#08
「すーくんって、赤と青どっちが好き?」
教室でリリが唐突に聞いてきた。
まだ一限後だというのに妙に疲れきっていた俺は、つっぷしていた机からのっそりと顔を上げた。リリはいつものように能天気な笑みを浮かべている。
「なんだよ、いきなり」
「いいから。どっち?」
「……どっちも好きじゃない」
「えーっ!? じゃあ……何色が好きなの?」
「……まあ、黒、とか」
「黒か……ふむふむ。それじゃあ、和食と洋食どっちが好き?」
「……中華」
「もーっ、なんでそんないじわるなことばっかり言うのっ」
「ほんとだって。まあ和食と洋食なら、洋食だけど」
俺は腑に落ちないまま渋々と答える。
リリは謎の質問を続け、俺が答えるたびにメモ帳になにかを記している。
やがて満足したのかうんうんとうなずいた。
「――で?」
「え?」
「だから、なのための質問なんだよ」
「それは、えっと……」
なぜかリリは目をそらし、困った様子で言い淀んだ。
「と、とにかく! 土曜日まで秘密!」
「なんで土曜なんだよ……」
わけがわからない。
だがそこで、俺はあることを思い出し、暗澹たる気分になった。
次の土曜日。
久世間への返答の期日だ。
俺がプロト・イェーガーのテストプレイヤーを、続けるのかどうかを。
さらに久世間からは、次のテストのため彼らの会社の関連施設への同行を求められていた。
「あっ、それより大事なことを忘れてた……。すーくん、今週の土曜日って、なにか用事あったりする……? 例のアルバイトとか……」
リリは急に不安そうに顔をくもらせた。
「土曜は……」
俺は咄嗟に返答ができなかった。
まだ答えは出ていない。出せていなかった。
いや――合理的に考えれば、久世間たちの申し出を断ることはできない。
そんなことをすれば、俺はもうここでは暮らしていけない。施設へと逆戻りだ。
では、続けるのか?
あのプロト・イェーガーという得体の知れないゲームのテストプレイヤーを。
本当に、そうすることが正しいのか。
久世間が「ただの映像」だと答えた、あのパイロットの姿。
地面を這いつくばりながら俺に向かって必死に手を伸ばしていたあの姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
ありえないことだ。
けれど――
自分のなかで、なにかが激しく警鐘を鳴らしていた。
理性と本能は真っ向から対立し、葛藤に身体が内側から引き裂かれそうだった。
「……まだ、わからない」
「そっか……。もしできたら、空けておいてほしいな。あっ、無理にってことじゃないんだけど……」
リリはらしくもなく気を遣ったように微笑んだ。
*
一昨日くらいからだろうか。リリの様子が、すこし妙だった。
どこかよそよそしいというか、俺との接触を避けているふしがあった。
実際、廊下で鉢合わせたりすると驚いたように足早に立ち去ったりするし、放課後もいつもは声をかけてくるのに、さっさとひとりで部活に向かう。
それがどうした、という話だが。
べつに、リリの行動にあれこれ言う権利など俺にはない。
その日、俺は放課後、図書室で時間をつぶしてから、なんとなく部活が終える時間帯を見計らってグラウンドへと足を向けた。
リリの所属している陸上部の姿を目で追いながら、ふと自問する。
……なぜ俺はここにいるのだろう?
自分でも不思議だったが、ちょうどそのとき陸上部の部員らしきジャージ姿の女子生徒が近くを通ったので声をかけた。
「えっと……凛理なら、もう帰ったよ。今日、けっこう早く部活終わったから」
「……そっか。ありがとう」
俺は学校を出て、いつも乗り込む最寄りのバス停に行き――そこを通りすぎた。
その足で近くの商店街へと向かう。
家の近所とはちがって、高校の近くはある程度栄えている。もっとも繁華街というほどの立派なものではなく、昔からの商店が軒をつらねているような通りだ。
活気があるとはいえない通りを歩いていたとき、ふと足が止まった。
比較的新しい雑貨屋の店内に、リリの姿があった。
まさか、こんなところで遭遇するとは。
リリもまっすぐ帰らずに寄り道していたようだ。真剣な表情で、アクセサリーらしき小物を手にとって見つめている。
俺は店に入ろうとして――しかし再び足を止めることになった。
リリのそばに、もうひとり大きな人影があった。短髪で体格のいい男子。同じ高校の制服を着ている。その人物は知っている相手だった。
「沖田……」
沖田がリリとなにかを話している。声は聞こえないが、沖田がなにかを言い、リリが朗らかに笑った。親密な様子。同い年で同じ制服姿の男女がそうしている姿は、傍から見れば恋人同士のようにも見えたのかもしれない。
俺はその光景をしばし呆然と見つめたあと、冷静さを取り戻す。
たしかに意外な遭遇だ。
だが、なにも問題はない。
リリが男と一緒に雑貨屋にいて、なにか俺にとって都合の悪いことがあるのか。否、なにもない。
たとえそれがリリと同じ部活に所属しているやつだろうと。
たとえそれが、俺を殴ったやつだろうとも。
くだらない思考を振り切るように、俺はその場から足早に立ち去った。
*
翌日は、朝から不調だった。
鋭いような鈍いような頭の痛みが、おさまらない。
すこし前に一度だけ保健室に行ったが、偏頭痛だと言われた。頭痛くらいだれにでも起きることだろうが、俺はなぜかその診断を信じる気になれなかった。
授業中。落としたペンを拾おうとしたときだ。
雷撃を受けたように、頭が痺れた。
「っ……!」
不快な頭痛。
指先の感覚がなくなるほど強く頭をおさえつける。それでもいっこうに和らぐことはない。
これを自覚するようになったのは、いったいいつからだろう。
この学校に転校してきから?
ちがう。それは正確ではない。初めて感じたのはいつだ?
あのプロト・イェーガーをやってから――
偶然だろうか。
わからない。
ふと、周囲がざわついていた。どうやら休み時間になっていたようだ。
いったいいつの間に鐘が鳴ったのか――?
「――すーく―――ぎ―移動だよ」
だれかが声をかけてくる。
接近する他人の気配。
警告音。
狭苦しい猟機の操縦席。
渓谷。乾いた風。ヘリのローター音。
KGFR。徹甲弾。姿勢制御。索敵。機体温度。ブースト・マニューバ。照準。
激しい警告音。
敵――
腕に小さな衝撃を感じあと、人が机にぶつかる鈍い音が聞こえた。
「いたっ……」
目の前でリリが尻持ちをつき、痛みに顔をしかめていた。
倒れるときにぶつかったのか、リリのそばの席が大きくずれ動いていた。近くで談笑していた男子連中が、ぎょっとして立ち上がっている。
なにが起きた?
俺は立ち上がり、リリに向かって腕を伸ばしていた。
教室にいた全員が驚いたように俺を見ている。それを理解してようやく、俺は自分がリリを突き飛ばしたのだということを理解した。
ごめん――
すぐに謝ろうとリリに近づいた。
だがそれよりはやく、俺の前を大きな人影がさえぎった。
「おまえ、なにやってんだよ」
そいつは底冷えする声を発し、怒りの形相を浮かべていた。
沖田だ。
沖田は俺より早くリリのもとに駆け寄り、リリに手を貸した。
「大丈夫か、弓月」
「う、うん。ありがとう……」
沖田はリリに怪我がないのを見て一瞬安堵の表情を浮かべたものの、すぐに顔に険しさを取り戻し、ふたたび俺とリリの間に立ちはだかった。
「弓月に謝れ」
沖田は、リリと俺の間に立ちはだかる。
まるでお姫様を守る騎士のように。
さきほどまでの騒がしさから一転、静かに張り詰めた教室で、クラスメイトたちが固唾を飲んでこちらを見ている。
リリが慌てたように沖田に詰め寄った。
「お、沖田くん! あのねっ、だ、大丈夫だから! わたしが急に話かけたから……」
「話しかけただけで突き飛ばすような危ねえやつを、放っておけるかよ」
もっともな意見だ、と俺はどこか他人事のように感じていた。
視界の端で、女子のひとりが教室を出ていくのが見えた。教師でも呼びにいったのだろう。
「おい! なんとか言えよ!」
「…………そうやって、女の前でいい格好を見せたいのか?」
「……!!」
沖田が顔を赤くし、詰め寄ってくる。
胸元を掴みかかってくることは、目の動きと身体の運びで簡単に読めた。
直前で半身をずらし、足を差し込んだ。
足元をおろそかにしていた沖田は気づかず、俺の足にひっかかり転倒。床に背中を強打した。
教室にどよめきと悲鳴が起こる。
沖田はすぐに立ち上がれない。痛みに小さく呻いている。
なんて無様な姿だろう。
こみ上げてくる笑いの衝動をこらえながら、俺は悠然と沖田に歩み寄った。
シャツの胸倉をつかみ上げる。
あのとき、帰り道のトンネルで沖田にそうされたように。
もどかしいな――
なにか、道具がほしい。
拳ではなく、もっと効果的にダメージをもたらすものが、致命傷を与えられるものが――
「やめてっ!!」
悲鳴のような叫び声が、耳をつんざいた。
リリが自らの身体でかばうように、沖田に抱きついていた。
唇は震え、その表情は怯えきっている。
怯える?
なにに?
決まっている。
リリは、俺に怯えていた。
そこでタイムアップだった。
「なにしてるのあなたたち!?」
駆けつけた教師たちによって、俺は沖田と一緒に、教室から連れ出された。
*
生活指導室。
存在は知っていたが、この学校で、いやこれまでの学校生活でも入ったのは初めてだった。
部屋にはクラスの担任と、生活指導担当の体育教師が同席した。
沖田は最初保健室に連れていかれたようが、すぐに戻ってきた。たいした怪我はなかったらしい。もともとガタイはいいうえ、現役の運動部員だ。
担当教師は俺たちの前でわざとらしいため息をついた。
「貴峰。まさかおまえをこんなところに呼ぶことになるなんて、とても残念だ。おまえは成績も生活態度もよかったのに、いったいどうして……」
担任はお決まりの説教文句を、憐憫たっぷりに語った。
それは生徒に自省を促すための手管なのだろう。
一方、沖田は隣で終始不満そうな顔をしていたが、強面の体育教師がいたからか、同じく反論も言い訳も口にはしなかった。
俺たちが素直に形だけの謝罪と反省を口にすると、教師たちは満足したように緊張を解き、なぜかそのまま進路の話をはじめた。
「いいか。おまえたちはいま、人生においてとても大事な岐路にさしかかかっている。
だが不安になることはない。人生には無限の選択肢がある。沢山の道があるんだ。だからこそ、この高校三年間は――」
無限の選択肢?
本当にそうなのだろうか。
得意げに語る教師の言葉は、どこか知らぬ異国の言語に聞こえた。