#00
俺のいる施設は、郊外に位置する山あいの盆地にあった。
市の中心部からはほど遠く、車がなければ生活するのもままならない不便な工業団地の外れに、二階建ての屋舎が人目をさけるように建っている。
いつも曇っているような場所。
それが俺のこの土地に対して抱く、唯一の印象だった。
貴峰守皇。
それが俺の名前だ。
八歳のとき、俺はこの施設に預けられた。
理由は健康上のもの。
両親のもとで生活を続けることは不可能と判断され、俺は父親からも母親からも引き離された。
それ以来、両親とは会っていない。
当時の記憶は不鮮明で、自然と思い出したり、そうしたくなるようなことは今でもほとんどなかった。
それが良いことなのか悪いことなのか、俺は知らない。
いずれにせよ身体的に回復していった俺は、ここで新しい生活をはじめることになった。
下は三歳から、上は十八歳まで、子供は男も女も同じくらいの比率でいて、そしてその十分の一に満たない職員たちで運営されていた。
小学校の途中からと、中学はこの施設から通った。
門限があるため、遅い時間まで遊んでいることはできない。いつも日が暮れる前には帰っていた。
左を向いても右も向いても、ここにあるのは規則、そして規則だ。
決まった時間に起床し、決まった時間に消灯される。
生活必需品以外の服や靴、遊び道具などはほとんど買ってもらえないため、わずかな毎月の小遣いだけが、自由のための軍資金だった。
中学を卒業したとき、施設を出るか選択できた。
だが小遣いを積み上げた貯金は自活するには到底足らず、この小さな町には中卒で寮つきのまともな仕事は見つかりそうになかった。
学費も公立であれば援助される。俺は高校に進むことを決めた。
高校を卒業して、生活する術を見つけて、ちゃんとここを出る。
それだけが、灰色の日々のなかにある唯一の希望だった。
俺が十五歳、高校一年の年。
秋口に入ったある日のことだった。
施設のなかで、一年に二回の定期健康診断が行われていた。
いくつかの大部屋に白い仕切りが立てられ、順番に検査を受けていった。
身長、体重、血圧、視力、聴力等々。
ライン工場のような流れ作業で血液検査まで終え、最後に隔離された部屋に誘導された。そこの机の上に、見慣れない器具が置かれていた。
不思議な形状。
ヘッドバンドのような輪とゴーグルを組み合わせたような器具と、それにつながるグローブがあった。
おそらくは頭と手に付けるものだとは思ったが、はじめて見るものだった。
そばにいた白衣の係員に聞いた。
「なんですか、これ」
「脳の病気とか、悪い障害が無いかを調べる装置だよ」
係員は穏やかな声で説明する。
よくはわからないが、自分の知らないところで世の中はいろいろと進んでいるらしい。つくづく、ここが世界の中心とはかけ離れた場所であると感じる。
器具を装着し、目と耳、そして手も覆われた。
目を開くように指示され、暗闇を見つめていると、やがて目の前にぼんやりと光る球体が浮かんできた。
それぞれ番号が記載され、色が異なるその球は、やがて縦横無尽に動きはじめた。それを目で追うと、連動して視界もぐるりと回った。
検査方法は、これを番号の順に追って、視界の中心に捉えたタイミングでグローブに内臓されたボタンを押すというものだった。グローブの指先にはそれぞれの色により、ボタンが振り分けられていた。
視界の端に表示されたガイドに従って、球体を追っていく。
捉える。スイッチを押す。
数字が増えていく。
最初は難しかったが、だんだんとコツがつかめてきた。やみくもに追っているとだめだ
光の動きには一定のくせがあった。それをもとに移動している現在位置を想定して、その方向にあらかじめ視界を向けておく。
一気に効率が上がった。
光はどんどん速くなっていく。
指先が思うように反応する。
数字が三桁を越えたところで、突然、すべての光が消えた。
係員が器具を取り外していた。
「はい、お疲れさま。じゃあ、次の方――」
診断はそうして終わった。
あれでいったいなにがわかるのか。
たいして興味はなかったし、実際に数時間後には検査自体のことも頭から消えていた。
どのみち、この日常が変わるわけではない。
奇跡でもない限り。
――だが、それは起きた。
*
三週間後のことだった。
突然、施設長に呼び出された。
俺は重い足取りで、職員室に向かった。
「あの、なんですか」
警戒心と怯えを抱えたまま、施設長の机の前に立つ。
目立った規則違反はしていない。
だとすると、同室の他のだれかが違反したことの事情聴取かもしれない。他人のミスに巻き込まれるなんて最悪だ。
いざとなればそいつを突き出してやる。そう思いながら身構えていると、年配の施設長は意外なことを口にした。
「きみに話がしたいとおっしゃってる人たちが来ていてね」
「僕に、ですか?」
だれだ。
親はもとより、親戚のひとりすら過去に来た試しはない。
それは有り得なかった。
「どういう、用なんですか?」
「それは、彼らが直接話してくれるようだ」
彼ら?
施設長はそれ以上は自分で聞いてこいと言わんばかりに口を閉ざし、卓上のパソコンに視線を戻した。
面倒事は感知しない、とその顔に書いてあるようだった。
案内された応接室に、ぴしっとしたスーツの男が二人、座っていた。
まだ二十代かと思われる若い男たちは、俺を見て立ち上がった。
眼鏡のフレームから高級そうな革靴に至るまで、全身から洗練された雰囲気が伝わってくる。田舎のこんなさびれた場所には決して似つかわしくなかった。
「はじめまして、守皇くん」
片方の男にいきなり名前で呼ばれた。
その馴れ馴れしさに、本能が警鐘を鳴らす。
「僕たちは、こういう者です」
男は名刺を差し出した。慎重に受け取る。
久世間有為。それが男の名前らしかった。下に会社名と、住所や電話番号が記載されていた。
「シュミット・エクストラ……」
はじめて聞く名前だった。
雰囲気からして、外資の企業なのだろうか。
もうひとりの少し年上に見える男は、彼と同じ会社の者です、とだけ言ってすぐに黙り込んだ。
不安よりも不審が頭をよぎる。
なにか詐欺の類だろうか、と警戒もしたが、こんな人脈も金もない施設の子供から、なにをだまし取ろうというのか。
俺の不安をよそに、久世間が軽い口調で言う。
「うちはゲーム機器や、そのソフトウェアを開発する会社なんだ。VRゲームとかは、やったことはないかな?」
ゲーム。
自分には縁がないものだった。
この会社も、もしかしたら有名なところなのかもしれなかったが、これまでも、そしておそらくこれからも関係することはない気がした。
「今日は、きみにいい話を持ってきたんだ」
「……なんですか」
期待せずに応じた俺に、久世間は言った。
「生活のために、ゲームをやってみる気はないか?」
しばらくあっけにとられていた俺は、久世間の眼鏡の奥を見つめ、その真意を推し量ろうとした。
「あの、意味がよく……」
「僕たちのゲーム作りに、協力してほしい」
なにかの間違いではないかと思った。
俺にそんな専門知識などまったくない。
「ゲームを、作るのに、ですか?」
「なにもプログラムを組んでくれと言っているわけじゃない。きみには、テストプレイヤーとして、そのゲームを実際にやってもらいたいんだ」
「ゲームを……?」
「メインユーザーとなる若者たちの意見を反映させたくてね。それを活用して、僕たちはゲームの開発を進めたい」
客の意見を取り入れながら作るということか。
だがやはり解せない。
「どうして――自分なんですか?」
「そんなに深い理由はないさ。強いて言えば、きみが想定するユーザー層にもっとも近いから、かな。それに心身ともに健康。お願いするのにぴったりだと思っているよ」
施設には年の近い他の男子もいたが、みなが同じように健康というわけでもない。
たしかに俺は大きな病気にかかったことは、今までなかった。
バイトのようなものだろうか。
すこしでもお金をくれるならやってもいい、そう返答しようとしたところで、久世間はある意味、もっとも予想外のことを口にした。
「その代わりに、きみが住むところも、学費も、我々が援助してあげよう」
「え……」
なにを言っているのか、理解できなかった。
住む家も、学費も?
それは、つまり、ここから出られるということか。
信じられない。
いったい、なんの冗談だ。
呆然とする俺に、久世間は哀れみの混じった声で語る。
「施設の方からお聞きしたが、きみの成績なら十分、一番上の私立高に入れるはずだ。だがここでお世話になっている限り、それは難しい」
事実だった。
悲嘆に暮れていたわけではない。ただ適わない願いだと、最初から諦めていた。
その道が突然、いま目の前に差し出されている。
興味がわかないはずはなかった。
「故郷に帰ることだって、できる」
久世間の言葉に、俺は一気に現実に引き戻された。
「……べつに、故郷とか、思ってません」
そう言ったのは、半分は強がりだった。
二度と帰ることはない。そう思っていた。
唯一、戻る理由があったとすれば、あいつのこと。
それはもう過ぎ去ってしまったものだ。
「どうだい? 決して悪い話ではないと思うけど」
「俺は……」
迷う理由はない。
だが、なにか直感のようなものが、返事を喉の奥でせき止めていた。
それを引き出すように、久世間は言った。
「きみには力が必要だ。前に進むための力。僕たちはそれをきみに与え、そしてきみの手を借りて、僕たちもゲームを完成させる」
金という力。
この現実で唯一、意味を持つもの。
それを、この男たちはゲームによって与えるという。
――その通りだ。
俺には、力が要る。
後ろ盾などなにもない。選べる選択肢は限られている。そんな俺がなにかを掴み取ろうとすれば、社会と渡り合うための手段が必要だった。
ふいにひとりの少女の顔が、脳裏によみがえる。
それが最後の後押しをした。
「ぜひ、お願いします」
久世間の口の端がつり上がる。
「交渉成立、だね」
まるで悪魔の取引をするように笑み、久世間が手を差し出す。
その日、前触れもなく提示された未来への招き手を、この先を待ち受けているものがなんなのか知らないまま、俺は握り返した。
そのとき、たしかになにが始まろうとしていた。