16 手遅れ悪役令嬢、ようやく自覚する
出来ることをしよう、と決意したものの、私に出来そうなことなど何も思いつかないのだった。
貴族として生きていた私は社交マナーだとかダンスだとか、その類には自信がある。けれどそれが今、何の役に立つだろうか。下町で暮らしてる時に身についたのはパンを作る技術だけ。前世の記憶が一番頼りになりそうだったが、『恋情ラプソディア』は去年1年間の話であり、ゲームの時間軸から外れてしまった今現在に役立てることも難しそうだった。
せめて1年前の卒業パーティより前に思い出せていたらなぁ……。悪役令嬢フラグをバッサバッサと切り倒して……なんて。でもそうすると、下町のパン屋でおかみさん達に会うこともなければ、今こうしてアンリ殿下の別邸に来ていることもなかったんだ、と思うと案外今が最適解ではないか、なんて思ってしまうのだった。
まず出来ることを探すためには情報が必要。しかし圧倒的に足りなすぎる情報を補うには、まずアンリ殿下と話さなければならず、帰って来るまで私はひたすら待つしかないのだった。
そういうわけで、この暇な時間を使って、私はアンリ殿下についてを考えていた。
「どうしてアンリ殿下は、私にこんなに親切にしてくれるんだろう……?」
何故、危険な中、襲われた私をわざわざ助けにきてくれたのか、自分の評判を落とす可能性がありながらも婚約したことにしてまで私を守ってくれるのか、その理由を知らない。今はただの平民である私を助けるメリットがあるだろうか。
いずれ私を公爵家に戻して、よしみを結びたい? それなら命を救っただけでも十分である気もする。
もしくは私が気が付いていないだけで何か重要なことを知っているとか……? なんらかのキーキャラであるとか? 悪役令嬢である以外に何かあるだろうか。それともゲームのシナリオで私が忘れている出来事があるのだろうか。隠しキャラルートをクリアしていないとわからないとか? それならお手上げだ。
しかしいくら考えても心当たりが思いつかず、首を捻るのであった。
……そもそも、私はアンリ殿下のことをほとんど知らないのである。
勿論、基本的なことは知っている。
王弟だとか、婚約者はいないとか、そういうことだ。そして今は私が婚約者(一応)になっている。
先王と、確か伯爵家出身の側室の方との間の生まれだったと聞いた。
それから魔法力が並外れて高いらしい。実技の授業は男女で別れていたので、適正や器用さはわからないけど。
しかしパン屋に来る時には、人目を引く綺麗な顔のくせに不思議なくらい存在を埋没させていた。おかみさん達があの綺麗な顔について言及することもなかったから、おそらくそういった類の魔法を使っていたのだろうな、と今にして思う。多分王家に伝わっているような、隠密の秘術かなにかではないだろうか。器用そうだし、なんとなくだけど。
王家の秘術にどんなものがあるのか、私はあまり詳しくない。まあ一般に知られていないから秘術なのだ。私が知っているのは『恋情ラプソディア』内で使われた一部の秘術くらいだ。
長い歴史の中で編み出されたり、危険だからと一般で使うことを禁じられて、王家にだけ伝えるようになったとか色々な魔法があるらしい。文献に残っているけれど使える人がもういない、なんて秘術もあったはず。
もしかするとお父様だったら公爵家の当主だし、どういう魔法があるのか、少しくらい知っているかもしれないけど。
それから、学力は当然のこと、剣もかなり使えるのだとか。よく見えてなかったけど、私が襲われた時、襲撃者を倒したことからもかなりの実力者なのだろう。
マティアス殿下もよくアンリ殿下はひとつ年下なのに今にも追いつかれそうだって言っていた。マティアス殿下も優秀だったがアンリ殿下も相当のようだ。というか王族に求められる物が多いので大変そうだなって傍から見て思うんだよね。王族は人数が少ないからひとり当たりの負担が大きいと思う。
ああ、そういえば、マティアス殿下とはそこそこ仲がいいと、本人からも聞いたこともある。人数の少ない王族同士で同性で年が近いので、必然的に一緒にいる機会が増えるからだろう。幼い時は兄弟のように遊んだと言っていた。
幼い頃のアンリ殿下か……。さぞかしものすごい美少年だったんだろうなあ。見てみたい。ううん、もしかしたら見たことがあったかもしれない。
幼い頃から王城に行く機会は何度かあったのだし。しかし幼い頃の私は随分とぼんやりと生きていたのか、会ったという記憶は思い出せなかった。というか幼い頃の記憶はあまり残っていない。忘れっぽいのかもしれない。
弟のエミリオにもよく、「姉上はポヤポヤしているから心配」だなんて、生意気なことを言われたものだ。
今は前ほどポヤポヤしていない……と思う。
そういえばいつもアルノーさんがパンを買ってくれていたけれど、買ったパンはどうしていたのだろうか……。5人分のパン、もしもエミリオやお父様、お母様、兄達が食べてくれていたのならうれしいと思う。
おっと脱線してしまった。アンリ殿下のことに戻そう。
アンリ殿下とは1年の時から同じクラスで、当時は私がマティアス殿下と婚約をしていたこともあり、多少は会話をしたはずだったのに、そのわりには驚くほど記憶に残っていない。貴族的にお互い踏み込まず、表面的な会話だけで済ませていたのだと思う。
……でも、ここまで記憶にないだなんて、まるでアンリ殿下から避けられてでもいたみたい。
胸がチクリと痛んだ。
だからこそ助けてくれるのが不思議なんだよね。一年前の審問の時からずっと。
そう、審問中に初めて求婚されたんだった。あの時は驚いたけど策略だと思ったからすげなく断ったし、パン屋に行って以降の毎日の求婚は、ただからかっているんだと思っていた。
こうして考えていても、何故助けてくれるのかわからないままなのだった。
「結論、わからない。以上!」
……わからないけど、それでも優しい人なのだと思う。私のことを利用して悪いことを考えている人ではない……と思う。多分。
それは彼の侍女のパトリシアや、この屋敷の雰囲気の優しいことから想像が付く。ただの勘だけど、そういうのって意外と馬鹿にできないって思うのだ。
それから、アンリ殿下の見た目、前世のわたしはすごく好きだったのを覚えている。私は『わたし』だった頃の記憶があるものの、感情をそっくりそのまま引き継いでいるわけではない。影響はされていると思うけど。パンが好きだとかそういうところ。
そのせいか、アンリ殿下の見た目は私もとても好ましいと思うのだ。
例えば、髪の毛がとても美味しそうに焼けたパン色なところ。見ていて幸せになる。
それに黄水晶の瞳は素敵だと思う。よく見ると虹彩は少し緑が入り混じっている箇所もあって、光の加減で星のように煌めくのだ。
学園ではよくにこやかで誰にでも優しく接していた。それはゲーム内で、貧乏男爵家出身で編入生のエレナ・ヴァリエに色々教えてくれるキャラクターだったことにも通じている。富豪とはいえ平民のフェオドールと他の貴族に差をつけたり、態度を変えるようなこともなかった。穏やかで皆に優しく、公平な王弟。決して権力を振りかざしたりしない。同学年のお手本のような人だった。
今ならわかるけど、あれこそがアンリ殿下の処世術だ。王弟というのは微妙な立場だから、弱みを見せないように、敵を増やさないようにああして振舞っていたのだろう。ああなるまでに私には計り知れないことがたくさんあったんだろう。
顔は中性的で整っているタイプの美形だ。身長も高いし、中々に鍛えているようなのに、全体的な印象を中性的だと思わしめるほどに綺麗な顔をしているのだ。
前世のわたしが夢中になってしまうのもわかる。今でも時々見惚れてしまうほど綺麗だなって思うもの。
無表情でいるときは、美貌が際立つせいか少し冷たそうではあるのだけど、にこやかに笑ってる時よりよっぽど、らしい、と感じてしまう。
もしかしたら、声色にその優しさが滲んでいるのがわかるから、かもしれない。
とはいえ、にこやかな顔が別段不自然なわけではないのだ。愛想笑いにも見えない、本当に優しげで親しげな微笑みにしか見えない。あの微笑みを向けられると、なんとなく自分に好意的なんだって、そう錯覚してしまうほど。けれどその心は全く見えない。
……私はアンリ殿下のことを全然知らない。毎日学園で会っていても、毎日パン屋で会っていても、戯れに私の手の甲に口付けをして求婚していた時だって。そして今も……。
私はアンリ殿下の本心が全く見えない。隠しキャラルートをクリアしていれば、少しはわかったのかもしれない。けれど。
……わたしはかつて、隠しキャラのアンリ殿下ルートをクリアする前に死んでしまった。悔やんでも悔やみきれない……ずっとそう思っていた。
けれど今は、あの時クリアできなくてよかった、とも思う。
わたしが若い身空で死んでしまったことはとても辛くて悲しいことだけれども、アンリ殿下の過去やその苦しみを、ゲームで先んじて知ってしまわなくてよかったと思ったのだ。
そして何より、私ではない相手にアンリ殿下が愛を囁くのを見なくてよかった……と。
だって、愛を囁くのは私にではない。
いくら操作をしているのはわたしだとしても、アンリ殿下が愛を囁く相手はゲームのヒロイン、『エレナ・ヴァリエ』なのだから。
ぎゅうっと締め付けられるように胸が痛い。
ん?
あれ?
もしかして……。
私は今、嫉妬をしているのだろうか。
エレナがマティアス殿下と付き合っているのだと、私に告白をした時とは、明らかに違う胸の痛み。
あの時、私は胸が痛むどころか、心底うれしいとさえ思ったのだ。
だってマティアス殿下に恋愛感情はなかったし、それより大好きなエレナと結婚しても一緒にいられることが、本当にうれしくて……。
なのに今、試しにマティアス殿下とアンリ殿下を入れ替えて考えてみると、心の中がモヤモヤ、ぐるぐる、として苦しくて仕方ない。
これって……つまり。
「私って、アンリ殿下のことが……好きなの……?」
私はそれを自覚した途端、全身が真っ赤になって、内側から爆発してしまうかと思った。




