4話
「アイリス、どうしたの?今日はなんだか機嫌が良さそうね。」
ウェーデルがアイリスに微笑みかける。
「なんでもないわ、お母様。クロアさんのアップルパイがいつもよりおいしく感じるせいね。きっと。」
ランスと最後に会った日から一か月経った。
今日は満月ではないかもしれないが、近いうちには会えるのだ。
どんな話をしてくれるのだろうか。異国の地ではどんなことがあったのだろうか。
ランスはアイリスにとって、唯一外の世界を教えてくれる大切な人だ。
ランスがやって来る満月の夜は、10年前から特別な日になった。
「ねえ、お母様。今晩は月が出るかしら。」
「変わったことを言う子ねえ。私にもわかりませんよ。」
それから二日後の夜。
空を見上げると、黄色く丸い月が上がっていた。アイリスは満面の笑顔を作る。
蔓バラで覆われた窓の隙間から外を見る。すると待たないうちに青いキャスケットが茂みから現れた。
アイリスはランプを手に、階段をゆっくりと降り始めた。
「でね、その国にはいろんな所から来た人々がいるから面白いんだ。あちこちで俺らが分からない言葉を使ってたり、身に着けてるものも違ったりするんだ。そのせいかいろんな国のレストランがあって、毎日ちがうものを食べたんだ。どれも美味しかったなあ。その国はね、海に近いから魚が美味しいんだ。」
「海?海に行ったの?」
「いや、今回は行かなかったんだけどね、海には行ったことがあるよ。とっても広くて、とっても青い色が綺麗なんだよ。」
「本にも載ってたわ。空とはまた違う色なんでしょ?」
「全然違うよ。浜辺に立つとね、空と海が同時に見えるんだ。いい天気で雲一つないと、それはそれは綺麗なんだよ。」
アイリスは目を輝かせる。
「海って私の持ってる本には絵が載ってないの。どんなものなのかしら。」
「今度持ってきてあげるよ。探してきてあげる。」
その言葉で、アイリスは嬉しそうにほほ笑んだ。
「ご自分が何をおっしゃっているのか分かっているのですか?」
ウェーデルは震える声で目の前に座っている国王・クリフォードに放つ。
国王の自室であるため、そこには国王夫妻とウェーデルの傍に使えるペトロしかいない。
ペトロはアイリスの存在を知っている数少ない一人だ。
「自分の言葉を誤るほど、耄碌していないはずだがな。」
「アイリスを嫁に出すって…。しかもハリソン王国にですか?」
自国と貿易を介して交流しているハリソン王国。
ハリソン王国も非常に恵まれた国なのだが、女性に対しての戒律が非常に厳しい。
特に王族ともなれば、嫁いだ姫は一切外に出ることを許されない。
人と会うのも制限され、本も読むことができない。女性が勉学をすることを認めていないのだ。
ほとんどの時間を、自室で過ごすことを強要される。
「ハリソン王国は我が国と長きにおいて交流を深めてきた。別に珍しいことではないだろう。」
「しかしハリソン王国のしきたりには肯定的ではなかったはずです。歴代の王たちも、決して姫を差し出すことはしてこなかったはずですが。」
「アイリスの場合は話が違う。今回も私の養女ということで話を進めるつもりだ。」
「そんなことはさせません。」
ウェーデルは強い意志を持ってクリフォードを見つめる。
人々から慕われ尊敬され、威厳と風格ある態度でこの国を治めている王。
だがアイリスの事になると、卑屈で避けるような対応をしていることに、ウェーデルは気付いていた。
アイリスを守れるのは私しかいない。
だがクリフォードはため息をつくと、ウェーデルに投げかけた。
「では聞くが、おぬしにはアイリスをどうするか算段があるというのか?」
「は?」
何を。
何を言っているのだ。
「アイリスは今年で16だ。もうあのまま隠しておくのは難しくなる。どんなに静かにあの屋敷で過ごしていても、誰かに気付かれてしまうだろう。その前に嫁に出すといっているのだ。これ以上の良い案はないと思うが。」
「…ハリソン王国に嫁いだら、アイリスは完全に一人になってしまいます。」
「今とて同じこと。そう変わるまい。」
衝撃がウェーデルを襲う。目の前の王は、何を言っているのだ。
「まるでアイリスが厄介者であるかのような物言いですわね。」
カップを取ろうとしたクリフォードの手が止まる。
「…ウェーデルよ。16年だ。16年もの間、私たちは多くの人々を欺いてきた。私はもう疲れたのだよ。いつ明るみに出るかもしれないという不安に駆られて過ごしてきたのは、お主とて同じであろう。」
その言葉が決定的だった。もはやクリフォードにとって、アイリスは自分の地位を脅かす脅威の存在でしかないのだ。
『お父様ってどんな人なの?』
かつて、アイリスがそう尋ねたことを思い出す。
『それはそれは立派な人よ。あんなに皆に優しくて強いお方、私は今まで出会ったことがないわ。』
アイリス、あなたの父は、どうやら父ではなかったようです。
「私は不安になったことなどありません。それはあなただけです。」
クリフォードの視線が向けられたことに気付くが、ウェーデルはそれを無視して立ち上がる。
バラ園が見渡せるこの部屋は、当然のようにあの屋敷も見える。
今もアイリスは、一人の時をじっとやり過ごしているのだ。
大きな窓から、切なげな視線を屋敷に向けた。
「私は、アイリスを…、心から愛しているのです。」
「それは私とて同じことだ。」
「ではなぜ、一度もアイリスに会おうとしないのですか。あの子は、死んでもいないのに父親の顔さえ見たことがないんですよ。」
「私はこの国の王だ。私の身勝手で国が傾くことなどあってはならない。存在を隠している我が子にかける時間はなかったんだ。」
立ち上がりウェーデルをなだめることもなく、クリフォードはカップに口づけ、息を吐く。
「私たちが優先すべきなのはアイリスではなくアトラスだ。あの子は賢い。きっとこの国を治める立派な王になる。」
クリフォードは知らない。アトラスよりアイリスのほうがよっぽど秀才で頭の切れがいい。
アトラスも確かに頭は良いが、アイリスと比べると霞んで見えるほど、アイリスは才能に溢れている。
二人を見ているウェーデルだからこそ、分かることだった。
「決心は変わらないのですか。」
「いつまでもこの状況が続くとは思えん。それにこれでアイリスはやっと人の前に明るみに出る。あの子にとっても良いことなんだ。分かるだろ、ウェーデル?」
ウェーデルは何も言わなかった。
沈むような沈黙がしばらく部屋を支配した。