失敗作
三日間続く学会の一日目が終った。翌日の会場の準備を終えて、自分の研究室に戻ろうとしていた。
俺は見知った男が、研究室のドアの前に立っているのを見つけて手を上げた。
向うも手を上げて、俺を見ている。
「久しぶりだな。今日の発表は良かったよ。少し、希望的な見方の結論だったが、説得力はあった」
真島の言葉に俺は微笑を返したが、どこか引っかかるものはあった。発表の時の感じでは、聴衆の反応は良くはなかった。
「少し待ってもらえるか?すぐに戻るから」
そう言って研究室に入ると、俺は自分の机の上に書類を置き、ノートパソコンを鞄に入れて帰り支度を急いだ。
机の上にメモが置いてある。
「坂井教授からか…」
坂井は俺の所属している研究室の教授、つまり上司である。今日の学会では、自分が座長を務める研究発表が終ると急いでどこかに行ってしまった。先週ぐらいから大学にほとんど来ることなく、どこかに出かけているようであった。
メモには、明日の学会のことに対する指示がいくつか書いてあった。明日は、研究室の学生の一人が発表することになっており、そのサポートを俺にするようにということだった。発表が終ってからの質問で、学生が答えられなければ、担当教官、つまりその学生の場合は坂井教授が答えるのだが、明日は急用で行けないために、その役目が俺に回ってきたのである。
「坂井教授は、どんな用事があるんだ?」
メモを丸めて、ゴミ箱に放り込んでから鞄を脇に抱えた。
ドアを開けて部屋を出る。
駅前に出て何度か来たことのある居酒屋の片隅に陣取り、お互いの近況を話していると、時間は速度を増して流れた。
小さな店の片隅のテーブルの上には、いくつかの料理とビール瓶が並んでいた。
「あんたのところの教授、政府が緊急で作った何かの委員会のメンバーになっているらしいな」
それは俺が初めて聞く話だった。真島は俺が当然知っているものとして話しているようである。
「そうなのか?でも最近、坂井教授が忙しくしているのは確かだが…」
そこまで考えて、坂井教授が最近、ある大学院生に何かの遺伝子を解析させているのを思い出した。その大学院生は自分の担当ではないのであまり詳しいことは知らないが、今まで見たことのない遺伝子であると言っていた。
真島は少し意外そうな顔をしたが、すぐに何かを納得したようであった。
「そうか…それじゃ噂は本当なのかな…」
考えに沈みそうになった真島に声をかける。
「何かあるのか?教えろよ」
真島は視線を周囲に配り、誰も自分たちに注意を払っていないことを確認してから口を開く。
「何かに日本が侵略されているらしい」
聞きなれない言葉を聞いて、思わず問い返す。
「侵略?どこの国が攻めてくるんだ?」
「国じゃない。何かだよ」
「エイリアンでも攻めてくるのか?」
真島が首を僅かに傾げる。
「それは分からない。俺はお前にそれを聞こうと思っていたんだよ」
真島が苦笑を浮かべる。
それで真島が急に会おうと言ってきた理由が分かった。
「残念だが知らないな…真島が知っていることを教えてくれないか?」
真島が知っていることは、ほとんどなかった。先週に、政府が緊急の委員会を作って、そのメンバーに坂井教授の他に数名の遺伝子関係の研究者と、昆虫学者などが集められた。その中に真島の研究室の教授が入っていないことで、その教授は少し機嫌を損ねているらしい。
「昆虫ね…イナゴでも大量発生したのか?」
しかし、昆虫に関するニュースなどは何も報道されていない。
俺の脳裏に再び、甲龍の姿が浮かび上がってきた。
「どうした?何か思い当たる事でもあるのか?」
真島が俺の顔を見て聞いてくる。俺は、どうも難しい表情を浮かべていたらしい。
「いや、何でもない」
そう言ったが、真島に甲龍のことを話した時の反応を知りたいという欲求に抗し切れなかった。
温くなりかけたビールが入ったグラスを干してから、話し始めた。声が少し小さくなっている。
「先月に、ある男と会ったんだ。その男は見たことのない生物が入った籠を持っていた。男はその生物を甲龍と呼んでいた。それはその呼び名に相応しく、硬く黒光りする外殻を持った龍だった。そして、男は籠を開け、その甲龍を放った…でも俺はその晩、かなり酔っていた…多分、俺の脳が造り出した幻想だと思う…昔に見た映画か小説で、こんな話があって、それが急に思い出されただけなのかも知れない」
俺は真島に話したことを後悔し始めていた。こんなばかげた話を信じるはずがないし、冗談だと笑い飛ばすには少し、神妙に話し過ぎた。
「それで、その甲龍とかいう奴の大きさはどれぐらいなんだ?そして、どんな様子だった?」
予想に反して、真島は真剣な顔をして俺に問い返してきた。
「えっ…小さいな。体の部分はハムスターを二回り大きくしたぐらいかな…凶暴そうな印象を受けたが、飼い主には従順そうだった。俺が触っても大人しかった」
真島が身を乗り出した。
「触ったのか?どんな感じだった?」
真島が熱心になるにつれて、俺は早くこの話を終らせたい気分が強くなってきた。
「かなり酔っていたから…」
俺は掌に甲龍の外殻の感触を思い出していた。僅かに熱を持ち、硬く、つるりとしていた。
真島はさらに質問を投げてきた。
「足は何本だ。形は?口の大きさは?牙はあったか?」
脳裏に浮かんでいる甲龍の姿が鮮明さを増した。今まで無意識に思い出さないようにしてきた反動のように、肯定してくれる人物を前にして記憶が力を得たかのようであった。
それなのに、俺はその記憶の詳細を話すことが躊躇われた。やはり、現実だとは思えない。突然に、真島が軽蔑の眼差しを俺に向けるような気がして話をはぐらかそうとした。
「酔っていたから覚えてないよ。それより、俺が今日学会で発表したことなんだが…これからあのテーマで実験を重ねようと思うのだが、どう思う?」
真島はさらに甲龍について聞きたそうだったが、俺がさらに言葉を継いで話を逸らしてしまった。
自分が知らないうちに犯罪の片棒を担いでいるような気分になり、罪悪感のようなものを抱き始めたからかも知れない。
(そう、俺はあの男が甲龍を解き放つのを見ていただけだった。何か不吉な予感がしたのに…)
真島と別れて自分の部屋に戻ると、パソコンの前に座った。数通のメールが届いていたが、それを開くのは後にして、ネット上に乗り出した。
目的の情報はなかなか見つからない。
時はすでに夜中を迎えようとしていた。
「見つからないな…」
真島が言っていたことが本当なら、かなりのことが起こっているはずである。しかし、テレビや新聞などのメディアで報道されていないことを考えると、政府が報道規制に乗り出したことも考えられる。
だが、今はネットが存在する。世界に広がるこの情報網はテレビなどとは違い、誰もが情報を発信できる媒体である。プロバイダーを部分的に規制することは可能でも、全ての人を政府が規制することは不可能である。
少年が起こした重大事件などは、テレビや新聞では犯人の個人的な情報は公開されないが、ネット上ではしばしば、詳細にわたって流れてしまう。
一時間を費やしても、それらしい情報が見当たらない。未確認生物の話―ネッシーやツチノコなど―の話題はかなり数が多く、それらの中から甲龍のことについての情報を抜き出そうとするのだがなかなかうまくいかない。
酒が入っているせいか、何度か眠気が襲ってきた。その度に、欠伸をかみ殺し、深呼吸をした。
二時間後、やっと見つけた。ある未確認生物のホームページ中の掲示板の中である。
「先週、俺の牧場で子羊が二頭、何かに殺された。近所の子供が今まで見たこともない生物が十匹ほどで子羊を襲っていたと言っていた。それは鳩ぐらいの大きさで空を飛んでいたが、鳥ではないらしい。黒かったということだが、カラスが子羊を襲うはずもないし、子羊の死体には、肉を鋭い牙で食いちぎったような跡が残っていた。一体、どんな生物が俺の子羊を襲ったんだ?保健所に聞いても、農協に聞いても分からないと言うだけだ」
さらに他の書き込みもあった。
「うちの犬が昨晩、けたたましく吠えて続けていたので行ってみると、十羽ほどの黒いカラスが犬に襲いかかっていた。さらに近づくと、そのカラスたちは飛び去った。そして、鳴き止んでいる犬にライトを当てると、犬は全身の肉を何かに噛み千切られていた。カラスが犬を食べることはあるのか?それにカラスは夜に行動できるのか?うちは田舎で周りは暗く、外灯も少し離れた所にしかない。それともカラスではなくて他の動物の仕業だろうか?誰か教えて下さい」
もう一つ、気になるものがあった。
「不思議なことがありました。私の友人の家の鶏が襲われました。十羽もの鶏が半時間ほどの間に骨だけになっていたそうです。何に襲われたのか不明ですが、野犬などではないようです。不思議なことというのは、このことだけではありません。私はそれを新聞社に連絡したのですが、全く反応がありません。こんな不可解なことがあったのなら、取材に来るのが普通ではないでしょうか?私の地元ではその他に何か事件が起こっているわけではないので、記者たちは忙しくはないはずです」
これらの出来事は、はっきりと甲龍の仕業であると言えるわけではないが、甲龍の仕業であると考えることもできる。
(人を襲ってはいないようだな…男の言っていたこと―人を襲わないように遺伝子を操作してある―は本当だったのか…)
安堵感が微かに広がる。ペットや家畜が襲われることは飼い主にとって辛いことだろうが、人に直接の被害がないことが救いだった。
しかし、気になることがあった。
(甲龍の数が増えている?)
俺が見たのは、三匹の甲龍である。先程の文では十匹となっていた。多めに言っているとしても、五匹以下ということはないだろう。
俺は翌日から毎晩、同じ場所に座るようになった。
バスが近づいては離れ、通り過ぎればまた座った。
そう、あの男と出会った場所である。
「今晩もだめか…」
一週間が過ぎていた。
最終のバスが後十分で到着するはずである。今日は、バスはほとんどダイヤどおりに運行されている。
昼間はまだ、じわりと肌に汗が薄く滲むほど暑く感じられる気温も、この時間になると長袖のシャツ一枚では肌寒く感じられる。秋は着実に深まっていた。
俺はベンチから立ち上がって伸びをした。
(他の手段を考える方がいいな…それにしても、あの男は何者だったんだ?)
俺はバスがやってくる方に視線を向けた。外灯に照らしだされた道路の上には、まだ巨大な鉄の塊は現れていない。
視線が僅かに動いた。視界の端に動くものに向けられただけのはずであった。
しかし、俺の目はそこでしっかりと固定された。
「あいつだ」
丸めた背中、痩せた体、無造作に伸ばされた髪。
全ての特徴が、俺の記憶と一致した。
俺は走り出した。長い間、座っていた足が急に酷使されて微かに軋んだが、構わずに速度を上げた。
足音に気付いて、男が俺の方へ視線を向けた。その表情には怯えの色がうっすらと滲んでいた。
夜中に後ろから走り寄られれば当然だろう。
「この前…ここで甲龍を…」
日頃の運動不足が祟っていて、息がすぐには整わない。
「あんたか」
男の顔にはどこか歪な微笑が浮かんでいる。そして、男の大きすぎる眼鏡の奥に、どこか人を見下したような瞳があった。
「甲龍、確かあの生物をあんたは甲龍と言っていたと思うが…」
そこまで言って俺は言葉に詰まった。
(俺はこの男に会って、どうするつもりだった?)
男は、戸惑った様子の俺を見て優越感を感じたようであった。その優越感が男に次の提案をさせたようであった。
「甲龍をもう一度見たいのか?」
男は口の端に笑みを張り付かせたまま、そう聞いてきた。
俺はどこか男の言葉―それとも声―に反発を覚えながらも頷いた。
「見たい…」
男の笑みが濃くなった。
「見せてやるよ。ついてこい」
男の後頭部を見ながら俺は歩いていく。男の足は背の低さに比例して短かったが、回転数が速いため歩くのが速い。何かを焦っている様子でもないので、男は普段から早足なのであろう。
男が急に進路を変えた。
(寂しいところだな)
周囲には古ぼけた工場、それも小さな工場がいくつか集まっている一角であった。
こんな夜中では、工場が動いているはずもないが、それ以上に外灯に照らし出された工場たちには活気がない。閉鎖しているか、一時休業しているところが多いような気がする。
再び、男が進路を変えた。
今度は錆びの浮いた鉄の階段を上っていく。足音が夜気の中に反響する。その反響の合間に階段が軋む音が挟まっていた。
男の足音が止まる。
視線を上げると、男は重そうな鉄の扉を開いていた。
カチャリ。
鍵が外れる音の後に、扉が軋む音を予想したが、音もなく開いていく。
男は扉の中に入る前に俺に視線を投げた。暗くて表情までは見えなかったが、ほくそえんでいるような気がした。
階段を上り切り、男の消えた方を見る。扉の中は真っ暗である。
カツン。
爪先が入口の段に当たって、バランスを少し崩す。
明かりが点る。暗さに慣れた目には明るく感じられたが、小さな電球が一つ点っただけであった。
「この奥だ」
体勢を整えてから前を向くと、さらに奥には木製の扉があった。男が近づいてドアノブに手を置く。
錆びついた蝶番の摩擦音と板が歪む音が室内に反響した。
「キーキー」
聞き覚えのある鳴き声が届いてきた。
その声の合間に、ハエの羽音をさらに高音にしたような音が届いてくる。
目を凝らすと青い光が転々と浮かんでいた。それらは場所を移動している。ホタルのようにゆっくりと動くのではなく、加速をしては急停止することを繰り返している。そして夜に光る犬の目のように光り、瞬きをしない。
部屋の端に小さな明かりが点った。部屋全体を明るくするほどの光量はないため、隅のほうは暗闇に沈んだままであるが、部屋の中にあるものは分かった。
「甲龍…」
小さな事務所ほどの空間の中に人の背丈ほどの籠が二つ置いてある。
一つは空。何も入っていない。底の方に何かの排泄物―乾いた黒い塊―が散乱しているだけである。
そして、もう一つ。
「キーキー」
その籠の中にいる生き物が声を上げる。
甲龍は以前見たものよりも、大きく感じられた。
「そこに椅子がある」
男は椅子を指し示して、自分も近くにあった椅子に腰掛けた。
古いスチール製の椅子は、日本人としては平均的な俺の体重に悲鳴を上げるようにギシリと軋んだ。
男は甲龍について話し出した。男は自慢げに、しかし要領良く説明を始めた。
内容は次のようなものである。
甲龍、姿は一見は西洋のドラゴンに近い。しかし、西洋のドラゴンと違う点は多い。
全身に黒灰色に光る甲虫のような外殻を持っている。六本の足を持ち、前二本は蟷螂の鎌を太くしたような形状をしている。
手の先には大きな鍵爪がある。
硬そうな黒灰色の殻で覆われた首の先に、鋭い牙を持つ大きな口が開いている。そして、短い触角を持ち、翼は蝙蝠と甲虫を合わせたような妙な質感の翼を持っている。
大きさは猫の子供ぐらい―前に見たものより二周りほど大きい。力は人間の成人の数人分もあり、しかも動きは速く、人の反応速度の五倍以上あると推測されている。しかも外殻は硬く、小さな拳銃ぐらいでは貫通できない。
その遺伝子には、蟻の遺伝子が入っているため、女王が子孫を作る社会システムを構築した。
「そして、あの甲龍、前にあんたの目の前で放した奴らは人を襲うことは決してない。遺伝子の中にはっきりとそれが書き込まれている」
俺の目の前に甲龍が夜空に飛び去っていく光景が、再現されたような錯覚に陥った。あの光景はいつのまにか、しっかりと記憶の中に刻み込まれていた。
「だが…こいつらは失敗作なんだ」
「失敗作?どういう意味なんだ…」
目が薄暗さに慣れてくると、甲龍たちの姿が浮かび上がってきた。
そして、その姿を見て男の言った意味が少し分かる気がした。前に見た甲龍とはどこか異質な感じがした。客観的に言うと、少し体が大きく、僅かに体の輪郭が角ばり、若干足が太くなっていただけである。
しかし主観的な印象、その甲龍から受けるイメージはかなりの変化を見せていた。
禍々しさの塊―それが最も的確な表現であると思われた。前に見た甲龍の中には僅かではあるが、人を魅了する部分や愛らしさの断片が潜んでいた。それなのに同じ生物かと疑うぐらいにその部分が拭い去られている。
触るどころか、近づくことさえも体が無意識に拒否反応を示す。
それは目の前の生物の荒々しい仕草に起因するのだろうか…。
男が俺の顔を見て微笑を浮かべる。侮蔑、続いて寂しさが張り付いていた。
「こいつらには繁殖力はない。前に放ったやつらはおそらく自然の中でも十分に生きていける。でもこいつらにはそれができない。俺が与える薬がないと一週間も生きていけない」
「そうか、こいつらは野生で生きることはできないんだな…生物的に欠陥があるということか」
俺は少しだけ安堵した。この甲龍を目の前の男が前の甲龍と同じように世界に放つのではないかと、心配したのである。
「違う。失敗作だと言ったのはそんなことじゃない。そんなことなら、修正することはできる。どこの遺伝子を組み替えるかも分かっている」
「…」
俺は何か言いたかったが、言葉が口の外に出て行かなかった。
「誤算は二つ。一つは大きくなりすぎたことだ。本当は掌ぐらいの大きさで良かったんだが、少し大きくなりすぎた。この大きさだと俺のイメージと違っている。もう一つは、俺の言うことを全く聞かないことだ。知能は高いはずなのに…俺に逆らう恐さを分かっていない。俺はあいつらの創造主だから、抹殺することも可能なのにな…」
男がそう呟いてから五秒後、ガシャリという音が響き渡った。
俺は一匹の甲龍が突然に檻に体をぶつける光景を男の背後に見た。甲龍の体当たりは確実に檻の形を変形させていた。
多分、俺の顔はかなり引きつっていたと思う。
男は俺の様子を見て、笑った。
「何を驚いている?甲龍が少し暴れているだけじゃないか。檻の強度は十分なように設計してある」
ゴッ。
先程よりも鈍い音が響いた。
檻はさらに変形の度合いを増していた。
「本当に大丈夫なのか?檻がかなり曲がってきたぞ」
男は顔の笑いを侮蔑に変えながら、目は俺に向けたまま首を回した。そして、目をゆっくりと背後に向ける。
男の体がピクリと動きすぐに立ち上がった。
「やばい!」
ミシッ。
破壊音と共に、甲龍は閉ざされた空間から放たれた。
一匹の甲龍が飛び出し、それを男が捕まえようとするかのように手を伸ばす。
甲龍を追って俺の方に再び向けられた顔には、必死の表情が浮かんでいた。それは自分の宝物を失う恐れがもたらしたのか、凶暴な甲龍を世に放ってしまう罪悪感がもたらしたのか分からないが…。そして、それを知る術も次の瞬間、永遠に断たれた。
男の天才的な、そして狂気に満ちた頭脳は甲龍によって破壊された。
最初の甲龍を追いかけるように飛び出してきた二匹目は、男の背中に体当たりしたように見えた。男の体が前に傾く。手が宙を掴むようにして動かされたが、何も男の体を支えるものはなかった。
男の喉から苦しげな呻き声が発せられた後、呪いの言葉が続く。
「出来損ないのくせに…俺に逆らうのか…」
男は足を一歩前に出し、倒れ掛かる体をどうにか支えようとしたが徒労に終った。
男の背中は血で染まっていた。暗い照明の下では、血は紅くなく、黒々としたタールのように見えた。
甲龍は男の首を背後からざっくりと噛み裂いていたのである。
俺は硬直したように体を動かすこともできず、瞬きさえも忘れたように座ったままであった。
甲龍は宙に浮いていた。羽を激しく振動させて、ゆらりと漂っている。
甲龍の視線が一瞬、俺の方に向けられたような気がして、緊張がさらに高まった。心臓が破裂しそうになるほど、大量の血液を送り出しているのを全身で感じていた。それとは裏腹に皮膚の感覚は遠退いていくようである。
甲龍が再び移動を始めた。壁に当たる。当たるというよりも何もないかのように飛び続けた。
薄いスレートの壁は、ほとんど抵抗することなく穴を開けた。
続いて、もう一匹の甲龍が別の穴を開けて、同じ方向に飛び去った。
甲龍の気配がこの空間から消えた。俺の張りつめていた緊張感が弛緩する。
「ぐっ。あいつらは…」
男のくぐもった声が耳に届いてきたが、俺の弛緩した精神に届くまで一瞬の間があった。
俺はゆっくりと首を声のした方に向けた。血に塗れた男が苦しげに蠢いている。本人は自分の状態を認識していないのか、腕を床について立ち上がろうとしているが、全く腕に力が入っていない。
俺は男に近づいて座らせた。救急車を呼ぶべきであったのに、男と病院がどうしても結びつかず、思い浮かばなかった。
「二匹とも逃げたか?」
こくりと頷いた俺を見て男は歯を食いしばった。自分の怪我の状態より、甲龍が男にした仕打ちに対して怒っていた。
男の顔は、服を濡らす血の鮮明さとは対照的に青ざめていた。それでも、男は自分に迫っている死を認識していないようであった。
「どうせ、あいつらも死ぬんだ。あいつらの女王は一匹の子供を産むこともできずに先週、死んだ。あいつらもじきに死ぬだろう…」
男が震え出した。まるで痙攣が連続して起こっているような震えであった。
「寒い。寒い…なぜこんなに寒いんだ…」
この時、初めて救急車が思い浮かんだ。携帯電話を取り出し、落ち着いた声の職員に、どうにかこの場所を説明した。
「患者の怪我の具合はどうですか?どのようにして怪我を負ったのですか?」
状況を説明しようとした時、言葉が止まった。
(どう言う?甲龍に襲われたと言って信じてもらえるだろうか?)
そう考えると、さらに不安が襲ってくる。
(俺がこの男を襲ったと思われないだろうか…)
この異常な状態を、正確に相手に伝える自信など全くなかった。
悪戯ではないかと疑いを持つのに、十分な時間の沈黙が横たわっていた。
「もしもし!大丈夫ですか?」
電話の相手の声に苛立ちが混ざり始めた。
俺は、説明を諦めて、ありったけの声で叫ぶ。
「とにかく早く来てください!出血が酷いんです」
電話を切って、男に視線を戻す。
男は大量の血の中に座っていた。座っている場所を中心に血が広がっている。足は力なく伸ばされ、軽く震えながら両手で体を庇うようにしている。
視線は定まらず、顔には血の気がない。
「おい。しっかりしろ!」
男は口を開こうとするが、声は出てこない。口をもう一度、閉じて口の中を湿らせてから、再び口を開く。
「…甲龍は凄いだろ?俺が造ったんだ。俺が甲龍にとっては神だ」
男の顔に微笑が浮かぶ。先程まで甲龍に呪詛を吐いていた男の顔は、混乱した精神の中で穏やかだった。
そして、男の首から急速に力が失われた。
首が前に垂れ、動かなくなる。
「おい!」
応えはなかった。俺は微かに指先が震える手を男の口の前に持っていった。
(息をしていない)
ここで俺は不思議と、冷静さを取り戻しかけていた。
自分の置かれている状況が危ういものであることに思い当たった。
男はまるで、後頭部を何か鋭く先の尖った凶器で引き裂かれたような跡を残して、死んでいる。この場にいるのは俺だけである。甲龍という未知の生物の存在をすぐに信じてもらえるとは思えない。
俺は部屋の中を見回した。何か甲龍がいたという証拠を探す必要があった。
すぐに飛び込んできたのは大きな二つの檻。
(しかし、これに甲龍が入っていたと警察に分かるはずがない。排泄物などを調べれば、未知の生物がいたことは分かるだろうし、不自然に変形し、破壊されていることからも異常なことが起こったことが分かるかも知れないが、事件の真相が分かるとは思えない…どうする?)
部屋の隅に机―スチール製で所々、錆びている―があった。その上には本、紙、そしてノートパソコンが置いてある。
(あそこに何かデータがあるはずだ。それを証拠にすれば大丈夫だ…)
俺は薄暗い中を歩いて行った。視線は机の上にあるものを必死で見ていたために、他のものは目に入っていなかった。
ガツッと、何かが足先に当たり硬いものが転がっていった。そして、高い破壊音。ガラス瓶が割れたようである。
トルエンの臭いが広がる。ガソリンの主成分である溶剤である。おそらく、何かの実験に使っていたのだろう。
照明のスイッチらしきものが壁際に見えた。
室内は薄暗くて細部は見えず、俺は何が起こっているのか知りたくて、スイッチを入れた。
ボンッ。
炎が小さな爆風と共に湧き上がった。
電灯のスイッチだと思われたものは、何のスイッチか分からないが、何かの機器から発した火花が、トルエンに引火したのである。
顔に吹き付けてきた熱風は僅かに、髪の毛を焼いただけで、火傷は負わなかったが、しばらく視界を奪うには十分な衝撃を与えた。
体の平衡感覚が一瞬混乱し、足元が左右に揺れた。
目を擦り、開けた。
「うわっ!」
炎が急激に成長していた。決然とした意思を持った生き物のように、自らのテリトリーを広げている。
消すことを考えるような大きさではない。
出口を探す。
机の上に視線がいく。炎が室内を明るく照らし出している。ほとんど無意識に机上の光ディスクを手に持っていた。
炎が発する音の影に、救急車のサイレンが入り込んできた。次第に近づいてくる音に心臓の鼓動が高まる。
俺は不安に追い立てられるように走り出していた。
どれほど走ったのか、何度角を曲がったのか分からなくなった頃、足を止めた。
荒い息が肺を締め付ける。
息が静まってくると、じわりと不安が持ち上がってきた。
(警察に行った方が、良いのか?それともこのまま去る方が…だが、あの男の死因が事故ではなくて、殺人だということになれば疑われるのは俺だ。それならば、先に自分から警察に行って…やはりだめだ。甲龍に襲われたと言っても信じてもらえない。俺自身でさえも、甲龍の存在を本心から信じることができない。ふとした瞬間に、夢であると思ってしまう)
空を見上げた。
夜空は、ほんのりと赤く染まっていた。街の明かりで幾分明るくなった空に、炎の赤が乗っている。
俺はしばらく空の端々まで視線を投げかけた後、歩き出した。
空に甲龍は浮かんでいなかった。もし、その姿の断片でも見ることがあれば、迷わず警察に行っていただろう。そして、必死で甲龍の存在を訴えた。
しかし、俺の歩き出した方向は自分の部屋だった。
左手にしっかりと握り締めていた光ディスクに、ようやく気が付いてポケットに捻じ込む。放す時、掌に食い込んだディスクの跡が微かな痛みを訴えた。
部屋に着いた時にはすでに、夜明けまで数時間しか残っていない時であったが、眠気はなかった。しかし、シャワーを浴びてソファに座ると一瞬にして睡魔が意識を連れ去った。
翌日、火事があったことは報道されたが、男が死んだことは伝えられていない。
俺は、そのことを訝りながらも、安堵が意識の中を埋めるのを否定できなかった。
俺は大学を休み、男の実験室から持ち帰ったディスクの中にあるデータに釘付けになっていた。
データの大半が未整理のままであったので、その意味を解読するのにかなりの時間を要した。翌日の早朝になっても十分の一も内容が分からない。それでも甲龍について色々なことが分かってきた。そして、ますます甲龍に対する興味が湧き上がってきて止めることができなくなってしまった。
そのまま、俺は一日に数時間ほどの睡眠と空腹を抑えるためだけに必要な最小限の食事だけをとる時間以外は全てデータの解読に使うという生活を一週間も続けた。幸い、学会も終わり、研究に余裕があった。そして、坂井教授は研究室を留守にしがちであったので、続けて休暇を取ることができた。
俺の知的欲求は留まることを知らず、一週間は加速度的に短くなった。
一週間が過ぎた時、すでに肉体的に、それ以上に精神的にかなりの疲労が蓄積していた。
体に溜まった疲労で、頭の回転がかなり遅くなってきていることをはっきりと自覚し始めた頃、ようやく甲龍という存在の秘密がおぼろげながら見えてきた。全てのデータをできうる限り整理し、自分なりに解釈することができたのである。残念ながら一部でしかないが…。
甲龍は男が遺伝子操作によって作り出したもので、昆虫と爬虫類を元にしていた。昆虫は甲虫と蟷螂、そして蟻で、爬虫類はワニの一種であるカイマンの中で小型のものを、サンプルとして利用したようである。そして、もう一種類の生物を用いているらしいが不明である。
そして、遺伝子の材料として、何か分からないものをあの男は使っていた。あの男はそれをコンポーザー―作曲家、構成者、作者、そして合成する者という意味―と呼んでいた。
俺はこの遺伝子が持つ機能に興味をそそられた。
遺伝子とはそれぞれの生物の遺伝形質を発現させる元になる、デオキシリボ核酸つまり、DNA―ウィルスなどではリボ核酸つまりRNAだけの場合もある―の分子の領域のことである。そして、それによってできた遺伝子産物や遺伝子間の相互作用が形質発現を調節するのである。
そして、ある生物で発現した形質に関係のある遺伝子を他の生物が持っていても、その形質が発言するとは限らない。遺伝子操作で有用な植物を作ろうとするとき、必ずしも狙った通りの形質を持ったものにならないことはよくあることである。
ところが、このコンポーザーは遺伝子が持つ情報が発現する手助けをするのである。その機構はあの男も解明できなかったようであるが…。
つまり、コンポーザーをうまく使うことによって、相容れないような性質の遺伝子や、どちらかが優先的に働くような遺伝子同士の橋渡しをすることができるのである。
「これは何だ?どこから、この遺伝子を手に入れた?」
何度もそう呟いたが、解けない問題である。
コンポーザーの元になった生物に関してのデータがどこにも見当たらない。それだけでなく、コンポーザーに含まれている塩基に通常のDNAに含まれているものとは別の塩基が組み込まれている。DNAは通常、アデニン、グアニン、シトシンそしてチミンの四種類の塩基の配列によって決定されている。しかし、コンポーザーには別の塩基が組み込まれている。男はそれをXという記号で表していた。
この塩基の構造について、男は詳しく解明することはできなかったらしいが、今まで知られているものではないようであった。つまり、コンポーザーは未知の生物のDNAから得られたか、新たに創造したものであるということになる。
頭に詰まったデータが渦を巻き、何か答えを求めて脳は動こうとするが、意識がエネルギーを失っていた。
ぼんやりとした意識を漂わしながら、テレビ画面に目を向ける。夕飯時に相応しい和やかなバラエティー番組が、流れている。家庭でのハプニングを撮影したものが、有名タレントの司会で軽快に次々と映し出され、ほのぼのとした笑いを生み出している。
俺は急激な眠気に引きずり込まれた。頭がソファーの背もたれに沈み、手が膝の上から落ちてテレビのリモコンに当たる。
「昨晩、ここで二人の高校生が襲われ、今朝無残な死体となって発見されました」
テレビのチャンネルが切り替わり、緊迫したリポーターの声が届いてきた。先程の和やかな雰囲気の番組とは、全く趣が違っている。眠気が僅かに薄れた。
(また殺人事件か…物騒な世の中だな。やはり、この世で最も恐ろしいのは人間か…)
近頃では珍しくもなくなった猟奇的な殺人事件がまた起こったのかと思いながら、再び睡魔に飲み込まれようとした時、リポーターの声が俺の脳を揺さぶった。
「襲ったのは野犬の群れであると思われていましたが、専門家の調査によりますと犬などの哺乳類でなく、ワニなどの爬虫類ではないかということです」
俺は体を起こして、テレビ画面に視線を固定した。
リポーターが詳しく説明を始めた。歯型は犬のものではなく、もっと小型のものであるらしい。それが少なくても五匹以上の群れを作って、襲ってきたらしい。
そして、被害者は柔道部に所属している体格の良い高校生であるので、かなり力のある獰猛な動物であると思われる。
しかし、どの動物であるかを断定するまでは至っていない。予想された性質に合致する動物がいないのである。
ワニが最も近いように思われたが、日本にワニが多量に生息しているはずもない。また、現場付近には川や池など水辺はなかった。それに歯型から推測される大きさのワニでは、被害者を死に至らしめることはできないと思われた。
「謎は深まります。警察や市役所では付近の住民に警戒を呼びかけています」
リポーターの締めの言葉が流れ出て、しばらくは頭の中に空白ができた。次に、焦りと後ろめたさが入り混じったような感情が意識の表面を覆い始めた。
「甲龍だ…甲龍が人を襲った」
あの男の元から甲龍、それもかなり凶暴な甲龍が逃げたことを知っていながら、甲龍がもたらす被害について考えることさえもしなかった。
あの男の残したデータを解析することに、全ての興味を奪われて、他のことは考えなかった。もっと辛辣に言えば、データに集中することで、自分に男の死の、とばっちりを受けるかも知れないということを忘れようとしていた。もちろん、甲龍に関して決して少なくはない興味があったことも事実であるが…。
だが、それが取り返しのつかない事態を引き起こした…いや、それは起こるべくして起こったのかも知れない。それに俺が何か行動を起こしたからと言って、何ができたのか?
「逃げ出した凶暴な甲龍は二匹だけだ。それにあの二匹の甲龍は繁殖できないと言っていた…でもあの男の言うことを信じるのか?」
ドンドンッ。
玄関のドアが重い音を発した。




