その8
お題:くだらない少数派 制限時間:1時間
「松田さぁーん、この書類明日会議で使うんですけど、推敲やって全コピして冊子作ってくれませんかぁ? 私、この後用事あるんですー」
終業時間直後に後輩の水沢さんに頼まれた。
ばさり、とデータと共に渡された書類はかなりの枚数。
「え……」
時計を確認して返事に困っていると、
「じゃ、お願いしまーす♪」
水沢さんはそそくさとデスクを離れていった。
丁寧にメイクと巻き髪をした彼女は社内でもかなり男性にモテる。本人もそれを分かっていて、いつも男性社員に余った仕事を押し付けるので有名だった。最も、任された側も張り切って処理しているのだという話だけど。
水沢さんが私に話しかけてくる事なんて、いままでほとんど無かったのに。
(明日、使うんだよね……)
書類を横目で確認しながら閉じかけたパソコンを起動し直す。
ああ、本当に結構な量だ。けれど、一人でやれない事もない。
(――残業するか)
本気モード時用の黒縁メガネを取り出し、私はデータを確認しだした。
「松田君、大丈夫か」
残っていた社員が皆帰宅し、暗いフロアの中にいるのは係長を除くともう私だけになっていた。前方中央のデスクにいた係長は、誰もいなくなるのと同時に様子を見に来てくれた。
「あ、ようやく終わりましたんで……」
メガネを外して目をこすりながら告げると、係長はホッとしたような表情になった。
「いや、ずっと手伝おうかと迷っていたんだが。よく一人で頑張ったな」
「ありがとうございます」
ケースにメガネをしまい、余ったホチキスや用紙をまとめていると、
「――そうだ。良かったら、この後晩飯でも奢るよ」
係長が急に思いついた顔で言ってくれた。
「あ、いえ。大丈夫で――」
断りかけようとした私に、
「松田さんは焼き鳥、好き?」
と係長が尋ねてきた。
「あ。すき。ですけど」
「じゃあ、近くに皮屋っていう旨い焼き鳥屋があるんだけど。ここの鶏皮がカリッとしているのにタレが染みてて旨いんだ」
あー、思い出して腹減ってきたー。
お腹を押さえて悲し気にうずくまる係長のパフォーマンスに、私は思わず笑ってしまった。仕事中の真面目な姿からは想像できないお茶目さだ。
いや、甥っ子さんとジョーンを観ている話といい、実は楽しい面も多い人なのかもしれない。
係長はしゃがんだまま私をちらり、と見て、
「――行きませんか?」
と尋ねてきた。
「……あ、はい」
小さく返事をしてから、私はそそくさと片付ける作業に徹した。
一瞬どきっとして顔が赤くなってしまったなんて、気付かれたくなかった。
「……まつだ……まだ怒っているのか?」
先日の夜と同じ白い橋の欄干の上に私と黒葉さんは座っていた。青い月の下、せせらぎも飛び石も、それから向こうに見える東屋までが薄めた藍色に染まっていて、まるで夜空がそのまま降りてきたようだった。
今夜も黒葉さんは人間の姿を取っていたけれど、いつもの自信たっぷりな調子は欠片も残ってはいなかった。閉じた扇の先端でいじいじと膝をつつき、喋りもぼそぼそとしていてうまく聞き取れなかい。
「はい?」
私の聞き返しに、びくんっ! と黒葉さんの肩が跳ねた。
「ままままつだ……儂の事を嫌いにならんでくれ……」
「へ?」
そこでようやく私は、「嫌いになりますから!」と黒葉さんに言ったことを思い出した。
「あの……もしかしてここ数日お昼も夜も来なかったのって……」
「嫌われとうない」
黒葉さんはしゅん、項垂れて膝の上で扇をいじっていた。
「まつだだけには、嫌われとうない……」
元はカラスだって分かっている筈なのに、我が儘ばっかり言っていたのに。
なんだか妙に、可愛らしいと思った。
「――もう、怒ってないですから」
私はとん、と欄干から降りて振り返った。
「別に今まで通りハンバーグ食べに来ても構いませんよ」
顔を上げた黒葉さんに、
「それに、別に無理して人間の姿じゃなくてもいいです」
と私は続けた。
黒葉さんの顔がみるみる嬉しそうな顔に変わっていく。
「まつだあああ、やはり儂の事を!」
バッと飛び降り詰め寄ってきた黒葉さんに、
「あ、でもでも嫁に行くとか、そんな事はもう言わないでくださいね!いきなりって困ります!」
と私はじりじり下がりながら慌てて続けた。
「ようし、分かった!」
黒葉さんは扇を振り回して叫んだ。
「儂は、まつだがその気になるまでいつまでも待つ! 待つわー!」
人気のない藍色の世界で黒葉さんの
「まーつだあああ! らぶじゃあああ!」
という叫び声だけがわんわんと響き渡り、私は早々に許した事を後悔し始めていた。
昼休みに外に出ようとすると、
「ちょっといーですかぁ?」
と水沢さんを始め数人の後輩達に呼び止められた。そのまま引っ張られるようにして別階の会議室等が並ぶフロアのトイレに連れて行かれる。
「あのー、正直に教えて欲しいんですけどぉ」
水沢さんがくるくると巻き髪を弄びながら、私を見据えて話し出す。
「松田さんってぇ、係長とどーゆー関係なんですかぁ?」
「……え」
言葉使いこそぎりぎり敬語の範囲内だったが、その態度と表情は明らかにこちらを見下していた。女子トイレで数人に取り囲まれるなんて、何だかイジメみたいだな、と頭の片隅で思っていると、
「昨日ぉ、アタシ達クラブの帰りに見たんですよ~。松田さんが係長と一緒に『皮屋』入ってくの」
と水沢さんの隣の子が言った。
「あ、それは帰りが遅くなったから、御飯を……」
「この際だからはっきり言わせてもらいますけど、係長と松田さんって似合わないです」
水沢さんはきっぱりと告げた。
頭の奥がキーン、と小さく鳴りだす。この子は何を言ってるんだろう。
「係長ってスペック高いから、狙ってる女子多いんですよねー」
「ウロウロされると目障りってゆーかぁ」
「だいたい、松田さんに釣り合うワケないじゃないですかー」
「係長、メーワクですからぁ」
囲まれて次々に放たれる言葉は、私が重々承知していることばかりだった。
分かってるから。
初めから、分かっているから。
私が何も言い返せずにいると、
「じゃ、そーゆーコトなんで♪」
水沢さん達はゾロゾロと連れ立って出ていった。
「ウケるー、あの顔」
「スッキリしたぁ」
「ねー、ランチどこ行くー?」
「Lカフェ行こー。今日レディースデー」
廊下から聞こえるはしゃぎ声は、パタン、と閉じた扉で消えた。
私は一人、トイレに取り残されていた。