協力者
本格的な冬が訪れていた。街には出歩く人もなく、世界的に経済が混乱しているために、普通の物資だけでなく、電気や水道などのインフラも安定的な供給ができていなかった。多くの人々にとって、例年よりも厳しい冬が、気象のためではなく、甲龍という災厄によってもたらされた。
俺は一人の細菌学者を訪ねた。
もう五年以上は会っていない人である。大学時代には同じサークルに所属し、大学時代の多くの時間を共に過ごした。
卒業してからも、その人が発表した論文などは何度か読んだこともあるし、研究の様子などは噂で聞いていた。
だが、直接に連絡を取ることはなかった。
その人は俺のいる大学を卒業後、関東の大学院に進み、そこで助手をしている。宇都宮啓子と言えば、日本の細菌研究の世界では知る者は多い。エイズやエボラ出血熱など、人にとって脅威となる伝染病の原因となるウィルスの研究を遺伝子レベルで研究している。
四年半前にアメリカの有名な科学雑誌にも論文が掲載され、世界的にも研究者として知られている。
それに比べて、俺はその頃、国内の小さな科学雑誌に論文を掲載するのが精一杯だった。
しかし、その研究者としての名声の差が長年連絡を取らなかった理由ではない。
宇都宮啓子は、美香の親友であった。俺を通して二人は知り合ったのだが、すぐに十年来の友人のように意気投合していた。二人が弾んだ会話をしていると時々、俺は宇都宮に美香をとられたような気分になった。
美香と別れてから、避けていたのは彼女ではなく、俺の方だった。美香のことを吹っ切れていない自分を知られるのが嫌で、避けていた。
今は…早く会いたかった。
俺の頭の中に浮かんだアイデアを実行するには宇都宮啓子の力が必要だった。
宇都宮が勤めている大学は閑散としていた。正確に言えば、世界中で閑散としていない大学の方が少ない。
世界が滅亡するかも知れないというときに、大学に通って勉強する気にはなれないだろう。
この付近は甲龍の巣から離れているために、被害は今のところないが、明日には分からない。
突然、甲龍の巣が出現する可能性もある。
甲龍の監視体制はすでに崩壊して久しい。人々は生きていくことだけで精一杯なのだ。
今日は停電している。最近は、俺の住んでいるところでも停電が頻繁に起こる。それにガスや水道も止まる。ここも同様らしい。
窓から差し込んでくる陽光が弱すぎるために、薄暗い廊下を歩いていく。閑散としている中に自分の靴音が響く。
あるドアの前に立って息を軽く吸い、ノックする。
二日前に連絡はしてある。
五秒。アイボリー色のペンキで塗られたドアが開いた。少し軋み音がした。
「懐かしいわね」
記憶の中の宇都宮とほとんど変わらない姿が、ドアの向こうに立っていた。
昔からかなり細く、首や手首は折れそうなほどである。しかし、身長が高いためか、それともどこか男性的な振る舞いをするためか、か弱いというイメージはない。そして、特徴的なのは目であった。何も見落とすことはない、というほど大きな目であった。眼鏡をかけているが、それでも目の大きさは隠せない。
白衣、その下にはタートルネックのセーターが見える。暖房も満足に使えない今の状態では、少しでも厚着をして温かくする必要がある。
部屋には小さなストーブが置いてあったが、部屋全体を暖房するには明らかに能力が不足している。それでも、燃料が高騰している今ではストーブを使えるだけでも恵まれている。
「今日も停電で、仕事にならないわ」
実験設備はもちろん、ノートパソコンなどもバッテリーが残っている間だけしか使えない。
「研究の方はどう?」
宇都宮は、ストーブの上に乗っていた薬缶からマグカップの中に湯を注いだ。
「だめね。この大学も今は開店休業状態ね。学生もほとんど来ないし、先生方も少ないわ。ブラックで良かった?」
インスタントコーヒーの香りが広がる。
「ああ…ありがとう」
体が冷えていたので、温かい飲み物はありがたかった。
「あなたは今、どうしているの?京南大学は辞めたの?皆、心配していたわよ」
三ヶ月ほど前に、大学のサークルの同窓会があったらしい。
俺は自分の居場所を積極的に人に知らせていなかったので、招待状が届かなかった。
人は自分の死を身近に感じた時、思い出を求めるものなのであろうか…。
「大学を正式に辞めたわけではないけど、四年近く行っていないな。今は別の研究機関にいる」
「どこ?」
宇都宮は俺の話を促すように小さく首を傾げた。
「国の研究機関…異生物対策委員会の付属研究機関だ」
宇都宮は少し目を開いた。
「すごいところにいるのね」
甲龍の問題は、世界中で最優先のことである。従って、甲龍に関する研究にも莫大な資金と、優秀な研究者が注ぎ込まれている。日本で最高の頭脳が集められ、世界中の研究者たちと意見交換をしながら甲龍を絶滅させるための研究を行っている。
俺のような無名の研究者が普通では所属できるはずもない。実際、宇都宮の方が俺の何倍も研究者としての能力を認められていたのである。
俺はただ単に鬼崎と接触した者であるというだけの理由で、甲龍の研究に最初から携わっている。政府は、情報の漏洩を懸念したのだろう。
そして、俺は世界で最も甲龍に関しての情報を持ち、研究に必要なものが全て与えられた環境にありながら、目的を達することができなかった。甲龍を滅ぼすという目的を…。
「甲龍はもう止められないのだろうか?」
宇都宮はコーヒーカップをトンと置いて、窓の外を見た。
「こうやって空を見ていると平和なんだけどね。でも、甲龍はどこかで人を襲っているわけだわ…美香を襲ったように…」
セルロイドのメガネフレームに収まっている瞳から、何か強烈な感情が見えた。それは怒りか、不安か、焦りか。
俺の中にも同じような感情がある。
「甲龍を倒すための研究を手伝ってくれないか?」
宇都宮の目は空に向けたまま動かなかった。きつく閉じられた口がゆっくりと開かれた。
「甲龍だわ」
カタカタと歯が鳴った。
その音は彼女の口から出てきたのか、俺の口からなのか…。
俺の首は人生で最も早く動き、視線は素早く窓の外を動きまわった。
灰色の雲が全体を覆っている空に、黒い染みが浮かんでいた。
「近い!早く逃げるぞ」
数百匹はいると思われた。まだ、甲龍の姿がはっきりと捉えられない距離であるが、三分ほどでここまで辿り着く。
「なんで?この辺りには甲龍はいないはずだわ。それに警報もなかった」
宇都宮が呆然とした声を出した。
衛星や航空機を利用しての国全体のシステム的な甲龍の監視体制はかなりダメージを受けていたが、警察や消防などの機関が原始的な方法、つまり望遠鏡などを用いて人の目による監視をしていた。甲龍の来襲があれば、警報やスピーカーによる警告を流すはずであった。
しかし、停電は放送をできなくしている。それにこの大学は住宅地から少し離れている。
甲龍の姿が鮮明さを増している。
「早くするんだ。地下室はあるのか?」
甲龍から逃れるには、地下室に逃げ込むのが最も命が助かる可能性が高い。
「あるわ」
声が震えている。
宇都宮は立ち上がったが、一瞬よろけた。恐怖が体の自由も奪っている。
集まって飛んでいた甲龍の群れが散った。
狩りが始まるのである。
甲龍は女王が死ねば、兵隊の甲龍たちは自由になる。巣の近くに餌がある間はその周りで生きるが、なくなれば集団で移動を開始する。そして、寿命が尽きるまで餌を探し続ける。
つまり集団で移動して、一斉に狩りを開始する甲龍はすでに巣を持たないものである。
「助かるかも知れない」
女王に属している甲龍は、女王やそれが次々と生み出す甲龍の幼体のために自分が必要とする量の何倍も餌を探すが、巣を離れた甲龍は自分の腹が満足すれば、狩りを止める。
つまり、隠れていれば逃げ出すチャンスが訪れる可能性があるのである。
しかし、そのチャンスは多量の犠牲者が出た後にしか訪れない…。
廊下を走る。薄暗いため、先が見え難い。突然に甲龍の姿が現れるような錯覚に陥る。恐怖が想像力を逞しくしている。
「ナオキを残したままだったわ!」
突然に宇都宮が踵を返す。
「もう先に逃げているよ」
「犬よ!籠に入れたままなの!逃げ出せないわ」
男だと思ったが、違ったようだ。しかし、今から引き返しては危ない。大きな窓のあるあの部屋に戻っては、甲龍に発見される可能性が高い。
「諦めろ!」
宇都宮の腕を引っ張る。
宇都宮の体がカクンと止まったが、それは一瞬のことで俺の手を見かけからは想像できないほどの力で振りほどいた。
足音が遠ざかる。
一瞬、追うことを躊躇ったが、すぐに追いかけた。
宇都宮がいなければ地下室への道も分からない。それに何より、放っていくわけにはいかない。俺の目的を達するためには必要な存在だ。
先に研究室のドアを開けたのは俺だった。
すぐに宇都宮が飛び込んでくる。
キャンキャンと甲高い鳴き声が耳に届いてきた。
宇都宮が本棚の向うから持ってきた小型犬を運ぶためのバッグの金網越しに、薄茶色の毛をした小さな体に比して大きな目を持った犬が見えた。
人の食料も豊富とは言えない状態で、犬を飼うのは大変だろう。それでも、宇都宮にとってこのチワワは大切な存在であるようだ。
愛犬を目にして安心したのか、力が抜けかけている。
カッ。
硬質な音が平和な空気を凍らせた。音は窓の方から聞こえてきた。
「甲龍!」
一匹の甲龍が窓に張り付いて、口で突いている。
そして、その甲龍の向うに、さらに二匹の甲龍が宙に浮かび、俺たちをしっかりと視線に捉えている。
俺の視線の先を追った宇都宮は、硬直したように動きを止めている。
「早く…」
ガシャッ。
言い終わらないうちに、窓ガラスが砕けた。
三匹の甲龍が次々と飛び込んでくる。一匹が俺に、残り二匹が宇都宮に向った。
「うぉっ!」
俺の喉の奥から、恐怖が声になって出てきた。足から感覚が遠退いていく。
「きゃあーーー!」
俺に一瞬遅れて、喉の奥が切れそうな勢いで悲鳴を上げていたのは、いつも冷静な宇都宮である。
だが、宇都宮がパニックになった分だけ、俺は冷静さを取り戻していた。素早く、屈んで甲龍をやり過ごす。
屋外では空中を飛べる甲龍から逃れるのは難しいが、狭い室内では、その可能性が上がる。
特に、初期の甲龍よりも今の甲龍は体が大きくなっている分だけ、小回りが利かない。その上、飛翔速度が増していて、壁などにぶつかった衝撃が大きく、ぶつかると少しの間だが動きが止まる。
ゴッ。
背後で甲龍が壁にぶつかる音が響いた。
曲げた膝を伸ばしながら、隣で硬直して動けない宇都宮を突き飛ばした。
その上を二匹の甲龍が飛び過ぎる。
「早く立て!」
倒れた宇都宮を、強引に引き上げて立たせる。優しくしている余裕など、どこにもない。それでも、宇都宮の手には犬が入ったバッグがしっかりと握られていた。
甲龍に視線を向ける。三匹の甲龍がすでに動き出していた。
甲龍は地上を移動するのは速くない。速く動こうとしても、人が歩く速度程度が精一杯である。
それでも、狭い室内では、あっという間に迫ってくる。
廊下に出るには、甲龍の横を通らなければならない。
「くっ」
俺は横にあった本棚を押した。予想よりも軽かった。本がぎっしりと詰まった本棚だったが、こんな時は普段の数倍の力が出るようだ。
うまく甲龍の上に倒れてくれた。
これで甲龍を殺せたわけではないが、一匹はしばらく動けない状態に追い込んだ。
「うわっ」
別の甲龍が倒れた本棚の上を越えてきた。
視界の端で茶色いものが動いた。
チワワがバッグを抜け出していた。先程、宇都宮が倒れた時にバッグが、破損したのだろう。
甲龍の注意がチワワに向いた。チワワを追いかける。
甲龍の牙が小さい体に食い込んだ。
「ナオキ!」
宇都宮が犬の名を呼んだ。
俺は宇都宮の腕を引いて、ドアに向って走る。
ドアが迫った時、黒い影が俺の左腕付近に現れた。
熱い鍋を触ってしまった時の熱さと痛みが入り混じったような感覚が左腕を襲った。
しかし、それに構わず走った。
「地下室はどこだ!」
必死で走って、とりあえず階下に向い、宇都宮が最後にようやく指で場所を示した。
分厚い鉄の扉を宇都宮が開いて、そこへ滑り込み閉じた。
中にはすでに二人の先客がいた。
「大丈夫ですか!」
息が荒かった。体中をアドレナリンが駆け巡っている。興奮した体と精神を必死で宥めた。
先客の二人が俺に近寄ってきた。その視線は俺の左腕に注がれている。
俺は左腕を上げて、目の前に持ってきた。
「えっ?」
思考が停止した。
なぜか俺の左手がなかった。手首から先が消えていた。栓を失った瓶の口からジュースがこぼれるように、血が手首から流れ出ていた。
血圧が急激に下がったのか、目の前が暗くなりかける。しかし、どうにか意識を失わずに踏み止まった。
膝を床に叩きつけるように座ったが、膝からは痛みが届いてこない。
ポケットからハンドタオルを取り出し、血が吹き出ている手首を押さえつけた。
数人の人が近寄ってきた。
誰か分からないが、腕を紐で縛って止血してくれた。
耳の中で大きすぎる潮騒の音が響いていた。
再び、目の前が暗くなった。
今度は、意識を浮上させることができなかった。
流れ出た血と共に、体の中のエネルギーも流れ出たようであった。
「くっ。早く逃げろ!」
自分の声で目が覚めた。
白い天井が柔らかな間接照明に浮かび上がっている。
首をもたげて、周囲を見る。白い壁、白い天井、薄緑色の床。部屋の中央に置いてあるベッドに、俺は横たわっている。
甲龍の羽音が、微かに聞こえてきたような気がして再び、周囲を見回す。
窓はない、外と繋がっているのは、鉄板に白い塗装を施したシンプルなドアだけである。
不意に不安が襲ってきた。
鮮明な画像が蘇る。左の手首から先が切断され、血が溢れ出ている。
(俺の左手は…)
左腕は宙に吊られているようである。
不安を早く打ち消したかったが、視線は自分の左手には行かない。ただ、じわりと左手首の辺りから痛みが伝わってくるだけである。
左手は存在しているような気がする。
力を込めれば、しっかりと握り拳を作れるような気がする。
首をゆっくりと回す。
左手が視界に入る瞬間、目を閉じてしまった。
腕は目の前に浮いているはずである。
左手に力を込める。
痛みが襲ってくるだけで、指が動く感覚はない。歯を食いしばり、目を開けた。
「うっ」
歯の間から声が漏れる。
包帯を巻かれた左腕、手首があるはずの場所には包帯はない。包帯どころか、何もない。
左腕が吊られている布から腕を引き抜き、目の前に腕を持ってくる。激痛が襲ったが、それはどこか遠い感覚であった。
「ない…俺の左手が…」
怒り、苛立ち、不安、焦燥。様々な負の感情が溢れ出てきた。右腕を上げて、拳を握り込む。体中に行き場のない力が充満する。
ガッ。
振り下ろされた右腕が当たったのは、ベッドの落下防止の柵であった。鉄パイプに衝突した右腕は軋み音を上げた。
痛みと後悔と引き換えに、体の中に充満していた負のエネルギーが拡散する。
痛みに耐え、その痛みが薄れていく頃、ドアが開いた。
「気が付きましたか?」
若い女性看護師が横に立ち、俺の顔を覗きこんだ。
ここが、異生物対策委員会の管理する病院であること、そして、甲龍に襲われ怪我をした俺を、宇都宮やその場にいた人たちが、甲龍の襲来が治まった隙に異生物対策委員会の研究所に連絡し、その後ここに運ばれたことを説明した。
二十代半ばと思われる看護師の声は落ち着いていて、精神的な均衡を失いかけていた俺の意識の中にも溶け込んだ。
しばらくして、医師が病室に入ってきた。血圧や体温などを確かめた後、改めて質問した。
「気分はどうですか?」
俺はその質問に答えずに言う。
「俺の左手は…」
医師の表情が僅かに曇ったが、淡々とした口調で言う。
「甲龍に噛み千切られました。出血が多く意識を失われたようですが、縫合手術は成功しました。細菌類の感染も今のところは心配ないと思われます」
俺が知りたいのはそんなことではなかった。
叫びたい気持ちを抑えて聞く。
「俺の手はどれぐらい失われたのですか?」
数秒の沈黙の後に言葉が届く。
「…左手首から先は完全に切断されています。手首の関節から先は骨が僅かに残っていましたが、縫合のために除去し、手首までを残しました」
体の芯が、どこまでも冷えていくような感覚を覚えた。
それとは逆に、甲龍に対する憎しみが体を内側から燃やし、体の外に噴出してくるような感覚が全身に行き渡っている。
以前も、甲龍を憎んでいた。少しでも早く、大切な人々の命を奪った甲龍を滅ぼしたいと願っていた。
だが、その想いが今は霞んでいた。
今にして思えば、俺は甲龍に対して驚嘆の念を抱かずにはいられなかったのである。古代に栄えた恐竜たちにさえも、おそらくは、その身一つで立ち向かえ、そして絶滅に追い込むことのできる生物である甲龍に対して…。
しかし、今は。
自分の肉体の一部を奪った甲龍に対して、怒りを、そしてそれ以上の憎しみを抱いている。
大切な人の命が甲龍によって奪われたと知った時よりも…。
俺は自分の身勝手さに自己嫌悪を感じながらも、甲龍に対する怒りがさらに増加していくのを止めることができなかった。
翌日、宇都宮が病室を訪れた。
「私のせいよね…海柳君が怪我をしたのは…」
いつも自信に溢れているような宇都宮の姿が小さく見えた。俺の手が失われたことで、責任を感じているのであろう。ナオキ―宇都宮の飼い犬―を助けに行かなければ…。
それは俺も何度も思ったことである。
だが、助けに行ってしまった。そして、助けることはできなかった。
可哀想だと思うが、それほど気になっているわけではない。
所詮は他人の飼い犬であり、情が移っていることもなかった。
(そうだ。お前のせいだ)
俺は宇都宮の俯いた頭を見ながら、口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
沈黙が重い。
何かを言うべきだと頭の隅では分かっていたが、口を開けば泣き言か、非難の言葉しか出ないような気がして、無表情のままぼんやりと宇都宮を見ていた。
「次は、お見舞いを持ってくるね…来てもいいよね?」
ちらりと宇都宮の視線が俺の視線と合った。俺はゆっくりと視線を外して、小さく頷いた。
自分の中の怒りが、宇都宮に対して漏れ出るような気がして、益々俺は感情を閉じ込めた。
その翌日、宇都宮は来なかった。
さらに一日が過ぎた頃、俺の怒りと憎しみは甲龍にだけ向いていた。
味気ない昼食を済ませ、睡魔の誘いに乗ろうとしていた時、病室のドアがノックされ、宇都宮が入ってきた。
手には、籠に入った果物が入っていた。
果物は貴重である。甲龍によって世の中が混乱してから、かなりの時間が過ぎ、甲龍の巣がある地域の農作物は消えた。外に出て作業をすれば、甲龍の餌食になってしまうからである。食料品が不足し、特に嗜好品やデザートなどは流通量が激減している。それよりも、野菜や肉などが重要であった。
「…海柳君は蜜柑が好きだったでしょ?」
俺の好物を覚えてくれていたことが嬉しかった。
一昨日の自分の態度を後悔した。しかし、謝る気になるほどは自分の中に余裕がなかった。
「甲龍を殺したい…全て…。手伝ってくれるか?」
宇都宮が俺の顔を少し見てから頷いた。
「分かったわ」
そして、ようやく言っておかなければならないことを口に出す。
「この手がなくなったのは、宇都宮のせいじゃないよ」
宇都宮の顔に、少し哀しげな微笑が浮かんだ。
その哀しさは俺の顔に浮かんでいる負の感情を映し出していたのだろうか。
先日、甲龍プロジェクトが発足した。これは世界中が加盟する組織で甲龍の脅威を取り除くための研究から具体的な作戦、甲龍に襲われた都市の救済など様々な活動を行っている。今までも、国連がその役割に近い活動をしていたが、さらに権限を持ち、さらに多くの国が参加した組織となっている。
異生物対策特別委員会は、甲龍プロジェクトの日本支部に吸収された。その甲龍プロジェクト日本支部の事務長に就任したのが、紫沢である。つまり、日本での実質的な最高権限を持っている。
「なぜですか?」
俺は紫沢の冷えた視線を受けながら言った。
室内には紫沢と俺の他に五人の人間がいた。全て、甲龍プロジェクトの主要メンバーである。
今日は、新規の研究を始めるための承認を得るためのプレゼンテーションの場である。
今日は十五の新規研究のプレゼンテーションが予定されており、それぞれの持ち時間は十分だけしか与えられていない。
甲龍によって経済状態が壊滅的になっているため、人類の最も優先されるべき研究だとしても、研究につぎ込めるお金も資源も施設も余裕はない。
進行中の研究のいくつかが中断されなければ、新規の研究に予算が割り当てられる分はない。
つまり、進行中の研究よりも魅力的な内容でなければ採用は難しい。そして、日本で現在、まともな研究施設を維持しているのは甲龍プロジェクト関係の施設だけである。その他の研究施設は国や地方公共団体・大学など、全てにおいて機能があまりにも低下している。
「その研究はすでに始まっている。日本だけでなく、USAやフランス、中国でもだ。それに、エボラ出血熱やペストなどの一類感染症に分類されている最も危険なウィルスや細菌を用いるということは、人類にも危険だということじゃないのかね?」
真龍を生み出す時には支持してくれた紫沢が、今は反対の立場になっていた。
ここに来るまでは、楽観的な気分でいた。少なくても、研究に必要な費用や設備の調達より、研究をどのように進めるのかということに意識が向いていた。
「えっ?…そうですが、他の国々も取り組んでいるということは、それだけ有望な研究であるとういう証拠ではないのでしょうか?」
「危険性は高いのではないかね?」
紫沢の視線が冷えていくように感じた。元々、紫沢は感情を表に出さない人物であるが、今はさらに無表情に感じられる。
「細菌学の分野で有名な宇都宮博士の協力も得ることができます。彼女の知識と、私が今まで行ってきた甲龍の遺伝子の研究成果を合わせれば必ず素晴らしい結果を得られると…思っています」
最後の方は声が小さくなるのを止めることができなかった。
(本当にそうなのか?)
そんな思いがどうしても湧きあがってきてしまう。
「君は真龍の開発を行ったのだったね?」
異生物対策委員会からいたメンバーではなく、甲龍プロジェクトの発足と同時に首脳部に加わった山波という男が手元の資料を見ながら言った。
異生物対策委員会にいたメンバーのうち、何人かはすでに死んでいる者もいた。甲高い声を出す小男の大柳も半年前に、東北地方の甲龍の調査に行き、そこで甲龍に殺されている。
「そうです」
「真龍は一時的には甲龍の数を減らしたが、結局はさらに甲龍を強大な存在にしてしまった。それに関してはどう思っているのですか?」
山波は俺の方と、紫沢を交互に見た。山波は紫沢と対立することが多い。今も紫沢が承認した真龍の開発と、真龍による甲龍攻撃の計画を批判することによって、紫沢を批判しているのである。
「それは今、関係がないのではありませんか?」
紫沢が山波を正面から見ながら言った。
「関係ないとは思えません。あのような失敗を二度と繰り返さないようにすることは重要なことです」
「今は過ぎ去ったことを議論しているのではありません。海柳君の提案に対しての質問をする時です」
紫沢の言葉に、山波は明らかに気分を害したようであるが、立場的にも発言の正当さにも紫沢に分がある。だが、紫沢の中に真龍のことに関しての後悔があるように感じられた。
それから研究の見通しなどに質問が投げかけられたが、俺は具体的なことを提示することはできなかった。時間がなくて宇都宮ときちんとした研究計画を作成していなかったのである。
(承認されないかもしれない…この計画は消えてしまうのだろうか)
次の研究のプレゼンテーションの者と入れ替わりに、会議室を出る時、そんな考えが過ぎった。
その予想は的中した。
翌日に知らされた結果では、俺の研究に対する甲龍プロジェクトの支援は打ち切られた。つまり、金も人も俺の研究のために出さないということである。研究所からも二週間以内に去らなければならない。
俺の研究室にいた宇都宮に知らせると、彼女は残念そうな表情の中に同情を混ぜた視線を向けた。
応急的な義手として着けている、綿を入れた手袋に視線を落とす。甲龍に対する憎しみがいつものように湧きあがってきた。
(他に方法があるはずだ)
今からやろうとしている研究は、ある程度の力を持った研究機関に所属している必要がある。そうしなければ、ウィルスや細菌を手に入れることも困難であるし、研究者の安全を確保できる施設も必要である。自分が死ぬことに対して大きな恐れは抱いていないが、研究が途中で止まってしまうことは避けたい。
「私の大学で研究をする?十分とは言えないけど、設備はある程度揃っているわ。かなり甲龍に破壊されたけどね」
俺は首を激しく振っていた。
俺の脳裏には、甲龍に襲われた時の光景が蘇ってきていた。
あの大学がある場所には、あれから甲龍が現れてはいなかった。あの甲龍の群は破壊という嵐を発生させながら進み、消えた。新しい巣を作ることはなかったのである。
だから、あの大学のある地域は甲龍の狩猟場ではなくなっていた。
しかし…。
破壊の跡は大きく、すでに満足のいく研究施設ではなかった。
それに…何よりも俺があの場所で平静でいられる自信がなかった。
甲龍が襲ってくるのではないかと、いつも不安になることは確実だ。
「別の場所を考えよう…」
そうは言ったものの、当てはなかった。
日は過ぎ、甲龍プロジェクトの研究施設を去る日が二日後に迫っていた。まだ、次に行く場所は決まっていなかった。
(宇都宮の大学に行くしかないのか…)
暗然とした気分に浸りながら、そう考えた。
甲龍に襲われた日の光景が蘇る。不思議なことに、その光景は日が経つにつれて鮮明さを増し、甲龍の凶暴さが強調されていくような気がする。
ドアをノックする音が響く。




