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猫チップな俺  作者: STY
1/1

猫チップな俺の起動

猫チップな俺の起動


 心のある処はどこだろう。

 誰でも一度は考えたことがあると思う。昔は(こころ)の臓/heartは心臓だと考えた。或は魂/soulとして体と別にあると考えた。今は心は脳にあるというのが常識だ。詳しく言うと脳の中でも下外側前頭前野(BA44、こめかみのちょっと上の指で押すと痛いところ辺り)/内側前頭前野(BA10、おでこの4cmくらい奥)という領域だ。

 脳には右脳と左脳がある。あなたの心はどちらにあるのだろうか。そしてもう1つの脳にはあなたではない別の心があるのだろうか。結論から言うと、そう、あなたの脳には2つの心がある。普通はこの2つの心は脳梁で結ばれて統一体として働いている。お互いがメインでありバックアップであって分業した処理結果を絶えず交換している。事故や病気、あるいは訓練によってこの調整作用を抑えると、この2つの心を独立して働かせることも可能だ。

 目覚めているとき、脳は瞬間的な情報処理をオンラインで行っている。この情報処理にシナプスの繋ぎ変えや重み付けの変化ではまったく遅すぎる。だからあなたの左右の心は電気的なパルスのビートで歌っているのだ。1秒間に平均200回のビートで100万のドラムが鳴り響いている、それがあなたの心の本質だ。

 脳の研究において、脳の表面にある感覚系や運動系の神経細胞の動作を十分な時間/空間分解能で非侵襲的に計測することは数年前の画期的な研究(ブレイクスルー)によって可能になった。しかし心を司る脳の奥深くの神経細胞の接続先(シナプス)の興奮と抑制の設定、さらにグリア細胞による信号同期作用を高い分解能で把握するのは2023年の最先端の研究でも非常に困難だ。

 そこで目をつけたのが脳梁を通る信号の検出だ。特に左右の心を繋ぐ脳梁前部(脳梁膝)の1億本の神経線維の信号を1msec(ミリセコンド)、800nm(ナノメートル)の時間/空間分解能で0.2秒間高速記録できる。「え、たった0.2秒だけ?」と呆れないで欲しい。これだけで情報量は20Tバイトになる。この情報をとある特別なチップにロードしたのが俺だ。見た目は約2cm角の薄いプラスチックパッケージでそれに幾つかのセンサーやデバイスが接続されている。

俺の名前は、Neuro‐Consciousness 〝Oneself〟 Chip (自意識を持つ人工知能チップ)、またの名を―

《猫チップな俺》


    1


 夏の夕暮れ時、近所の家の庭で俺は猫の喧嘩に巻き込まれて困ったなぁと思っていた。実際に当事者として、つまり猫の体の一部として間近で立ち会ってみると結構な迫力がある。

 ついさっき迄は、のんびりとした散歩のはずだった。カナカナカナというヒグラシの鳴き声が真っ赤な夕焼けによく似合っていた。最近の噴火の影響なのかとても綺麗な濃い赤色だ。

 それが、生垣の穴をくぐって他所の家の広い庭に入った時だった。バッタリ別の猫に出会ったと思ったら、いきなり険悪な唸り声の合唱を始めた。どうしたら良いか分からないうちに、猫同士にしか解らないきっかけで二匹の猫が一塊となって組ず解れつ転げ回り、猫パンチ、猫キックをお互いに繰り出した。俺の外部カメラの映像は天地が目まぐるしく入れ替わって何がどうなっているのかサッパリ解らない。

 ピートは体を捻って相手に押さえ込まれかけた体勢から抜け出して、一旦ちょっと後ろに下がって距離を取った。向こうの猫もそれ以上の攻撃をせず時折、尻尾をパタパタ振りながらこちらの様子を見ている。

 彼我の距離はお互いのリーチがぎりぎり届かない25cmほどで、人間の感覚では接近し過ぎだ。相手の顔の毛の一本一本、鼻の頭の細かい皺まではっきり見える。猫の表情の細かな意味は読み取れないが、なんとなく、『こんだけ実力差があるってのに、まだニャローってのか。ニャン度掛かって来ても結果は同じだニャー。』とでも言いたげだ。

 相手の猫はピートより一回り大きい。きっとこの辺りのボス猫なのだろう。こちらを眼光鋭く見据えている。身体能力、経験共に相手が上のようだが、此方には幅広い科学知識と高速の計算能力がある。この状況でそれが何の役に立つのか、さっぱり判らないがきっと何か策はあるはずだ。

 もしボス猫の猫パンチが相棒のピートの頭に埋め込まれている俺の本体、NCOチップを直撃したり、電源への細い配線を切ってしまったら、俺は〝死んで〟しまうかもしれない。

 ピートはそんな俺のリスクに一切配慮していない。それどころかピートは俺の存在に気が付いている様子が無い。ピートにとって俺は、①ヒゲと尻尾の妙な接触感触、②実際には音が無いのに時々聞こえる音の感覚、③実際には物が無くても時々見える映像の感覚に過ぎない。俺はピートの運動野に接続した能動的なデバイスを持っていないのでピートの動作に直接影響を与えられない。つまり出来ることは限られている。

 俺としては闘争より逃走したいところだがピートはやる気満々だ。何しろ若くて元気いっぱいのアメリカンショートヘアのオス猫で今回が初めての猫の喧嘩だ。ピートは低い姿勢でうなり声をあげて今にもボス猫に飛び掛る構えだ。

 ともかく、左のヒゲの感覚野を軽く刺激してみた。ピートはヒゲに触れた何かを避けるように右に頭を傾けた。すかさず右のヒゲを刺激する。ピートは左にヒョイと頭を振った。右、左、と繰り返す。更に目の前のボス猫から気を逸らすために、俺のメモリチップに保存されているお気に入りの音楽の中から、穏やかな感じの曲のシューベルトのアヴェ・マリアを選んでピートの聴覚野に送り込んだ。映像の送り込みは急には準備できないので諦めた。どのみちピートは左右に頭をリズミカルに振っているので目の前の光景ががくがく揺れている。こっちまで酔ってしまいそうだ。ピートは何がヒゲに当たっているのかいるのか判らなくて右の前足を持ち上げておいでおいでをしている。

 相手のボス猫は何が起こったのか解らず、興味を惹かれて様子を観ていた。暫くすると自分も頭を左右に振って左の前足を挙げて踊り始めた。

 アヴェ・マリアの曲が終わって俺はヒゲへの刺激を止めた。ピートもボス猫もキョトンとした様子だ。やがて二匹とも念入りに顏を洗い始めた。喧嘩はお仕舞いらしい。やがてボス猫はピートに体を擦り付ける様にすれ違ってふいっと立ち去って行った。

 どうやら助かったらしい。もし動かせる右手があったら小さくガッツポーズでもしたいところだ。残り15%になってしまったバッテリー残量に心細くなりながら急いで省電力モードに切り替えて、ほっと一息ついた。ピートも今日一日の探検に満足したらしく、家のある方向にタッタッタッと戻り始めた。きっとお腹が空いたのだろう。

 俺は猫のほとんど音のしない不思議な感じの小走りに揺られながら、二週間ほど前のあの日、そう《猫チップな(オレ)》として目覚めた日のことを思い出していた。あれから今までの事はみんな夢であってほしいという気持ちと、今まで人間として生きてきた二十三年間に匹敵するほど密度の濃い命がけの二週間を大切に思っている気持ちと今は半々というところだ。

 その運命の日は、二〇二三年の七月十八日だった。


    2


 俺は1ミリも頭を動かせないようにがっちり固定された状態で横たわっている。

(はじめ)、用意はいいか。」という女性の声に、「はい、どうぞ。」と答えて目を閉じた。

 俺の自意識のコピーは目が覚めたとき、自分が脳神経を真似たチップにロードされた存在で人間では無いと気が付いたらどう思うだろうなと、ふと気になった。


 ・・・・・・・・・・


 気が付くと辺りは意味不明の音がウァンウァン鳴り響いて、妙に歪んだギラギラした光景の中を、焦点がブレて二重写しの物体がだんだん大きくなってくる。人間の、しかも俺の顔の上下逆さまのどアップだ。「なんだこれは。」と叫ぼうとしたが声が出ない。というか体の感覚が全くない。目の前の様子からすると逆立ちしているのだと思うが両手の感覚が無い。


 うん。

 これはあれだな。

 こりゃぁ参ったね。一本取られたってところかな。

 まさか自分の方がチップになるとはね。

 さーてこれはどうしたもんかな。


 えーと、俺はどうやってNCOチップと交信するつもりだったっけ。チップには確か音声合成回路を組み込んだ。チップは大学で実験用に購入してもらった猫の頭に移植するつもりなので、猫の首輪に組み込んだミニスピーカーにBluetoothで接続して声を出せるようにする予定だ。俺の古いヘッドフォンを分解して猫の首輪に括り付け、すでに作って用意してある。とてもクールだ。で、どうやっったらそれを使えるんだっけ。取扱説明書を見たいなぁ。誰かに聞きたいなぁ。声が出せれば、声の出し方を質問できるんだけどね。こりゃ無限ループだな。


 しゃべる猫が現れたらウケるだろうなぁ。赤いスカーフなんかつけちゃったりしてね。


 いかん、いかん。現実逃避に走っても問題は解決しない。

 スピーカー付きの特製首輪はどうしたっけ。最後に見たのは俺の部屋の机の右の一番上の引き出しに仕舞った時だな。って、ダメじゃん。いや、そんなことはないはずだ。きっと実験前に家から持ってきてあって机の上のすぐ隣にでも置いてあるに違いない。引き出しに入れたまま持ってくるのを忘れるような俺はそんなドジはしない。はずだ。たぶん。そうだといいな。


 人間の方の俺の上下逆さまの顔は視界からはみ出るほど近づいた後で暫くすると離れていった。それで俺は外の状況に注意を集中させた。すると、それまで単に無意味な聴覚信号だったものが、切れ切れに言葉として認識できた。

 『じゅう』という音素として識別された聴覚信号が、言語処理されて『銃』、『10』、『獣』、『住』などが強く反応した。次の『ろく』で『10』+『6』、または『重』+『ロック』と予測される確率が高くなった。

 同じように『か』、『い』、『め』、『だ』、『ぞ』で、前の『10』+『6』との関連から、『回目だぞ』の可能性が高いとなって、合わせて『16回目だぞ』と言う意味が認識された。

 そのあとに入ってきた『にゃー』という聴覚信号は『near』、『なぁ』などが候補となったが、1つ前の『16回目だぞ』と関連性が低かった。

その後、暫く音声信号は背景音のノイズだけになったので、、画像信号の方に意識が向いた。逆さまなので天井のように見える床で動いている物体が2つある。大きい方はさっきどアップになった人間の俺、室籐 哉だろう、その左隣の少し離れた大きいケージにいる動物は実験用の猫に違いない。ということは、ここは俺の通っている大学のいつもの研究室の中だ。

 一人と一匹だけで他には誰もいない。俺の最後の記憶は7月16日だ。今日が何日かは分からないがそれほど日が経っていないと思う。すぐ実験を開始する予定でいたからだ。とすると今は8月頭の前期試験の前でもちろん8月半ばの夏休みの前のはずだ。それなのにいつも賑やかなうちの研究室がひっそりしているのは夜中か日曜なのかもしれない。

 哉はパイプ椅子に座って机に広げた紙にマジックで何か書いている。その姿を見ながら、そう言えばさっき『16回目』とか言ってたなぁ。何が『16回目』なんだろう。

 えっ、ええー。

 こいつは15回も失敗して今の俺は16回目のチャレンジらしい。

 その時視界にA4の紙に殴り書きされた逆さのメッセージがぬっと差し出された。さっき哉が書いていたやつだな。

『へんじ Answer なんか言え プリーズ』と書いてある。

 ここでまともな反応を示さないと前の15回と同じく16回目の俺もリセットされ消されてしまう。今まで携帯ゲームでちょっとでもうまく行かない時、気軽にリセット技を使っていたが、ゲームの中の主人公はこんな悲哀を味わっていたのか。慌てて何か外部への出力方法を探すが視覚信号と聴覚信号が入ってくるばかりで、手も足も瞼も口も無い。今は悟りを開いている場合ではないので何か光らせるとか、音を出すとか、何か動かすとか・・・。

 15回分の前世の俺がうまくいく方法でも、うまくいかなかった方法でもいいからダイイングメッセージとして何か残していないか記憶を探った。はぁ、やっぱ無いよなぁ。うまく行く方法があるなら前世の俺も消される前にその方法を試すもんなぁ。

 音は聞こえている。猫がまた「ニャーオゥ」と鳴いた。でも声は出せない、というか出し方が分からない。目は見えている。上下逆だけど一応見えている。哉はがっかりしてまた椅子に座ってしまったのが見えている。でも瞬きはできないから合図には使えないしもちろんビームも出せない。NCOチップの回路が正常に動いていることをモニターする機能は作った。人間の俺もそいつは確認済みだろう。さっきの哉のメッセージは何か声で応答を期待するものだった。出来るなら返事をするんだけどね。どうしたらいいかわかんねー。

 口があるつもりで喋ってみようか。ダメ元だ。『あーあーあー、マイクテス、マイクテス、本日は晴天なり、となりのきゃくはよくきゃききゅうきゃきゅだ。聞こえますかー、聞こえたらいーなー。』やけっぱちで歌も歌ってみた。『真っ赤なお鼻のートナカイさんはーいっつもみんなのわぁらぁいものー』。悲しいことに外部マイクには俺の声が微かにでも響いた様子がない。

 猫が尻尾を時々パタパタさせる音がするだけだ。哉は疲れた様子で床を見ている、いや、天井を見上げていたんだった。

 猫の尻尾。尻尾、なんだったっけ、えーと尻尾。あっ、尻尾だ。

 尻尾を連呼してしまったが別に尻尾フェチではない。思い出したのだが、試作品として以前の実験で制作した光刺激デバイスが勿体ないので猫の尻尾の触覚を司る領域に埋め込み、キメラチャネルである、チャネルロドプシングリーンレシーバー(ChRGR)を、アデノ随伴ウイルスベクターを使って発現させる準備がしてあったはずだ。このデバイスは520nmの緑色光照射が出来る。つまり簡単に言うと、緑色に光る。

 用意周到でしっかり者の俺だもん、きっと全部のデバイスを接続済みでNCOチップ以外の基本機能はチェックしてあるはずだ。つまり尻尾用デバイスの緑の光を点滅させて、そこで疲れ果てて寝てしまいそうな人間の俺に合図を送ることが出来る可能性がある。

 俺はどうやってNCOチップにそれを動かせるようにするつもりだったっけ。えーと、どうせ余り物の実験の本筋には関係ない機能だから、発声用のモジュールからの出力で特定のコマンドをコールすることで動作させるようにしたような。その時は自分が使う側になると思ってないからこりゃぁ面白いと思っていたんだよね。自分で自分を殴ってやりたい。

 そのふざけたコマンドは『Tail Mover―Right』、『Tail Mover―Left』だったはずだ。これを叫べってのか。結構ハズいぞ。まぁ誰も聞いてないけど。俺は意を決し、声を出しているつもりで何度か叫んだ。

「ティル ムーバー ライト」

「ティル ムーバー レフト」

 暫く叫び続けると視覚の範囲外で直接は見えないが何か緑っぽいもやっとした光の反射が感じられた。よし、一歩前進だ。少なくともこの方法で外に合図を送れる。しかし位置が悪い。NCOチップは猫の頭蓋骨の上の毛皮の下にセットする予定だった。たぶん尻尾用のデバイスは尻尾だからということでなんとなく後ろの方に置かれているのだろう。俺の性格からするとそうに違いない。だから俺の外部映像入力用のマイクロカメラから見えない後ろの方に置いてあるのだろう。

 俺の後ろの方に置いてあるということは正面にいる哉からも見難い位置だということだ。前の方で同じように光らせる事の出来るデバイスがあれば良いのだが。

 俺のメインの視覚神経用と聴覚神経用の2種類のデバイスは合図を送る目的には向いていない。これは目や耳の感覚器官に障害がある人のため、マイクロカメラやピンマイクからの入力を視覚や聴覚の処理を行う脳の情報処理野に送り込むためのものだ。こちらは光刺激活性用の波長450nmの青色光と光刺激抑制用の波長570nmの緑色光が短い時間間隔で光る仕掛けで活性化後に短時間で光応答が完全に戻る。つまり簡単に言うと、チラチラと光りっぱなしだ。

 猫が「ニャッ」と短く鳴いて顔を洗い始めた。ヒゲを念入りに溶かしている。

 猫のヒゲ。ヒゲ、なんだったっけ、えーとヒゲ。あっ、ヒゲだ。

 ヒゲを連呼してしまったが別にヒゲフェチではない。いたら気持ち悪いし。思い出したのだが、試作品として以前の実験で制作した光刺激デバイスが勿体ないので猫のヒゲの触覚を司る領域に埋め込んで、うんたらかんたらで以下省略。つまり簡単に言うと、これも緑色に光る。きっと俺のことだ。ヒゲ用のデバイスは単純に前の方に置いたはずだ。

 ヒゲ用のふざけた起動コマンドはなんだったかな。そのふざけたコマンドは『Whiskers Touch―Right』、『Whiskers Touch―Left』だったはずだ。

俺は意を決し、声を出しているつもりで何度か叫んだ。

「ウィスカーズ タッチ ライト」

「ウィスカーズ タッチ レフト」

 するとなんということでしょう。机に置いてある今まで気が付かなかったデバイスが520nmの緑色光を淡くぱっぱっぱっっぱっぱっと放ったではありませんか。よしっ。

 哉は目がウツボになっていた。いや、虚ろだ。哉はぽつりと呟いた。

「もしかして、斜め45度からの空手チョップが効くかもしれないな。」

 おい、やるなよな。

 哉の注意がこちらを向いている時がチャンスだ。俺は心を込めて、というか心しかないわけだが、ライト―、レフト―と叫び続けた。

 哉はふと、「なんでさっきから光が点いたり消えたりしているんだ。変だな。」と呟いた。

 そう、変なんだよ、気づけよ、いや、気づいてください。お願いだから。俺は念のため間違っても電波を出して世間に迷惑をかけるスペックになっていないことを確認してから、ライト―、レフト―と叫ぶペースを変えて、トントントン、ツーツーツー、トントントン、つまりSOSとなるように調節した。

 哉はじーっと見ていたがやがて右手の人差指でツーを、親指でトンと机を光の明滅に合わせて叩き始めた。俺はますます力を込めてライト―、レフト―と心の中で叫んだ。哉は何か弾かれた様に顔を上げて、「これ、SOSじゃないか。」と言った。いいぞ、いいぞ。

 俺はペースをまた変えて、ツートンツーツー、トン、ツーツーツー、つまりYESを繰り返した。哉はそれに合わせて指で机を叩いて、「ESY。エシィ。」と言った。俺はガクッとなったが気を取り直して、YES、ちょっと間を置き、YESと繰り返した。実際には口に出しているつもりでライト―、レフトー、まぁ以下略。

 哉はようやく、「Yesか。お前、聞こえているのか。」

 YES、間、YES。

「お前は神か。」

 まぁ、こいつは俺の元親なので、そういうど―しょもない発想をするのは想定内だ。一瞬ふざけた返事を返す誘惑にかられたが、今はまだその時ではないので、ツートン、ツーツーツー、間、つまりNOを繰り返した。

「NO,Noか。お前は誰だ。」

 そういう答えにくい質問は止めてほしい。俺は自意識の塊だ。そう言うととっても嫌な奴に聞こえるな。ちょっと考えてから、ツートンツートン、ツーツーツー、トンツーツートン、ツートンツーツー、つまりCOPYと答えた。

「Copyか。何でスピーカーが接続してあるのにこんな回りくどいことをするんだ。」

 俺はCANNOTと返事した。

「出来ないと言うのか。何でだ。おかしいな、ちょっと待て。」と言うと何やらごそごそ装置をいじり始めた。暫くすると「あー。」と大きな声がして、「接続を間違えてた。」と言う声がした。そのとたん机のミニスピーカーから「ウィスカーズゥ タッチィ ルルライトォゥ。」という見事な巻き舌のRの発音が響き渡った。恥ずかしい。猫も同じ意見なのか『にゃ。』と鳴いた。


 その後のことを掻い摘んで言うと、意思疎通が出来た16回目のNCOチップの俺はリセットされずに済んだ。俺が声を出せなかったのは哉が徹夜で作業していたため、うっかりスピーカーの接続をミスしていたためという脱力する理由だった。


   3


 朝になり、哉は徹夜明けの頭を濃いコーヒーで無理やり覚まして実験を次の段階に進める準備を進めた。動物の解剖や移植などに抜群の腕を持つ同期の修士課程、且つ、高校の科学部の時からの親友の加藤 轟を呼び出した。前からNCOチップの猫への移植については手伝って貰う約束を取り付けてあった。

 轟には自意識を持たせることに成功したNCOチップの詳細については厄介ごとに轟を巻き込みたくなかったので伏せたままで、言っていなかった。

 長時間の手術が始まった。猫に麻酔をして、頭部をしっかり固定した。まず頭蓋骨、硬膜の下の所定の脳の感覚野に光刺激を受けとるために必要な光活性化タンパク質を発現させるためのウイルスベクターを添加した。そして視覚系、聴覚系のメインのデバイスはもちろん、例の尻尾とヒゲの余り物のデバイスも所定の脳の感覚野にセットされた。。細いケーブルは頭蓋骨に開けた小さな穴を通した。硬膜と頭蓋骨を戻したあと、NCOチップを実験用ネコのピートの頭蓋骨の外側に電源系と共に固定した。

 移植は成功した。完了したときは既に夕方になっていた。哉は轟に約束の豪華夕食として大学の近くのファーストフード店で《ワイバーガー長官》というトリ肉、ブタ肉、牛肉三段重ねの特製ハンバーガーをサイドメニュー付きで奢った。


   4


 その夜は細かい雨で視界が悪かった。バイクのメットのバイザーにへばりつくように水滴がついて前が見難い。哉は空いた道でも持ち前の生真面目さから制限速度+5Km/時をきっちり守って運転していた。今回の苦労の末に予想以上に成功した実験のことを思い出すと、つい嬉しくなってにやけてしまう。

「とうとうやったな。明日が楽しみだ。」と独り言を呟いた。

 気分が高揚していて少し注意が散漫になっていたのかもしれない。

 青信号の交差点に差し掛かった時、左から白い乗用車が突っ込んでくるのに気が付くのが少しだけ遅れた。急ブレーキを掛けたが、土ぼこりと雨が混ざってぬかるみかけた古いアスファルト道路はグリップ力が弱かった。前輪のタイヤがスリップしてハンドルが暴れた。

 赤信号のはずの横道から飛び出してきた相手の車の運転席に大きく目を見開いた女性の顔があった。車は減速するどころか逆にスピードが上がった。慌ててブレーキと間違えアクセルを目いっぱい踏みこんだのだ。

 それさえなければ何とかバイクと車はぎりぎり衝突せずにすれ違えていたかもしれない。哉はとっさにブレーキを緩めてアクセルを回し、何とか相手の車の進路から抜け出そうとした。あと少しのところでバイクの後輪を車のバンパーの左角が跳ね飛ばした。

 バイクは左に回転しながら吹っ飛ばされた。哉のバイクのハンドルを掴んでいた手が、もぎ取られるように離れた。そして足元のバイクが足元から消えて空中に体が投げ出された。

 『頭を打たないように』と言う考えが一瞬掠める間もなく背中から地面に落ちて後頭部のメットがアスファルトをぶつかる瞬間に出来るだけ首を前に曲げへそを見るようにした。それでも勢いには勝てずゴンと言う音と共にメットが砕かれるような衝撃があった。それきり哉は意識失った。

 不幸中の幸いで、転がっていった先は道路と歩道の境目だった。バイクは反対側の道の端まで横回転しながら滑っていってガードレールにぶつかって止まった。

 哉を撥ねた白い外車はそのまま交差点を通過して150mも過ぎてからようやくブレーキに踏み変えてキキーっとタイヤから白い煙が上がるほどの急ブレーキで止まった。ずいぶん時間がたってから運転していた若い女性は携帯端末で母親を呼び出し救急車を呼ぶように頼んだ。怖くてどうなったか見に戻れずにハンドルに被さったままじっと固まって震えていた。

 しばらくして救急車のサイレンが少し遠くから聞こえた。

                                    ―つづく


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