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天敵

 その幕開けは、あまりにも突然に訪れた。

 数百匹という甲龍が大阪の街に飛来して、人々を襲った。

 それまでで一番大きな甲龍の大群であった。

 陽射しの中に春の匂いが濃くなり、桜の樹が一年で最もその身に人々の視線を受ける季節、のどかな一日のはずであった。

 夕闇が大阪城公園を覆い、花見の宴会が徐々に盛り上がりを見せていた時、浮かれ騒いでいる人々の間に、黒い影が舞い降りた。

 それは一つではなく、数分の間に大阪城公園を修羅場と変えるだけの数があった。

 甲龍は人々を襲い、その肉を裂いた。

 半時間も経たないうちに、五百人近くの人が殺され甲龍の餌となった。

 そして…大阪城が甲龍の巣に変貌した。


 異生物対策特別委員会が甲龍の大阪襲撃の翌日には再び設置された。

 俺も呼び出された。委員としてではなく、甲龍の専門家として…。

「あんなに増えるまでどこに隠れていたんだ?」

 大柳の声が会議室に響いた。その声は、たった二時間しか寝ていない俺の耳の中で不快に響いた。

 モニターにはニュース番組が映し出されている。

 近くのビルの一室から望遠カメラで撮影しているのだろうが、大阪城を陣取った甲龍の姿が鮮明に映し出されている。

「再び、甲龍が姿を現しました。しかも、今回は都会の中心地です。八ヶ月前の政府見解では甲龍は絶滅したはずでした。それが今、我々の目の前にあの凶暴な姿を見せています。すでに甲龍に襲われて、死者は百名、行方不明になった人は四百人を越えています」

 女性レポーターは長い髪を振り乱さんばかりに叫んでいる。

(死体を確認できていないだけで、行方不明者はすでに死んでいるだろうな)

 そんな冷めた想いが浮かんだ。

 巣から放たれた甲龍は、ペットを殺し、人々を襲った。甲龍にとって最も容易に得ることのできる栄養は人であった。武器を持たない人は、甲龍にとって抵抗することのできない狩り易い獲物であった。

 百日という短いようでいて、長い日が過ぎた頃、甲龍はその版図を日本の外にまで広げた。

 そして、甲龍は多くの人を…人の命を奪った。その数は日本だけで百万人にも達した。

 人の命で得たエネルギーを推進力にして、広がって行く甲龍に世界は怯えた。

「甲龍が世界を飲み込んでいく…」

 そんな人々の言葉は正鵠を射ていた。

 中国に渡った甲龍はさらに勢いを増して繁殖した。

 ある甲龍の一群は、西はユーラシア大陸を横断し、さらに西へ進みヨーロッパにまで到達した。

 ユーラシア大陸の南に飛び立った甲龍は、半年も経ずにその勢力をオセアニアにまで広げた。

 USAは甲龍の存在を知った時点で、日本に核を打ち込まなかったことを後悔していた。すでに甲龍は広がりすぎて、世界中に多量の核を打ち込まなければならない状況になっている。そんなことをすれば、USAが世界から攻撃を受けることになる。

 マスメディアさえも、日本に核を打ち込んで、世界を守ることが正義であり、自国を守ることだったと主張していた。

 だが、そんな無意味で、遅すぎる議論をしている間に状況は逼迫していた。

 日本との間に広大な海を挟んでいるアメリカ大陸へ甲龍が到達したのは、甲龍が大阪に現れてから、一年後であった。大西洋を横断していったのである。

 甲龍の姿は世界の多くの国で見ることのできる恐怖の存在となった。

 しかし、中国から北に進んだ一群は、極寒の地には到達しなかった。甲龍は寒さには弱かったのである。人間の逃げ場所は極寒の地だけとなった。

 世界は甲龍の猟場となった。獲物は甲龍以外の全ての動物。

 人類もその中に入っていると言うよりも、地球上で最も数の多い獲物である。世界人口は六十三億、体長が一メートル以上の生物で最も地球上に多いのは間違いなく人類である。その次は人が家畜として飼っている牛で十四億頭、野生動物では最も多いと推定されるものでも人類の百分の一以下の数千万が生息しているだけである。

 甲龍は世界を覆った。

 その事実を世界は絶望を持って自覚した。


 猿谷はある試算をはじき出した…全ての甲龍の巣を破壊するためには、人類が生息できなくなるほどの核兵器の使用が必要である…。

 分かっていたことだが、はっきりとした数値で表されると一縷の希望も消える。

 人類は甲龍を滅ぼす手段を失った。

 世界は、甲龍の餌場と化した。

 人類は、滅亡までの残り時間を数え始めた。


 人々が逃げ惑う。重火器で武装した軍隊が、甲龍に攻撃を開始する。爆音が街を蹂躙し、爆風が人々に叩きつけられる。

 それでも、人々は期待のこもった視線を爆発に向ける。

(もしかして、甲龍が全滅している…)

 だが、期待はいつも裏切られた。爆煙を翼の端に纏わりつかせながら甲龍は人々の頭上に舞い降りた。

 人々が打ち込む銃弾に倒れる甲龍の何十倍もの人が獲物になった。

「そこで止めて、甲龍を拡大してくれ」

 室内の緊張感が少しだけ緩んだ。

 何十回となく似たような映像を見ているとは言っても、人が現実に殺戮されている映像は見慣れることができない。

 室内にいる十対以上の目がスクリーンに集まった。

 その甲龍の姿は、日本にいる甲龍とはかなり異なっていた。体の大きさは少し大きく、羽は小さくなっていた。そして最も大きな違いは体節の周辺にびっしりと体毛が生えていることである。

「寒さに対応するために、体の容積を増やして、熱量を確保し、羽から熱が逃げるのを防ぐために小さくし、同様の理由で体毛が発達したのでしょう」

「つまり、甲龍は攻撃に対しての順応だけでなく、環境に対しての順応力の高さもあることが証明されたということだ。そして、君の言っていたことは正しかったと言うことだ…。地球上に甲龍が生存できない場所がなくなったということだ」

 異生物対策特別委員会の委員である大柳が、いかにも皮肉という感じで言葉を吐いた。

 俺は、大柳の人を嫌な気分にさせるだけで何の意味もない言葉に苛立ったが、何も言わなかった。

「だが、それが何の役に立つ?甲龍の弱点を見つけるのが君たちの仕事だろ?何か分かったのか?」

 研究員の誰も答えることができなかった。

 実際に何も発見できていない。

 日本だけでなく、世界中で甲龍の研究を行っているが、有効な手段は見出せていなかった。


 俺は、心の奥底でくすぶっていた考えを言葉にする。

「教授。どうでしょう。甲龍の遺伝子を用いて、甲龍に対抗できる生物を作り出しては…」

 坂井教授の顔が一瞬にして強張った。

「そんなことを他で話してはいかんぞ。あの遺伝子は危険だ。第二の甲龍が生まれるだけだ」

 坂井教授は、甲龍対策のための研究チームの一つを任されていた。

 甲龍が大阪に現れてから、縮小されていた研究チームは大幅に増員された。遺伝子学、昆虫学、分子生物学など様々な分野の専門家が日本中から集められ、九つのチームに分けられた。その一つの研究チームの責任者が坂井教授であり、そこに俺も属している。

 坂井教授は、鬼崎亮矢という甲龍を作り出した男に嫌悪感を抱いていた。坂井教授は基本的には理想論者である。研究は人の幸せのためだけに行うべきだと固く信じている。人類の歴史上に存在する、研究によって得られた技術が多くの人を不幸にした事実―例えば農薬が人の健康を奪い、ダイナマイトが人の体を吹き飛ばしたこと―を運悪くそうなっただけだと信じている。

 鬼崎のように、自分の興味で研究を行い、それによって人の命を奪うことになることは許せないことであった。

 だから、鬼崎がしたようなこと、つまり甲龍のような生物を生み出すことは行ってはならないことである。

(そんな考えでは事態は良くならない)

 俺は坂井教授の考え方に、反発を覚えずにはいられなかった。

 実際に人が死んでいるのである。このままでは陸上に生息している生物は消えてしまう。空を飛んでいる鳥でさえも例外でない。生き残れるのは、甲龍がエネルギーにするのに効率的でない小さな生物か、水中に生息しているものだけであろう。いや…甲龍は水中にさえも適応するかも知れない。

 それを止めることが最優先だ。

 甲龍に対抗する生物を作り出すことに、危険は伴うだろう。最悪の場合、甲龍だけでなく、もう一種類、地球上の生物の敵を造り出すことになる。

 それでも、挑戦してみたかった。

 純粋に地球を救うという動機だけではない。甲龍の持っている未知の遺伝情報であるコンポーザーを用いて、甲龍よりも優れた生物を生み出したいという願望、科学者としての欲求が自分の中に形を成そうとしていたことも否めない。

 それでも、甲龍を地球上から消し去りたいという思いは強くあった。


「一つ提案があります」

 俺は立ち上がった。

 室内の視線が集まる。

「何だね?」

 紫沢が目を向けた。顔にごく薄く笑みを貼り付けたような温和な表情であるが、目には鋭さが秘められている。

 俺は席を離れた。プロジェクターに接続してあるノートパソコンの前まで来ると、一枚のディスクを挿入した。

「これは、甲龍のDNAの一部で、コンポーザーと呼んでいる部分です。競合する形質の遺伝情報はどれか一つだけしか発現しないのですが、これは様々な遺伝情報を同時に発現させることができ、さらに突然変異を促す作用があることが分かっています」

「それが今更、どうしたというんだ?ここにいる者はそのことは知っているぞ」

 大柳が甲高い声を発した。

「そうです。しかし、これを利用しようという試みは成されていません。今までは解析することだけを目指してきたのですが、かなりの部分が分かった今、これこそが甲龍を絶滅させる手段になり得ます」

「コンポーザーの全てが分かったわけではない。つまり、新しく生物を造って、それが甲龍のようにならないという保障はない」

 坂井教授が、俺に向けている目には、苛立ちと怒りが滲んでいた。それでも、口調を荒げることがなかったのは自負心によるのであろう。

「しかし、このまま放っておいても、甲龍は人類を滅ぼします。すでに甲龍によって六百万人、地球上の全人口の千分の一近くが殺されているのですよ。このまま甲龍が増えていけば五年後に人類が絶滅する試算になります」

 俺の脳裏には、甲龍が人を襲う映像がはっきりと浮かんでいた。それに触発されるように、声の調子も荒くなった。

 会議室の内部がざわついた。

 俺は構わずに説明を始めた。スクリーン上の映像を切り替えていく。

「コンポーザーを鷹の遺伝子に組み込み、さらにワニの遺伝子の一部を加えようと思います。これによって、飛翔力と強力な顎という武器を得る事ができます。もう一つ大事なことは、人の遺伝子を組み込むことです。これによって、甲龍に勝る知能の高さをえることができます。そして、…人を襲わないようにできるはずです」

 この言葉に不安を感じるのは俺だけではないはずである。人は同じ種族どころか、親子や兄弟でも殺し合う生き物である。それでも、俺は人を信じてみたかった。人の根本には人を守る力があることを…。

 紫沢が俺の目を見た。

 相変わらず威圧感のある視線である。

 冷徹な判断を下すことのできる目である。

「成功する可能性は?」

 俺は希望的予想を言う気にはなれなかった。楽観的な考えが出てこないほど、今まで裏切られ続けている。

「分かりません。でも成功させます」

 そう言った俺の声は、自分が予想していたよりもはっきりと、そしてどこか自信に満ちたものであった。

 紫沢は周りの者たちの顔を見た。

 どの顔にも不安が満ちている。そして、その不安を視線に乗せて紫沢に注いでいる。

 紫沢は俺の目を正面から見据えた。

「何人のスタッフが必要だね?」

 俺は安堵の息を吐き、答える。

「…五人は必要です」

 二時間後、五人のスタッフと必要な機材が揃った研究室が俺のために用意された。

 ゆっくりとしている暇はない。

 日本にある甲龍の巣は十箇所、その周辺二十キロは甲龍の行動範囲である。二千万人以上が甲龍の脅威に飲み込まれ、そのうちの多くが命を落としている。

 翌日には坂井教授が研究室を訪れた。

「君は人類の新たな脅威を作り出すつもりかね?甲龍だけでも人類は絶滅の危機にあるのに…」

 それから坂井教授は、俺が造り出そうとしているものの危険性を話し続けた。

 腕時計の分針が五つの目盛りを動いたのを確かめてから、俺は教授の言葉を遮った。

「坂井先生。これは委員会で決定したことです。もう、俺の意思で研究を中断させることはできません」

 坂井教授は顔に憤慨を表出させながらも、言葉を切った。

 そして、俺に背を向けて研究室を後にした。

 俺にスタッフの視線が集まっていることが分かっていたが、怒りを抑えるために、机を叩き、大きな息を吐き出さずにはいられなかった。

 俺は自分のしていることに自信を持っていた。

 基本的なラインは間違っていないはずである。兵器による攻撃では、甲龍を絶滅させることはできない。もし絶滅させることができても、後に残るのは人が棲めない土地だけである。

 しかし、同じ分だけ不安もあった…。

 驚異的なスピードで研究が進んでいった。甲龍という見本と鬼崎の残したデータを土台にして、甲龍の天敵を作り出す作業は続いた。

 何度も挫折や停滞が、俺を襲った。

 甲龍に似たような生物ができたことがあったが、甲龍より生命としての活力があまりにも低く、決して持っていてはならない人への攻撃性を持っていた。

 人の遺伝子も使ったために、人型の新生物も誕生したが、甲龍を攻撃するどころか、甲龍の攻撃に耐えることもできなかった。

 毎日、数時間の睡眠時間で、俺たち研究スタッフは実験を繰り返し、議論を重ねた。

 半年が過ぎた。

 陸地の二十分の一が甲龍の版図と化していた。

 死者も五億万人を突破した。すでに、正確な自国の人口を把握している国は、少なかった。甲龍による死者が毎日、多量に出て、行政の対応が追いつかない。それどころか、国として機能していないところも多く存在している。

 それも無理はない、世界人口の十二分の一が消えているのである。

「ははは…」

 洗面台の鏡に映る自分の姿は、まるで実際の年齢よりも十歳も老けて見えたが、目だけは喜びに満ちていた。

 その歓喜はスタッフ全員の目にも伝染したかのようだった。

 真夜中なのに鮮烈な朝日が昇った朝のような清々しさが、皆の間に満ちた。

 翌日。

「やっと完成しました」

 研究室に居並んだ委員会のメンバーの視線が一点に集中している。

 太さ三センチもある鉄格子の向うで、その視線を跳ね返すように委員会のメンバーを見ているのは、誰も見たことのない生物である。

 甲龍とどこか共通する雰囲気を全身に纏わり付かせているが、全く違う生物である。

 甲龍は昆虫をイメージさせる龍であるが、目の前にいるものは鳥と爬虫類をイメージさせる。

 それでも、どこか似たところが感じられるのは、その肉体から滲んでいる膨大なエネルギーのためであろうか。地球上の他の生物とは異質の力強さを持っている。

 委員会のメンバーの視線が、その新生物の上から動かない。

 坂井教授が最初に視線を俺に向けた。

 その視線の中には非難が含まれていたが、それにも増して驚嘆と羨望―坂井教授も研究者としてこのような生物を造り出したいという願望は持っていたはずである―が色濃く浮き出ていた。

「これの説明をしてくれないか?」

 俺は檻の中で身動きもせずにこちらを見ている新生物に、一度、視線を投げてから口を開いた。

「真龍と名付けました」

 数人の視線が俺の上に一瞬だけ移動し、すぐに戻った。

 皆の新生物を見る目には、驚きと不安、そして何よりも期待が存在している。

 真龍。

 体中を覆っている鱗に特徴がある。鱗を生成する過程で、炭素の重合体の中に、チタンを取り込む機構を取り入れた。それにより、甲龍の外殻に劣らない強さがあり、しかも軽い鱗を手に入れた。ツバメを連想させる翼にも、その鱗は強靭さを与えている。

 飛翔速度は甲龍より勝っている。水平に飛ぶ速度はそれほど変わらないが、隼のように上空から急降下して敵に迫る速度は、甲龍を圧倒的に凌駕した。

 甲龍のように六本もの足を持ってはいないが、鋭利な鉤爪を筋肉の発達した二本の足に持っている。

 戦闘力でも真龍は甲龍に勝っている。全ての種類の甲龍と闘わせたわけではないが、日本に生息している甲龍と闘わせると、十秒ほどで甲龍の体を引き裂いた。

 真龍は、地球上の食物連鎖の頂点にいた甲龍の座を奪える存在なのである。

 そして…最も重要なこと。真龍を生み出す過程で最も優先させたこと。

 それは人に対する攻撃性を無くしたことである。

 人の遺伝子を組み込み、人に対する同族意識を埋め込んだ。

 十日後、十匹の真龍が放たれた。

 そして、三ヶ月後、真龍が甲龍を餌として、次々にその数を増やしているのが確認された。

 その結果を見て、世界中に真龍が放たれた。

 真龍を放ち、人々は真龍に餌を与えた。つまり、自分たちの街を守る番犬として飼ったのである。

「君が正しかったのかもな…」

 午後の陽射しが強く差し込んでくる廊下で、坂井教授が俺に声をかけた。

 坂井教授は、最後まで真龍を放つことを反対していた人である。そして、それを行っているのはかつての教え子である俺であった。坂井教授の考えに同調はできないし、腹の立つこともあるが、俺は教授には感謝している。俺が真龍を造ることができたのも、この口うるさい先生のおかげだった。

「まだ分かりません。甲龍はまだ生き残っています」

(それに、今のところ真龍は人を襲っていないが…この先は分からない)

「大丈夫だろう。委員会の試算では二年後に甲龍は真龍によって絶滅させられるそうだ。甲龍がいなくなって世界が再び繁栄を始めたら君は英雄だ」

 坂井教授が、委員会のメンバーから外れることは、その日の夕方に聞いた。

 教授の奥さんが、半年前に甲龍に襲われ命を失った。それによる心労が理由だが、甲龍の登場を阻止できなかったことやその対抗策を見出せなかったことも、大きな要因だろうと思われた。

 俺は、教授が去ったことによって、不安を覚えていた。

(真龍の持っている人に対する同族意識は歯止めになるのか?人は人を殺す生物であるのに…)

 もし、真龍が人を襲い始めれば、人類の破滅への道はより確実なものになる。

 しかし、そんな心配は、全く無駄になってしまった。

 決定的だったのは繁殖力の差である。真龍の十倍以上の速さで、甲龍は数を増やしていった。

 更に、真龍には甲龍より決定的に劣っているところがあった。

 それは、適応力である。真龍は、人への攻撃性を失くすための遺伝子操作の過程で、コンポーザーが持つ能力にブレーキをかけてしまっていた。

 コンポーザーは様々な遺伝情報を組み合わせることができるものであるが、それは新たな形質を獲得するのにも大いに役立つ機能であった。その働きが甲龍に比べてかなり劣っていたのである。真龍が牙を発達させた甲龍を殺せるのは一生のうちで二、三匹にまで落ちていた。

 結局、真龍が甲龍を圧倒したのは、野に放たれてから半年の間だけであった。

 甲龍は真龍と初めて出会ってから、三ヶ月後には、真龍に対抗する手段を手に入れたのである。

 さらに、真龍に対する憎悪もその身に焼き付けたようで、真龍を徹底的に敵対視し、自分たちの巣から離れた真龍の巣にまで攻撃を加えた。

 甲龍は、自分たちを攻撃するものを決して許さない。

 真龍は姿を消した。

 甲龍の数は確かに減ったが、すぐに数を増やしていくだろう。

 そして、さらに甲龍は強力な存在となっていた。

 委員会は、真龍による甲龍の掃討作戦を完全に諦めた。

 真龍の研究チームは解散になり、国連では核爆弾による甲龍の巣の攻撃を本格的に検討し始めた。

 人類には滅亡に向う道しか残されていないと誰もが思っていた。それでも、何もしないで滅亡することはできないと思っている者が多くいた。だから、滅亡覚悟で、核攻撃を始めるつもりであった。

「俺は鬼崎に敵わないのか…俺は劣っているのか…」

 自分の体の中に無気力という毒素が入り込んでいた。無力感が精神を無残に溶解させようとしていた。


 実家から電話が入った。聞いたのは、携帯電話の留守電からであった。電話が鳴っていたことは知っていたが、声を出すことが苦痛に感じられたので、放っておいたからである。

「明日、美山君の葬儀があるそうです。連絡下さい」

 母親の声が耳の奥で響いた。

 美山春樹は中学、高校の同級生だった。今は、名古屋にいるはずである。大学が名古屋だったためか、そのまま名古屋の企業に就職し、五前年に結婚した。

 結婚してから、連絡を取ることは少なくなっていたが、年に一度は遠い距離を埋めて、会っていた。

 甲龍の騒ぎが起こってからは、俺の居場所は異生物対策特別委員会が指定する研究施設に移り、忙しい日々を過ごしていたので、美山とは音信不通であった。

 お互いの実家の場所も連絡先も分かっているので、特に用がなければ、しばらくは俺の居場所を教えなくても大丈夫だろうと思っていた。

 後悔が、全身から力を奪い去っていく。

(連絡を取っておくべきだった…死ぬ前にもう一度、下らないことでも話をしたかった…)

 すでに午後十一時になろうとしていたが、実家の電話番号を呼び出し、かけた。

 まだ、春樹の死が誤報である可能性を期待している自分がいた。

 電話に出たのは母だった。

「ごめん。俺だけど…春樹が死んだって?本当?」

 寝ていたのだろう。篭った声が返ってきた。

「近所の噂で知ったんだけど、今日の夕方に電話で確かめたから間違いないよ」

 僅かな希望が消えた。

 翌日、二年ぶりに実家に帰った。

 真龍が消えたことが確認された季節、夏の残滓が消え去り、秋が十分に深まっている。

 春樹の葬儀は、近くの寺で行われた。勤めている会社のある名古屋でも簡単な葬儀を行ったようであるが、両親の希望で地元でも葬儀を行うことにしたようである。だから通夜はなかった。

 甲龍による被害者が毎日のように数千人も出る。俺の実家があるこの町は甲龍の巣から離れているので、被害者は外に出て行った者だけだが、それでも毎日のようにどこかで葬儀がある。

 まだ略式でも葬儀が開けるだけ、ここは恵まれている。甲龍の巣の周辺では人は外に出ることさえも厭う。

 冬の寒さが到来したことを知らせるかのような、冷たい風が境内を吹き抜ける中、訪れた弔問客に見知った顔を見つけた。

「久しぶりだな。小沢」

 声をかけられて振り返った顔は、俺の記憶よりもさらに肉が付いていた。昔から太っていたが、さらに腹の周りが存在感を増している。地元で唯一、俺と同じ大学に通った同級生である。俺は性格的に合わなかったために友達付き合いをしていなかったが、春樹とは馬が合っていた。

「おお。久しぶりだな!」

 場違いに明るい声を出して、俺の肩を叩いた。

 肩にずしりとした感触が残る。

 式が始まるまで少し間があるので、半分に切ったドラム缶の中の焚き火で体を温めようと近寄った。

 春樹の思い出を小沢が必要以上に大きな声で話し終わり、話題は大学のことに移っていた。俺は自然科学部で、小沢は工学部である。共通の話題は多くない。必然的に、両方が知っている人の話になった。

「海柳も知っているだろうが滝本さんも死んだらしいな。俺の知り合いで甲龍に殺されたのは、もう五人以上になるぞ」

 俺は自分の心臓が、胸の肉を突き破って出てくるのではないかと思った。心臓が暴れている。

「どうした?」

 自分が怖い表情を浮かべているのを自覚していた。

「なんでもない…」

 小沢は俺の変化を見て、思い出したようである。

「そう言えば。滝本とお前は付き合っていたよな?昔の彼女のことはやはり気になるか」

 小沢の無神経な言葉に怒りを感じる余裕さえも、その時はなかった。

 焚き火のゆらめく紅色に視線を漂わせながら、俺は自分の心に広がる喪失感を見つめていた。

 十年近く、ずっと心の隅に大きな場所を占めていた人も死んだ。

 結婚して幸せに暮らしているはずだった。何度も、その相手が自分だったらと思ったこともあった。だが、それを拒絶したのも自分だった。

 滝本美香は俺よりも一歳年上だった。大学院の一年目、工学部の応用生物学教室と共同研究をすることになり、俺が週に半分はその研究室に通っていた頃に知り合った。

 学年は同じだったし、お互いに好意を持っていたので、すぐに親しくなった。美香が実は一つ年上だったことを知ったのは、付き合い始めてからであった。同学年だったが、美香は一年間浪人生活をしていたのである。しかし、二人が並ぶと俺の方が年上に見えた。

 美香と過ごしていた時間は、俺に安らぎと充実感を与えてくれた。

「私と結婚する気はないのね?」

 美香がその言葉を発したのは、付き合い始めて、五年が過ぎた頃だった。

 その頃の俺は、まだ結婚という人生の選択肢を考えたこともなかった。美香は、すでに就職をして社会人となっていたが、俺は大学院を卒業し大学に残って研究をしていた。まだ、助手にもなれずに、アルバイトと親からの仕送りで日々を過ごしていた。

 美香はおそらく、不安だったのだろう。その不安ははっきりしたものではなく、漠然としていたのだと思う。

 だから、何か形が欲しかったのだ。別に結婚をすぐにするということではなく、言葉が欲しかったのだと思う。

 だが、その頃の俺は「結婚しよう。まだ、先になるけど」という言葉を発する余裕はなかった。自分の生活資金さえも満足に稼げない自分に自信もなかった。

 美香の「私が働いているから食べていけるわ」という言葉に頷くだけの大らかさもなかった。

 美香は去って行き、四年前に結婚したと聞いた。

 その美香も甲龍に食われた。

 一月前のことだった。

 俺は、春樹の葬儀の間も実家に帰ってからも、感情を表す脳内の回路が断線したように、表情を強張らせたままであった。

 母親は心配していたようで、何か話しかけてきたが、何を言っていたのか全く覚えていない。その時、俺は極力外部から入り込んでくる感覚を遮断しようとしていたのだろう。

 俺は、実家に留まることができずに、二日の休暇を残して研究室に帰った。

  俺は、研究を続けながらも、焦りと自分に対する失望感を持て余す日々を送った。

 世界人口はすでに十分の一の六億人を失っている。

 真龍が一時的にせよ甲龍の数を減らしたので、この一年ほどは世界人口の減少が緩やかになっていたが、甲龍による死者は毎日確実にその数を増やしている。来年には、今年の二倍近くの被害者が出ると予想されている。

 日本の経済が、まだ機能していることが不思議であった。物価、特に食料品の価格は高騰し、職を失う人が毎日何万人もいるし、暴動が毎日どこかの都市で起っているが、どうにか人が生きていくための物資を調達することができ、人々は仕事をしている。自国の経済が破綻すれば、世界のどこの国も、助けてくれるだけの余力を持っている国はない。その危機感がどうにか人々を支えているのだろうか。

 世界に目を向ければ、経済基盤が弱い国はすでに経済的に破綻し、そうでない国でも暴動やテロが頻繁に起こっていて、治安状態が完全に悪化しているため、経済が混乱している。人類は甲龍に殺され、さらにお互いに殺し合っている。

 国連で一度は廃案になったことだが、USA、インド、ロシアなどの核保有国は国連を離れて、その国独自の判断で核の使用の検討をした。

 そして一月前、USAが最初に甲龍の巣に核弾頭ミサイルを撃ち込んだ。

 一つの地方都市を道連れに、甲龍の巣は消滅した。

 甲龍に核が有効であることが証明されたのである。だが、放射能汚染は当然のごとく広がり、周辺は人の棲むことのできない場所となった。全ての甲龍の巣を破壊できるほど多くの核は使えない。人の棲む場所が地球上から消えてしまう。

 やはり遅すぎたのである。甲龍の巣が数個しかなかったならば、核による攻撃は有効であったが…。

 俺の中ではっきりとした変化が起こった。

 甲龍に対する変化である。今までは甲龍に対して抱いている敵愾心には、どこか甘さがあった。

 甲龍が人類にとって史上最強の敵で、このままでは遠くない未来に人類どころか、一定以上の大きさの全ての生物を滅ぼすことは分かっている。しかし、甲龍に対する不思議な親近感もどこかで持っていた。

 それが、甲龍という生物の誕生の経過やその生物としての異能性や強さに、無意識に惹かれている故であることも気付いていた。

 しかし、今は甲龍という存在を許すことはできなかった。これ以上、大切に思っている人を失うのは…。

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