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新種生物

 人々の視線の先には、それまで地球上に存在しなかった生物がいた。

 凶悪な姿をしたその生物は、黒い姿を宙に浮かべ、人の上に急降下を行う。

 屈強な男がその生物に腕を振るう。細身の女性の太腿よりも太い腕に殴りつけられたにもかかわらず、その生物は男の肩に六本の足についた鉤爪を食い込ませ、離れない。そして、男の肩の肉を鋭い歯で噛み裂いた。

 男の口から悲鳴が上がる。

 だが、その悲鳴に助けに来る者はいない。

 その生物は一匹だけではなく、数百、数千と宙に舞い、それぞれが地上に張り付いている人間を目がけて襲い掛かっている。

 悲鳴を上げた男には、さらに二匹のその生物が食らいつき、首の肉を削り取り、男は息絶えた。

 そこから数メートル離れた場所では、すでに絶命している妊婦の腹の中に、その生物が首を突っ込んで湿った嫌な音を立てている。

 その向うでは、若い女が、老婦人が、子供が、中年の男が、犬が、鳩が、その周辺にいるあらゆる生物が餌となっている。

 その黒い生物は殺戮を繰り返しては、貪欲に腹の中に詰め込んでいく。


 遺伝情報生物学会の発表会。

 毎年、秋に開催されるこの学会は去年、東北のある都市であったが、今年は関西で開かれた。

 五つの研究発表会場とポスターセッションの会場が設置され、三日間で延べ七百人余の人が訪れる。その三日目の一番小さな発表会場の最後から二番目の発表。

 前のいくつかの発表が長引いたため、開始の予定時刻が三十分以上も遅れていた。最終日でもあり、すでに会場を後にしている者が多くなり、全体的に閑散とした雰囲気となり始めていた。

 その雰囲気を助長しているのが、秋の肌寒い風と朝から空に張り付いている雲である。

「人のDNAの中には無限の可能性があります。私はその一例を発見しました。これがその可能性です」

 スクリーンに映し出された写真は不気味な生物のものであった。横に置かれたスケールから体長、三センチほどのものである。

 ざわりと、会場の空気が変化した。

 写真の印象にも衝撃を受けたが、発表の内容がレジュメ集に書かれている内容と全く違ったものであったからである。

 壇上の男は、十分間の発表時間が過ぎると、唇にだけ微笑を乗せて、冷たい視線を聴講者たちに向けた。小柄な体格と大きな黒い縁の眼鏡だけが特徴の男である。

 しかし、その表情はどこか見る者を不安にさせる何かを含んでいた。


 三年の月日が過ぎた。


「お前も子供の頃、自分の想像通りの生物が生きているのを見たいと思ったことはあるだろう?」

 その男は顔の割りに大きすぎる眼鏡の奥にある目を俺に向けて言葉を吐き出した。

 手入れされずに長く伸びた髪は絡まり、服の袖は汚れている。背は低く、痩せている。猫背気味であるため、さらに背が低く見える。それが、十分ほど前に俺に話しかけてきた男の姿である。

 俺は大学の助手仲間と居酒屋で、たっぷりと飲んだ帰り道である。夜遅くまで研究に時間を注ぎ込んでいる日々の中で、久しぶりの息抜きだった。足元がふらつきバスの停留所のベンチで下を向いて座っている時に、一人の男が話しかけてきた。俺は、その男をどこかで見た記憶があるような気がして、話を聞いていたのである。

 男は熱のこもった目を俺の上から動かさない。

 俺は深く考えずに頷いた。

「そうか。そうだろ?そうだよな」

 男は嬉しそうな表情を見せ、喉を鳴らしながら笑った。

「今から、歴史的な瞬間に立ち合わせてやるよ」

 男は足元に置いてあったものを持ち上げて、ベンチの上に置いた。それは猫や犬などを運ぶ時に使う籠であった。

「なんだ?」

 俺は自分の舌が酔いのせいで、思うように動かないことを頭の隅で感じた。

「心の準備はいいか?」

 そう言って、男は籠にかけていた布を外した。

 透明な板―おそらく分厚いアクリル板であろう―の向うに何か蠢くものがあった。

「何?猫か?」

 男は小さな笑みを浮かべた。

「よく見てみなよ」

 俺は顔をゆっくりと近づけた。

 キーキーと甲高い鳴き声が聞こえてきた。

(猿かな?)

 俺は興味をそそられながら目を凝らした。外灯の光は籠の中まで届いていない。

 再び、鳴き声が聞こえてきて、中で何か黒光りするものが動いた。その光沢は、カブトムシそしてゴキブリが発する、あの光沢である。しかし、色は黒に僅かな白を混ぜ込んだような濃い灰色である。

 中にいるのは一匹ではないようである。二匹、又は三匹がいる?

 俺は酔いで焦点の定まらない目を擦って、視線を集中したが、中は見えない。

(そう言えば。ポケットに小型ライトがあったな)

 家の鍵などと一緒にキーホルダーにぶら下げているライトである。暗いところで鍵穴を探すときには便利な品物だ。

 ジャラリと音を立ててポケットから取り出し、光を当てた。

「えっ…」

 息を呑み、男を見た。

 男は楽しそうに笑う。

「ははは…。驚いただろ?これは何だと思う?」

 男は、籠の中を覗き込んだ。

 光の輪の中に浮かび上がったのは、まるで、SF映画やアニメの中から具現化した存在。現実感を伴っていないはずの存在。

 それなのに、自分のすぐ近くに明瞭に存在している。俺の頭の中で、現実と非現実が一瞬にして錯綜した。

 甲虫の肌をした生き物…。

 それは俺に向って、口を開いた。その口の中にびっしりと生えている歯は、鋭い無数のナイフの群れを思わせた。

 ギャオー。

 高く耳障りな鳴き声を、その異質な生物は腹の奥から絞り出した。

 思わず後ろに下がった俺の目の前で、男は籠の蓋に手をかけて動かし始めた。

「どうするつもりだ?」

 男は小さく笑い声を上げる。

「ははは…。そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。こいつは俺の言うことは聞くから…。それに今はまだ蛹から孵って十分な時間が過ぎていないから大人しいよ」

 男はさらに蓋を動かし、完全に開け放った。

 俺は不安と、微かな期待を込めた視線を籠にぽっかりと開いた穴に注いだ。

 黒灰色の鍵爪がゆっくりと伸び上がってきて、穴の縁にかけられた。蟷螂の前足を太くして、さらに鉄の硬さを加えたように見える足である。形状は、鎌…。

 その足に続いて、一匹の見知らぬ生物が全身を現した。

 頭部はトカゲである。但し、鈍い光沢のある殻で覆われている。そして、足は六本、一番前の二本の足は蟷螂の鎌のように体の前に持ち上げられ、残りの四本の足は体を支えている。

 蟷螂を少し太くしたような体も硬そうな黒灰色の殻で覆われ、背中には羽が折り畳まれている。首は蟷螂のようには長くはなく、環を何重にも重ねたような構造をしている。

 ゴールデンハムスターを二周りほど大きくしたような大きさである。

「コウリュウと命名しようと思うんだ。どう思う?」

「コウリュウ?」

 男は指で、字を宙に描いた。

「そう、甲龍だ」

 男の言葉が、俺の中で形を成すまでに一瞬の間があった。

 俺はその生物から目を全く離すことができないまま、ゆっくりと頷いた。

 喉の奥が張り付いて、声が出難い。

「いいんじゃないかな…これに似合っていると思うよ」

 麻痺しかけた思考の中で、俺はそう答えた。「龍」という言葉が、これには、ひどく相応しい。それだけは、はっきりと思っていた。

 硬い殻を持った龍、禍々しく、不気味で、しかし魅力的な姿の龍。そして、僅かに漂う愛らしさがある。

 男はにんまりと口を歪めた。その目には暗い色を湛えたままで…。

 籠から、もう一匹が姿を現した。二匹はお互いに牙を見せ合うように口を大きく開き、牽制しあっている。子猫がじゃれあう姿に、邪悪さを加えたような光景であった。

 ごくり。

 自分の唾を飲み込む音が妙に大きく聞こえた。

 さらに一匹の龍が姿を現した。それは、前の二匹よりも一回り以上は大きい。外殻の光沢も深みがあり、全体的な印象もどこか貫禄がある。

「こいつは女王だ」

 その時、俺には男の言っていることの意味が分からなかった。もし分かっていれば、俺はもっと適切な行動がとれたはずであった。

「かわいいだろ?」

 男の言葉と目の前の存在とに、あまりにも大きなギャップがあった。

 三匹の甲龍は、最も大きな龍を中心にして大人しくしている。ゆっくりと周囲を窺うような仕草には、知能が感じられた。

 その龍―小さい方の龍のうちの一方―は俺と視線が合うとしばらく視線を固定させた。

「これから、こいつらを放してやろうと思うんだ。少し、惜しいような気もするが、こいつらもそろそろ自立する時だからな」

 俺はその時、甲龍の姿を見ながら、何か強い義務感のようなものを感じた。

(これをこの世に解き放たせてはならない!)


 キー。

 甲龍の鳴き声に促されたように、俺の腕は動き始めた。ありったけの力で、一番近くにいた甲龍を掴んだ。

 掌に硬い物の感覚が広がる。

「何をする!やめろ!」

 男の叫びを無視して、俺は甲龍を地面に叩きつけた。甲龍は悲鳴を上げただけである。体液が飛び散ったり、足が折れたりしていないので、どれくらいのダメージを負ったのか推測はできない。まだ、地面の上で、もがいている。足の裏をその上に勢いをつけて落とした…。


「放す前に、一度触ってみるか?」

 俺は男の声で現実に引き戻される。現実の俺は、体が麻痺したように動かなかった。目だけがしきりに動いていた。

 俺は自分の指がピクリと動くのが遠い感覚であった。

 男が俺の左手首を持って、ゆっくりと甲龍の背中に持っていった。

「どうした?触ってみたくないのか?」

 硬直したように力が入ってしまった俺の腕を放さずに、男が訊ねた。その声には幾分かの優越感が混ざっている。

 男は俺の腕を持ったまま、今度は小さい方の甲龍を自分の左手に乗せて近づけてきた。

 俺はおぞましさと恐怖、それに反する好奇心との間で感情を激しく揺らしながら、その様子を見ていた。

 掌に硬い物の感覚が広がる。だが、柔らかい感触も僅かにあった。

「どうだい?触った感じは?蛹から孵って間もないから、まだ少し柔らかいけど、本当は鉄と同じ硬度を持っているんだ」

 俺の頭の中に男の言葉が広がった。まだ甲龍の外殻は本来の硬さを獲得していないと男は言ったが、今まで触ったことのある、どの生物よりも硬い皮膚を持っている。

 ほんのりとした温かさが掌全体に広がる前に、甲龍は体を動かした。僅かな動きだったが、俺はそれに敏感に反応し、腕を素早く引っ込めた。

「そんなに恐がらなくても大丈夫だよ。こいつらは、人を襲わないように遺伝子を操作してある」

 男の声には、さらに優越感が増した。

 男は、一番大きい甲龍の頭を二度撫でると、立ち上がった。

 男が持っている籠の上には三匹の甲龍が並んで立ち、空を見上げている。

 ゆっくりと籠を上げていく。胸の高さまで上げると男は腕の動きを止めた。

 月明かりに照らし出された。三匹の甲龍の周りの空間だけが、異世界に変じていた。

「さあ。飛べ」

 男の声が完全に夜空に飲み込まれてから、甲龍は翼―羽と言った方が相応しい―を広げた。

 うなりを上げて羽が振動を始めた。最初に最も大きい女王の甲龍の体が浮き上がる。続いて、残り二匹が飛び立った。

 上弦の月に重なるように飛んでいった三匹の甲龍が、ふと方向を変えた。

 甲龍の姿は夜の空に溶け込んだ。

 俺はその方向から目を離せずに、しばらく甲龍の姿を追い求めた。

 諦めて視線を戻した時、男の姿は消えていた。


 翌朝、重い頭を抱えながらベッドから這い出した。

 冷蔵庫から取り出したジュース―俺が気に入っているメーカーの100%アップル―を一気に喉の奥に押し流すと、冷たさで一瞬だけ体の芯にはっきりと形を成している倦怠感を、忘れることができた。

「昨日は飲みすぎたな…」

 どうやって自分のアパートに戻ってきたかも、覚えていない。記憶がぽっかりと抜けている。

 濁った視線を部屋の中に向ける。

(誰からだろう。面倒だな)

 パソコンに付いている一つの明滅するランプはメールが届いていることを持ち主に示している。

 再び倦怠感が充満してきた体をパソコンの前の椅子に落とし込む。

《海柳。元気か?久しぶりだな。次の学会に俺も行くことにした。一日目の発表の後で飯でも食わないか?》

 メールは関東の敬院大学で助手をしている真島からであった。二年ほど前に、同じような研究をし、年が同じであることもあって親しくなった。ちなみに、海柳修介というのが俺の名前である。

 来月、俺の勤めている大学を会場として学会が開かれる。その準備で半年ほど前から忙しい日々続いていた。忙しいが、普段はあまり話さない大学の人とも親しくなる機会でもあった。昨晩は、そうして知り合った人たちと酒を飲んだのである。同じような仕事をしているし、職業柄、議論が好きな人が多いために場はかなり盛り上がった。一部では議論が白熱して、喧嘩の寸前までいった者もいたが…。

 俺は、そのメールを読んでから身支度を始めた。

 今日は休む予定にしていたが、学会発表のことが急に気になりだした。

 三十分後にはアパートを出ていた。

 土曜日。駅に向う途中の道は、ほのぼのとした秋の雰囲気が流れている。公園―かなり広い公園でかなり大きな樹木が何本も立っている―の横を通り過ぎようとした。

 一匹の虫が飛んでいた。

(カナブン…昆虫…甲殻類…甲龍…)

 酒に酔って混乱し、二日酔いによって封印されていた記憶が端から姿を現した。

 いや、本当は思い出したくなかっただけなのかも知れない。

 俺は立ち止まり、カナブンの飛び去る方へ視線を向けた。

 青い空に黒い点となっていくのを、なぜか不安な気持ちで見ていた。

 甲龍、美しく、そしておぞましい生物の姿が脳裏にゆっくりと再現されていく。

 だが、あまりにも非現実的で、その記憶の全てが現実か、夢なのか判断がつかなかった。

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