散る
いつの間にか閉じていた目を開いた。机が思ったよりも近くにあった。首を深くうな垂れていたのである。
立ち上がってドアを開くと、見知った顔があった。
「教授…」
坂井教授が立っていた。もう長い間、連絡をとっていなかった。恩師である坂井教授が、異生物対策特別委員会から去ったのは、俺が真龍の研究を始めたのが原因の一つであった。
そして、俺は真龍の研究にも失敗した。
なんとなく、坂井教授と会うのが気まずかったのである。
「久しぶりだな。入っていいかね?」
坂井教授は、以前よりも痩せているようだった。以前は完全な二重顎になっていたが、今は顎の肉が幾分少なくなっている。
今は大学で甲龍の遺伝子研究をしているはずである。
「どうぞ。雑然としていますが…」
この研究室を出て行く準備をしていたので、ダンボールや紙袋に入った本などが、部屋の中央を陣取っている。
部屋の隅の椅子に腰掛けると、坂井教授は俺の左手にちらりと視線を送ってから口を開く。
「突然だが、私の研究を手伝わないか?」
坂井教授の声は今まで聞いたことのないほど温かな口調だった。
(俺の左手のことを知って同情したのか?)
そう考えると苛立ちが浮かび上がってきた。
「基礎的な研究には興味がありません。甲龍を滅ぼすための研究をしたいのです」
口調に少し棘があったかと後悔したが、内容は本心だった。今は甲龍を滅ぼすために何かをしたい。坂井教授は甲龍についての研究を行っているが、甲龍の遺伝子構造や性質などを調べる基礎的な研究が主だったと記憶していた。
「その左手は甲龍に…」
俺の左手は、人前に出る時は、綿を中に詰めた手袋をしていたが、普段は作業がし易いように大きな鉤が付いた義手をしている。もっと精緻な義手が欲しいが、今の世の中では簡単には手に入らない。
「そうです」
沈黙が訪れた。俺は自分の冷たい態度に嫌悪を抱きながらも抑えることができない。坂井教授に自分の弱みを見られたくなかったのである。
窓の外に目を向ける。窓のすぐ外には甲龍を防ぐために、太い鉄パイプの格子が取り付けられている。この辺りには甲龍が出没したことはないが…。
「なぜか私のところに、幾つかの民間企業から甲龍の対策のための研究費を援助したいという申し出があってね。もう国や甲龍プロジェクトには頼っていられないということらしい」
「つまり…甲龍を滅ぼすための研究を行うということですか?」
「そうだ。これからはそれに力を注ごうと思う」
様々な試みが成されているが、甲龍が出現して四年以上が過ぎているのに、まだ甲龍を絶滅させることはできない。
それどころか、甲龍は益々その版図を広げ、人類だけでなく多くの生物の居場所を奪い去っている。
このままでは遠くない未来に、地球上から陸生の中型以上の哺乳類、爬虫類、爬虫類、鳥類が姿を消すだろう。そして、それらが姿を消し、餌がなくなれば、甲龍はその状況に対応し、小動物や海の中の生物も自らの増殖するためのエネルギーとするだろう。
甲龍には、サバンナで草食動物が減れば、ライオンも数を減らすというような食物連鎖の影響はない。地球の全ての生物を食らい尽くすまで、増殖していく存在である。
(甲龍は人類と同じだな。地球上のあらゆるものを食らって、自分たちの世界を築いていく…)
人類も地球環境を破壊し、あらゆるエネルギーを使いながら世界中に増殖した。
甲龍が出現する前は、人類は地球を汚し、それによって自ら首を絞め、生きていく場所を失ってゆっくりと滅びていくと思われていた。そして、それを少しでも先に延ばすために様々な努力をしようとしていたところであった。
だが、今はそんな心配をする必要はない。人類は六十億以上いた人口の十分の一近くを失っていた。
日本はまだ被害が少ない方である。
甲龍は寒さに適応したものも現れているが、やはり寒い場所は苦手のようで、冬が訪れる地域では繁殖のスピードが鈍い。逆に、熱帯地方では爆発的に増え、被害も大きい。国によっては人口の八割を失ったところもある。
俺は複雑な想いに囚われた。
自分を放り出した甲龍プロジェクトに見切りをつけた人がいる、ということは、どこか心踊る感じだ。しかし、自分が籍を置き、研究をしていたところでもある。
特に、日本が行った最大の甲龍対策の一つは、真龍を造り出すことであった。そして、その中心にいたのが自分である。結果は散々であった。世界がこんな状態ではメディアも機能していなかったし、甲龍に対する作戦は世界中でことごとく失敗していたので当時の異生物対策特別委員会、そして俺自身に対する風当たりは強くはなかったが、人々にさらなる失望感を与えたことは確実だった。
「一つ、聞いていいですか?なぜ急に研究の方向を変えたのですか?」
坂井教授は椅子に深々と座り直した。
「もう、ゆっくりしている時間はないのだよ。いつ脳の血管が破裂してもおかしくないと医者に言われたよ。血管がぼろぼろらしい」
医療機関も今は正常に機能していない。助かるかどうか分からない者を治療する余裕は、今の医療機関にはない。甲龍に襲われた人を緊急的に助けるだけで精一杯である。それに医者自体もかなり数が少なくなっている。
だが、坂井教授なら、治療を受けることができるはずである。国の中央にいくらでも伝手がある。異生物対策特別委員会の委員をしていたのだから…。
「先生なら、治療を受けることができるのではありませんか?」
坂井教授は首を振った。
「残りの人生をベッドの上で過ごす気にはなれない。家族もいないからな…」
奥さんは六年前に他界し、結婚していた一人娘は、夫と子供と共に二年前、異生物対策特別委員会を去った直後、甲龍に襲われて命を落としたと噂で聞いた。
「分かりました。先生の元で研究をさせて下さい。私のやりたい研究ですが…」
「それは知っている。甲龍を殺すウィルスの研究だろ?紫沢さんに聞いたよ」
(紫沢さんは、少しは俺の研究に興味を持っていたのか…)
坂井教授が俺を連れて行った研究所は、今までいた甲龍プロジェクトの研究所とは設備が桁違いに…悪かった。人だけでなく、薬品や機材も不足している状況である。
無菌状態で細菌類の実験をするためのクリーンベンチという設備や、培養するための恒温器など、全てが十年以上は十分に使われているものである。薬品類や器具も数が少な過ぎる。
しかし、それでも今の状況でこれだけの設備が揃っているところは世界でも、そうは多くない。甲龍プロジェクトが特別なだけである。甲龍プロジェクトの研究施設には世界中から様々な研究に必要なものが集められる。物だけでなく、人材も集められている。それだけ期待が多く集まっている場所である。
「十分じゃないの?」
不満な顔をしていた俺に向って、宇都宮が明るい声を出した。
「もう少しましなところを使わせてくれるように、坂井教授に話してくる」
「そんなことに時間を使わないで、すぐに研究を始めるわよ!あなたは今まで恵まれすぎていたのよ。私のいた大学に比べればかなり良いわ。研究室は地下にあって、甲龍の襲撃にも備えてあるし、電気も緊急用の自家発電設備がちゃんとあるんでしょ?十分よ」
宇都宮の声が室内に響いた。
俺がそれに何か言い返そうとした時、研究室のドアが開いた。
「あの…」
ドアを開いて入ってきたのは大学生らしき女性であった。
その人は俺の顔を見て、顔を強張らせる。
おそらく、その時の俺の顔は宇都宮の言葉に苛立ちを覚えていて、きつい表情を浮かべていたのだろう。
「美香…」
俺は、その人の顔に視線を固定したまま動かせなかった。
(似ていると思ったがやはり違う…でも…)
ドアを開いたまま立っているその人を見た瞬間、大学時代の恋人である美香の姿を重ね合わせてしまった。
よく見ると、ロングヘアーを後ろでゆったりと束ねた髪型は全く同じであるが、目の形、鼻の大きさ、唇の厚さなど違っているのは明らかである。それでも、どこか全体に漂っている雰囲気が美香に似ているのである。それとも俺の願望がそう思わせたのか…。
「坂井先生に今日から、海柳先生を手伝うように言われてきたのですが…あなたが海柳先生ですか?」
俺は頷いた。
宇都宮が俺の横に並ぶ。
「あなたが佐伯さんね。聞いているわ。さあ入ってちょうだい」
宇都宮はその人を研究室に招き入れた。
「私は宇都宮です。そして、そこに立っているのが海柳君」
「私は佐伯美奈です。大学院生だったのですが、大学が閉校してしまって卒業できませんでした。あまりお役に立てないかも知れませんがよろしくお願いします」
そう言って頭を勢い良く下げた。
俺もそれにつられるようにして頭を少し下げた。
その日は運び込んだ実験器具、薬品、本、資料などの整理に追われ、終ったのが夜中になった。
その合間に聞いたところによると、佐伯美奈は一年前に通っていた大学の近くに甲龍の巣ができて、閉校になり、実家に戻っていたらしい。
研究者になりたかった彼女は他の大学の大学院に通いたいと思っていたらしいが、なかなか自分がやりたい研究をしているところがなかったらしい。
ここへ来たのは、坂井教授とは父親が昔の友人であったことが縁であった。そして、研究員として採用された。
その日、俺は何度も彼女の上に視線を止めては、美香の面影を重ねてしまい、その度に軽い自己嫌悪を感じた。
恋愛感情などを抱いている暇は、今の俺にはない。
翌日から、始まった研究は最初から躓いた。
「エボラ出血熱、西ナイル熱、マラリア、コレラ、恐ろしい感染症は多くあるわ。どの感染症のウィルス又は細菌をベースにして甲龍を雑滅させるための武器を造る?」
人類を脅かしてきた感染症は数多くある。
そして、それらのうち人類が完全に克服できたものは少ない。
「そうだな。俺は感染ルートで選ぶ方が良いと思う」
「例えば?」
「甲龍は巣の中で共同生活をしているわけだから、空気感染するほどの感染力は必要なくて、接触感染する方が良いと思う。もし、人類に対しても有害なものに変異した場合もその方が安心だろ?」
「そうね。でも別の巣に属している甲龍とは接触しないわよ。偶に甲龍同士が縄張り争いをすることはあるけど、基本的には互いの縄張りには侵入しないわ」
甲龍はそれぞれの巣が領土を持っている。領土を他の巣に属する甲龍が侵せば攻撃を仕掛けるが、基本的には接触することはない。
「真龍がいる」
「えっ?真龍は絶滅したでしょ?」
「そう…俺たちが放った真龍は絶滅した。だけど、飼育されているものがいる」
「どういうこと?」
「甲龍プロジェクトさ。甲龍プロジェクトの中国支部で真龍の改良を行っている」
「海柳君が真龍を造ったのでしょ?なぜ日本支部でやらないの?」
「俺がやりたくなかったからだよ。甲龍と闘う真龍の姿―まだ甲龍に対して優位を保っていた時ではなくて、甲龍が対応してから後の―を見た時、真龍では甲龍に勝てないと思ったんだ。生物としての生命力が違いすぎる。甲龍はボロボロになっても立ち向かっていく。それに比べて真龍はすぐに逃げ出そうとしてしまう。甲龍には執念みたいなものがあるんだ。でも…甲龍にウィルスや細菌を運ぶだけなら十分に役に立つ。逆に言えばそれぐらいしか役に立たない」
真龍を否定することは、自分の過去を否定することである。自分を嫌いになっている者は自分を否定することは、どこか快感を伴うものである。
宇都宮は苦笑を浮かべただけで、何も言わなかった。
佐伯美奈が両手に資料を抱えて、近づいてきた。ウィルスの遺伝子操作に関する論文のいくつかについて、要点をまとめるように頼んでいたのである。
佐伯は紙束を俺の机の上に置き、紙束の一番上にある紙を目の前に出した。
「これでどうでしょう?」
佐伯が俺に向けた微笑は、上司に対する愛想笑いと同じで、好意の表れではないと分かっていても、心がざわめいた。
俺は佐伯の顔から視線を引き剥がして、紙の上に視線を落とす。
気になったところがあった。
「これは、どの論文の要旨?」
佐伯が紙束の中から、一つの論文を抜き出して渡した。
ドイツ人が書いた論文だった。それには、蜂などの女王を中心として成り立っている社会構造を有している昆虫には、その社会を維持していくための遺伝子を持っていることが書かれていた。
そして、ある遺伝子を破壊すると、実験に用いられた蜂は巣を維持することができなくなり、子孫を残せなくなっていた。
女王蜂は、多くの働き蜂によって生命を維持され、卵を産むことができる。つまり、自分だけでは生きていくことができないのである。
「甲龍にも、女王を頂点とする社会構造を維持することに関係する遺伝子があるはずだ…確かこの中に…」
俺は一枚のディスクを取り出した。
甲龍プロジェクトを離れる前に、甲龍に関しての情報を集めて持ってきたのである。
甲龍に関しての研究データは、基本的に全て公開されている。少しでも甲龍に関しての研究が促進されるためにである。
しかし、公開するためのシステムの整備が、社会情勢の混乱のために完全には程遠い。
俺は、知り合いの研究者たちや、甲龍プロジェクトの研究者用のデータベースから直接にデータを集めておいた。
その膨大なデータからデータを取り出していく作業は、かなりの時間を要すると思われた。
俺は今まで甲龍の研究をしてきたが、宇都宮と佐伯は始めたばかりである。初めての土地を地図も持たずに歩き回るようなものである。
そんな中、甲龍に関するニュースが飛び込んできた。
「甲龍が真冬の札幌に出現しました」
凍てついた街の上空を飛び回る破壊者の姿が、テレビに映し出されていた。
レポーターがその様子を伝える。少し離れた建物の中にいるようであるが、甲龍に見つかれば襲われるだろう。命を賭した報道である。
「現在の気温は氷点下十五度、今まで甲龍はここ札幌付近でも、さらに平均気温が低い北ヨーロッパの都市でも巣を造っていることは確認されていますが、気温が五度以下になると活動をほとんど停止し、巣の外に出ず半冬眠状態になることが知られていました。また、未成熟の巣であれば長期間の寒波などのために凍結し、全滅することもありました。つまり、気温がかなり低くなる地方では、冬季の甲龍の襲来は心配しなくても良かったのです。ところが、その常識が今、覆されました。甲龍は酷寒にさえも耐える力を身に付けたのです」
変温動物であったはずの甲龍は、どうやってか分からないが、自らの体温を調整する術を身に付けたのである。
そのニュースの日から氷に閉ざされた北の都市に次々と甲龍の姿が現れた。
また一つ、人類の安住の地が奪われた。
俺たちは、あるウィルスの中に二つの遺伝子を組み込んだ。
一つは、後部咽頭線腺に働きかけて、その活動を停止させるものである。
後部咽頭腺は甲龍の女王が発するフェロモンを作り出すための、頭部に存在する大型の貯蔵器官である。女王はフェロモンを発することによって、巨大な甲龍の群れを巣に留めているのである。フェロモンがなくなれば、巣に帰属する意識は甲龍から薄れる。
そして、もう一つは自我を目覚めさせるための遺伝子である。
甲龍は蟻や蜂などと似た社会形態を持っているが、決定的に違うのはその知能である。進化を続けた甲龍は、今やチンパンジーに近い知能までも持っている個体が出現している。今のところ、数個の巣に属する甲龍の中の僅かな数だけであると思われるが、甲龍の劇的な進化の末に人類と同程度、又はそれ以上の知能を備えた甲龍が現れる可能性も否定できない。僅か、数年前には甲龍の知能は、犬よりも低かったのである。
だが、逆に知能があるということを利用できる場合も考えられる。このウィルスに甲龍が感染し、自我に目覚めれば、甲龍は女王を頭脳とする単一の集団ではなくて、個々に意思を持った存在となる。
そして、攻撃性の高い甲龍は女王の甲龍を殺そうとするだろう。そうなれば、甲龍が作り上げたシステムは崩壊する。
「こんな、方法よりも直接に甲龍を殺すウィルスを作った方が良くない?」
宇都宮がこの研究を始める前に、発した質問である。当然の質問に俺は答えを用意していた。
「甲龍同士の闘いでは、突然変異はなぜか起り難いんだ。他の敵、例えば人によるミサイル攻撃などにはすぐに、突然変異によって対応していくのに、違った進化を遂げた甲龍同士が衝突しても、それに対応するための突然変異は、ほとんど起きないことが確認されている」
佐伯が明るい声を発する。
「つまり、甲龍を攻撃させるのは甲龍を使うか、内部から崩壊させるのが良いというわけですか?」
「その通りだ」
九ヶ月後、奇跡的な速さで俺たちは目的のウィルスを誕生させた。
だが、途中から研究の中心を担ったのは、俺や宇都宮ではなく、甲龍プロジェクトから派遣された、USAのウィルス研究のエキスパートたちであった。
研究内容は公表していたので、俺たちの研究の目途がついた時点で、USAの甲龍プロジェクトの方から共同研究の申し出があったのである。
飛行機や船でUSAまで行くのは甲龍に襲われる危険が大きく、研究はネットを通しての情報や意見の交換に留まった。設備や人員があまりにも違いすぎていたため、研究の中心はUSAの研究施設になっていった。
俺は宇都宮、そして佐伯と共に、甲龍プロジェクトの研究室に再び戻ったが、少し離れたところから、研究を見守っているような感じで研究が続き、疎外感を感じることもあった。
それでも、俺たちが夢見た甲龍に対する武器が、こんなにも早く形を成していくのを見ているのは、喜び以外の何者でもなかった。
春も夏もいつの間に過ぎ去ったのか、俺たちの記憶の中には季節の変化を示すようなものはなかった。
頭の中は、甲龍とウィルス、そして失った多くのものだけで埋め尽くされていた。
俺たちはそれをホープと名付けた。この名は研究がようやく形になった頃、真っ赤に紅葉した山を見ていて思いついた。季節を感じることができるようになった時、ようやく心に希望が僅かに湧いてきた。
ホープウィルスは文字通り、人類にとって希望となる存在である。少なくとも、俺たちはそう確信していた。
紅葉が終る頃、ホープを感染させた最初の真龍が甲龍の巣の近くで放たれた。
俺と宇都宮、そして佐伯が一つのモニターに視線を注いでいる。作戦の実行は特別のチームが組織され、ウィルスを感染させた真龍の動きや甲龍への感染状況などを調査、解析することになっているが、俺たちにもその情報は全て流され、アドバイスを行うことになっていた。
真龍には、その位置を示すものだけでなく、心拍や体温などの生命反応のセンサーも取り付けられている。
さらに、高精度の軍事衛星からの映像も届いている。今回の実験は、USAが持っている世界最高性能の軍事衛星がモニターできる地域を選んで行われたのである。
一匹だけで飛んでいる真龍は、頼りなく見えた。一度は甲龍を多量に殺し、絶滅の手前まで追い込んだ存在であるのに…。
真龍を見つけた甲龍の群れが、速度を上げた。
甲龍の遺伝子の中には真龍に対する憎しみが詰まっているかのように、一気に追いつめ…真龍を飲み込んだ。
一月後、東京に初雪が降った。
地球温暖化が叫ばれていた頃とは違い、年々、冬の寒さが厳しくなっている。人の文明が急激に衰退し始めてから五年程しか経っていないのに、地球がこれほどに変化している。
「巣の中に甲龍の女王の死骸を発見しました。多量の卵も死んでいます」
若い研究員が、興奮を抑え切れない様子で話している。
俺たちはその様子をモニター越しに見ていた。
佐伯が満面の笑みを俺に向けた。
「やりましたね!」
その笑顔に引き込まれそうになりながら、俺も微笑を返した。
「これからもっと忙しくなるぞ。ウィルスの培養を急いで、世界中の甲龍の巣に放ってやる」
この時、はっきりと佐伯に対する好意が自分の中で変化していることに気付いた。美香と似ていることで始まった想いであったが、それが佐伯という存在自体に惹かれ始めている。だが、他の感情にも気付いていた。
甲龍プロジェクトは、ホープウィルスを用いた甲龍の殲滅作戦を実施することを発表した。
ホープウィルスを培養し、真龍に感染させるという作業が始まった。
すぐに大量生産が始められると考えていたが、簡単にはいかなかった。冷凍保存していたホープウィルスの原株からの培養がうまくいかずに死滅させてしまったり、培養したものの感染力が弱く真龍に感染させることができなかったりという状態が続いた。
なぜ、一度成功したことがもう一度できないのか不思議だった。そして、進展のないまま三ヶ月が過ぎた。
そこで、痺れを切らした甲龍プロジェクトはホープウィルスの原株を世界のいくつかの細菌学の研究室でも培養を試みることに決定した。
俺は反対したかった。しかし、一日でも早く甲龍から開放されたいと全ての人が願っているのである。希望を目の前にぶら下げられて、大人しく待っているのは難しい。
俺は全てのデータと共に、原株を送った。
(これが間違いの元だった。だが、これをしなければもっと悪い状態に世界は陥っていたのかも知れない)
二ヵ月後、イギリスの甲龍プロジェクトの研究室で大量培養に成功し、それを真龍に感染させることに成功した。
第一陣として、百匹の真龍が世界中の甲龍の巣の近くで放たれた。
春から夏に季節が移る頃、甲龍たちはホープウィルスに感染し、自滅を始めた。
毎日のように、甲龍の巣が消滅したというニュースが流れ、世界中で甲龍同士が争う姿が観測された。
最終的にホープウィルスのキャリアーとなった真龍は、五百匹以上も造られ、全ての大陸で放たれた。
甲龍の版図が縮小し、脅威は確実に影を薄めた。
しかも、核兵器による攻撃と違い、人類に対して副作用はないのである。
人々の中に希望が芽生えた。
人が集まれば、そこでの話題は甲龍が消え去った後の世界のことである。まだ、人々の心の中には甲龍が現れる前の世界のことが鮮明に残っている。テロや戦争、飢餓で苦しんでいた国も多くあったが、平和な国も存在していた。今は平和な場所は北極、南極に近い一年のほとんどを氷に閉ざされているところだけである。甲龍が寒さに適応してきたと言っても、一年の半分以上は氷の世界から解放される場所でなければ、生きていけない。
甲龍プロジェクトから、甲龍絶滅までの時間が示された。
それは四年という短くはない時間であったが、待てない時間ではない。それに、三年後には九割以上の甲龍の巣が崩壊すると予想されている。
そこまで甲龍の数が減れば、文明も次第に復興し、社会生活も昔の姿を少しずつでも取り戻していくことができる。
希望を持った人の力は強く、僅か二年でかつての先進国を中心に多くの国が復興し始めた。市が開かれ物流が始まった。食料、特に甲龍の餌となる牛や豚などの肉は少ないが、タンパク源として昆虫の飼育が世界中で始まり、短期間のうちに少ない餌で繁殖する昆虫は、重要な食料となりつつある。
穀物や野菜も十分とは言えないが、少しずつ出回り始めている。甲龍の生息し易い熱帯地方の人口が特に減少し、人類の数が急激に減ったことが、皮肉にも食料の確保という面からは良い方へ作用している。
テレビやラジオなどのメディアは、まだ数えるほどだが復活し、情報を発信し始めている。
人類は再び、地球の覇者となるための道を歩もうと、もがき始めた。
その年の冬は寒かった。
これは日本のことで、逆にヨーロッパの冬は暖かく、多量の雨が降り洪水を引き起こした。
甲龍の脅威によって、産業活動が止まってからは、地球温暖化の傾向が止まり、冬は厳しさを取り戻し、異常気象は起きなくなっていたように見えていたのだが…。
「甲龍の最後の反撃で、地球の気候を壊しているんだろうか?」
「つまり、甲龍の断末魔か?」
「それなら、我慢するかな。もうすぐ甲龍は地球上から消えるのだからな」
そんな冗談が言えるほど、人々の心に余裕が戻っていた。
そして、俺と佐伯との距離は次第に縮まっていた。
俺は交際を申込み、佐伯はそれを受け入れた。一年後には週に一、二度は佐伯の部屋に泊まるようになっていた。
俺にとって佐伯と過ごす時間が徐々に重みを増し、その重みが自分にとって必要なものに思えてきていた。
二年間、俺はホープウィルスが甲龍に与える影響の研究を続けていた。それは、幸せな時間だったのだろう。自分の研究結果が満足のいく成果を上げ、大切な人が側にいる。
「なぜだ?」
俺は自分の幸せな時間が止まり、崩れ去るのを感じた。
USAからの調査結果によると甲龍は真龍を避け始めた。真龍の姿を見ると襲ってきていたのが、真龍から逃げ始めたのである。真龍の方が圧倒的に数が少ないため、甲龍が逃げ回る必要がないはずだが、どのようにして真龍が保有しているホープウィルスが危険であることを学んだのだろうか。
しかも、真龍の方から甲龍に近づくことはない。数が違いすぎるのである。
先月、絶頂期の七割以下にまで減った甲龍が、僅かであるが増えてきていることが確認された。そして、このままであると急激に数を戻し、二年後には最大だった頃の数に回復すると予想された。
人類の上に再び、厚い雲が現れた。
ホープウィルスに感染した真龍の数を増やせ、という声が様々なところから湧き上がってきた。多くの政府からもそんな要望が出され、甲龍プロジェクト内部でもそんな声が大きくなってきた。
真龍を増やし、ホープウィルスの媒介者を増やすことに対して危機感を持った研究者は多くいたが、その声は今までの順調な実績によって封じ込められた。
今まで大丈夫だったからといって、これからも大丈夫だという保障はない。それは歴史が証明しているのに…。
その年の夏、真龍は全世界で五万匹にまで増やされた。
冬、ウィルスの繁殖し易い季節が訪れていた。
「恐ろしいことになったわ…」
宇都宮が険しい顔をして、部屋に入ってきた。
俺が座っている机の上に、A4サイズの紙束を荒く置いた。その十枚ほどの紙束の一番上の一枚に俺の視線が張り付いた。
「これは…」
「さっき、統合研究室の知り合いからもらった資料よ。USAでホープウィルスに感染した可能性のある患者がまた見つかったらしいわ。二例目ね。今度は、真龍から感染しただけではなくて、人から人に感染した可能性もあるらしいわ」
統合研究室は、甲龍プロジェクトの研究組織のまとめ役であり、甲龍に関する様々な情報を集めて分析している機関である。
俺は瞬きをするのも忘れて、宇都宮が持ってきた紙を見た。目が乾いて、痛みを感じ始めたが、目を一瞬でさえ閉じるのも惜しかった。
USAで三人の患者が、一月前に緊急入院した。原因どころか、病名の推定さえもできず、一週間で死亡した。その三人は親子だった。
その後の調査で、その親子のうちの子供が、死にかけていた真龍を見つけて、数日間だけ世話をしていたことが明らかになった。
そして、子供が最初に発症し、次に母親、最後に父親が発症した。症状としては、最初に人の呼びかけに対して反応が鈍くなる。次に、ほとんどの時間を無言で一点を見つめているようになる。その頃には食欲がなくなり、動くことさえも少なくなる。
これは脳の活動が、急激に弱まっていくことによって起る。遂には、外部刺激を全く受け付けることがなくなり、昏睡状態に陥り、様々な内臓の機能にも異常が現れ、体温が下がっていく。最後には脳が活動を停止する。
俺は思いついたことを、ポツリと口に出した。
「その真龍からホープウィルスが感染したんだ。子供の体内に入ったウィルスが何かの切欠―子供の体力が弱っていたのか、あまりにも多くのウィルスを真龍からもらってしまったなど―で爆発的に増殖し、その一部が人に感染力を持ったものに変異した。そして、両親に感染した」
宇都宮は眉間に皺を寄せた。
「それじゃあなたは、ホープウィルスがインフルエンザウィルスと同じような感染経路を見出したと言うの?」
インフルエンザは鳥に感染したウィルスが人に感染する変異を遂げることによって、新種のインフルエンザウィルスが生まれ、爆発的に広がることが多い。歴史的にもスペイン風邪、香港風邪など新種のインフルエンザウィルスが出現することによって多量の人が死んでいる。
「その可能性があると言ったんだ…それに君も同じことを心配しているんだろ?」
ホープウィルスの開発は、最終的な部分の多くがUSAの専門家チームの手によって行われたが、元は俺と宇都宮が始めた研究である。
俺は自分が、その人たちを殺し、もしかしたらもっと多くの人を殺すことになる原因を作った存在であるということに愕然とした想いを抱いた。
自分の立っている地面が急に軟化し、とても不安定なものに変わったように感じられた。
俺のその時の予想は外れていたが、現実となるまで多くの時間は必要なかった。別の場所、日本を震源としてホープウィルスが人の間で広がり始めた。
つまり、ホープウィルスは人に感染し、人に感染する能力突然変異によって獲得した。
同じような予想をしていた研究者は何人もいたようで、調査は世界中で進んだ。しかし、それは遅すぎた。ホープウィルスの感染は爆発的であった。
俺たちが造ったホープウィルスは人には感染しない構造をしていた。そして、人の体内に入っても増殖しないように遺伝操作によって何重にも罠が仕掛けられていたはずであった。
だが、ホープウィルスは想像以上の適応性を持っていた。最初に甲龍から感染した人―二十代の男性であった―の中では突然変異を起こさず、その人が死亡しただけでウィルスは広がらなかった。
しかし、三例目の患者の中で突然変異を起こし、人の社会にホープウィルスが広がった。
ホープウィルスは人に感染すると、自律神経に異変をもたらし、体温の調節機能の異変、内臓の機能障害を起こし死に至る。発症した人の致死率は五割以上、これからも上昇していくことが懸念されている。子供よりも成人で死亡率が高い。治療法はなく、自然治癒を期待するしかない。
感染から発症まで一ヶ月近くもかかり、もっと長い間、症状が出ない人もいるので、自分がキャリアーだと気付かずに広めてしまう場合も多かった。
空気感染はしないが、水によって感染した。上水道、下水道などのインフラが世界的に破滅的な状態になっているので、先進国でも水を通しての感染を止めることができなかった。
人類は甲龍とホープウィルス、両方の脅威に曝された。
ホープウィルスの発案者が俺であるという事が、いつのまにか知れ渡っていた。
甲龍プロジェクトはホープウィルスの発表を行った際には、どの研究者の名前も出さずに広報担当の者が説明を行っただけであった。
研究の最終的な主軸を担ったUSAの研究チームにはそれに対して不満を持っていた者は多かったらしいが、甲龍プロジェクトの上層部は、今日のような事態を予見していたのかも知れない。
最初は「お前が人類を滅びに追いやるのだ」「悪魔には死を!」など中傷のメールや、もっと激しい罵りの言葉が俺に届いた。
そのうちに、俺の部屋のドアに落書きが何度も書かれた。
俺の住居は甲龍プロジェクトが研究者用に用意してくれたところで、外とは隔離されていた。つまり、中傷の落書きは甲龍プロジェクト内部の者が行ったことである。
そして、遂には佐伯にもそれは及んだ。
俺たちの周りの者は俺と佐伯が付き合っていることは公然のことだったし、狭い社会である。
直接的な暴力などはなかったが、誹謗中傷などは止めることはできなかった。
甲龍プロジェクトの施設内ではホープウィルスの感染は今のところ確認されていないが、親類や友人がホープウィルスの犠牲になっている人は少なくなかった。
今までも甲龍プロジェクトの施設に出入りする者は、外部との接触を禁止されていたのに、外部の者が入ってくることも、内部の者が出て行って戻ることも禁止され、食物は電子線で十分に殺菌されてから搬入されるようになった。
そのストレスは徐々に高まり、その捌け口の一つがホープウィルスの発案者である俺であった。
だが、俺に対してはっきりと正面から批判の言葉を浴びせる者はいない。発案者が俺であっても、採用したのは甲龍プロジェクトの最高会議であり、それに対して反対をすることは、自分が甲龍プロジェクトの施設から去ることを意味するのである。
現在では、甲龍プロジェクトが管理している施設が、世界で最も安全な施設である。しかし、ここでも完全な安全を確保できているわけではなく、甲龍やホープウィルスの脅威からは逃れることはできない。実際に甲龍プロジェクトの施設で甲龍に襲われて全滅したところも一つや二つではない。それでも外にいるよりは、何倍も安全で、物資も恵まれている。
佐伯は、俺の元を去った。
俺は引き止めなかった。
引き止める理由さえも、思い付かなかった。
佐伯が最後に見せた、引きつったような笑顔だけが俺の記憶にしっかりと根を下ろした。
(俺の中に大きくなっていた美香と佐伯とのずれを敏感に彼女は感じ取っていたのだろうか。それとも…)
少し前から、佐伯の行動を見る度に美香ならこうしていたと考え、そして宇都宮なら…と考えることが増えていた。
佐伯が目の前から消えて、佐伯のことを考える時間が増えた。しかし、それも長くは続かなかった。佐伯に対する淡い愛情の欠片だけが心の隅に残っただけであった。
(俺はやはり自分勝手な人間だな…誰が大切な人なのかも分からない人間に、人類を救う手伝いができるはずがなかったんだ。真龍は甲龍に全く歯が立たず、ホープウィルスは人類を殺し続けている。
ホープウィルスは人に感染し、突然変異を繰り返す。そして、その人を襲った甲龍は新しいホープウィルスに感染し、巣を維持するために必要なものを失い、繁殖力を奪われた。
人が甲龍の食料である限り、ホープウィルスは甲龍を殺し続ける。そして、地球上にはすでに人類以外の甲龍の餌となる生物はほとんど生息していない。
甲龍の数は急激に減った。
人類が死に絶えるか、甲龍が死に絶えるか…。
その答えは二年後に出た。
人類は生き残った。
六十三億人もいた世界人口は百分の一近くに減ったと予想されている。今の状況ではそれを概算的に確認することさえ困難である。文明は形を失った。
甲龍の絶滅が確認される少し前、佐伯がホープウィルスによって死んだという噂を聞いた。
その噂を聞いた時、横には宇都宮がいた。
宇都宮とは恋人という関係にはなっていない。だが、友人と言うには近すぎる存在になっている。
佐伯が死に、宇都宮が生き残った。
俺は佐伯に好意を持っていたはずなのに、宇都宮が死なずに安堵している自分がいた。
確かに佐伯が死んだことは哀しい。だが、恐怖は覚えなかった。宇都宮を失うと考えただけで、自分のこれからの人生が急激に形を失うような恐怖を感じたのに…。
「私が死んだ方が、海柳君にとっては良かったかな?」
窓の向うに広がる新緑を見ながら、宇都宮が軽い口調で言った。
俺が、宇都宮に視線を向けると、宇都宮はすぐに視線を窓の外に戻し、小さな声で言う。
「ごめん…冗談にもならないわね」
「宇都宮が生き残ってくれて良かったよ…」
俺も視線を窓の外に視線を戻した。
「それってどういうこと?」
「俺にとってあんたの方が大事だってことだ…あんたはどうなんだ?」
宇都宮との関係をもう少し近づけたいような気持ちになっていた。ホープウィルスに対する特効薬も臨床試験の段階に入っている。近いうちに完成するだろう。人が生きていける地球が戻ってくる。
宇都宮は質問には答えず、全く別の言葉を投げてきた。
「どうして甲龍は人を襲うことを止めなかったのかしら?甲龍の適応力なら海の中の魚を餌にすることも可能でしょ?」
「甲龍は人を憎んでいたのさ。人類を許せないほど憎んでいたから襲うことを止めることができなかった。その憎しみが自らを滅ぼした」
「その憎しみはどこから来たの?」
「甲龍の中にある人の遺伝子だよ…」
甲龍の中には人のDNAが生きている。
人は地球上では異質な存在である。人だけが高度な文明を維持し、緊密なコミュニケーションの手段である言語を操り、文字を持つ。これによって離れた地にいる人とも意思の疎通が可能となり、知識は広がり、また蓄えられていく。人は連綿と続いていく人の繋がりを背負って生きていくのである。他の動物は恐ろしく長い時間をかけてDNAの中に知識を溜め込んでいくのに、人間は文明という貯蔵庫に知識を急速に溜め込んでいく。
そして、人の持っている最も呪わしい性質。憎しみの念を持ち、それが故に人を死に至らしめる。
そんな性質はどこから出現したのであろうか?
その答えはまだ人には分からない。
だが一つ分かったことがある。
甲龍の遺伝子が教えてくれたこと、憎しみの遺伝子と知識を得るための遺伝子は密接に関係している。
文明が続く限りは、憎しみが生まれ、それは自らを滅ぼしていく。
甲龍が舞っていた。
甲龍が落ちていた。
甲龍が散っていた。
木の葉が舞い散るように…。




