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1話

昔々とある大陸に、大国ではありませんがとても栄えた王国がありました。戦もなければ貧困もない、それはそれは幸せな国です。


この国を治める国王は、優しさの中に秘めた厳しさを持ち、常に国民の為を考えるお方でした。その誇り高き存在を国民は常に尊敬し、またその妃でもある王妃も皆から慕われていました。

しかしそんな王国にも一つだけ問題がありました。国王と王妃はまだ子を授かっておらず、後継ぎがいないことでした。王妃は来る日も来る日も神に祈りを捧げ、子を身ごもることを心待ちにしていました。そしてついに、王妃のお腹に小さな命が宿ります。二人はとても喜び、生まれてくる日を心待ちにしていました。


そしてある日、待ち望んだ子が大きな産声を上げて生まれました。しかしその瞬間、国王の顔が凍りつきます。子は姫だったのです。王族のしきたりとして、後継ぎは男女に関わらず先に生まれた者と決まっていました。しかしまだ男が優勢だったこの時代。後継ぎが姫というのはこの国の威信にも関わります。他国から甘く見られ、攻め入られてもおかしくないのです。その為歴代の王達は子を亡き者にしてきました。


現国王も苦渋の決断で子に剣を向けますが、王妃は子を庇い懸命に殺さないように懇願します。王とて我が子を手にかけることは後ろめたかったのでしょう。王妃が子に泣きながら抱きつく様子を見てある決断をします。幸い出産に立ち会った者は2人を除いて3人しかいません。国王は3人に向けて言いました。


「子は死産だった。よいな。」


生まれたばかりの赤子は、王妃が好きな花にちなんで『アイリス』と名付けられ、ある所に幽閉されることになりました。そこは広い城の敷地の中の、大きな薔薇園の中心にそびえ立つ、イバラで囲まれた御屋敷です。こうしてアイリスは、生きながら周囲の目から隠される生活を送ることになるのでした。

これはそんな、かわいそうな小さなお姫様のお話。




それから年月が流れ…。ある日の昼下がり。


大勢の人が行き交い、なんとも活気溢れる街を、幾人の少年が走り抜ける。満面の笑みを浮かべ人々の間をすり抜ける様は、もはや見慣れた風景だ。


その中に一人、青いキャスケットを被って誰よりも速く走る少年がいた。

「遅いぞー、お前ら!」

余裕の表情で後ろを振り返りながらそう叫ぶ。

「待てよ、ランスー!」

ランスと呼ばれたキャスケットの少年は、広場にある井戸の所で足を止め、呑気に水を飲みながら友達を待つ。

「相変わらず速いな、敵わないよ。」

「もっと速い奴が近くにいるからな。競ってたらこうなった。」

「あぁ、リューイね。」

そっけなく返答するキリに、ランスは水を差しだす。他の少年も井戸を囲むようにして休憩を取る。

しばらく何気ない話をしていると、キリが突然口を開いた。

「なあ、なあ。今日の晩、あのバラ園に行ってみないか?」

「え、バラ園に?」それを聞いてその場の少年達が瞬間だけおびえた表情を見せる。

キリが言っているバラ園とは、城の敷地内にあるバラ園の事だ。とてつもなく広い敷地の中心に、白塗りの美しい城が建っているのだが、そこから少し離れた所にひっそりと存在している。


人々が不気味に感じるのは、バラ園の中心に大きな御屋敷が建てられているからだ。いつからあるかはわからない。だがその姿が異様なのだ。

一面イバラで覆われ、まるで牢獄のように物々しくそびえ立つ。かろうじて見える壁の色も黒に近く、城と対比しているように、その場の空気は重々しい。

いつしか人々はこの屋敷を『イバラ屋敷』と呼ぶようになった。恵まれている王国の、たった一つの影のように存在する。


「やめておこうよ。あそこは悪霊を閉じ込める為にイバラで覆ってあるんだぞ。夜は屋敷を抜け出してバラ園を彷徨うんだ。ばれたらどうするんだよ。」

「それにどうやって入るんだよ。あそこは敷地内だから入れないだろ。」

「それがさ、丁度抜け道を見つけたんだよ。一人がかろうじて入れる。そこでだ。今日の夜誰が行くか決めようぜ。夜だし入口は人気なんてないから大丈夫だよ。」

そう言ってキリはにやりと笑いながらポケットからコインを取り出した。




『いいか、行ってきた証拠にバラの花を持って帰ってくるんだぞ。』

頭の中でキリの言葉が反芻される。ランスはあたりを警戒しながら言われた場所までやってくる。

「僕は運がないな。」

自然とため息が出てしまう。どこかでフクロウが鳴く声が聞こえた。昼間の喧騒と異なり、静寂な闇が広がる。満月でかろうじて明るいのが救いだった。


城壁をぐるりと回っていると、一部分だけ垣根でできた個所を見つける。そこは町からかけ離れた、ほとんど人の手が入っていない所で、昼間でもあまり近づかないのに夜だとさらに不気味さが際立つ。

しゃがみながら垣根を見ると、しばらくして小さく開かれた穴を見つける。確かにこれは人一人入るのが限界だ。穴を覗くと、草木でできた天然のトンネルが少し続いている。先は暗くてよく分からない。


「明かりを持って来ればよかったな…。」

そう呟くと、ランスは屈んで穴の中に入る。両手を地面に這わせながら進んでゆく。だが穴は自然にできたものなのですぐに前が塞がってしまった。

長きに渡って成長した長い蔓が行く手を遮る。しかし友達との約束を破るわけにはいかない。ランスはポケットから折り畳み式のナイフを取り出すと、目の前の草木を切り崩し始める。屈んだ状態なのでうまく力が入らず苦戦するが、少しずつ道を作り進んでいく。


ようやく月の光が草木の合間から差し込み始め、残りの蔓を力の限り引き裂く。すると見えたのはまたもやびっしりと覆われた蔓だった。

よくよく見るとそれは先ほどの蔓とは違っていた。いたるところに鋭い棘が生えている。


「バラの棘…。」

それでようやく目的地にたどり着いたことに気づく。トンネルから脱け出し体を起こすと前を向く。

すぐ目の前にそびえ立つ屋敷に気づくまでそう時間はかからなかった。本来は真紅であるバラの花が、暗闇の中では黒がかかった色で、点々とその姿をイバラに付け

ている。


実物を見るのは初めてだったが、びっしりと壁に巻きつくバラの蔓はそう短い時間に出来上がったものではないことは明白だった。屋根の上まで無駄なく伸び、外との世界を遮断しているように思えた。

幾重にも蔓が交差し、外壁もかろうじて見えるくらいだ。だが廃墟のような荒れた雰囲気ではなく、最初からその姿をしていたかのような存在感があった。ランスの肩が震える。少なくともあまり長い間居たくはない。その場に自分とは異なる雰囲気が傍にいるように感じるのは気のせいだろうか。


さっさとバラを取って帰ろうと、辺りを見回す。そのときふと仲間が言っていたことを思い出す。


『バラの花を勝手に取って帰ると、イバラ屋敷の霊が怒って呪いをかけるんだって。その人はイバラ屋敷に引きずり込まれて二度と出て来られないらしいよ。』


再び肩が大きく震え、それを抑えるかのようにランスは手で腕を抱える。早く帰りたい。怖い。

首を懸命に振り、恐怖を拭おうとする。その時だった。


視界の隅に明かりが見えたような気がして、背筋に何か冷たいものが落ちたようにぞくっと悪寒が走る。

ランスは勢いよく振り向いた。気のせいであることを望んだが、残念ながらゆらゆらと暗闇に浮かぶ光が確かに目に映る。それがまだ庭園から来たものなら、見回りの城の者だと思うことができただろう。


だがその光は確かにイバラに囲まれた窓の奥にある。屋敷の中に誰かいる。

「あ…、あ…。」

逃げ出そうと足を動かすが、硬直したように動かない足は何もない芝生でつまずき派手に尻餅をつく。

その間にもゆらゆらと光は近づいてくる。冷や汗が頬を伝う。瞳が大きく揺れ、震えが増す。それでも必死に後ろに行こうとするがうまくいかない。

心臓が、脈が、血が通うすべてのものが激しく鼓動を打つ。


やがて明かりが窓のすぐ傍までやってきてぴたりと動きを止める。そこでランスは恐怖に怯えながらも目を凝らす。


やって来た光に灯されているのは、グレーのフードを被った何かだった。顔は見えない。

おしまいだ。俺はこの屋敷に引きずり込まれる。屋敷の中の何かが持っているランプを高く上げる。思わずランスが目をきつく閉じた時だった。


「…誰かいるの?」


その場に似つかわしくない声が聞こえた。幽霊を思い起こさせるような、低く地の底から響いているようなおぞましい声ではなく、純粋な疑問符が付いた高くか細い声だ。

恐怖でパニックになっていたランスは途端に現実に引き戻されたような気がした。

ランスは閉じていた目をゆっくり開ける。


窓の奥の人物は相変わらず顔が見えない。だがよく見るとランプを持つ手は白く細く小さい。窓の向こうでじっとこちらを見て動かない。ランスは窺うようにじっくりと目を凝らす。よく見ると背丈は自分と変わらないように見えた。

光に灯される姿は幽霊のようにぼんやりしたものではなく、しっかりとした実体を持っていた。

気付けば足の硬直がなくなっている。緊張が解かれたからかもしれない。

ランスはゆっくりと立ち上がり、慎重に窓の方へ歩を進める。何かあったらすぐに逃げ出す覚悟で。ランスが近づいてもその姿は動かない。時折首を傾げるような動きをする。


窓から少し離れた所で止まり、ランスは恐る恐る声をかけた。

「あの…、フード、取ってもらっていい?」

その人物は先程と違う方向に首を傾けるも、ランプを窓際に置きフードに手をかけた。隠れていた顔と髪が露わになった瞬間、ランスは驚きで目を見開く。


丸く大きな瞳がランスをじっと見つめる。栗色の美しい髪がさらりと揺れる。

そこにいたのはランスと年も変わらないであろう、なんとも愛らしい少女だった。一瞬その手の幽霊かと思ったが、その姿はまさにこの世に生を受けている存在感があった。


ランスが抱いていた恐れはどこかに飛んで行ってしまった様で、今は少女に対する興味の方が強かった。さらに近づくと、その少女が口を開いた。

「あなたは誰?どうしてここにいるの?」


不思議な響きを持った声だった。幼い子が物をねだるような、どこか甘美な柔らかさがある。それはガラス越しでくぐもっていてもはっきり聞こえる。

「あ…、えっと、ここのバラがとても綺麗だから欲しくなったんだ。分けてくれないかな?」

少女は再び首をかしげ、少し考えてから言った。

「ここのバラはお母様がとても大事にしているの。でも、一つだけならいいと思う。」

「ありがとう。ところで、君はなんでそんなところにいるの?何か悪さでもしたのかい?」

この少女は多分城の関係者の子供で、何かしでかした罰で閉じ込められていると思ったのだ。

少女は少し驚いているようだった。ランスは少女の表情がどれも乏しいことに気づく。

「違うわ。私はずっとここにいるの。」

「えっ。ずっとって…。」

「ずっと。この御屋敷から出たことがないの。」

「それじゃあ友達と遊んだり学校にも行けないじゃないか。」

「…友達…、学校…。」

どうも歯切れが良くない少女の反応を見て、ランスは眉を寄せる。

「もしかして友達がいないのかい?」少女はまたもや首をかしげる。

「友達って知ってるわ。一緒に遊んだりお話したりする親しい人のことでしょ。お母様とクロアさんとは仲良くお話しするけど、それは友達と呼ぶのかしら。」

「それは違うよ。年の近い子の事を言うんだよ。」

「でも二人ともとても優しいわ。」

「意地悪な奴もいるよ。喧嘩もしょっちゅうするし。優しいだけじゃ友達とは言わないよ。」

「そう…。じゃあ私に友達はいないわ。」

そう言って少女は少し俯いてしまう。


見ただけでも分かる、なんともなめらかで艶やかな髪が、少女の顔を隠してしまう。悪いことを言ったかと、ランスは少し反省する。

沈んだ表情ではなく笑っている顔が見てみたいとふいに思った。


「そうだ。じゃあ僕が君の友達になるよ。」

少女は再び顔を上げた。その顔は心底驚いているように見えた。

「私の、友達に?」

「うん。またここに遊びに来るよ。そうだなあ…。」

ランスは何気なく空を見上げた。雲一つない夜空に、丸い黄色い月がぽっかりと浮かんでいる。

「じゃあこうしよう。満月の夜、この時間帯に来るよ。毎日はちょっと無理だからね。」

「満月の夜?」

「そう。約束するよ。今日から君と僕は友達だ。」

友達。その言葉に、少女はわずかに戸惑うが、すぐに満面の笑みを見せた。

丸い目がいっぱいに開き、可愛らしくはにかむ。それを見てランスは少し頬を赤らめた。

「嬉しい。ありがとう。でも一つお願いがあるの。」

「何だい?」

「私の事誰にも言わないでほしいの。お母様が悲しむから。」

「わかった。じゃあお互いの事は二人だけの秘密な。そうだ、名前はなんて言うんだい?」

「私…、アイリスよ。」

「アイリスか。僕はランス。よろしく、アイリス。」

アイリスは少し照れくさそうに、だが嬉しそうに笑った。イバラ屋敷には似つかわしくない、太陽のように暖かい笑顔だ。

「こちらこそよろしくね、ランス。」




互いに触れ合うことがない、鋭いとげを持つイバラに隔たれた二人の日々が始まった。





手の平に乗っているバラを見つめて皆は感嘆の息を漏らす。

「すげえ。お前本当に行ったんだな。怖くって行かないかと思った。」

「僕がそんなことするかよ。怖かったのは本当だけど。」

「でさ、やっぱり…出たわけ?イバラ屋敷の幽霊。」


おそるおそる口を開くキリに対し、ランスは待ってましたと言わんばかりに不自然に口角を吊り上げる。

「それがさ…、早くバラを取ろうとして屋敷に背を向けたらさ、後ろに気配を感じたんだけど…。」

皆がごくりと唾を飲む。

「気のせいかさっきより寒く感じるんだ。すぐ後ろに誰か立ってるのは分かるんだけど、体がこわばって振り向けない。するとその影が僕の肩にそっと手を置いて、耳元でこう囁いたんだ。」

「な、なんて…?」


ランスはおびえた表情を皆に見せ言った。それも小さい声量で、低く響かせて。

「『次はないぞ』って。」

一気にその場の皆の背筋が震える。

「や、やっぱりいるんだ…。おっかねーよ。」

「もう関わらないほうがいいよ。次またバラを盗もうとしたら、い、イバラ屋敷に連れて行かれちまう。」

皆の様子を見てランスはほっと胸をなでおろしたい気持ちだった。これでアイリスの事が他の人に知られなくて済む。

「なんだか怖くなってきた。今日はもう帰ろうかな。」

「そういえばもうすぐブドウの収穫時期だから手伝えって言われてるんだ。」


皆が口々に口実を作りその場を立ち去ってゆく。ランスは止めることはしなかった。自分だけの秘密を持っていることと、皆ができないであろうことを成し遂げたことが誇らしく感じる。

しまいには自分以外皆帰ってしまった。どうやらランスの作り話は絶大な効果を与えたらしい。


手にしているバラを眺めしばらく立ち尽くし、何気なく前を見る。見慣れている緑のキャスケットが向こうに見えた。大きな藁袋を抱えている。

8歳の体には重いはずだが、リューイは平然と運んでいた。だがその大きさゆえ持ちにくそうにしている。

「おーい、リューイ。」

その声にリューイはすぐにこちらを振り向いた。ランスは駆け寄り、藁袋を抱えるようにして持つ。青と緑のキャスケットが並ぶ。

「うわ重っ。よくこんな重いの一人で持てるな。」

「これくらい平気だ。そもそもお前がすぐに出かけるから一人で持つはめになったんだ。」

「悪かったよ。だから今手伝ってるじゃないか。」

リューイは小さくため息をつくが、それから少しだけ微笑んだ。


双子で顔が瓜二つでも、二人は性格や特技がまるで違った。ランスは頭の切れがよく、成績もずば抜けていて秀才。人懐っこく人情深い所があり、頼られる存在だ。


対してリューイは運動神経抜群で力がある。動物並みの鋭い直感で動くところがある。普段は寡黙で大人しく、数少ない友達を誰よりも大事にする。


そんな二人なので、人々はよく二人を見て言うのだ。

『二人を足して割ったら完璧』。当人達はそれをあまり快く思っていない。


ランスはランスでリューイはリューイだ。完璧になりたいと思ったことはないし、互いの長所を妬ましく思ったこともない。むしろそれが誇らしく尊敬している。そんなことなど周り知ろうともせず軽々しく口にする。だから二人は周りの事を気にすることをやめた。


よくリューイは何を考えているのか分からないとよく言われるが、ランスはリューイのことを誰よりも理解しているという自信があった。

ランスからしてみば、こんな分かりやすい人は他にいないのだ。どうして見た印象だけで勝手に決めつけてしまうのだろう。ランスは人が好きだったが、リューイを悪く言う奴は嫌いだ。


唯一無二の存在。誰よりも自分の事をわかってくれる人。互いが互いにそう思っている。


「なあ、これ運んだら遊ぼうぜ。皆帰っちゃってさ。いつものやつやろう。」

ランスがにやりと笑う様は、悪戯を思いついた悪がきのようだ。リューイはそんな表情が嫌いではなかった。

「じゃあ早く帰ろう。」


二人は早足で家への道のりを進む。

二人だけの秘密の遊び。誰も知らない、最も楽しく滑稽な遊び。




それから2日後の夜。ランスは城に向かう途中、何度も空を見上げる。

丸い月がぽっかりと空にあるのを確認し、顔を綻ばせた。抜け道をくぐり、あのバラ園に出る。

何もないとわかっているが、やはり少し恐怖を抱いてしまう。するとあの窓の向こうに明かりが見えた。

以前は明かりにひどく驚いて腰を抜かしていたことを思い出し、ランスは苦笑いを浮かべる。今思えばなんと間抜けだったんだろう。誰かに見られなくてほんとよかった。


何本も蔓薔薇が交差する窓の隙間から、ひょこりとアイリスが姿を現した。ランスは思わず肩を上げた。やはりこの前の出来事は夢ではなかったと確信する。

「やあ、アイリス。遊びに来たよ。」

「…来ないかと思ったわ。忘れてるかと思っちゃった。」

「ひどいなあ。僕これでも学校では一番賢いんだよ。誰かとの約束は絶対に忘れない自信があるよ。そして僕はそれを絶対に守るって決めてるんだ。」

人差し指を立て堂々と言ってのけるランスをみて、アイリスは小さく笑う。

「ねえ、学校って楽しい?何をするの?」


ランスはその場に腰を下ろす。

「学校ていうのは、勉強したりいろんな人と会うところさ。皆は勉強は嫌いだって言うけど、僕は好きなんだ。だって自分の知らないことが学べるんだぜ。勿体ないよ。」

「私もお勉強は好きよ。クロアさんが教えてくれるの。学校では誰が教えてくれるの?」

「先生っていって、僕たちに勉強を教える大人がいるんだ。クラスに一人いるんだけど、僕のクラスの先生…、バーニャ先生って言うんだけど、面白いんだよ。この前理科の授業で先生がカエルを持ってきたんだけど、それが教室で逃げちゃって。しかも大きい上にたくさんいたからクラス中大騒ぎ。皆で何とか捕まえたんだけど先生は大きな声で笑うんだよ。びっくりして僕らも笑っちゃった。楽しい先生なんだ。でもなんでも知ってるしよくお話を聞きに行くんだ。」


口に手を当てアイリスは笑う。それが作り笑いではないことが見て取れた。

「カエルって図鑑でしか見たことないわ。足で高く飛ぶんでしょ?」

「そうだよ。こうぴょんぴょん飛ぶんだよ。」

そう言ってランスはカエルの跳ぶ様子を真似してみせる。その姿が面白くて、アイリスは小さく手を叩いて喜んだ。

「カエルなんてそこらへんにいるよ。今度捕まえてきてあげる。」

その言葉に、アイリスはさらに明るい笑顔を見せた。




そしてそれからも二人の日々は続いた。満月の夜。ランスが城の庭に忍び込み、アイリスと仲良く話す。


アイリスは本当に何も知らない赤子のようだった。本で得た知識はあるが、日常にある常識や生活など何も知らない。

ランスが話すたわいない日々の話や、そこに出てくる分からない単語の意味を聞くたび、アイリスは目を輝かせ、嬉しそうに耳を傾ける。ランスもこんなに熱心に自分の話を聞いてくれる人など、リューイを除いていなかったので嬉しかった。

そしてなにより、アイリスの濁りのない笑顔を見るのが楽しみになっていたのだ。


アイリスについて分かったことが少しある。アイリスはランスの2つ下の6歳で、実はこの国のお姫様だったということだ。

本人はあまり認識していなかったが、月に一度やってくるアイリスの母親がクロアというお世話係に王妃様と呼ばれていたと、何気なくアイリスが話したことで発覚した。

ランスは驚いたが、会う度にアイリスの身に纏う品が自分の着る衣服とは比べものにならない高価な品だと気が付いた頃から、なんとなく予感はしていたのでその後の変化はなかった。


「僕はね、歴史学者になるのが夢なんだ。いろんな国を回ってその国の歴史を探っていくんだ。」

「すごいね。世界を回るなんて楽しそう。」

「だろ?でもリューイはこの地で暮らしていくなんて堅いこと言ってるんだ。世界には自分の知らない景色がたくさんあるのに。」

「リューイ?」

アイリスが首をかしげる。

「僕の双子の弟なんだ。本当にそっくりで、たまに親も間違えるくらい。これと色違いの緑の帽子をかぶってるんだ。」

そう言ってかぶっていた青いキャスケットを手に取る。

「町の人達はさ、僕らがあんまり似てて見分けがつかないからこれで誰か判断してるんだ。」

「そんなに似ているの?」

「もう同じ顔だよ。性格は全然違うけど。アイリスには兄弟はいないのかい?」

「弟がいるわ。今年で3歳になるはずよ。」


それはアトラス皇子のことだとランスは察する。

子供ながらに大人たちが3年前、大いに歓喜した出来事を思い出した。長年子供に恵まれなかった王と王妃に、念願の皇子が生まれたのだ。


「二人は似ているのかい?」

「会ったことがないの。お母様が言うにはあんまり似ていないんですって。」

アイリスはそう言って少し肩を下ろした。その表情は少し冴えない。

「一度でいいから会ってみたいなあ。」

ぽつりとアイリスは言った。ランスはこの時初めてアイリスの悲しい顔を見た。

「アイリス…。」


その声にアイリスはハッとする。

「いいの。よくお母様からお話を聞くから。最近初めて馬に乗ったんですって。お父様に抱えられてとても喜んだらしいわ。」

まるで自分の事のように嬉しそうに話すアイリスは、どこか無理をしているように見えた。

だがランスはそのことを口にすることなくアイリスの話に耳を傾けた。



その日も満月だった。

アイリスは開けてはいけないと言われているカーテンの隙間から空を見上げると、途端に笑顔になり視線を下に向けた。アイリスがいる部屋から下を見ると、木々の隙間から現れるランスの姿が見えるのだ。


しばらく待っていると、視界に青い何かが現れたのを確認する。アイリスはランプを手に持つと、部屋を出て階段をゆっくりと降りた。電気もつかないので、夜はずっとこのランプで明かりを取る。

いつもの窓に近づくと、イバラと蔓バラの隙間から人影が見えた。最後に会ったのが6日前だった。久しぶりの再会に心躍るものを感じる。


「ランス。」

声をかけると、その人影は少し肩を震わせた。そしてこちらを振り向き笑顔を見せる。青いキャスケットが鮮明に目に映る。

「やあアイリス。久しぶりだね。」

「えぇ、ここ最近満月が出なかったものね。元気にしてた?」

「元気だよ。でも最近少し風邪地味なんだ。町で流行ってるんだよ。」

「まあ、大丈夫?無理はしないでね。」

「平気だよ。体が丈夫なだけが取り柄なんだから。」

それを聞いてアイリスは笑う。

「あ、そうだ。この前言ってたカエルを持ってきたんだ。」

「え、本当?」


アイリスの声が少し高くなる。約束を覚えてくれていたことが嬉しかった。

ランスは合わせていた両手をそっとずらした。鮮やかとは言えない緑色で、その皮膚はしっとり濡れているのが窓越しでも分かった。ランスはゆっくり右手を下ろすと、よく見えるように窓に左手を近づける。

アイリスは窓に両手を付け必死に覗き込む。丸くぎょろりとした目が左右に揺れるのを、興味深く眺め笑顔を作る。


その瞬間だった。先ほどまでランスの掌で大人しくしていたカエルが突如跳び上がる。アイリスが驚いて小さく声を出すよりも、ランスがとっさに手で押さえようとするよりも早く、カエルは難なく芝生の上に着地し、草の緑と夜の色に見事に姿を隠す。

「しまった。どこにいったんだろう。」

ランスが懸命に芝生を見渡すが、明かりもないので見つけることができないのでとアイリスは悟る。

「いいの、ランス。飛ぶ姿も見れて面白かったわ。」

「でもせっかく捕まえたのに。あんまり見れてないじゃないか。」

「いいの、本当に。カエルも自由にしてあげないと。皆のところに帰してあげなくちゃ可哀そうだわ。」

アイリスがそう言うと、ランスは屈んでいた腰を上げ、アイリスを見る。

その表情が少し悲しげだったので少し驚いてしまう。なにかひどいことを言ってしまったかしら。

「ランス?」

ランスは少し躊躇うように俯き視線を彷徨わせるが、やがてアイリスに顔を向けた。


「君も自由になりたいかい?アイリス。」

アイリスはランスの言っていることが理解できず首をかしげる。

「この御屋敷から出たくない?」

言葉を変え、ランスは再び問う。今度は何を言っているか分かった。アイリスはハッとして目を開く。

「…私はいいの。私はここにいるのが一番なの。」

「一歩も外に出られずにずっと一人でいることがかい?」

「一人じゃないわ。クロアさんが毎日来てくれるし、お母様もたまに会いに来てくださるわ。それにランス、あなたもいる。私は一人じゃないわ。」

そう言ってアイリスはにっこりと笑う。しかしランスは真剣な表情を崩さない。


「外に出たらもっといろんな人に出会えるよ。カエルだっていつでも見れる。カエルだけじゃない。いろんな生き物を見ることができるんだ。それだけじゃない。部屋の中じゃ見られない景色だってある。」

「…景色?」

「世界は広いんだ。俺たちが暮らしているこの王国も世界から見たらそこら辺のアリより小さいんだよ。だから君はもちろん、俺でも見たことがない風景がたくさんあるんだ。見てみたいと思わないかい?」

アイリスは俯きながら小さくつぶやく。


「でも、私はここから出られないもの…。お母様も悲しむわ。」

「アイリス。」

アイリスが顔を上げると、すぐ近くにランスの顔があった。アイリスは思わず慌ててしまう。棘が目にでも刺さったら大変だ。

「危ないわ。離れて。」

だがランスはその場を動かない。

「アイリス、もし君が外に出たいと思っているなら、俺はいつかそれを叶えてあげる。そこから出してあげるよ。」

「え…。」

「今は子供だから無理だけど、何年かかるか分からないけど、君がその日を待っていてくれるなら、俺は約束する。君のお母さんだって分かってくれるよ。優しい人なんだろ?」


アイリスは言葉が出ない。固まったように動かなくなる。

外への憧れがない訳ではなかった。一日中、開けてはいけないカーテンの向こうにはどんな世界が広がっているのかと、思いを巡らせ一日を過ごしたこともある。

それでいいと思っていた。そんな日常が当たり前だと思っていたからだ。


でも、ランスの言葉が心を大きく動かす。分厚いカーテンの先を、この目で見てみたい。そう思ったら、無意識に口が開いた。


アイリスには大きな、他の人からしたら小さな願いがあった。自然とそれが言葉に出る。

「花が…、見たいの。」

「…花?」

「一面の花畑が見たいの。先が見えないくらい広い花畑。」

それは初めて出た、アイリスの本音に聞こえた。ランスの顔が優しくなる。

アイリスは目に少量の涙を浮かべて、目の前の少年を見た。


「いつか見せてあげる。だからその日まで待ってて。このことはずっと黙っておくんだよ。俺にも言わずにね。楽しみに待っててよ。」

「…本当に?」

「言っただろ?俺は約束は絶対に守るって。」

歯を見せ無邪気に笑う。それを見てアイリスもおかしくて笑ってしまう。

「約束するよ、アイリス。」



自分を呼ぶ声はとても優しくて暖かい。ずっと聞いていたいと思うほどに心地いい。


何も変わらず過ぎていくだけの毎日に、小さな光が、この時カーテンから差し込んだ。

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