毛穴汁
2010.06
鬱憤が溜まっていた時期に書いたもの。きれいな話ではありません。
三時のお茶の時間に、アールグレイの紅茶をいれたグラスとクッキーを数枚並べた花柄の皿を持ってテーブルについた。
お茶のお供にテレビをつけると、ハゲの中年男がカツラの宣伝をしていた。不自然な笑顔を作っては、カツラを視聴者に勧めている。
尖った八重歯が白く光る。
それを見てふと思い出した私は、鏡を持ってきて髭を抜くことにした。
ぶち、ぶち、と産毛を抜いていく。
若干痛い、血が出ているが気にせず毛を抜き続ける。
なぜ私は女なのに産毛とは言え、髭が生えてくるのか。
抜いても抜いても、数日経てばまた生えてくる。
なぜそこまでして生えてくるのか。
私に髭が必要だとでも言うのか、この髭は。
凄まじい生命力。
まるで意味がない生命力。
私は、もう二度と生えてくるな二度と生えてくるなと念じながら髭を抜く。
鏡に、私の丁度真後ろの棚に飾ってある人形が映っているのが見える。
あの程度でいいだろう。
髭は生えなくていいだろう。
髭を抜くのに全神経を集中させているのに、顔の他の部分に生えている産毛も気になってきた。
頬からちょこちょこと顔を出している。
抜く。
すると、私の両肩がいきなり重たくなった。
鏡越しに見ると、小さな人間のような何かが二人、私の右の肩、左の肩にそれぞれ乗っているではないか。
一人は赤くて、もう一人は白い。
赤が性格のいい方で、白が性格の悪い方だと直感的に悟り、私は白い小さな人間に警戒心を抱いた。
白い小さな人間のような何かが言った。
そんなに毛がいらないのなら、全部の毛を消してやる。
髪の毛も、眉毛も、まつげも、無論下の毛もだ。
全ての毛を消して、もう二度と生えてこないようにしてやる。
私は冗談じゃないと言い、鏡越しに白い小さな人間のような何かを睨んだ。
今度は赤い方が言った。
それでは、全部の毛を伸ばそう。
腋の毛も、脛の毛も、腕の毛も、無論髭も。
全ての毛を長く長く伸ばしてやろう。
私は己の愚かさを恥じた。
赤も白も性格が悪い。
こんな奴らの好き勝手にさせてはならない。
今すぐにでも殺すべきだが、生憎私は今毛を抜いている最中なのだ。
手を離せない。
赤い小さな人間が毛を抜かないように、右腕で眉毛とまつげを覆い、右手で髪の毛をがっちり押さえ、足を交差させて大事なところをガードし、白い小さな人間に毛を伸ばされないように左手を振り回す。
目が見えなくなり、おまけに両手が充分に使えない不自由な状態だったが、私は懸命に髭を抜き続けた。
しかし二人は私をせせら笑いながら、各々勝手に人の毛を伸ばしたり抜いたりしている。目は見えないが、痛いのでわかる。
いい加減に腹が立った。
私はとうとう作業を一旦中止し、赤い小さな人間のようなものと白い小さな人間のようなものを一人ずつ両手で掴み、テーブルに叩きつけた。
ギーという耳障りな悲鳴がしたが血は出なかったので何となく安心した。 しかし、このままでは見苦しい。
仕方なしに、完全に平らになった二つを捏ねて一つの塊にしてテーブルの隅に転がした。
これでやっと思う存分毛が抜けるぞ。と私は更に意気込んで産毛を抜くのに精を出した。
鏡を見ていると色々なことに気がつく。
髭も困ったものだが、毛穴にも困らされている。
毛穴から生えている産毛など最悪だ。汚らしいことこの上ない。
怒りを込めて抜くと、透明な油っぽい汁が一緒に飛び出た。
それは毛穴から生える毛を抜く度に飛び散り、テーブルに小さな水たまりを作った。
これが毛穴汁か、と私は毛を抜きながら汁を眺めた。
それを見ていたテレビの中のハゲの男が、大きな足音をたててテレビから抜け出してきた。
テーブルの端を両手で掴み、「これが毛穴汁か! これが毛穴汁か!」と叫ぶ。
私は無視して毛を抜いたが、やはり毛穴汁が出てしまうのでハゲ男は更に興奮して鼻息を荒くした。テーブルを掴む手が震えて、テーブルがガタガタと鳴った。毛穴汁に波紋が浮かぶ。
「これが、女子高生の毛穴汁! これが女子高生の毛穴汁! 毛穴汁は若ければ若い方だけいい! うへへへへぇ」
はぁはぁ言いながら、ハゲ男は赤い舌を伸ばして毛穴汁を舐め始めた。最初はちろちろという具合だったが、段々テーブルを音を立ててしゃぶりだした。
私の目から一筋の涙が流れた。
「ごめんなさい、私は女子高生ではないのです。もう二十歳をとうに過ぎて、女子大生ですらないのです。申し訳ありません」
私の言葉にハゲ男は激昂し、毛穴汁を口の端から垂らして怒鳴った。
騙したな、この馬鹿女! と言いながらハゲ男は膨れあがり部屋一面に広がり、黒くて丸い円盤となって部屋の壁を破壊してどこかへ飛んでいった。小さな人間のようなものだった塊は彼に吹き飛ばされて消えた。
風が吹く。壁が壊されてしまったので、外の景色がよく見えるようになった。ブルーの空を気味の悪い目玉のついた太陽が落ちていく。
私はますます申し訳なくなって、謝り続けた。太陽があんなに嫌な目をしているのは私のせいだろうと思うと、涙が溢れてくる。
毛穴汁も溢れる。
これはまずい。私は焦燥感にかられた。
毛穴汁は多少は出るのが正常だが、全て出てしまっては死んでしまう。
幾ら焦ったところでもう手遅れだった。お願い、止まってと祈っても、毛穴汁はびゅーっびゅーっ出てくるし、涙も止まらない。壁のない部屋が涙と毛穴汁で埋め尽くされ、私はその中に閉じ込められた。
毛穴汁の勢いが徐々に弱くなる。しかしこれは、出るのが止まったからではなく、もうそろそろでなくなる為である。私はすすり泣きながら、顔に手を当てた。
私の思いも空しく、遂に毛穴汁は出なくなった。
あぁ……。毛穴汁がすっかりなくなってしまった……。おしまいだ……。
だが、顔に当てた手に、何か柔らかく触れるものがある。
それは立派な桃色のハトだった。ハトは私の毛穴から出てきて、一回見事に羽ばたいてみせてから空の彼方へ飛び去った。
私はハトの消えていくのを見届けると、鏡に視線を戻した。
私の顔はパンドラの箱だったのだ。
最後に出てきたのは美しいハトだった。
私は嬉しくて声をあげて爆笑した。
おや?
私は首をひねった。
鏡に映る私の笑顔のことである。
誰かに似ている。何かに似ている。
しかしどれほど頭を回転させても思い出せなかった。
確かに何かに似ているのだが。芸能人か? 動物か?
そこでテレビのリモコンに手を伸ばし、適当にチャンネルを回してみた。
運良く何かが見つかるかもしれない。
女。男。人間。豚。人間。草。人間。胎児。人間。豚。蝙蝠。人間。
特に見つからなかった。
とすれば、答えは自分で出すしかない。爆笑したまま鏡をまじまじと見つめる。
様々な角度で見つめる。
鏡の端に映る人形が冷ややかな目で私を見ている。
私を覆う毛穴汁の周りで、満月が上下運動を始め、海が高くなってきたが、やはりわからないままだった。
このままでは埒があかないので、私は目を瞑った。
一億匹の桃色のハトが均等の間隔で模様のように並んでいる。
くるっぽーくるっぽー。
一億匹の桃色のハトが一斉に、首をリズミカルに振りだしたので私はハッと目を開けた。
もう一度鏡を見る。
おや?
私は再び首をひねった。
どうにも思い出せない。
鏡に映る人間が誰なのか……、誰かに似ているのだが。
この爆笑している女、これは一体誰なのか。
そういえば、毛穴汁はいつの間になくなっていた。床にしみこんで、下に落ちていってしまったのだろう。
そう思って床を見たら、床はなかった。
性格の悪いやつらばかり。