7話
あっという間の出来事でよく覚えていない。突如視界が揺れたと思ったら無意識に目を瞑っていた。
一瞬慣れない浮遊感を感じ、何か柔らかく頼りないものに投げ出される。
ゆっくりを目を開く。自分達が乗っていたはずの馬車が上の方で横倒しになっているのが見えた。
そして自分を支える木々を見てやっと状況を理解する。
落ちた、のか…?
朦朧とする頭が、途端に澄んだように冴えわたる。リューイは慌てて体を起こし辺りを探すも、両親とエルマーの姿はない。運よく木に引っ掛かったのはリューイだけだったようだ。
リューイが動くたび、支える木々がひび割れるような音を立てる。よく見ると下に降りられそうな足場がいくつかある。リューイは慎重に木々から体を離し、壁を伝ってゆっくりと下に降りる。
そう深くはない谷で、すぐに地面に足がついた。倒れている三人を見つけ、リューイは急いで駆け寄る。
「父さん、母さん!」
いくら低い谷でも、打ち所が悪かったようだ。リューイの必死の問いかけにも二人は全く反応しない。頭から鮮血を流し、ぐったりとその体を頼りなく横たわらせていた。
「う……。」
頼りないうめき声が耳に届く。リューイは勢いよく顔を上げる。岩の影に隠れてエルマーが倒れていた。
「エルマー!おい、しっかりしろ!」
エルマーの元に駆け寄り、リューイは叫ぶ。
閉じかけた瞳が当てもなく彷徨い、リューイの声に反応を見せない。息こそあるがそれもとても浅く細々としている。
頭から流れる血が、乾いた地面を赤く染めてゆく。
「エルマー、しっかりするんだ!おい、俺の声が聞こえるか、エルマー!」
『約束、したんだ。』
熱で朦朧となりながらも、あの時エルマーはリューイにそう言った。
『アイリスが…』
「お前は帰るんだろ!?約束したんだろ!?」
『アイリスが、僕を待ってるんだ。』
「お前を待ってる人がいるんだろ!?エルマー!」
その言葉に反応したかのように、エルマーの目が見開かれる。ゆっくりと首を動かしリューイを見つけると、エルマーは何か小さく呟く。
「エルマー?」
途切れ途切れにしか聞こえない声を、リューイは懸命に拾い、エルマーが何を言いたいのか理解すると、悲しみと苦痛の表情を浮かべた。
「何を言ってるんだ!そんなこと…。」
「アィ………を…た、の……。」
アイリスを、頼む。
「諦めるな!もうすぐ人が来る。お前はこれからも生きるんだよ!」
だがエルマーはひたすら同じ言葉を繰り返すだけで、リューイの言葉を聞いていないようだった。
ぱくぱくと口を必死に動かし、リューイに訴える。
リューイはその姿に耐えられない。涙を浮かべて喉を嗄らして叫ぶ。
「…駄目なんだ、俺じゃあ。アイリスが待っているのは、俺じゃなくてお前なんだよ、エルマー!」
するとエルマーの声が止む。涙を止めることができないリューイを穏やかな表情で見つめ、小さく首を振った。
「…何を…。」
リューイにはその心境が分からない。エルマーは何を言いたいのだろうか。
エルマーは再び顔を空に向けた。悲しげな表情を作り、頬に一筋の涙が伝う。
「ア、イリ…ス…。」
僅かに右手を空にかざすような仕草を見せるが、静かに、ゆっくりと腕の力がなくなり地面に落ちる。
それはまるで差しのべられた手が届かなかったかのように。
まるで別れを名残惜しむように。
リューイはその一連の仕草に見惚れるかのように、いまだ涙が流れる瞳で茫然と眺めていた。
エルマーの手が地面に触れた時、同時に瞳が閉じられたことに気付く。
「…エルマー?おい…。」
震える手でそっとエルマーの肩を揺する。癖のない前髪が僅かに揺れる。
「エルマー、起きろってば。エ…。」
ふと何か違和感を感じ、リューイは己の服を見る。
エルマーの左手が、しっかりと服の裾を握っていた。
その左手が、昔のように小さく感じるのは、気のせいだろうか。
「…頼むよ、エルマー。起きてくれよ。なあ。」
だがエルマーは答えない。流れていたはずの涙は既に止まり、頬の水も乾き始めていた。
「俺を一人にするなよ。なあ…。」
リューイはひたすら肩を揺らし続ける。
リューイはしゃがれた声で言葉を投げ続ける。
駄々をこねた子供のようなリューイの声音が、しばらく谷底に響いた。
「なんで…、なんで分かったの…?」
エルマーが死んだ日、リューイはこのままエルマーになりきろうと決めていた。
アイリスが求めているのはエルマーだ。自分ではない。
エルマーが死んだなんて口が裂けても言えなかった。きっとアイリスは悲しむ。そしてなにより、全くの穢れを知らないアイリスの心に、闇を落としそうで怖かったのだ。
大丈夫だ。今まで誰にもバレたことがないのだから。きっと分からない。
自分を通して、視線の先にはエルマーがいたとしても。
その口から呼ぶ名が自身のものではないとしても。
君がどんな形でも自分を必要としてくれればいい。いや、エルマーになりきることで自分を必要とするなら、俺はずっとエルマーとして君のそばにいる。
これから先、アイリスを騙し続ける覚悟を決めていた。
なのに。
どうして。
イバラの向こうにいる少女は、間違いなく自分をリューイだと認識している。
決して呼ばれないと思っていた自分の名を口にした。確かに、『リューイ』と。
「だって、しゃべり始めると全然違うんだもの。外見は本当に見分けがつかなくてびっくりしたわ。」
アイリスは笑いかけるが、静かに流れ続ける涙のせいで笑い返すことができない。
「あなたはリューイ。ランスの弟。そうでしょ?」
窓ガラスに手の平を合わせ、アイリスは問いかける。
泣いている。アイリスが、泣いている。
勘のいいアイリスの事だ。エルマーではなくリューイがやって来たと分かった瞬間から、エルマーに何かあったのだと思ったに違いない。
「…俺もランスだよ。君が言っているのはエルマーのことだ。」
「そう…、ランスはエルマーというの。」
「…エルマーは、あの…。」
「エルマーは優しかったわ。」
唐突にそうい言い出すアイリスに、リューイは次に用意していた言葉を飲み込む。
「10年前、こんな不気味な屋敷にいる私の初めての友達になってくれた。満月の夜には必ず来てくれたし、村の様子やお祭りの事、私が知らない色んなことを教えてくれたわ。言葉通り、約束は必ず守ってくれた。退屈な毎日が、本当に楽しいと思えるほどに、エルマーと会うのが本当に待ち遠しくなった。」
リューイは奥歯を噛む。分かっていた筈なのに、直接アイリスの口から聞くのは辛いものがあった。
やはり、自分はエルマーには敵わないのだ。
「でもね、エルマーはある意味残酷な人だったわ。」
アイリスはそうぽつりと呟く。ずっ下を向いていたリューイは驚いたように顔を上げた。
「彼を責めている訳じゃないの。エルマーにはすごく感謝しているわ。でも、本当の願いを叶えようとはしてくれなかった。エルマーからいろんな話を聞くたび、私の外への憧れは強くなっていった。絵を眺めて満足だった毎日に物足りなさを感じるようになった。エルマーが話す世界を、この身で感じてみたい。こんな気持ち、エルマーに会わなければ気付かなかったのにって泣いたこともあったわ。」
『僕は約束は必ず守るよ』
口癖のようにそう言っていたエルマー。
だがそれは言い換えれば、守れるかどうか根拠のない約束はしないということだ。
エルマーはきっと分かっていた。アイリスは外の世界に行ってみたいんだと。
だがその話には一切触れようとしなかったのだ。
「それでもエルマーに会いたかった。辛かったことを差し引いても、あの人とお話をするのは本当に楽しかったから。でもね、ある日から、私は一つの希望を持つことができたわ。この人なら、私をここから連れ出してくれるんじゃないかって。」
もう止められない。10年の想いが言葉になってあふれ出てくる。
自身の事を『僕』ではなく『俺』という一人の少年は、確かに言った。
『もし君が……。』
「『もし君が外に出たいと思っているなら、俺はいつかそれを叶えてあげる。そこから出してあげるよ』。あなたがくれた言葉よ、リューイ。」
ひどく顔を崩してそう言ったアイリスを、リューイは信じられないような瞳で見つめる。
あぁ、私はなんてひどい子なんだろう。何度もカーテンの隙間から青いキャスケット見て、心躍り歓喜し、嬉しさを覚えていたのは嘘ではない。満月の日を心待ちにしていたのは紛れもない事実だ。
エルマーに向けていた笑顔を、偽っていたわけではない。
でも、本当は。
心の奥底で、あの僅かに開いたカーテンから見えるのを望んでいたのは。
木々で紛れてしまうような、緑のキャスケットだった。
「私がずっと待っていたのは、あなたよ……!」
顔を両手で覆い、アイリスはその場に力なく座り込む。それが決定的だった。
『アイリスを、頼む。』
いいのか、エルマー。俺は…、素直に喜んでも。
お前の気持ちを踏みにじって、リューイとしてアイリスに接しても。
声は返ってこない。だが、もはやリューイに答えはいらなかった。
リューイからアイリスは見えなくなってしまったが、か細くしゃくりあげた声が聞こえた。
「外に出たい。ここから出たいの。エルマーが、あなたが、お母様が見ている世界を私も見てみたい。
けど怖いの。私がそれを望むせいで、誰かが不幸になりそうで怖いのよ…!」
それは二度目の、アイリスの本音。
「アイリス、玄関で待ってて。」
アイリスがその声に反応し顔を上げるより先に、リューイは駆け出し屋敷の前に回り込む。
玄関といっても、そこは常に鍵がかけられており、ウェーデルとクロアが来る時のみ開けられる。外からかけられる鍵は、まさにアイリスを閉じ込めていることを象徴しているかのようだった。
唯一の外との出入り口の前に、アイリスは半信半疑で立ち尽くす。
「アイリス。」
外でリューイが呼びかけた。アイリスはびくっと肩を震わせる。
「君がそこから出たせいで、誰かがつらい目にあうかもしれないけど、それは不幸なんかじゃない。君が思っている以上に人間はたくましいんだよ。どんな困難でも乗り越えてゆける強さを、皆持ってるんだ。ウェーデル妃も大丈夫。あの人は自身の事を顧みずにアイリスの事を想っている。君のお母さんは強いことは君も知っているだろう?」
普段のガラス越しより声が通らないはずなのに、リューイの言葉はとても強いものがあった。
厚い木でできたドアに、アイリスはそっと手を添えた。
「君の周りの人達を信じるんだ。俺も不幸にはならない。エルマーの死を乗り越えた俺は不死身だよ。どんなことがあっても俺が守る。君も不幸になんかならない。だからアイリス…、君は」
丸みを帯びた大きな瞳に、涙が再びたまる。リューイの必死で冷静さを欠いた声が、これ以上になく暖かい。
「もう、そこにいなくてもいいんだ。」
その言葉が、その声が、確かにアイリスの心動かした。
この扉の向こうに、待ち望んでいた人がいる。
ガチャリと鍵穴が音を立てる。リューイが外から鍵を開けたのだ。
アイリスは震える手で、ドアノブを手に持つ。
この扉を開けたら、私はここには一生帰ってこない。お母様にも、一生会えないかもしれない。
後戻りは許されない。だけど。
手首をひねらせ、ゆっくりと前に力を込める。立てつけが悪いのか、ギギギッと音を立てる。
太陽の光が隙間から差し込み、次第にアイリスの足元を照らしてゆく。初めて感じる太陽の暖かさ。
慣れない明るさに眉を寄せ、ゆっくり目を開くと、そこにはあの青年が立っていた。
頭にはずっと探していた、あの緑のキャスケット。
だけど私は、私には。
「アイリス!」
リューイが名を呼び、両手を大きく広げる。アイリスの髪が、日の光に照らされて輝きを放つ。
アイリスは駆けだす。初めて走る、芝生の感触。冷たい空気。土の香り。
私には。
アイリスはリューイの腕に飛び込む。それをリューイはしっかり受け止め、小さく軽い体を抱き上げた。
たまっていた涙が雨のように空中で舞う。
ずっと触れたいと思っていた、愛しい人。
「リューイ!」
真っ赤にはらした目で、濡れた顔で、アイリスは笑った。
それを見て、リューイも笑う。これ以上にないくらい、幸せそうに。
私には、この人がいる。