対策
ドンドンッ。
ノックと言うには、少し荒々しい叩き方であった。
「誰ですか?」
俺はドアの外に聞こえるか、聞こえないかという微妙な大きさの声を発した。できれば今は誰にも会いたくはなかった。
「私だ。海柳君、開けてくれ」
坂井教授の声が響いてきた。
俺は首を傾げながら、ドアの鍵を解いた。教授が俺の家を訪ねてきたことなど今までに一度もなかったし、用があれば電話でもメールでも連絡を取る方法はある。
「少し、聞きたいことがある」
有無を言わせぬ勢いだった。そして、教授の後ろには厳つい様子の男が二人、立っていた。二人とも、申し合わせたように同じような姿をしていた。角刈りで、僅かにストライプの入った黒いスーツ、濃い青のネクタイ、体格も似ている。違いは年齢、十歳以上は開いているだろう。
「何ですか?」
緊張が声に混ざるのを止めることはできなかった。
「入らせてもらって良いか?」
すでに教授は玄関のタタキに足を踏み入れている。
俺はそれに押されるように後ろに下がった。
教授は返事を待たず、部屋に入ってくる。一瞬、後ろを振り返って何か目で合図を送ってから…。
坂井教授は懐から手帳ほどの大きさの写真を取り出した。ドラマに出てくる刑事のように自然にではなく、何度か内ポケットを探ってから手を俺の前に差し出した。
「この男を知っているだろう?」
あの男の顔であった。証明写真を引き伸ばしたものなのか、荒い画像であるが、はっきりとあの男だと分かる。
俺の幾分早くなっていた鼓動の回数がさらに跳ね上がった。
坂井教授も落ち着かない様子で俺を見ている。
「はい…」
そう答えながら、坂井教授がなぜあの男のことを知っているのか考えた。しかし、全く思いつかない。
(警察が来るなら分かるが…それとも、外にいる二人が警察で、教授は協力を要請されたのか?)
「そうか…どういう関係だ?この男がどういう人物だか知っているのか?」
俺はどう答えて良いか分からなかった。あの男に関して知っていることは、甲龍を造り出した奴だということぐらいである。だが、あの男を語る時、それが最も核心的な部分であるとも思われた。
外にいた二人の男が、いつのまにか部屋に入ってきて、俺の腕を微妙な力で握った。痛いほど力を込めているわけではないが、自由を奪うには十分な力が込められている。
二人とも腕の太さは俺の二倍以上もある。
「一緒に来てもらえますか?」
口調は丁寧だが、反論を許さない威圧感が背後に存在している。
俺は体を硬くしたが、男たちの緊張感が急激に高まるのを感じて抵抗する気が失せた。
だが、これだけは聞いておきたかった。
「あんたたちは何者だ?」
二人のうちの年長の方―と言っても三十代の後半であろう―が何の気負いもなく答えた。
「国の調査機関の者です」
「警察?」
「全く関係なくはありませんが、違います。詳しい説明は、来ていただいた先で待っている私の上司から聞いて下さい」
自分を逮捕―逮捕状はなさそうだから、この場合は任意同行になるのか―ではなさそうなので安堵を覚えたが、不信感が薄まったわけではない。
それでも、坂井教授に関係がある人たちなので、事情も分からずに激しく抵抗するわけにはいかない。
「着替えさせてくれ」
男たちは一瞬、警戒の表情を浮かべたが、坂井教授が頷くのを見て、俺を一時的に解放した。もちろん、入口のドアにしっかりと陣取って…。
五分後、俺の予想―黒塗りのセダンがマンションの前の止められていると思っていた―と違い、大型のRV車に乗り込んだ。
教授は車に乗り込んですぐに、何か話したそうにしていたが、年長の男から止められた。先程、携帯電話で報告をしていた相手から指示が出たようである。
「到着してから、ゆっくりと話を聞かせてもらいたい、とのことです。そして、それまではあまり話さないようにと…」
坂井教授は、何も反論せずにシートに身を沈ませた。このプライドの塊のような人が、素直に言うことを聞くということは、指示を出した人がかなりの権力者か、教授の目上に当たる知り合いということである。
四十八分。それが次に車の扉が開かれるまでに要した時間である。そして、沈黙から解放される時間であった。
到着した場所は分からない。車の窓は外が見えないように分厚いカーテンが引かれ、運転席と後部の座席との間にもカーテンが下がっていた。外の景色は時々、カーテンの隙間から僅かに見えただけであり、ここが郊外であることしか分からない。
「こちらにどうぞ」
若い方の黒いスーツの男が先に立って歩いた。
車のドアが開いた先には、周囲の山の景色と合うような外観―緑の屋根に木の壁―をしている建物があった。別荘と言うには洗練さも、遊び心もなく、そしてかなり大きい建物である。そして、窓も少なく、人の気配の薄い感じが微妙な威圧感を与えている。それとも、この威圧感は自分の心の中にある不安から湧き出してくるものなのだろうか…。
坂井教授が続き、なんとなく俺が続いた。
年配の方の黒いスーツの男が最後尾を守るように歩く。
重厚な木のドアを開けると、中には作業服のような格好をした男が二人、立っていた。腰には警棒を差している。
その向うにさらにドアがあり、それには鉄製でカードキー方式の鍵が付いていた。
さらに奥へ進む。
外観とは違い、中はコンクリートむき出しの無機質な空間である。
廊下の両横に十ほどの部屋があり、手前の一つに入っていく。
ガチャリという音が妙に廊下に反響して、神経をさらに緊張させた。
前を歩く坂井教授が部屋に入り、方向を変えると室内が目に入った。
部屋の中は明るかった。照明はそれほど多いわけでもなかったし、窓も一つもなかったが、部屋の壁が光沢を帯びた白、床と天井はクリーム色と白色に室内が統一されているためであった。
部屋の中央にはしっかりとした造りであるが、装飾性の全くない会議用の机、そして椅子が並んでいた。そこにはすでに二人が席に着いていた。
黒いスーツの二人の男は、入ってきた扉を守るように立った。
「そこに座ってください」
凛とした声が届いてきた。声の主を目だけで探す。
三十代半ばと見える女性が椅子に背筋を伸ばして座っていた。きっちりと切り揃えられたセミロングの髪と、細めの眼鏡が知的な印象を与えている。顔立ちはかなり整っているが、女性的な魅力には乏しい。何の表情も表さず静かに向けられている視線が、その印象を強めている。
俺は示された椅子に腰掛けながら、もう一人の人物に目を向ける。
年齢が分かり難い男であった。半分ほどが白くなっている頭髪を見れば五十代の半ば過ぎに見えるが、顔の皮膚の張りや鍛えられた体を見ると四十代の前半にも見える。
「私は、紫沢と言います。異生物対策特別委員会の委員の一人です」
落ち着いた声の響きとその物腰から、やはりこの男の年齢を五十代の半ばと検討をつけた。
「異生物対策特別委員会…ですか?それはどんな…そして俺に何の用があるのですか?」
相手に押されないように、できるだけ落ち着いたように言葉を発したつもりだったが、耳から届いてきた自分の声は微妙に落ち着きを失っていた。
「私が説明するよ」
坂井教授が俺の方を向いた。腕を机の上に置いて、小さく咳払いをする。
「詳しいことはまだ言えないが、我々は国が設置した特別委員会の一員だ。この委員会はある生物についての対策を議論、そして実行するために組織されたものだ。私のような研究者だけでなく、行政や政治に携わる者もいる。その生物は…これだ」
一枚の写真、かなり荒い画像であるがそこに映っている物が何であるかが、俺にははっきりと分かった。
「甲龍…」
俺の漏らした言葉で坂井教授は他の二人に頷いた。
「君は知っているんだね。あの生物のことを…全て話してくれ」
坂井教授は俺の方をしっかりと見て、頷いた。
俺はなんとなく気後れが、体中を軽く呪縛しているように感じた。部屋の雰囲気もそうだが、坂井教授のいつもと違う態度が気になる。いつもは俺に対して、少し距離を置いているような冷たさがある。それが今は親近感を持たせるような振る舞いをしている。しかも、どうも芝居染みている。俺を説得することによって、他の二人に対して優位に立とうとでもしているかのようである。
少しの沈黙の後に、紫沢は口を開いた。
「坂井先生、海柳君の協力を得るにはもっと我々の方が歩み寄る必要があると思うのです。私たちの知っていることについて少し話そうと思うのですが、どうでしょう?」
坂井教授は何の反対もせずに頷き、前に乗り出していた体を椅子の背もたれに押し付けた。
(人に自分の話を中断されて黙っているような人じゃないのに…)
俺は坂井教授の表情を観察した。
別段に機嫌を損ねている風ではなく、紫沢が話し始めるのを待っている。
(この紫沢という男は何か重要な地位に就いているのか?)
微かな笑みを顔の表面に薄く張り付かせながら、紫沢は俺の顔を正面から見た。
「この生物…これを造った男は甲龍と呼んでいたらしいので甲龍と呼ぶことにするが…甲龍が最初に目撃されてからもうすぐ三ヶ月になる。最初は、何か鳥の見間違いだと思われた。そして、その数日後に家畜が襲われた。その時、偶然に猟銃を持っていた男に発見、射殺された。そこで甲龍の存在が世間に知れ渡る可能性もあったのだが、その人物は委員会のメンバーである紅林助教授の知人であったのだ。それで甲龍のことを我々が直ちに知ることになり、マスコミによって情報が独り歩きすることを防ぐことができた。インターネットで一部の情報が漏れたが、情報の信憑性がないために広がらなかった」
つまり俺が初めて甲龍を見た時からほどなくして、三匹の甲龍のうちの一匹が射殺されたのである。
「情報を操作したのですか?」
俺は紫沢の背後にうっすらと見える権力に、多少の反発を覚えて言葉を発した。
紫沢は答えず、微笑を浮かべただけであった。
「我々は甲龍を調べた。そして、その結果を政府に報告した。 政府は甲龍が宇宙から飛来した生物であると、認識し、すぐにアメリカ合衆国に連絡した…我々は宇宙から飛来したとは思っていなかったが、それを完全に否定する材料もなかった」
紫沢の苦笑は坂井教授に向けられた。
その坂井教授は顔を僅かに紅潮させた。
「だが、あの遺伝子の配列は今までに知られている生物では…」
そこまで言って、口を閉じた。
紫沢は話を続けた。
「実は、日本とUSAは宇宙生命体に関しての協定を極秘裏に結んでいる。USAでは三十年以上も前から宇宙生命体に関する本格的な研究を行っており、様々なデータを集めていた。逆に日本においてはそのような研究機関はなく、三代前の首相がUSAの大統領からこの協定の申し出があったときに二つ返事で了承したのだ。日本側にしてみれば、どうでもよいことだったし、宇宙生命体が地球にいると考える者はその時の首相の側近たちの中に一人もいなかった。そして、宇宙生命体に関すると思われる全てのデータをすぐにUSAに渡すことになった」
紫沢は何かを思い出しているように視線を彷徨わせたが、すぐ俺に目を向けた。
「それでは今はUSAが甲龍についての調査をしているのですか?」
「そうだ。基本的にはそうなっている…しかし、我々も調査を続行している。はっきり言うと、USAに甲龍についてのイニシアチブを取られたくないのだ。我々の手で甲龍の調査を完了させたい。そう思っていた」
紫沢は目の前にあるグラスを口まで運んだ。透明な液体が初老の男の喉を湿らせた。
その合間に俺は質問を投げかけた。
「今はそうではないと?」
「迷っている」
「なぜですか?」
「甲龍が人を殺したからだ…間もなく甲龍の存在が世に知れ渡ることになるだろう。君は甲龍を造った男のことをどれだけ知っている?名前は?職業は?年齢は?」
俺は首を横に振った。あの男のことについては何も知らないに等しい。知っているのは、あの男の最後の姿、甲龍のこと。
「名前は鬼崎亮矢、年齢は生きていれば今年で三十二歳になるはずだった。職業は、二年前まで黒美大学の助手をしており、専攻は遺伝子工学」
俺は鬼崎という名前に心当たりがあった。以前に読んだ論文の筆者がそんな名前だったはずである。その論文には遺伝子の融合、そして新種の生物を作り出すための前段階の実験―遺伝子の安定性に関するものだと記憶している―が記述されていた。独特の雰囲気のある論文で、型にはまった書式を用いていないために、どこか読み難さを感じたが、発想の新奇さ―歪さに近いような―で記憶に残っていた。
紫沢の話は続いていた。
「大学を辞めてからは、一人で研究を続けていたらしい。どうやって手に入れたか分からないが、研究施設を持ち、生活費も得ていた…五日前にようやくそれらのことを知った。そして、その時にはすでに鬼崎はこの世にはいなかった。君の知っているように…逆に言うと、あの火事がなければ今でも分からなかっただろう」
ノックの音が部屋に響き渡った。ドアの前に立っていた二人の男が音も無く体を動かして、すぐにどんな状況にも対応できるように身構える。
「尾賀です。急いでお知らせしたいことがあります」
紫沢は頷く。黒いスーツの二人が僅かに緊張を緩めて、それでも慎重にドアに手を伸ばす。
ドアが開かれた向うには、グレーのスーツを着た男が立っていた。美丈夫という言葉がこれほどぴったりと当てはまる男を今まで見たことがない。長身の体には必要な分だけの引き締まった筋肉が、しっかりと付いているのが服の上からでも分かる。姿勢が良く、動きに淀みがない。そして、その上に乗っている整った造りの顔には強い意志が現れ、その中に他人に対する労わりも織り交ぜられている。
尾賀と名乗った男は、紫沢の横に立ち、小さなメモを見せた。他の者から見えないように計算された動きで…。
紫沢の表情が僅かに曇り、そのまま俺に顔を向けた。
「あなたはしばらくここにいる他ないようですね。別の組織…USAの組織があなたのことを探り当てたようです」
俺は不安を増加させた。
「どういうことですか?」
「向うの意図は分かりません。しかし、我々があなたに対して接しているような態度では、向うは接してこないでしょう」
俺は自分の置かれている状況が、不安定で危険なものであることをようやく実感してきた。そして、その危険に対抗する手段も力も自分にはないことも分かっている。
「つまり、身に危険が及ぶこともありえるということですか?」
紫沢は頷いた。
「その可能性は高いと思われます。もし我々に協力していただけるならあなたの身の安全は保障します」
俺は、目の前にいる人たちを信じるべきか、まだ迷いが消えたわけではなかった。尾賀という男が持ってきた知らせが真実であるかどうか判別する術さえも持っていない。しかし、自分の命運を目の前にいる男に預けることにした。
「ここに、甲龍に関してのデータがあります」
持っていた小さな鞄からデータディスクを取り出した。これは鬼崎のところから持ち出してきたもので、一週間、俺が躍起になって内容の解析をしようとしてきたものである。
俺は鬼崎と最初に出会ったバス停で夜空に消えていった甲龍のこと、再び出会った時に鬼崎を殺して自由を得た別の甲龍のことを話した。自分の中でも完全には整理できていない記憶であり、どこか非現実のことであるような感じを免れない。そのため、話の流れがどこか狂っているような感じを持ちながら続けた。
それでも、そこにいる人々は辛抱強く話を聞いていた。
鬼崎の最後の様子を聞いた坂井教授は静かに、言葉を発した。
「因果は皿の縁だな…」
自業自得と言った方が分かりやすいように思われるが、坂井教授は自分の知識をひけらかすためか、あまり使われないような諺を使う傾向がある。
「その凶暴な方の甲龍は繁殖する能力を持たないと、鬼崎は言ったのだな?」
坂井教授の質問に俺は首を縦にゆっくりと振った。
「君はデータをある程度、解析をしたのですね?」
紫沢の質問にも俺は首を縦に振った。
尾賀はいつの間にか持ってきていたノートパソコンで、俺が差し出したデータディスクの中を見ていた。そして、紫沢に見せる。
「このデータから、鬼崎の言ったことは本当であると思いますか?凶暴な甲龍がこれ以上は増えないと?」
俺は返事に困った。そこまでデータの解析が終っているわけではない。しかし、紫沢が求めているのは、はっきりとした答えである。
「…分かりません」
紫沢は表情を僅かに曇らせた。
「それでは、データの解析が進めば、その答えを得ることができますか?」
「おそらくは…」
その一言が俺の命を危険から少し遠ざけることになった。しかし、この時は自分の言ったことに、後悔を感じ始めていた。本当は解析を進める自信などは全くなかったのである。
俺はそのまま、その場所で三ヶ月を過ごすこととなった。
大学の方では、俺が急にドイツで共同研究を行うことになっていた。坂井教授が手回しをしたのだろうが、その裏では紫沢の姿があったことは間違いない。
俺は異生物対策特別委員会の研究組織に加わることになった。
三ヶ月の間、俺は五人の研究スタッフと共に、鬼崎の残したデータと格闘した。俺が一週間かけて解析した事柄を元にさらに深く解析を進めた。確認のための実験を行ったが、手に入った甲龍はすでに死んでいて、組織もかなり腐敗していたために、良いサンプルを得ることができなかった。
但し、揃えられたスタッフの能力と実験設備などはかなり優秀で、思った以上に甲龍の研究が進んだ。
データの中には歪な姿の生物の映像があった。頭と前足だけ肥大化したような蟻、丸い腹と大きな顎を持ったトンボ、体中に粘液を纏った蜘蛛と蟹を混ぜたような生物。どれもどこか異様で、体の芯に拒否反応を起こさせるようなものばかりである。甲龍の歪だが、どこかに美しさを感じさせるような印象は全く無い。
それらの生物に似た生物を作り出すことにも成功した。甲龍から取り出したDNAを様々な生物に入れた結果、おぞましい生物を作り出すことに成功した。
だが、甲龍を作り出すこともできず、甲龍の習性も分からなかった。
そして、研究を行うにはあまりにも時間が少なかったのだということが、すぐに明らかになった。
甲龍、それも人を襲うタイプの甲龍が確実に数を増していることが確認されたのである。すでに世間に甲龍の存在は完全に知れ渡り、毎日のように報道された。
そして、甲龍に襲われた人がすでに十人を超していた。今まで政府が隠してきた被害者を含めると二十人になろうとしていた。それでも、世間がパニックになっていないのは、甲龍による死者はまだ、数人しか出ていないことにあった。このレベルでは、人は自分には降りかからない脅威としか認識できないようであった。また、甲龍による被害が出ている地域には避難勧告が出ており、それ以後は被害者が出ていなかった。
甲龍の基礎的な研究は中断され、甲龍を絶滅させるための研究が優先された。
俺もその一員になっていた。
ある日、俺は紫沢に呼び出され、ある場所に連れて行かれた。高速道路を一時間、さらに山道を二時間走ってようやく到着した。
「これが甲龍の巣ですか…なぜこんなに大きなものになるまで発見されなかったのですか?」
驚きから回復した俺は、隣に座っている紫沢に避難の目を向けた。
紫沢は防弾ガラス越しに見ていた双眼鏡を膝の上に下ろして、冷ややかな視線を前にあるモニターに向けた。そこには甲龍の巣が拡大されて映し出されている。
「三日前には山の木々に隠れていたのだよ。それに甲龍を追跡しようとしたヘリはことごとく撃墜された。USAは軍事衛星で一週間前に撮影した映像を昨日にようやくこちらに渡してきた。USAの悪い癖が出始めたようだ。重要な事柄は秘密にするという癖がね…」
(嘘だな…以前に、熊が人家近くで発見されたり、山里で人が襲われたりしたという報道があったのは、この辺りのはずだ。熊は日本の山では最強の生物で、食料が豊富な季節に山を下りてくるとは考え難い。おそらく甲龍に追われて山を下りなければならなくなったのだろう。それを、何の調査もしなかったとは思えない)
俺はモニターを見ている紫沢の無表情な横顔に反発心を感じた。だが、俺はそれよりももっと気になることを口にしていた。
「甲龍が人を襲ったのですか?」
「ヘリに乗っていた者だけでなく。地上からの近づいた者も数人襲われている」
(どういうことだ?鬼崎が最初に放った甲龍は人を襲わないのではないのか?鬼崎を殺して、逃げ出した甲龍は、繁殖力がないはずだし…)
俺たち―紫沢、研究者の猿谷と村垣、坂井教授、そして運転手と護衛役の尾賀―は厚い鎧を身に纏った大型の装甲車の中に戦慄を感じながら座っていた。
厚さ十センチの特殊な防弾ガラスの向うに広がる光景は人に絶望感を感じさせるのに十分なものであった。
塔のようにそそり立つもの。高さは十メートル以上あると思われる。周りの高い樹木の倍以上はある。
その暗い茶色の塔は人差し指を思わせた。大地から空に向って伸びる巨大な人差し指、女性の指のような繊細なものではなくて、苛烈な労働で鍛え上げられた男の指のような猛々しさを感じさせる。表面は日の光を鈍く反射して、異世界の物質のような印象を与えている。
そして…その周囲に甲龍が舞っている。はっきりとした数が分からないほど多量の甲龍が舞っている。百以上は確実にいる。
「あれは、強固な有機重合体でできているそうだ。甲龍の外殻と同じような構造をしているらしい」
村垣は突然に言った。この薄い頭髪が手入れされることもなく伸びたい放題になっている三十代後半の男は、自衛隊の研究所で有機合成を研究していた。自衛隊は軍備関係だけでなく、それに関係あると思われる様々な事柄を研究する機関を持っている。村垣の研究の目的は、戦闘服のための新素材の開発であった。
「つまり、自動小銃程度では表面に傷をつける程度しかできないのよ」
さらに説明を加えたのは猿谷という、女性である。見かけは男性に見える。身長も高く、肩幅も広い、そして何より顎の張った顔といつもしかめられている表情が男性に見える原因だろう。こちらも自衛隊の研究機関に所属しており、以前は新型兵器の調査、検証実験を行っていたらしい。
二人とも、今日初めて会った。紫沢が委員になっている異生物対策特別委員会という組織の規模や権限などはほとんど分からないし、聞いてもはっきりとした答えは返ってこなかったが、かなり様々な機関に影響力があると思われる。
「もう少し、近づくことはできないか?」
尾賀は助手席から振り返って、紫沢に答えた。
「これ以上は危険です。すでに甲龍のテリトリーのすぐ外側まで来ています」
「そうか…どうした?」
紫沢が再び望遠鏡を覗き込んだ。
甲龍の巣の周りに飛んでいた甲龍の数が増した。
蚊の大群が何かに集っているように、塔のような甲龍の巣の周りに黒い点が増えていく。
巣の周りを旋回していく甲龍たちの中から二匹の甲龍が飛び出した。
そして、その二匹は巣から離れて行った。
その先頭には、他の甲龍の二周りほど大きな甲龍が飛んでいる。
「そうか…新しい女王が生まれたのか…」
俺の呟きに近い声に紫沢が反応した。
「新しい女王?どういうことだ?」
「甲龍は女王を頂点とした社会を形成します。そして、その社会が成熟すると新たに女王が生まれ、新しい巣を求めて旅立ちます。一匹の牡を引き連れて…」
「また甲龍の巣が増えるということか?」
俺は二匹の甲龍の姿を眼で追った。
「そうです。再び作られた巣からは、さらに多くの甲龍が生まれます」
二匹の甲龍が急に向きを変えた。真っ直ぐにこちらに飛んでくる。
じわりと恐怖が湧きあがる。
俺たちは甲龍の攻撃には耐えることができるように強化された装甲車に乗っている。しかし、それは普通の大きさの甲龍を想定しての話である。それよりも、二周りも大きな甲龍の攻撃に耐えることができる保障はない。また、数匹の甲龍からの攻撃には耐えられても、もし何十匹も集まってくれば確実に破壊されるだろう。
「こちらに向ってきます。下がりますか?」
運転手が尾賀に聞く。声が上ずっているのは、甲龍に破壊された装甲車の姿を知っているからであろう。装甲が破れ、そこから侵入してきた甲龍に人が食われ、車内は血臭で満たされる。
尾賀は紫沢の顔を見て、指示を求めた。
「そうだな…下がろう」
運転手がエンジンをかけようとする直前に俺が声を上げた。今までは車載のバッテリーで電子機器やエアコンを動かしていた。
「止めてください!」
運転手が不安げに紫沢の顔を見た。
紫沢は穏やかな表情のまま、俺に視線を向ける。
「エンジン音で甲龍を刺激してしまうと危険です。それに今から逃げても間に合わない。このまま大人しくしている方が安全です」
俺の言葉に、紫沢は頷いた。
「このまま待機だ」
運転手は前に視線を戻す。
「うわっ!」
車内の数人から声が漏れた。
甲龍が窓のすぐ前まで迫っていた。
皆の顔に恐怖が張り付く。
甲龍の凶悪な顔がはっきりと目に焼きついた。セラミックスよりも硬く、鉄よりも耐衝撃性のある甲殻を纏った生物。
今や地球上で最強の生物である。
風切り音が車内に届いてきた。そして、甲龍の腹が視界に飛び込んできた。
「ふー」
安堵の声を発したのは俺が最初だった。
甲龍は装甲車の手前で急に高度を上げて飛び去った。まるで俺たちを嘲笑うかのように・・。
翌日、甲龍の巣に向ってミサイルが打ち込まれた。さすがに核を積むことはできなかったが、かなりの威力を持ったものが陸上自衛隊の手によって発射された。朝日の中で、甲龍の巣に命中した三発のミサイルは次々に閃光を放ち、音と煙の乱舞の中に甲龍たちが飲み込まれた。
俺はその映像をその日の昼に見ながら、安堵感を得るどころか、不安が確実に心の中を満たしていくのを止めることができなかった。
爆発音と多量の煙は隠すこともできず、夕方に政府は記者会見を開いた。
甲龍の巣の攻撃の模様がテレビ画面に流された。
その日は様々な議論が巻き起こった。甲龍の存在自体をテロによるものだとするような意見から、軍事力を用いることの是非に関するもの、また甲龍を保護すべきだという意見まで出た。
意見の傾向としては政府の対応を非難し、軍事力の乱用を危惧するものであった。
しかし…。
そんな議論はすぐに消し飛んだ。
二ヵ月後、人々は眠れない夜を過ごすことになった。
「…市で十一時二十五分頃、路上を歩いていた三宅順次さんが甲龍に襲われました。全身に怪我を負い、病院に運ばれましたが到着した時にはすでに死亡し…」
「また、被害者が出ました。隣の市でも同様に路上を歩いていた…」
「政府からの緊急連絡です。付近で外出している人は今すぐ自宅に帰り、厳重に戸締りをして下さい」
甲龍が人を襲い始めた。今までのように偶然ではなく、明らかに人をターゲットとしていた。
それまで、甲龍を擁護するような意見を述べていた人々でさえも当然、意見を完全に翻した。
甲龍は完全に人類の敵になった。
甲龍が出没するのは、神戸から大阪にかけての地域であった。この地域では都市は発達しているが、山がすぐ北側に控えていて、甲龍が身を隠す森が豊富にあった。それに、最初の甲龍の巣が発見された場所から百キロも離れていない。甲龍の飛行速度からすると、数時間で到達できる距離である。二つ目の甲龍の巣が造られたのだ。
襲われるのは、子供も大人も老人も区別がなかった。だが、子供や老人は襲われれば、死に至るか、重態になることが多い。大人でも数匹に襲われれば、無事に逃げることは不可能である。鉄パイプなどの武器を持っていてさえ、甲龍を殺すことが難しい。
小学校に限らず、中学校や高校の校庭にも生徒の姿はなくなり、街に出歩く人の姿もまばらである。偶に人影が見えても、空に時々、せわしない視線を向けて足早に歩き去る。
全国から警官隊が集められた。しかし、甲龍を駆除するどころか、市民を守ることさえも難しかった。
甲龍の数は、日増しに増えていた。それは、人々が甲龍に殺される数と比例していた。甲龍は人を殺し、その肉を咥えて、巣に飛び去る。
遂には自衛隊に出動命令が出た。街中にライフルを持った自衛隊員が走り回る。戦車はさすがにいなかったが、装甲車や軍事用ヘリが街の景色となった。
自衛隊には、甲龍対策部隊が組織された。特殊訓練を受けた者達である。
「先程、甲龍の巣の破壊命令が出た。巣は街の北部の山間部にあるが、街の端から数キロしか離れていないため、大規模な爆撃等は行えない。よって、巣の近くまで行き、そこから小型誘導ミサイルで破壊を試みる」
この小型誘導ミサイルの射程は数十キロあるのだが、市街地の上を飛ばすことはできないという上層部の判断によってこのような作戦を取ることになった。
二十五名から成る部隊は、小型誘導ミサイルを三基携えて、甲龍の巣に向った。広大な森林で十分な訓練を受けてきた隊員にとっては、神戸の北の六甲山などは家の裏庭のようなものである。甲龍さえいなければ…。
装甲車を降り、歩くこと半時間で甲龍の巣が見えた。
林の中にある甲龍の巣は、事前に見せられていた最初の甲龍の巣の映像よりも小さいが、どこか重厚さを増しているように見えた。
三基のミサイルのセッティングを十五分で完成させた。
小型誘導ミサイルは、鉄骨で地面に固定されたアタッシュケースのような物の上に立てられ、そこから伸びた配線は、ノートパソコンに繋がっている。ノートパソコンからは、さらに他の線が出ていて、風向、風速、気温、湿度、気圧などを読み取る計器が詰まったセンサーの塊に繋がっている。
「発射!」
計算上では、一発で十分に甲龍の巣が破壊できるはずである。残りの二基は、失敗した時のために持ってきていた。
ミサイルが、コンピュータの計算通りの軌道を描いて、甲龍の巣の中心に当たった。
爆発音と共に、白煙が甲龍の巣を覆った。
音が静まり、煙が流れていく。
「何?」
隊長の声に不安が混じる。声がくぐもっていた。
甲龍の巣は、僅かに形を変えただけであった。全体の十分の一も破壊できていない。
甲龍の数が増えていた。巣の上空に円を描いて飛んでいる。百匹以上は確実に飛んでいる。二百近いかも知れない。
「第二弾用意!」
隊長の声に張りが戻る。
「発射!」
先程とほぼ同じ軌道を描いて、ミサイルが飛んで行く。
数匹の甲龍の速度が急激に増した。その先にはミサイルがある。
ミサイルが目標に到達する前に爆発した。
「…第三弾用意!」
隊長の目が、血走っていた。作戦の失敗は許されない。部下にも、同僚にも、そして上官にも合わせる顔がなくなる。
「発射!」
ミサイルは甲龍の壁に遮られた。十匹ほどの甲龍を道連れに…。
ミサイルは少々の衝撃では、到達前に爆発することがないはずである。それが爆発したということは、甲龍がミサイルに与えた衝撃はかなりの大きさである。
十分後、部隊は全滅した。
甲龍は自分たちの巣を破壊した者を許すことも、見逃すこともなかった。隊員たちは、ライフルや自動小銃で応戦したが、二匹の甲龍を撃ち落とすだけで精一杯だった。
「どう思う?」
ノイズが走り、暗転したモニターに視線を向けたままで、声を出したのは、異生物対策特別委員会の委員を務める男である。細身の体をゆったりとした椅子に横たえている。
その紫沢の声は落ち着いていたが、俺は背筋に流れる汗を感じていた。
「どうとは?」
「もちろん甲龍のことだよ」
死んでいった隊員のことなど、紫沢は気にしていない。少なくとも表面上は…。
「さらに強力になっていると思います。特に、外殻の強度が増しています。以前に捕獲したものと比べて、二倍近い強度です。まるでグラファイトの繊維を編み込み、さらに合金で表面を覆ったような構造をしています。柔軟性も備え、熱にも強い。ライフル銃で撃っても、至近距離からでなければ貫通するのは難しいでしょう」
「甲龍の攻撃性はどうかね?」
紫沢の声とは対照的な甲高い声が響いた。そちらに視線を向けると、小柄で小太りな老人の一歩手前といった年齢の男が眼鏡を別のものに取り替えていた。近視用のものから、老眼鏡に替えたのだ。容姿も声も全く違うが、目の中に宿っている知性と抜け目のなさは共通している。
「性質的なものは不明ですが、個体の大きさが三割ほど増し、力も上がっていると思われます。そして、その分多くの食料を必要とするはずです」
「ライフルなどの小火器では対応できず、ミサイルでも巣を殲滅できない。人の居住する近くにいるため核兵器などは使えない…甲龍を殲滅する方法はないのか!」
「大柳さん。落ち着いて下さい。調査結果を聞きましょう」
小太りな老人に紫沢が重厚な声をかける。
俺が先程の映像を見たのは初めてではない。最初に見たのは昨晩である。そして、映像と共に一体の甲龍が研究室に届けられた。その解析を一時間ほど前まで、睡眠も取らずに行っていた。
新しい甲龍の巣を攻撃した部隊が全滅した翌日に、その現場に派遣された調査部隊によって甲龍の巣の攻撃の様子を撮影したVTRは回収された。その時回収された二体の甲龍の死骸の一体が俺の研究室に届けられ、もう一体はどこか他の場所に行った。おそらく、USAの関係する機関に引き渡されたと予想しているが…。
その甲龍を解剖して、驚愕を覚えずにはいられなかった。僅か三ヶ月の間に甲龍は驚異的な進化を遂げていたのである。
モルモットほどの大きさだったものが、ウサギほどにまで大きくなっている。
そして、外殻の組織が分厚くなることなく、強度を増していた。
つまり、大きくなって動きが鈍くなることなく、益々その強さに磨きがかかったのである。
地球上のどんな生物も、その身一つで甲龍と対等に闘うことはできない。しかも甲龍は集団で行動し、女王を頂点とした組織の結束力は強固である。
おそらく、近いうちに新しい女王が誕生し、一匹の雄と共に新しい巣を作り上げることになるはずである。
しかも、甲龍は新しい女王が生まれる度に進化していくようである。
前の巣が破壊されたことによって、甲龍はさらなる力を、人間の兵器に対抗できる力を身に付けた。もし、人が更なる攻撃を甲龍に対して行えば、次の女王から生まれる甲龍はそれに対応できる力を身につけているかも知れない。
「ふー」
俺の説明が終ったところで、溜息が室内に流れた。
室内にいるのは俺を含めて、二十人である。その内の五人は異生物対策特別委員会の委員である。残りは、甲龍の研究者と兵器の専門家である。
「それでは、甲龍を攻撃しない方が良いというわけか?」
大柳の甲高い声の中には、苛立ちと不安がはっきりと現れている。
「甲龍をこれ以上強力な存在にしないために…しかし、放っておけば甲龍は急速に数を増します。甲龍の女王は一日に十個以上の卵を産んでいると思われます。その卵は約一月で成虫になります。そして、巣がある程度大きくなれば、新たな女王が産まれ、新しい巣を作るでしょう」
大柳は何かを考えているのか、ぶつぶつと口の中で言葉を泡立たせている。
他の委員が俺に言う。
「どうすれば甲龍を殲滅できる?」
俺は視線を隣にいる男に向けた。
兵器の専門家である猿谷が立ち上がり、甲龍の殲滅作戦を説明し始めた。三つのパターンに分けてシュミレーションをしている。
一つは日本が持っている軍事力だけを用いる場合。
もう一つは日本に駐留しているUSAの戦力だけを用いる場合。
残りの一つは、両国が協力する場合。
説明は淡々とした口調で続けられた。
俺は叫びたかった。
(そんなことをしても、甲龍をさらに強くするだけだ!)
しかし、俺は答えを持っていなかった。甲龍を殲滅するための方法を…幾つかのアイデアはあったが、それを実現できる保証などはどこにもなかった。
「どの方法が、一番実効性が高い?」
紫沢の声に猿谷が一つを指差した。それは日本単独で甲龍の巣を攻撃する作戦であった。
「USAの戦力を当てにする他の方法では外交上の手続も必要になり、実行までにかなりの日数が必要ですが、この方法ですと首相の了承さえあれば、明日にでも実行可能です。甲龍のもたらす被害を考えますと、早急な対応が必要であると思われます」
猿谷は唯一女性らしいところである、濃く口紅を塗った唇を突き出すようにして引き結び、紫沢の言葉を待った。
紫沢は異生物対策特別委員会の五人のメンバーの顔を見回した。それからゆっくりと俺たち研究チームに向って言う。
「君たちはしばらく席を外してくれ」
すぐに会議室のドアが開かれた。開いたのは紫沢の秘書である尾賀である。
俺たちはどっしりとした椅子から体を離して立ち上がった。
穏やかな表情を浮かべた尾賀の前を通って廊下に出ると、分厚い木製のドアが音もなく閉まった。尾賀の低い声が響く。
「あちらにどうぞ。コーヒーでも用意させます」
そう言って長身の尾賀は先に立って歩いていく。待っている間、研究チームのメンバーは互いに甲龍のことについて話していたが、俺は話す気にはなれず時々、コーヒーを口元にもっていくだけの動きを繰り返した。
再び、会議室に俺たちが呼ばれたのは四十分が過ぎようした時であった。
「一つだけ聞きたい」
紫沢の視線は猿谷に向けられていた。
「はい」
「甲龍を絶滅させることのできる可能性は何パーセントぐらいだ?」
「八十パーセントです」
猿谷は逡巡することなく答えた。
猿谷は百パーセントと言いたいところを、少なめに答えたつもりだろうが、俺は別の意見だった。
(三十パーセントぐらいだ…)
俺には甲龍の巣が、そんなに簡単に潰せるとは思えなかった。甲龍の巣は先の攻撃でさらに強くなっていると思われたし、考えたくないことだが、すでに新しい女王が巣立ちをしている可能性もあった。
しかし、そのことをはっきりと言う確信も俺の中にはなく、猿谷の言う通りになることも期待はしていたのである。
甲龍の巣に、六発のミサイルが打ち込まれたのは、二日後のことであった。三機の戦闘機は、空軍基地を正午に飛び立ち、甲龍の巣の上空で搭載していたミサイルを切り離した。
爆音は十数キロ離れたところからでも聞こえた。
甲龍たちは、六発のミサイルのうち、一発は自らを犠牲にして阻止することに成功したが、超高速で飛来するミサイルを完全に阻止することはできなかった。
甲龍の巣は破壊され、甲龍の姿も消えた。
その影響で山の樹木は焼け、広がりすぎた炎は数十件の民家も巻き込んだ。
俺たち研究チームは焼け野原と化した山に入り、甲龍の巣の痕跡を調査した。
巣の残骸の合間に甲龍の死骸や卵の残骸などが散乱していたが、甲龍の女王らしき、ものは発見できなかった。だが、ミサイルの破壊力によって、何か判別できないものも多数あったために、それを不思議に思う者はいなかった。
俺は安堵感と共に、喪失感を味わった。
二ヵ月後、甲龍の遺伝子学的、生物学的な研究の分野だけを残して研究チームは解散された。俺は、遺伝子学的な研究を続けた。その研究の主任者は坂井教授となったが、それは名前だけで研究所には大学から月に数回、訪れるだけでほとんど俺が中心となって行っていた。
研究は甲龍が絶滅したことによって、緊急性や実用性はなくなったが、興味深いことが多くあった。
そして、次のようなことが分かってきた。
人は襲うが繁殖力のない―鬼崎を殺して逃げ出した―甲龍は人を襲わない遺伝子を持つ甲龍と交わることによって自らの分身を得る能力を得た。
薄まるはずの凶暴さは全く減ずることなく、引き継がれるはずの人への慕わしさは消えていた。
そして、甲龍には進化を抑制する方向に働く遺伝子のいくつかが発現していなかった。
人の子は人である。
この当たり前のことが長い年月を経ると違ってくる。二百万年前まで遡ると、最初の人類、ホモサピエンスが現れる。さらに遡るとチンパンジーと共通の先祖まで辿り着く。
甲龍には年月さえも、必要ではなかったのである。
甲龍の子はすでに甲龍ではない。ある女王から生まれてくる労働力としての甲龍は全て同じ遺伝子を持っているが、女王から生まれる新しい女王はすでに異なる存在になっている。
一代で遺伝子の組み換えが行われる。それも偶然ではなく、必要な形質を獲得して生まれてくるのである。
つまり、女王が攻撃され命の危険に曝されれば、次に生まれる新しい女王はそれに対応する力を持って生まれてくる。
「本当に甲龍が生き残っていなければ良いが…」
もし、生き残っていれば、次世代の甲龍は今回のようなミサイル攻撃にも耐えることができるかも知れない。
俺が呟いた言葉は、深夜の研究室に吸い込まれた。
すでに二ヶ月以上の間、毎日夜遅くまで甲龍の研究をしていた。前に休みを取ったのがいつなのか覚えていない。
テレビニュースでは、甲龍のことが話題に上ることが少なくなった。あれほどの被害を受けていながら、人はそれを忘れかけている。
しかし…。
甲龍の記憶は、人類にさらに深く刻み込まれることになった。甲龍が再び現れた。




