8話
アイリスの手を引いて、リューイは屋敷の裏手に回る。いくら人がいないとはいえ、城の門には見張りがついていると、ウェーデルから聞いていた。直接門から出ることはできない。
その為、いつもリューイが使っている垣根をくぐっていて行くしか方法はない。だが仮にも一国の王女にそんなことをさせるのは気が引けた。
「アイリス、これから城の敷地から出ようと思うんだけど…。」
「いつもリューイが入ってくる所から出るのね。分かったわ。どこにあるの?」
そう言ってアイリスは屈んで辺りを見回す。そうだ。王女と言えどずっと屋敷暮らしだったので躊躇いなどないのだ。むしろ横顔が少し嬉しそうに見えるのはきっと気のせいではなかった。
あの小さなトンネルを潜り抜け、続いてアイリスが屈みながら出てくるのを手助けする。立ち上がったアイリスの髪や服のあちこちに葉っぱが付くが、アイリスは気にすることなく払い落とす。一枚木の葉を手に取り、物珍しそうに眺めるアイリスを見て、改めて何も知らないのだと思い知らされる。辺りを忙しなくキョロキョロと見るアイリスの目は輝いている。
リューイがよくよく見れば、アイリスが身に着けてるドレスは、いい品であることは間違いないがとてもシンプルな作りをしていた。装飾品は最小限に、布も多くなくすっきりと体を包んでいる。付き人のクロアが考慮して、目立たない動きやすいものを選んだのだろう。
「こっちだよ。」
再びアイリスの手を引き、リューイはウェーデルが用意してくれた馬車に乗り込んだ。前にウェーデルが乗っていたものより小ぶりで地味なものだ。どこまでも配慮が行き届いていることにリューイは感嘆せずにはいられない。
二人が乗り込むと、馬車は出発する。手綱を引くのは、アイリスの存在を知っている者だと聞いていた。一番近い国まで送ってくれることになっている。
『アイリスを連れ出せたら、直ちにこの国から出るのです。良いですね。』
ふと隣に座るアイリスを見ると、先程まで遠足気分ではしゃいでいた筈が、窓から見える城を見て肩を落としている。
「アイリス?」
「…何でもないわ。」
城が、遠くなってゆく。城を見つめるアイリスの瞳は、悲しみを堪えているようだった。
それを見てリューイは、そっとアイリスの手を握る。アイリスがこちらを振り向いた。
「大丈夫、分かってるから。」
「え…?」
『直ちにこの国から出るのです。』
ウェーデルの言葉が聞こえなかった訳ではない。だがリューイは最初からそのつもりはなかった。
「すみません、広場に寄ってください。」
御者もそれを待っていたかのように、リューイに向けて親指をたてて見せた。
大勢の人が広場を埋め尽くし、皆が王族を祝福していた。
王が、王妃が観衆に手を振ると、それに従って歓喜の声が上がる。アトラスは緊張しているのか、ぺトロと共に乗った馬の上で俯くことが多い。
馬車が止まったのは、広場が一望できる丘の上だった。そこは広場を挟んだ先にあるので、皆はパレードに夢中で後ろを振り抜くことはない。幸い、丘にはたくさんの馬車が止まっており、アイリス達がやって来ても怪しまれることはなかった。
ローブについているフードをかぶり、アイリスは馬車の小窓からそっと広場を見つめる。
丁度ウェーデル達を乗せた馬が、広場の中央で止まった所だった。
止まることのない歓声がウェーデル達を包む。
「あれが、お父様…。」
馬から降り、聴衆の声援に笑顔で答えるクリフォードを見て、アイリスは目を細めた。
あぁ、私の父は間違いなくこの国の王なのだ。
ウェーデルの話でしか知らない父の姿はとても曖昧で混沌としたものだったので、目の先で祝福を受けるクリフォードを見て初めて強く実感する。
ステージの中央で、三人が寄り添い手を振り返す姿。
あの中に、私は立つことができなかった。
私は間違いなく、あの人達と血は繋がっている筈なのに。
どうしたら良かったのだろう。何がいけなかったのだろう。
アトラスより産まれるのが遅かったら、皆といることができたのだろうか。
ローブを掴む手が小さく震えているのを、リューイは黙って見つめていた。
やっと声援が収まってゆき、クリフォードとアトラスが用意されていた椅子に腰かける。
ウェーデルのみが中央に残り、その澄んだどこにでも行き届くような声で言った。
「皆さん、今日はわたくしの生誕の日を大いに祝って頂いて感謝します。」
アイリスの目が大きく開かれる。
あそこに、お母様がいる。
王妃としてこの国に君臨する、我が母が。
唯一の家族のつながりを感じさせてくれた人が。
「アイリス?」
リューイがアイリスの異変に気付き、肩に触れようとした直後、アイリスはふわりと立ち上がる。
まるでなにかに憑かれたかのように、力のない動きで馬車の外に出る。
「ア…!」
止めようと伸ばした左手を、リューイは即座に止めた。アイリスは馬車の傍に立ったまま、広場の方を見つめていた。
アイリスの手がそっとフードにかかる。音もなくパサリとフードが頭から離れ、癖のない栗色のロングヘアーが強めの風になびいた。
その直後だった。
目が、合った。
ウェーデルは丘の上にいるアイリスに気付き、穏やかだった表情を強張らせた。
その変化に聴衆がざわつき始める。クリフォード達もウェーデルに気を取られ、アイリスの存在に気付かない。
僅かに戸惑うような素振りを見せるが、ウェーデルはすぐに表情を戻し、聴衆に視線をやった。
「申し訳ございません。柄にもなく緊張しているのかしら。」
どっと笑いが起きる。だがその揺れる瞳は緊張のものではないとアイリスは悟った。
「わたくしは幼い頃、宝石のような女性になるのが夢でした。」
ウェーデルが話し始めた途端、声がぴたりと止む。聴衆が耳を傾けたのを確認して、ウェーデルは続けた。
「誰よりも美しく光輝き、そして皆が憧れるような存在でありたい。そう願っておりました。そして現在、このように大勢の人々から祝福されている状況で、私の夢は実現したかのように思えます。
でもわたくしは最近気付いたことがあります。確かに宝石は人々を魅了する輝きを持ち、虜にし、皆が手を伸ばしたくなるような美しさがある。だが宝石はしょせん石。主役になることはできません。ではわたくしの夢はドレスを更に際立たせる為の飾りになることだったのでしょうか。否、そうではなかった筈です。」
丘の上には目をやることなく、ウェーデルは聴衆の見渡しながら続ける。
「そう考えた時、ふと窓から外を見ると、青く澄んだ空に虹が架かっていました。七色の光が織りなすその姿を見てわたくしは分かったのです。あぁ、わたくしは宝石ではなく虹のような女性になりたかったのだと。」
虹。
瞬間、アイリスの頭にはウェーデルとの会話が再生される。
それは虹とは何か尋ねた時のこと。
『虹というのはね、ギリシア語で……』
「虹は誰にも支配されず、どんな人々にもその美しさを感じることができる。その美しさ、神秘的な姿で人々の心に寄り添い、そして救う力さえ持っている。現にわたくしも何かに悩んでいた時、その雄大で自由な姿に心癒されました。そう、わたくしは皆さんにとっての虹のような存在でありたいのです。」
人々はきっと、自分達に向けられた言葉だと思っているだろう。
でもアイリスは分かっていた。手を口に当て、背中が小さく震えた。
ウェーデルは、私に向けて言葉を紡いでいる。最後になるかもしれない、アイリスに向けての言葉を。
「皆さんの心に寄り添い、救いの手を差し伸べる、誰にでも平等の自由を与えられるような人になりたい。そしてわたくしは、皆さんにもそういう人になってもらいたいのです。自身の身の回りを見て、大切な人の心の支えになるような人になっていただきたいと願っています。
わたくしは約束します。これから先、あなた方の事を想い続け、心の安息になることを。そして、この世界を自由に、思うままに生きる世にすることを。
虹は暗闇でも、閉じこもった部屋の中でもその存在を表すことはできない。人の目に現れ、太陽の光の下で初めてその美しさが際立つのです。そう、虹は……。」
アイリスの整った顔が崩れる。瞬く間に涙が目に溜り、耐え切れずに頬に伝い落ちる。
「 虹 は、いつでも自由なのですから。」
その瞬間だった。
ウェーデルが、一瞬だけアイリスのほうを見た。今にも泣きそうなのを堪え、穏やかな表情を向けている。
それはとても美しい笑顔だった。ずっとアイリスが見たかった、女王ではなく、母としての親愛の笑顔。
広場が再び大きな音に包まれた。拍手と声援の声が鳴りやむところを知らない。
もう、言葉を交わすことは許されない、母と娘。
だがアイリスは確かに、ウェーデルの言葉を受け取った。止めどなくローブを濡らす涙がその証拠だった。
ウェーデルはアトラスを手招きし、やって来たアトラスの肩に手を乗せ、声援に手を振る。
最初で最後の弟の姿を見て、アイリスはさらに目を開く。
時期王のアトラスは間違いなくアイリスと血の通った弟で、髪の色や丸い目がよく似ていた。
私は確かに愛されていた。幸せを感じることができた。それで十分だ。
馬車からリューイがやって来て、アイリスの隣に立つ。肩に乗せられた手がとても暖かかった。
小さく頷くリューイを見て、アイリスは再び広場の方に目を向ける。もうウェーデルがこちらを見ないことは分かっていたが、アイリスはその場で小さく呟いた。
「さようなら。」
きっとどこかの空に虹が架かる。
それはある国の王妃の心を癒し。
それはある二人の男女の笑顔を作る。
悲しき別れを乗り越え、二人はこれから共に生き、王妃は国民の幸福を祈る。
イバラで覆われていた虹は、きっと永遠に輝く。
愛する者の隣で、ずっと。