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橋の下

作者: 沢尻夏芽

 加世は物心ついたときから、漠然とその「何か」に気付いていた。

 それは時折思い出したように現れ、加世の心を突き刺し、さいなみ、やがて時と共に何事もなかったかのように忘却の深遠へと帰っていく。そしてまたいつか、ふとした時に再びやって来て、同じように加世を苦しめた。

 加世と家族との間にある見えない壁。おぼろげで、不明瞭ながらもそれは確かに存在していると加世は感じることがあった。その「壁」自体が加世を苦しめているではなかった。壁を作るもっと大きな何か、そのぼんやりとした実態のない何かのために加世は苦しめられた。

 であるから、父に「兄に嫁げ」という話をされた時、戸惑いながらも、幼い頃から心の奥で澱のように浮き沈みしながら住み続けていた物の正体を漸く掴んだように感じ、些か加世は安堵したのである。それは唐突でありながら、しかし必然のようにも感じられた。

「父上、何を申されるのです」

 同じく父に呼ばれ隣に座っていた兄の葛山芳太郎かつらやま ほうたろうもやはり困惑した様子であった。しかしその驚き方は、最前父親から発せられた言葉の持つ意味に比してやはり軽いように加世には感じられた。

 言葉をその通りに受け取るならば、犬畜生にも劣る行為である。父の正気を疑うか、または自分の耳を疑うか、あるいは性質の悪い冗談だと笑えば良いのかーー、芳太郎はその何れも出来ず、ただ「何を申されるのです」ともう一度繰り返すのみであった。その言葉は父に対する問いではなく、まるで自分自身に対する問いのように加世には聞こえた。

 加世は丸顔、色白、目は丸く大きく、厚い唇をしている。芳太郎は面長、色黒、目は細長く、薄い唇をしている。加世は母のつねからその容姿を、芳太郎は父の武八郎の容姿を、それぞれ受け継いでいるのだと思えばそう見えなくもなかったが、やはり二人はあまりに違いすぎた。であるから確かに芳太郎の問いの答えは芳太郎自身の中に昔から存在したのである。そのことを芳太郎は感じつつも、まだその事実を受け入れられないといった様子だった。

 芳太郎の眼は父を見ていたが心は別の場所にあり、加世には兄が父ではなく父の向こうにある障子と会話をしようとしているようにさえ感じられた。

「お前と加世は兄妹ではない」

 父の武八郎は嗄れた声で言った。

 先月の風邪以来喉を悪くしている武八郎の力ない声は、彼の最期の床で話す遺言と紛うような重みがあった。

 そして武八郎は語り始めた。

 加世と芳太郎はその水気のない擦れた声をただ黙って聞いていた。


 武八郎の話によると、加世は武八郎が上岩川の橋の下で見つけたのだそうだ。その橋は武八郎が勤めに通う際に通る木製の小さく古びた橋で、その下はただ雑草と砂利があるのみ、人どころか犬猫すらも気に留めないような場所である。

 武八郎が赤子を見つけたのは全くの偶然、そうでなければ間違いなく死んでいたであろう。

 何故そのような場所に赤子が打ち捨てられていたのか、それは捨てた親以外には分かるまい。

 武八郎はその子を、まだ生まれて一年も満たない息子の芳太郎に娶らすとの理由で引き取り、加世と名付けた。

 幸い妻のつねはまだ乳が出、子育てにさしたる支障はなかった。

 親の身分も分からぬ子供である。罪人の子でないとも限らぬ。親類一同は反対したが、武八郎は強引に押し通した。

 それから加世は葛山家の子として育ち、これまで真実を知ることなく今となってしまった。加世が幼い時分には、お前は捨て子であると、お前には血の繋がりのある者は周りに一人も居らぬと、そのような残忍なことがつねと武八郎にはどうしても言えなかった。そして加世が育ち、分別の分かる年になると、今度はそれまでの年月が邪魔をした。

 一方で武八郎は淡い期待を抱いた。このまま加世が実子と同じように育ち、何処かへ嫁がすことが出来れば、それもそれで良いのではないか。ただの息子の子を産むための女ではなく、娘として生かすことができればと。

 であるから、芳太郎にも今の今まで話すことはなかった。

 しかし加世の素性を嫌い排除しようとする親類の声は未だ消えず、やはり二人は兄弟のままとは行かなくなった。


 こうして、同じ乳を吸った男女は夫婦となった。祝言は親戚の手前行えなかった。

 加世が十五、芳太郎が十六の時である。


 夫婦になった後も、加世と芳太郎の生活はそれまでとほぼ変わらず、一番大きく変わったことといえばとこの場所で、以前は芳太郎は武八郎と、加世は別の部屋でつねと寝ていたが、それが婚姻後は夫婦同士が対で寝るようになっていた。

 しかしそれとて床の位置が変わった以上の意味をなさないまま時が過ぎた。

 何もしていないことは、未だ事実を受け入れきれていない加世と芳太郎の、無言の、しかし甲斐のない抵抗だった。

 そうして婚姻から二年ほど経ったある夜、芳太郎は遂に抗うことをあきらめた。

 「抱くぞ、加世」と言う芳太郎に、加世は黙って従うしかなかった。必死に隠そうとしている芳太郎の覚悟と苦悩が伝わってきて、否という答えなど出ようはずもなかった。皮肉なことに、それは生まれてより二人がずっと家族であったからこそのものなのだろう。

 薄給武士の小さな住まいは私事や秘事を考慮する造りになっていない。

 大きな音を立てれば隣で寝ている両親に必ず聞こえるだろう。

 勿論両親は気を使ってどのようなことがあろうとも寝た振りをするだろうが、分かっていてもやはり落ち着けるものではない。

 しかしその時、芳太郎の頭の中に、どのような意味にせよ、加世以外は居なかったに違いない。

 芳太郎は自分の着物を脱ぎ、加世の着物を脱がせ、ただ黙して、義務でありそれ以上ではないという顔をして加世を抱いた。

 事の間も、事が終わったあとも、芳太郎は加世の顔を一度も見ようとはしなかった。


 翌朝、加世は日の出より少し早く起きた。加世は夫にも両親にも気付かれないようにそっと外へ出た。

 夏が始まろうとしていた。空が白みはじめた時、己の胸の内の暗澹とした心持ちと朝の空気と光のあまりの差の激しさに、加世は、今、自分が立っているその場所に居ながら、どこか別の知らない場所へ心だけが突然放り出されたような気分になった。

 そのようなことは幻想だ。加世は思った。他に行くところはない。唯一の居場所はここだ。ここは木枯らしは吹かないし、大雨も大雪もない。――だが時折隙間風が冷たく加世の背中に当たる。

 いっそのこと拾われなければ良かった、とも思った。

 「夫」が悪いわけではない、「義父」が悪いわけではない。

 加世は芳太郎を嫌いなわけではない。

 若し二人が別の形で会っていたならば、床を共にする関係になっていたとしてもそれを嫌だとは思わないだろうと加世は思う。

 ただ、現実が現実である限り、自分が自分で、芳太郎が芳太郎である限り、それは常に二人にとって苦痛であり、間違っても快楽となることはないだろうと思った。

 もう一度互いに笑い合うことが出来るのかすらも不安に思った。


 それから夏を越した頃に武八郎は死んだ。

 芳太郎は正式に父の御徒士おかちの役目を継いだ。

 それから幾日か過ぎた日のことである。

 二人は家老の屋敷に呼ばれた。

 芳太郎だけではなく、加世も参上せよとのことであった。

何故なにゆえ、御家老様は私のことを」

 加世は芳太郎に聞いた。

 身支度をしながら、芳太郎は「知らぬ」とだけ呟いた。

 ぶっきらぼうな言葉だったが、芳太郎自身が当惑し、心ここにあらずといった状態であった。

 そして、二人は黙々と家老の屋敷に向かった。

 午後の六つ時、既に空は暗くなりかけていた。


 二人で歩いたあの道を、加世は一生忘れないだろう。

 秋の夕暮れ時の、あの寂寞とした、言いようのない孤独感。

 急に自分が一人に感じられ、家の隅で怯えながら縮こまりたくなるような、あの感じ。

 気温が下がり、しかし陽は強く赤々と光り、雲が流れ、虫が悲しげに啼く。

 自然の偉大さと自分の矮小さを感じさせられるせいだろうか。

 自分の存在の無力さを見せ付けられるせいだろうか。

 しかし今は隣に人が居た。芳太郎がいた。

 加世は確かに独りではなかった。


 屋敷までは四半刻もかからなかった。初めて見る家老の屋敷は想像よりも大きかった。

 このような大きな屋敷を所有する人間が居るのか、と加世は尊敬と畏怖の入り混じった感情を抱いた。

 すぐに中に通され、わけもわからず案内されるとおりに歩いた。

 現実離れした事、場所、慣れぬことばかりで頭が付いていかぬうちに、気が付いた時には既に目の前に家老が居た。

 家老は、肥えて弛んだ腹を高価な着物で包み隠し、顔は脂肪に包まれて蝦蟇蛙がまがえるのようだった。

 二人は伏して挨拶をした。

 会うなりすぐに、家老は芳太郎に「では、ぬしは下がれ」と言って芳太郎を下がらせた。

 加世は「そういうことか」と思った。

 家老は芳太郎を呼んだのではない、自分を呼んだのだ。そして――呼んだ理由は一つしか考えられない。

 勿論加世は芳太郎以外の男に抱かれたことはなかった。

 それが目の前に居る脂ぎった初老の男になるとは思いもよらなかった。

 しかし拒めば芳太郎の未来どころか親類縁者にすら迷惑がかかるかもしれぬ。加世は覚悟を決めた。

「名は何と申したか」家老は聞いた。

「加世に御座ります」加世は伏したまま答えた。

「加世か、良い名だ。子は」

「ーー未だ居りませぬ」

 加世が答えた後、沈黙が続いた。伏したままだったが、家老が加世を舐めるように見ているのが分かった。

 暫くして、家老は「もう良い、下がれ」とだけ言った。そして二人は帰された。


 その後、何故か芳太郎の禄が上がった。七十俵五人扶持から百俵五人扶持となった。


 加世がそれから本当の真実を知ったのは、あの家老に呼ばれてから十年後、既に一男一女をもうけた後である。

 既に家老は死に、藩の勢力図は様変わりをしていた。

 加世にその話をしたのはつねである。

 つねは自らの老いに不安を感じ、遂に真実を話すことを決意したのであった。


 加世はあの家老と遊女の間にできた子であった。

 武八郎は内密に、加世を預かるという命を受けた。

 親類は殆どがこのことを知らなかったが、孤児の加世を育てることを強く反対する一部の者には仕方なく武八郎自身が内密に話をした。そうでなかったら、反対を押し切ることが出来なかったであろう。

 そうして、武八郎は、当初加世を本当の家族として育てた。

 それは武八郎自身の淡い願望であり、逃げでもあった。

 しかしどこからともなく加世の話が漏れ、加世の縁談の話が武八郎に舞い込み始めた。

 武八郎は悩んだ。加世が何処かへ嫁ぐということは、家族が家族であるために、加世が加世であるために、一番理想の形であった。

 しかし加世の素性が知れた後なら話は違う。加世は家のための道具として、昇進や裏の繋がりのための道具として使われる。そこに一片の幸福もないとは言い切れないだろうが、今よりは確実に不幸になる。そう考えて、武八郎は加世の幸せのために、息子、芳太郎と加世を夫婦とした。

 祝言を上げなかったのも、確かに一部の親戚達と続いていた確執のせいもあったが、一番の理由は目立ったことを極力避けるためであった。

 出来るだけ内密に二人を夫婦とせねばならなかった。祝言を行おうとすれば、確実に何らかの圧力がかかり、どんなに武八郎が抗おうとも、やはり最終的には取り止めざるを得なかっただろう。


 芳太郎は加世の本当の秘密を知っているのか。それはつねにも分からない。城勤めをしていて、加世の噂が芳太郎の耳にこれまで一切入ってこなかったとは考えにくい。だが、芳太郎は何も語らず、つねの方からも語ってはいない。


 武八郎の決断は本当に加世を幸せにしたのだろうか。

 結ばれて当初は、確かに上手くいっていたとは言えない。

 しかし、加世に対する芳太郎の眼差しは妹に対するそれから徐々に妻に対するそれに変わっていった。

 最近は床の中でも加世を見つめるようになった。

 それでも加世は時々思うことがある。

 自分が若し、本当に橋の下で見つかっていたのなら、どのような人生になっていたかと。

 本当に橋の下で見つかった女として生涯を過ごしていたらと。

 それはおそらく今より厳しいはずだ。今よりも辛く、惨めなはずだ。

 そう思いつつも、加世はふとした時にその事を考えるのだった。


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