#05
週明けの教室。
休み時間、リリと篠原を中心にして女子が小さな輪を作っていた。
どうやら俺たちが昨日一緒に行ったアウトレットモールについて、そこで手にした戦利品の写真を見ながら盛り上がっているらしい。
リリとは、朝の挨拶以外まだろくに話をしていない。
昨日ばつの悪い別れ方をしたことが、まだ頭から離れなかった。
こういうとき、俺から謝るべきなのだろうか。
もしそうだとして、いったいなにを謝罪するのか?
まったく検討もつかないので、俺はこうして自分の席から女子たちに囲まれるリリを、馬鹿みたい眺めているのだった。
「貴峰さぁ、昨日どんぐらい金使った?」
後ろの席から、長谷部が身を乗り出して聞いた。
「あー……、あんまり、いや全然」
「マジ? なにしに行ったんだよ……っていうか、使わないんだったらオレに貸してくれりゃよかったのに~」
「べつに貸してもよかったけど……。金利付けるぞ、トイチで」
「んー、それって、十日で一割?」
「十時間で一割」
「超ヤミ金じゃん……」
そういえば、あれから長谷部と篠原の仲はどうなったのだろうか。
そもそもリリが期待していたようななにか特別な出来事があったのかも知らないし、わざわざ聞こうとも思わなかった。
案外なにもなかったのかもしれないな、などと勝手な邪推をしていると、
「すーくんも見る? 昨日の写真」
リリが携帯を手に、俺の席のほうに寄ってきた。
いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。
わざとそうしているのだとわかり、俺は気まずさを感じる。
だがそれを態度に表すほどガキじゃない――と俺は自分に言い聞かせた。
「ああ」
「おっ、どれどれ」
長谷部と一緒に、リリの携帯から浮かび上がった投影ディスプレイを指で弾いて、写真をまわしていく。いつの間にこんなに撮っていたのか、と呆れる量だった。
とはいえべつに実際に行った俺が見ても面白いものではない。
ほとんど作業のように写真をめくっていたとき、一枚の写真に目がとまった。
俺の後ろ姿だった。
いつ撮られたのだろうか。盗撮だな、とリリを一瞥した。
「あーこれってなんで貴峰のこととってんの?」
「え、べ、べつにただなんとなく……」
「へーー……はーーーーん」
長谷部が、ネズミを見つけた猫のごとく目を細め、にやついている。
「い、いいから早く次……」
からかわれて恥ずかしいのか、リリの耳がわずかに赤い。
呆れる。見られたくないなら、最初からフォルダを分けておくなりなにかしておけばいいのに。そういうところで抜けているのは、ある意味でリリらしいとも言えたが。
だがまたしても、俺は一枚の写真のところで手を止めてしまった。
リリと篠原が、大きなクレープを手に満面の笑みで映っていた。
上からフルーツと生クリームが大量にはみ出た、実に甘ったるそうなクレープだ。
「こんなの、いつ食ってたんだよ。抜け目ないな」
俺は鼻で笑いながら言った。
写真くらいならともかく、こんなものまでこっそり食べていたとは。
だが、リリたちの反応は俺の予想とはちがった。
リリは首をかしげて、きょとんとしている。
「おいおい、おまえなに言ってんの?」
「――は?」
長谷部が俺の顔を覗き込んで、笑い出す二秒前のような顔をしていた。
「みんなで食おうって言ったのに、おまえいらないって言ったじゃん。甘いものあんま好きじゃないって」
「はぁ? いつだよ」
「いやだから、こんときだって」
なにを、言っているんだ?
俺は長谷部が、なにか冗談を言っているのかと思った。
だが、どうもちがうらしい。
改めて写真に視線を落とす。
ふたりの後ろには、クレープの屋台――ワゴン車を改造したもの――が小さく映っている。
だがそれにも見覚えはなかった。
「いや……覚えてないけど」
「え、マジで? マジで覚えてないの? すげーなそれ……。貴峰って、意外と忘れっぽいん?」
「そういうわけじゃ……」
「どうしたの?」
会話を聞きつけて、篠原も入ってきた。
「こいつさ、クレープのこと覚えてねーんだって」
「えー? なにそれ、どういうこと? それって、やっぱり食べとけばよかったって後悔してるからもう記憶から消去してなかったことにしてるー、とか、そういう話?」
「そうなん?」
「ちげえよ。甘いものあんまり好きじゃないのは本当だし……ただ、覚えてないだけで……」
そう答えながらも、俺は自分の状態に半信半疑だった。
忘れる?
そんなことあるだろうか?
数年前のことならともかく、つい昨日のことだ。いくらクレープを自分が食っていないとはいえ、もし長谷部たちの言うことが本当なら、すくなくともその場で食べているリリたちの姿を見ていたはずだ。
だがその記憶は一切、俺にはない。
よく思い出せないということではなく、まったく記憶にないのだ。
もし、この写真を見た長谷部たちに言われなければ、俺は忘れたことにすら気づかなかったにちがいない。
いつの間にか、リリが心配そうに俺を見ていた。
「すーくん、ほんとに大丈夫? もしかして疲れてる? ごめんね、わたしがいっぱい荷物持ってもらったから……」
「いや……そういうんじゃ、ないから。ただ、ど忘れしただけだ」
あまりいじられたくもなかったので、俺はそう言って話題を終わらせた。
だがそれでも、リリの表情は曇っていた。
*
時間の流れが早い。
そう感じるようになったのは、いつからだろう?
最近、俺はやけにそれを自覚するようになっていた。
一日が過ぎるのが、驚くほど早く感じる。気づくと学校が終わり、気づくと夜になっている。もちろん、その間の記憶はしっかりと残っている。時間割だとか授業の内容だとか宿題だとか、なにひとつ忘れてはいない。
ただひとつ。
そこで自分をなにを感じたのか、なにを思っていたのかは、まるで霧がかかったように思い出すことができなかった。
いや――気にしすぎかもしれない。
おそらくは、俺がこちらの生活に慣れ始めただけだろう。そもそも普通の高校生の日常なんて、毎日が同じことの繰り返しなのだから。それに生活に支障は出ていないのだから、深く悩むようなことではないはずだ。
「――……くん。すーくんってば!」
リリが俺の名前を呼んでいた。
顔を上げる。
HRが終わった教室で、クラスメイトたちがばらばらと教室を出ていくところだった。今週は中間テストの試験準備期間に入ったので、部活動も全面的に休みになっている。
俺は近くに立つリリを見上げた。
「なんだよ」
「なにって……、さっきから、ずっと呼んでたのに」
「ああ……。で、なに?」
「えっと……今日、いっしょに帰ろ」
リリの新しい家と、いま俺が住んでいる貸し家は偶然にも近所だった。
どうしていっしょに帰るのか――――リリがなにを思っているかはわからないが――――合理的ではある。問題はない。
「ああ」
俺は学校指定のカバンを担ぎながら、うなずいた。
学校からバスに揺られて一時間強。
ぽつりと立つ小さな停留所に降り立てば、あたりは田園風景一色になる。だが俺たちが家までたどり着くには、そこからさらに二十分以上は歩かなければならない。
田んぼに囲まれたあぜ道を、リリと並んで歩く。
畑の向こうには、鬱蒼とした森に包まれた山がそびえ立っている。
「ねぇ、あの裏山でわたしが迷子になっちゃったときのこと、覚えてる?」
唐突に、リリが言った。
そう言われて、俺は昔ここに住んでいたときの記憶をたどった。
たしか、小学校に上がったばかりの頃だったと思う。
学校から帰ったあと、友達とあの裏山に遊びに行ったリリが、日が暮れてもひとり帰ってこなかった。
どうやら、リリは一緒に遊んでいた友達から置き去りにされてしまったらしい。
いま思うとひどく薄情な話だが、意外と子供というのは、罪の意識もなくそういうことをしてしまうものだろう。
俺はといえば、たしかその日、親になにかを命じられて家にいた。
家で男と女に怒鳴られ、殴られ、踏みつけられていた。
いったいなにを怒られていたのか、そんなことはもう覚えていないが、それがいつも通りの出来事であることは変わらなかった。俺が、施設に預けられる前の話だ。
ただその日、家にだれか大人が訪ねてきたことをうっすら覚えている。
もしかしたら、あれはリリの母親だったのかもしれない。
そこでリリがいなくなったことを知った俺は、親の目を盗んで、家を抜け出して裏山に向かった。
山は危ないので子供だけでは立ち入らないようにと、学校では注意されていた。リリたちもその日たまたま冒険心が働いただけで、ほとんど来たことはなかったのだろう。
ただ俺の場合、家を抜け出してよくひとりで来ていた。
ほかに行く場所がなかったからだ。
一時しのぎの逃避先。ただそのおかげか、俺はすくなくともそのあたりの大人たちよりも裏山には詳しかったはずだ。
なんとか完全に日が落ちる前にと、俺は急いでリリを探しまわった。
そして、登山の本道からすこし外れた細いけもの道の入り口のところでリリを見つけた。
リリは小さくうずくまって、背中を震わせながら泣いていた。
そのときどんな会話を交わしたのかは、覚えていない。
俺はとにかく暗くなるうちにリリの手を引っ張って山を下り、リリを家まで送り届けた。そのあと家に戻った俺がどうなったのかは、語る必要もないだろう。
俺にとっては、思い出したくない日々の記憶のひとつだ。
「あのとき、もう自分はだれにも見つけてもらないんだって、このままここで死ぬんだって本気で思ったから。だから、すーくんが助けに来てくれて、すごいうれしかった……」
リリが慈しむような声でつぶやく。
「べつに。おばさんに頼まれたから行っただけだ、って言っただろ、たしか」
「……うそでしょ、それ」
めずらしく、リリが断定的に言った。
「は? なんだよ、嘘って」
「あのあと聞いたけど、うちのお母さんも、そんなこと頼んでないって言ってたよ。それはそうだよ。そんなこと、子供に頼むはずないもん」
「……」
俺は予想外の矛盾を突かれ、黙り込んだ。
だが、どうでもいいではないか。
リリは無事家に帰ってこれたのだし、なんの問題があるのか。
「よく覚えてない」
「……そっか。そうだよね、昔のことだもんね」
リリは小さく笑った。
なにかを見透かされているようで、居心地が悪かった。
「ごめんね、こないだのこと……」
ふと、リリが謝った。
一瞬、なんのことかわからなかった。
「ほら、こないだ長谷部くんたちと一緒にでかけたとき、すーくんと、ちょっと気まずいお別れかたしちゃったでしょ」
「ああ……」
「その……ちょっとびっくりしちゃって。せっかく、すーくんが気を遣ってくれたのに、あんなこと言っちゃって、ごめんなさい」
「いや……べつに、気にしてないから。俺も……悪かった」
なにが悪かったかはわからないまま、とりあえずそう答える。
だがそれでリリはほっとしたのか、明るい表情で俺を見上げた。
「でもすーくん、いつの間にそんなにお金持ちになったの? ひとり暮らしで大変なはずなのに」
「金持ちじゃねーよ。……まあ、多少余裕ができたってだけだ」
「それって……例の、“バイト”で?」
「まあ、そうだけど」
俺は言葉少なに答えた。
守秘義務があるので詳しいことはリリにも話していないし、リリもこれまで深く聞いてこなかったのだが、どうやら気になっている様子だった。
「……ねぇ、すーくんがやってるそのアルバイトのことだけど……」
「ああ」
「大丈夫、なの?」
「なにが?」
「だって……なんかすーくん、最近疲れてる気がしたから」
まったく予想外の発言だった。
俺は反射的に鼻で笑ってしまった。
いったい、リリはなにを心配しているのだろうか。
「それに、いっぱいお金もらえるのとか、詳しいことは秘密にしないといけないとか……なんだかちょっと……その、怪しいっていうわけじゃないんだけど、なんていうか……」
リリは歯切れ悪く言う。
俺はただ困惑するだけだった。
だがやがて、ほんの小さな苛立ちが生まれる。
「……ほかに、どうしろっていうんだよ」
「え?」
「俺は、自活しなきゃいけないんだから。選ぶ余裕なんてないだろ。俺はおまえたちとは――」
その続きを吐き出すのを、ぎりぎりでこらえた。
これではまたあのときの二の舞だ。
自分のなかに染み付いた毒を、リリに吐き出してどうなる。
だが俺のなかには、それがある。
毒――劣等感、コンプレックスと言い換えてもいいのかもしれない。
自分は恵まれていないという、リリや長谷部たちとは決定的にちがうのだという、そういう感覚が俺の中心に深く根を張っている。
だが、だからこそ。
俺は自分ひとりで、自分を生かさなくてはならない。
それができなければ、いまここにこうして、こいつの隣にいることだって――
「ねぇ、あれ……」
気づくと俺は、リリを置き去りにしたまま数歩先に進んでいた。
だがリリの顔がこわばっていた。
リリの視線をたどり、前方を見る。
そこに、一台の黒のSUV車が停まっていた。
助手席から降りてきたのは、高級そうなスーツに身を包んだ細身の男――久世間有為だった。
「やあ、守皇くん」
久世間は口元に穏やかな笑みを浮かべなら、俺たちに近づいてきた。
「いま帰りかな? 実はきみにまた頼みたいことがあってね。よかったら家まで送っていくよ」
その言葉で、俺はすぐに要件を悟った。
またあのプロト・イェーガーでの、テストプレイヤーとしての仕事だ。
リリが見知らぬ久世間を前に、不安そう表情を浮かべている。
「わかりました。じゃあ……お言葉に甘えて」
俺は答えながら、リリを見て言った。
「心配するなって。この人は、知り合いだから」
「えっと……それってすーくんのアルバイトの……」
リリが俺と久世間を交互に見る。
彼がいる手前、あまり仕事についての話は出したくなかった。俺が守秘義務を破っていると誤解されたくはなかったからだ。
「悪いけど、先に行くから。おまえもすぐ帰れよ」
「で、でも……」
俺はまだなにか言いたそうなリリをその場に残し、久世間に促されるまま彼の車に乗り込んだ。
家に着いてから、俺は久世間と彼の連れてきたスタッフたちと一緒に、いつものテストプレイの準備をはじめた。
頭を半分ほど覆うような大掛かりな、いま巷で流行りはじめているというゲーム機器――VHMDを手渡される。部屋では久世間たちがVHMDと有線接続されたノート型端末を広げ、なにやら話し合っている。
VHMDを手にした俺は、それを装着しようとして、以前から気になっていたあることを、久世間に聞いてみることにした。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
久世間は変わらず穏やかな物腰だった。
それがあったので、なおさら聞きづらいものではあったのだが、
「こういうゲーム機って、その……なんか、体調に影響あったりするんですか?」
俺の言葉に、久世間は表情ひとつ変えなかった。
俺はすこし慌てながら付け足す。
「あっ、べつに俺は平気なんですけど……。なんていうか、一般的にそういうことがあったりするのかな……って思って」
「体調が悪い?」
「いえ、そんなことは……」
久世間は、俺の言葉を無視して聞いてきた。
「いいんだ。我々のことは気にせず、正直に思ったことを言ってくれ。べつにそれで、きみへの援助を打ち切ったりはしない」
「えっと……」
「ゲームの完成には、必要なことだ。むしろ話してくれると助かる」
俺はためらったものの、そう促されれば話すほかなかった。
とはいえ、時間の流れがはやく感じるなどというのは、あまりにも個人的な感覚の話だったので、自分でも言いながら馬鹿げていると思ったが。
だが久世間たちは終始、俺の話を真剣な様子で聞いていた。
話を終えると、
「なるほど、報告してくれてありがとう。実に参考になったよ」
久世間は一転して朗らかな笑みを浮かべた。
「それで、これとはなにか関係が……」
「安心してくれ。きみが気にすることではないよ」
「え――」
気圧された。
一瞬そう感じたものの、いや勘違いかもしれない、とすぐに思い直す。
久世間の表情は口調は、相変わらず穏やかなままだ。
「……はい。わかりました」
「よかった。それでは、さっそくはじめようか」
久世間に言われるままVHMDを装着し、俺はプロト・イェーガーの、仮想の世界へと意識を切り替えた。