15 手遅れ悪役令嬢、隠しキャラと婚約する
どの部屋も庭も美しく、品良く整えられているのに、どういうわけか屋敷の中に人の気配は少ない。3人の侍女以外の使用人も、この規模の屋敷なら大勢いるはずなのだが極力私の目に付かないようにしているようだった。
昨日の今日で知らない人にたくさん囲まれるのは、少し怖い。こちらを気遣ってくれている、その気持ちがありがたかった。
庭の見える景観の良いダイニングルームで、私はゆっくりと景色を見ながら、出された軽食を食べていた。そんな場合ではないのだけれど、空腹には勝てないのだ。しっかり食べなければ倒れてしまう。
ゆっくり湯浴みをしていたこともあり、昼食の時間から少々ずれてしまっていたので用意してくれたのは軽食だったが、むしろそれがありがたい。
軽食とはいえ簡単なものではなく、食べやすく、美味しいようにと工夫された数々。
オーソドックスで食べやすい一口サイズのサンドイッチにスープ、手で摘んで一口で食べられるカナッペ。それから甘いお菓子も何種類か用意されていた。
そして香り高い紅茶。
どれも美味しかったが、サンドイッチ用のパンだけはブレブレの勝ちだと思いたい。ブレブレのパンは本当に美味しいのだ!思わずドヤ顔ガッツポーズしたくなる。しないけど。
しかし本当にブレブレのパンは貴族の食事に出しても遜色ないし、すごいと思う。
内心ものすごく焦っていたのだが、表には出さないように努めていた。こんな時ばかりは貴族時代に培った鉄面皮がありがたい。
ああ……もう、本当にどうすればいいんだろう…! 早くアンリ殿下帰ってきて!
あれから私は、なんと、アンリ殿下の婚約者になったと言うことをパトリシアに聞かされたのだった。
なったというか、なっていたというか……。なにがどうしてこうなったのだろう。平静に装っても頭がぐるんぐるんしていた。
そんな重大な話、当の本人なのに聞いたこともないし、今すぐアンリ殿下に問いただしたかったのだが、いないものは仕方がない。そういうわけでいざという時に力が出ないと困るから、としっかり食べている私なのだった。
私は一応、ベルトワーズ公爵家から勘当されたままの平民の身分なので、婚約と言っても大々的に公表はされていないそうだ。まあ昨日の今日だし、と思ったら既に王城には伝わっているのだという。アンリ殿下、用意が良すぎない?
少なくともパトリシアはそのように言っていて、この屋敷内では私はアンリ殿下の婚約者の扱いなのだそうだ。
実家の方にもきっと伝わっているんだろうなあ……となんともいえない気分になってくる。
平民のままだと正式な結婚にはならないから、婚約という言い方は正しくないのだと思うけれど、この場合どんな言い方が近いのだろう。同棲、事実婚とは違うわけだし……。うーん、お手付き? とまで考えていやいやいや、そんな仲ではないし、と恥ずかしくなって脳裏から追い払った。
このまま婚約、で通す形にする!
はあ……婚約かぁ……。手遅れ悪役令嬢、隠しキャラと婚約する、といったところだろうか。
もちろん、アンリ殿下に愛されているなんて自惚れはしていない。アンリ殿下との婚約は私の立場を保証し、守る為のものであるのはわかっているのだ。王族の婚約者には昨夜のような襲撃者は下手に手を出せないだろう。この屋敷内にいる限り安全だ。
それはわかる、けど。今まで周りの優しい人に助けられてきたように、今もアンリ殿下に助けられて安全を与えられているだけで、私自身は何もできないままのが、辛い。
私はため息をつかないように必死で軽食と共に飲み下した。
私は軽食を摘みながら、側について給仕をしてくれているパトリシアに色々と話を聞いていた。
「アンリ殿下は、今はどちらにいらっしゃるんですか?」
「アンリ様はこの時間でしたら学園でございます。その後は王城に政務の手伝いに向かわれます。お夕食の時間には戻られるご予定になっておりますので、お夕食はご一緒できるかと思われますよ」
アンリ殿下はほとんど眠っていないだろうに、ちゃんと学園に行ったのだ。泣き疲れてぐーすか眠ってしまっていた自分が恥ずかしい。それに放課後には政務の手伝いって、本当に休む暇がないのに、大丈夫なんだろうか。
昨日もなんだか少し顔色が悪いような気がしていた。ずっとこんな生活をしているなら体が休まらないだろうに、それでも私のことを助けにきてくれたのだ。それどころか、毎朝早起きをして、パン屋まで会いにきてくれていた……。大体助けてもらったのに、気絶したり泣き疲れて眠ったりで、ちゃんとお礼すら言えていない。
しかしながら、彼の前で子供のように泣きじゃくってしまったのが恥ずかしく、どんな顔をして会えばいいのかわからない。聞きたいこともたくさんあるが、こうして心の整理ができる時間が取れたことには少しだけホッとする。
「そうですか……。お忙しいのですね」
「左様です。王族の方ともなれば多くの責務がございます。早朝に出発されてご帰宅は深夜ということもしばしばな方ですから」
……早朝に出発してよく下町のパン屋に買いに来てましたよ、アンリ殿下。
でもまだ学生なのに既に政務をやっているなんて、王族は大変だ。
……マティアス殿下もそうだったのかな。私はマティアス殿下が放課後に何をしてるかも全然知らなかったのだ。……かつて婚約者だったというのに。
自分だって王妃教育のために王城に頻繁に行っていたくせに、自分の忙しさにかまけてこちらから会いに行くこともなければ、何をしてるとか、何が好きだとか知ろうとすらしなかった。
恋愛感情がなかったからなんて言い訳で、興味がなかっただけなのだ。いかに私が何もしなかったのか、未熟で怠惰であったのかを痛感する。
アンリ殿下が不在な以上、パトリシアには現状のことを色々聞きたかったが、アンリ殿下が侍女達にどこまで説明してあるのかがわからない。下手なことを言わないように遠まわしに質問をから始めることにした。
「……あの、パトリシアはアンリ殿下から私のことって何か聞いてますか?」
「ええ、勿論、伺っておりますよ。元々ご学友でお互いに淡い思いを抱いていたお二人……クリスティーネ様には婚約者がいらっしゃって、許されぬ思いでした……」
パトリシアはうっとりと、乙女のように胸の前で手を合わせる。
「しかしクリスティーネ様はご実家を勘当され……、それでも下町にて健気に生活をしてらしたのだと伺っております。そこをアンリ殿下に見初められたのでしょう? ご実家と縁は切られていてもお血筋的には全く問題もございませんし、いずれはどこかの貴族に形だけでも養子入りさせていただけば、アンリ様と正式にご結婚も出来ますよ! ここには貴女様を虐げる者もおりませんし、ご安心してお過ごしくださいね」
そう言って私の手をしっかりと握り締めてくれるのだった。
み……見初められって……見初められ? 淡い思い?
えっ!? やっぱり勘違いされてるよね? これじゃあお互い思い合って婚約したみたいだよね?
勘当されて下町で生活、以外間違ってるよね?
婚約破棄されて実家にも勘当された元貴族の令嬢が、慣れない下町で生活してたら、虐められたりとかいびられたりして、この左手の怪我もそれが原因で、そしてアンリ殿下がそんな私を見初めて自分の屋敷に連れてきた……ってそれなんて恋愛小説!?
昔よくそういうの良く読んだわ! 貴族時代の唯一の趣味だったから!
むしろ今それ読みたい!
私はかあっと赤くなった。恋愛小説なら素敵だけれど、自分のことだと思うととてつもなく恥ずかしい。
とはいえ、本当のことは侍女頭にもさすがに言えないのはわかる。特に王族の毒とかそういうの。
これまで以上に話すことは気をつけなければ、と思った。
「まあまあ初々しいこと」
赤くなった私を見て、コロコロと笑うパトリシア。
善人であろう彼女を騙すようで申し訳ないことだけど、知ってしまうと危険だし、そういうことにしていてもらおう。必要ならアンリ殿下が説明しているはずだ。
それにしても、見初められた……か。
その言葉はなんだかソワソワと落ち着かない気分になるのだった。
軽食を食べた後は、特にすることもないということだったので、夕食の準備が整うまで、目が覚めた時にいた部屋に戻っていることになった。
何かご用があれば遠慮なくお呼びください、とパトリシアが退出して行った後、とりあえず私はソファに座った。
体がちょうどよく沈み込むソファだ。
とても座り心地がよくて、気を抜いたらついうとうととしてしまいそうだ。ここでうたた寝したらきっと気持ちいいだろう。しかしながら時間はたっぷりあるけれど、散々眠ってしまったし、これ以上寝たら夜が眠れなくなってしまうだろう。寝ないように気をつけなければ。
しかし下町にいた時は何もしない時間はほとんどなかったから、ぼんやりとするのもすぐに飽きてしまう。
ああパンを捏ねたい……。
パン屋ではパンを作るのは仕事だけでなく修行にして趣味でもあったので、余暇はパンをよく作ったものだ。もしくはマルゴさんの店に行くとか、おかみさんとおしゃべりするとか、それくらいだ。忙しい毎日だったから暇だなんて思ったことがそもそもなかった。
貴族時代だって、マティアス殿下の婚約者になってからは政治や経済、社交に関わる貴族間の関係など、王妃に必要な勉強をしなければならず、頻繁に王城に向かっていた。王妃様から直接に教わったり、王妃様のお茶の相手もしたっけ。マティアス殿下よりよっぽど王妃様と過ごした時間の方が長いのよね。
そして時間のある時には恋愛小説なんかを読んでいた。前世が乙女ゲーム好きだったことを考えると、転生しても趣味が全然変わっていないのだとしみじみ思う。
それからダンスレッスン、マナーの勉強、魔法学の勉強……。エレナと仲良くなってからは放課後にはなんとしてでも空き時間を作ったりしていた。
こんなゆったりした時間、本当に久しぶりなんだなぁ……。
ソファに座ったまま窓を眺める。
景観の邪魔になる建物は一切なく、青い空と遠く広がる庭木が見える。
けれどこんなに天気がいい昼下がりに、こうして何もすることがなく部屋にこもってただぼんやりとするのは退屈だった。
そして、何もしないでいられるほど穏やかな心境でもなかった。
私はつい半日前には、王族の息のかかった襲撃者に襲われてあやうく命を落とすところだったのだ。ここが安全なことには変わりないが、それをただ享受するわけにはいかない。早くアンリ殿下を問いただしたい。情報が欲しい。
また与えられた優しさに頼っているだけでは、また手遅れになってしまうかもしれない。私に出来ることなんて高が知れているけれど、……次こそ手遅れにさせない為に。




