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1 手遅れ悪役令嬢、全てを失う

 私、クリスティーネ・ベルトワーズがいるこの世界は、かつて前世にて『わたし』が好んでやっていた乙女ゲームの世界なのだと気が付いたのは、全てが手遅れな時だった。


 私が乙女ゲームのヒロインであるエレナ・ヴァリエをダンスホールの階段の踊り場から突き落とした、その瞬間に前世の『わたし』のことを思い出した。そして自分が何者なのかを理解した。

 


 

 私は、乙女ゲーム『恋情ラプソディア』においてヒロインにさまざまな嫌がらせを行い、最終的には嫉妬に狂い、ヒロインを階段から突き落として破滅する公爵令嬢……『悪役令嬢クリスティーネ』に他ならなかった。




 足がガクガクとして立っていられずにその場に座り込んだ。ひどい貧血になった時のように耳がキーンとして全ての音が遠く感じる。

 この日の為に誂えた紫の瞳と同系統の色のドレス――卒業パーティ用のその豪奢なドレスや、自慢の長い白銀の髪が地面について汚れることに意識を払う余裕もなかった。エレナを突き落とした両手は痙攣するかのようにぶるぶると震えている。音だけでなく目で見えているもの全てに現実感なく、まるで夢の中のようだった。けれど手のひらが覚えている。階段の踊り場から、エレナの無防備な背中を押した感触を。

 トン、と軽く押しただけでエレナは木の葉のように舞った。いいえ、落ちた。

 私が確かに、この手で突き落としたのだ。大切な友人であるエレナのことを。



 ――私が突き落とした――。



 叫びたかったが声すら出ない。浅い息を繰り返す。酷い眩暈がした。



 そしてはっと気が付いた。

 

 エレナ!エレナはどうなったのだろう。私が突き落としてしまったエレナは……!


 踊り場でへたり込んだまま階段の下を覗き込むと、エレナは体格のいい男性に抱きかかえられ介抱されていた。

 おそらくあれは王太子殿下付きの護衛で騎士見習いのヨシュア・アトキンだ。



 エレナは見た感じは大きい怪我などはしていないようで意識もあるようだった。

 思わず怪我はないか尋ねそうになり、慌てて飲み込んだ。それは突き落とした私が聞くことではない。


 上から覗き込んでいる私とエレナの視線が合って、エレナの花弁のように可憐な唇が「どうして」と紡ぐのが見えた。どうして……それはクリスティーネにもわからなかった。


 もしかしたら、それが悪役令嬢の運命だからなのかもしれない。

 それならば、せめてエレナと仲良くなっていなければ、これほど苦しくはなかったのか。


 前世の記憶が一気に蘇ったからか、頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えたくない。あまりの現実感のなさに目を閉じて開いたら、この出来事が夢だった――なんてことも考えたが、夢であるはずがなかった。



 どれだけへたり込んでいたのかわからない。

 音がだんだんと戻ってきて、エレナの元にマティアス殿下が走り寄る音が聞こえた。エレナの名前を呼んでいる。長く彼の婚約者であった私が一度も聞いたことのない、切羽つまった声で。それだけでこの現場を目撃していた人にはエレナこそがマティアス殿下の大切な人間なのだとわかってしまっただろう。


 王太子であるマティアス・アンゲルブルシュト殿下は私の婚約者だった。正しく言えばまだ婚約者のままなのだけど、マティアス殿下の秘密の恋人であるエレナを突き落とした『クリスティーネ』は、遠くないうちに婚約を破棄されることになるのだろう。






 この国、アンゲルブルシュト国王陛下の第一王子であり、王位継承権一位のマティアス殿下。

 彼とは親同士が決めた婚約者で、お互いの立場を納得してのことだった。お互いに恋愛感情はなかったが、王族と私の実家――大貴族であるベルトワーズ公爵家が結びつくことで、時期国王になる予定であるマティアス殿下の地盤を強固にするために決められた婚約。この国では基本的には長子相続だが、マティアス殿下には年齢の近い王弟や、まだ幼児ではあるが第二王子もいる。さらに現国王はまだ若く、これからも王子が生まれる可能性がある。それだから早いうちにしっかりとした後ろ盾が必要だと判断しての婚約であった。


 一方、エレナは貴族とは名ばかりの貧しい男爵家の令嬢。第一王子の正妃になるには後ろ盾がないものの、同じ学園に通い、乙女ゲームのヒロインとしてはマティアス殿下を『攻略』できる立場にあった。悪く言えば婚約者のいる男性を誘惑し略奪したことになるが、美しく言えばマティアス殿下とエレナは真実の愛に落ちたのだ。

 そしてそれだけ聞けば私がエレナを突き落とした理由はわかるだろう。誰もが同じ答えにたどり着く。婚約者を奪われた嫉妬による犯行だと、哀れな女が嫉妬に狂ったのだとみんながそう思うだろう。


 けれど、おかしいのだ。


 だって私は、知っていたのだから。マティアス殿下とエレナの関係を。


 それだけではない。表立って応援はできないものの、落ち着いたらエレナを側室に迎えることを勧め、その時に役立つようにと私はこっそりと彼女に貴族の立ち振る舞いや教養を教えていた。今日の卒業パーティーで二人にダンスをするように勧めたのも私だ。

 卒業パーティで殿下とのファーストダンスを踊り、学生時代の最後の甘い思い出作りと、側室候補であると他の貴族に知らしめるために。このために私はエレナにダンスのレッスンさえもした。


 そもそも私はマティアス殿下に恋愛感情はなく、王族は正妃だけでなく複数の側室を迎えるのが当たり前なことも知っているから嫉妬心など起こるはずがなかったのに。



 しかし前世の記憶が蘇ったことにより、この世界が乙女ゲームの世界だと知ってしまった今ならわかる。おそらくはゲームと同じ筋書きを辿るよう、抑止力のような力が働いた、ということなのだろう。そうでなければ私に友人を突き落とす理由などない。




 私の心も、エレナとの友情とも何も関係がなかった。

 ただ、こうなるのが運命だった。そして私は思い出したとしても、既に全てが手遅れだったのだ、と悟り瞠目した。





 エレナの身柄をマティアス殿下に任せたヨシュアが階段を駆け上がり、踊り場でへたり込んでいる私の腕を掴んで、後ろに捻るようにして取り押さえてくる。正直ものすごく痛い。腕の骨がきしむ。

 労働とは無縁な公爵家令嬢の細い腕など、もうあと少し力を入れたら折れてしまうほどに強く乱暴に。

 そういえばヨシュアもゲームの攻略対象キャラクターの一人だった。エレナに肩入れするのも当然のことだろう。私は悪役、彼女はヒロインなのだから。みんな彼女を愛するのは当然のことだ。


 腕も体も痛いけれど悲鳴すら出ない。一番痛いのは心だった。




「俺は見ていました!彼女がエレナ嬢を突き落としたのです!確かにこの目で見ました!」


 ヨシュアがよく通る声で私を糾弾する。

 それを階段の下で遠巻きにしていた学生達が「私も見ました」「私も」と口々に肯定する。まるでセリフの決まりきったお芝居のようだった。


 エレナは階段の下でマティアス殿下に抱きかかえられたまま、艶やかな金髪を左右に振り、鮮やかな緑色の瞳を涙で潤ませる。


「嘘です! そんな……クリスティーネさんがそんなことするはず……! そんな人じゃありません! きっとこれは事故です! だって……!」


 なんて美しいヒロインだろう。心優しいヒロインだろう。

 嫉妬に狂った悪役令嬢をこんなにも庇うなんて。

 観客はそう思っただろう。




 私はもうこの茶番をこれ以上見ていたくはなかった。

 全てが手遅れだったなら、後はもう退場をするだけ。


 だから、声を上げた。


「無礼者! 公爵家の令嬢たるわたくしに何をなさっているの! 早く手を離しなさい!」


 ヨシュアに向かってそう言うと、気おされたのか拘束されていた手が緩む。

 その手を振りほどき、私は立ち上がった。




 階段の上からこれ以上なく高慢ちきに見える角度でエレナを見下ろし、侮蔑に見えるような視線を向けた。足が震えているのをバレないようにと祈りながら。


「ええ、わたくしが突き落としました。それに間違いはありません。わたくしは抵抗いたしません。衛士にでもなんでも付き出しなさい!」




 そして私、クリスティーネという悪役令嬢は退場した。


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