の母だった。
苦しい日々だっただろうに、彼女は長年ひとりで戦い続けてきたのだ。
凛と背筋を伸ばして立っていたパトリシアの姿を思う。彼女はすごく強い女性だった。……私は尊敬する。




