#02
転校後の最初の一週間は、忙しないまま過ぎた。
俺自身も慣れないことが多く、周囲もなにかと気を遣ってきて落ち着かなかったが、それも長くはかからなかった。一か月も経たないうちに、俺はただのクラスの男子生徒のひとりになった。女子たちが積極的に絡んできたのも初めのうちだけで、時間が経てば大抵の学校でそうであるように、男子は男子、女子は女子のグループのなかに落ち着いていた。
唯一の例外はリリだったが。
例の彼氏疑惑がどうなったのかは知らないが、少なくともリリ自身はあまり気にしている様子もなく、なにかと話しかけてくる。
あるとき、図書室でリリと出くわした。
互いに目的の本を借り終え、一緒に教室に戻っている途中で、
「ねぇ、すーくん。すーくんは、どうして施設を出られたの? その……もしかして、ご両親が?」
リリが思い切るようにして聞いた。
俺は足を止めた。
「……親とは、会ってないよ」
「じゃあ、養子とかそういう……」
「そういうんじゃないんだ。ちょっと、バイトみたいなことしてて、それでお金をもらってる」
「え?」
「施設に訪ねてきた会社の人たちに、頼まれたんだ」
俺は怜悧な久世間の相貌を思い出しながら答えた。
まだ完全に信用しきったわけではない。
ただ利用できるものは利用してやる――それぐらいの気概はあった。
彼らから言われて守秘義務があったため詳しいことは話せなかったが、不思議そうにするリリに、おおまかな経緯を説明した。
「そうなんだ……。なんか、やっぱりすーくんはすごいなぁ」
「べつになにもすごくない。たまたま、運がよかっただけだ」
リリはもう何回目かもわからない口癖を繰り返す。
落ち着いた頃に家を訪ねる、と久世間は言っていた。
あれからまだ連絡はない。だが生活費の一部は、すでに通帳に振り込まれていた。かつて手にしたことがないその額に、いまだ現実感が追いついてこない。
「じゃあまだ忙しくないんだね」
「まあ、いまは」
「部活とかやらないの?」
「とくに興味あるやつないし……」
正しくは、余裕がない、だ。
門限がなくなったいまなら、放課後も自由に使える。だがいくら生活費を得たといっても、部費だの道具だのに使う金はないし、あっても節約するに決まっている。
「ねぇねぇ、うちのところ入らない?」
「それって、前に言ってた陸上部か?」
放課後になると、リリはまっすぐ部室に向かう。
日曜以外は毎日練習があるらしい。熱心なことだ、と俺は他人事としか見ていなかった。
「すーくん足速かったし!」
「いつの話してるんだよ」
「もう走れないの? なにか怪我とか。も、もしかしてひざに爆弾が!?」
「そうじゃないけど……」
取り立てて運動が苦手ということはない。
球技も一通りはこなせる自信はあったが、なにが得意だとか、とくになにかが好きだとかいうことはまるでない。
「ねぇ、やろうよぉ」
「いいってば」
「う~~そんなこと言わないでさぁ」
「だから、やらないって」
「見学だけでも、ねっ!」
リリはただをこねる子供のように、俺の腕を引っ張る。この細い身体のどこにそんな馬力があるのかと思うほどだった。
「……その力があったら、おまえも砲丸投げとかいけるんじゃないのか?」
「すーくん、おこるよ!」
すでに怒りながら、しかしリリは変わらずどこか楽しそうだった。
*
日が傾きはじめた頃、校庭で陸上部の練習が行われていた。
トラックの外にジャージ姿のリリがいる。マネージャーとしてタイムを計ったりしているのだろう。それを俺は部室棟の近くに立ってぼんやりと眺めていた。
なんで俺はこんなところにいるのだろう、と思う。
べつにリリの誘いを、真剣に考えているわけではない。
ただすこし、リリがどんな風にして部活にかかわっているかを見てみたかった。
部員らしき生徒たちが、短いインターバルをはさんで、トラックを何週も走り回っている。練習は苦しそうだが、みな表情は明るく、ときおり笑い声が響いた。他の部員の練習終わりを待っているのか、休憩している部員たちはふざけてあっている。
まるで遠い異国のような光景に感じられた。
あの中にいる自分が、うまく想像できない。
だが、もしそうなれるのだとしたら、それは――悪いことではない気がした。
ふと視線が止まる。
トラックから戻ってくる男子のなかに、見知った顔があった。
同じクラスの沖田だ。
ティーシャツにスパッツ姿で、足にはスパイクを履いている。それをかつかつと慣らしながら、やがて校庭から短い階段を上がったところに立っている俺に気づいた。
「おまえ、なにか用か?」
とっさに適切な返答が思いつかず俺が黙っていると、沖田は校庭を――リリのいる場所の方を振り返り、なにかを察したような顔をした。
「ああ、見学か。弓月に言われたのか」
「べつに……そういうんじゃない」
そんな積極的な意思があってここにいるわけではない。
「入りたいのか?」
どこか上から目線で、沖田が言った。
「構わないけどな。……ただ、ふざけた理由で入るつもりなら、やめとけよ」
知ったような口調。
なにかを見透かしたような視線が、腹の底をざわつかせた。
「悪いけど、くだらないことには興味ないから」
意識するより早く、そんな言葉が口から出ていた。
「なんだって?」
沖田が眉をひそめる。
さきほど思ったこと――悪くないなどと、あれはほんの気の迷いだ。
冷静に考えればわかることだ。ここは、俺がいるような場所じゃない。
「遊びの邪魔して悪かったよ」
「は? 遊びじゃねーよ」
「ちがうのか?」
他意はなく、ただの疑問のつもりでそう言ったのだが、沖田はそれを侮辱ととったらしかった。
沖田に胸ぐらをつかまれる。身長はわずかに向こうが高い。威圧感はあったが、とりたてて怖いとは感じなかった。
稚拙な威嚇。
こんなもので、相手が萎縮すると思っているのだろうか?
なんて平和な頭なんだろう。
相手を怖がらせる暴力というのは、この先にあるものなのに――
「おまえ、調子乗ってんなよ」
「乗ってない」
俺がされるがままにしていると、こちらにだれかが近づいてきた。リリではなかったが、陸上部のマネージャーのひとりのようだった。
「な、なにしてるの……?」
女子生徒が怯えた声を出すと、沖田はすぐに手を離した。
やがて遠くにいた顧問らしき教師がこちらに気づいた。教師の勘でめざとく問題行為を察したのか、まっすぐ近づいてくる。
「二度と来ないよ」
俺は沖田に言って、教師が来る前にその場を立ち去った。
*
数日後の、帰り道のことだった。
学校への通学路上に、短い暗渠型のトンネルがある。中は道路と歩道で別れており、照明で照らされてはいるが歩道側はやや薄暗い。
俺はその日、たまたま割り当てられた委員会の仕事で帰りが遅かった。
それもあって、トンネル内も登下校時間より人通りがすくない。だがトンネルの半ばまで来たところで、俺はだれかが壁に背を預けてたたずんでいるのを見つけた。
相手は知っている顔で、意外な人物だった。
沖田だ。
沖田も俺を見つけたらしい。いじっていた携帯をしまい、こちらに向き直る。
まさか、わざわざ待ち構えていたのだろうか? あるいはべつのだれかを待っていて、そこにタイミング悪く出くわしたか。
面倒さを感じながらも、俺は立ち止まった。
「なんでおまえが来るんだよ」
「通学路だからな。べつにおかしくないだろ」
俺は馬鹿にするように答えた。案の定、沖田が不快そうに眉根を寄せる。
「……おまえ、弓月のなんなんだよ」
「は?」
沖田の口から唐突に出てきたその名前に、俺は虚を突かれた。
「あいつがおまえを部活に誘ったんだとしたら、それはうちの陸部が人数少ないからだ。おまえが特別だから誘ってるんじゃない」
沖田は勝手に謎の持論を展開した。
俺はしばし呆然としたあと、あやうくその場で笑い出しそうになった。
こんなにおかしいことがあるだろうか。
いったいこいつは、なにを言いたいのだろう。いや、なにを心配してこんな脈絡もない話を口にしているのか。
「弓月は部のことを考えてくれてる。そういうやつだから、勘違いすんなよ」
「弓月弓月って……、なに、あんたあいつと付き合ってんの?」
「なっ……」
沖田が露骨にうろたえる。まるで以前に教室で女子たちに俺との関係を茶かされたリリのように。
沖田は戸惑いと怒りの混ざった視線で、俺をにらみつけた。
「まあ、どうだっていいけど」
くだらなかった。
だれかが、だれかを制御しようとするなんて。
稚拙な独占欲。絆の押し売り。
吐き気がすることばかりだ。
「俺には関係ないから。気持ち悪いんだよ、そういうの」
「――!!」
振り上げられた拳の軌道を目で追いながら、よけることはしなかった。
衝撃を受けるまま、俺は後ろに倒れこんだ。
口のなかに、鉄くさい味が広がる。
ひさびさの感覚――――
しかし、殴り返す気も起きなかった。
それは決して理性などではなく、自分のこれまでの人生で身体に深く染み付いた習性に近いものだった。
生まれてこの方、俺のなかにそんなロジックは存在したことはない。
理不尽も、不条理も。
当たり前すぎて、なにも感じなかった。
一方、沖田は倒れこんだままの俺を青ざめた表情で凝視している。まるで自分の行為に驚いているかのような反応だった。
「……なに、笑ってんだよ」
やがて、不気味そうに吐き捨てた。
その言葉で、俺は自分が笑っていることを知った。
沖田はまわりに目撃者がいないか心配するように見渡したあと、その場から足早に去っていった。
夜。俺が家で粗末な夕飯の準備をしていたとき、呼び鈴が鳴った。
こんな時間にだれだろうか。
立て付けの悪い扉を開けると、そこに薄着のリリが立っていた。
リリの新しい家は、偶然にもこの貸し家と近所にあった。それもあって、ときどきリリは朝の登校時や夜に気軽に訪ねてくるのだった。
リリは手持ちの袋から、なにかが入ったタッパを取り出した。
「お母さんがね、すーくん一人暮らしだからおすそ分けしてきなさいって言うから、これ持ってきたん――」
いつものように嬉々として説明しはじめたリリだったが、俺の顔を改めて見た途端、凍りついた。
「すーくん、どうしたのそれ……!?」
「転んだ」
「…………そんな」
それは疑いではなく、単に驚きのつぶやきに聞こえたが、リリは痛みを共有しているかのように悲痛に顔をゆがめた。
「痛そう……、ねぇ、だいじょうぶ? 病院行ったほうが……」
「これぐらいたいしたことない」
「でも……。あの、えっと……晩ご飯、これから? なんか手伝おっか?」
「いいって」
「……あの……あっ、じゃあこれよかったら」
リリはまだひどく心配そうに顔をくもらせたまま、タッパを差し出した。俺はそれを礼を言って受け取った。
「ありがとう。遅いから、早く帰れよ」
「すーくん、あの――」
「じゃあな」
俺はやや強引にリリの言葉をさえぎって、扉を閉めた。
背を向け、しばらく消えなかったリリの気配が遠ざかると、俺は脱力したようにその場に座り込んだ。
タッパの温かさが、なぜかどうしようもなく疎ましかった。
*
翌日の学校。始業のチャイムが鳴り、まもなく担任の姿が廊下に現れると、生徒たちがあわただしく着席した。
パズルように席が埋まっていくなか、やがてひとつの空席が浮き彫りになる。
あの席は、たしか――
担任は教壇に立つと、生徒たちのざわつきを静めてから口を開いた。
「えー……すでに知っている人もいると思いますが、今朝早く、沖田くんが交通事故に遭いました」
一瞬、べつのだれかかと思った。
リリが口元をおさえている。
耳の早い一部をのぞき、教室にいるほぼ全員が衝撃の渦中にいた。
俺も例外ではない。
せめて他のだれかだったら、たいした感想はわかなかったかもしれない。
よりにもよって、あいつとは。
「さいわいにも大事には至らず、いまは佐山総合病院に入院中です。聞いた話ですと、家を出てすぐの道で事故にあったようです。えー……なお、お見舞いについてですが、一度に行くと迷惑になりますので、希望のある方はまず先生に申し出てください。それから下校時には――」
注意を促す担任の言葉を、俺は遠くに聞いていた。
妙だと思った。
ここは道路も歩道も広い。交通量自体もそれほど多くなく、少なくとも学校に通うような道のりのなかで、危険な箇所があるという認識はなかった。
たまたま、運が悪かった。それだけのこと。
そういうことなのだろうか。
「――ひき逃げだって」
教室のだれかがささやいた。
リリと目があった。
なぜか、小さな胸騒ぎを感じていた。
学校からの帰り道、一時間ほどバスに揺られた後、俺は家に向かって田んぼに挟まれたあぜ道を通っていた。
脳裏には別れ際のリリの様子が残っていた。
すぐ身近なクラスメイトに起きた不幸にショックを隠しきれず、リリはいつもの覇気を失っていた。
沖田は、災難だ。
おそらく大会の出場などにも、影響が出るだろう。
毎日のように練習してきたことの成果が発揮できなくなる。その気持ちがどういうものか、俺にはわからなかった。
言葉に詰まっていると、視界に見慣れない黒い物体が入ってきた。
足が止まる。
前方に、黒いSUVが停まっていた。
そのとき、なぜか俺はその車のバンパーを注視してしまう。
当たり前だが、そこになにかとぶつかったような痕跡などない。
運転席から男が降りてくる。
この前と色はちがうがやはり高級そうなスーツ姿の若い男――久世間だった。
「やあ、守皇くん。元気そうでよかった」
なにか意味深い言葉に聞こえた。
久世間は会ったときと変わらなく、余裕に満ちた笑みをたたえていた。
*
和室の居間には、まだテーブルと質素な座布団しかなかった。
俺は久世間を家に招き入れた。今日、訪ねてくることは事前に連絡を受けていた。もっとも詳しい要件は直接話したいということだったので、なんの話かはわからない。
だがとにかく、例の新作VRゲームの件だろう。
俺はそのテストプレイヤーとして彼らに協力することを条件に、この破格ともいえる援助を約束してもらっている。
まがりなりにも、彼やその会社は、俺にとっては恩人であるといえた。最低限の礼儀はわきまえようと思ったが、もてなすというほどの物はそろっていない。とりあえずパックのお茶を淹れて出した。久世間は気にした様子もなくくつろいでいる。
「うん、やっぱりいい家だね。ただもうちょっと家具がほしいかな。キャビネットとか床置きの照明とかあれば、もっと素敵な感じになると思うんだけどねぇ。渡したお金はあんまり使ってないのかな?」
「あまり、余計なものは……」
本音だった。贅沢なことに貴重なお金は使えない。もっともそういう習慣自体俺にはなかったが。
「それで……今日は、どういう御用ですか?」
「ようやく最初の準備が整ってね。さっそくだけど、守皇くんに協力をお願いしたいと思ってね。いやぁ、実に楽しみだ」
どこか冗談めかした口調で、久世間は言う。
「守皇くんは、まだVRゲームは一度もやったことないんだったかな?」
「はい……ありません」
施設にそんな裕福な遊び道具があるわけがない。
からかっているのかと思ったが、
「気にしなくていいさ。これから好きなだけやってもらうようになるんだから」
久世間は大きなケースから、見慣れないゴーグル型の機器を取り出した。以前、施設の健康診断のときに見た器具にすこし似ている。
「それは……」
「VHMD――Virtual Head Mount Dominator いま開発が進められている次世代のVR機器だよ」
「これで、なにができるんですか?」
「『プロト・イェーガー』という、我が社で開発中の新作ゲームだ。製品版はべつの名称になるかもしれないが……まあいまはそう呼んでくれ。近いうちにβ版として、無料で公開することを考えているところだ」
「プロト、イェーガー……」
「守皇くんには、早速これをプレイしてもらいたい。起動すれば、自動的にVHMDがクラウドにあるプロト・イェーガーに接続するようになっている」
久世間がパソコンを開き、準備を整える。
言われるがままの手順で、俺はVHMDを頭に装着。
「では、いくよ」
「……はい」
久世間が手元の端末から遠隔でVHMDを起動。
直後、濁流のごとく光と音が頭に流れ込んできた。