その17
お題:恥ずかしい経験 制限時間:1時間
驚いた顔の黒葉さんの身体にひびが入りだす。同時に、雲母のような欠片が端からぼろぼろとこぼれだす。
「ま、つ……」
伸ばされた指先を慌てて掴んだら、ぱりんと音を立てて砕け散ってしまった。
「……あ、あ」
『まつだぁ』
カラス姿の時の、ちょっと抜けたようなあどけない呼び声。
「や……」
『まつだ』
夢の世界での冠を付けた威厳のある大きな姿。
「くろ……さ……」
『――まつだ』
二人で夢を見た朝の、優しい呼び声。
黒葉さんが、消えてしまう。
「いやああああああああっ!!」
私は絶叫しながら黒葉さんにしがみついた。だが、すがりつく傍からぱりん、ぱりん、ぱりんと黒葉さんの身体は薄氷のように壊れていく。
しがみつきたくてたまらない。けれど触れると黒葉さんが壊れてしまう。
どうしていいのか分からなくなり、私は幼子のようにわあわあと叫びながら顔を覆って泣き崩れた。泣きながらも指の隙間から黒葉さんを見上げ続けた。目を離した途端に消えてしまうのが怖かった。
「わ、わたしのせいなの……ごめんなさい……!」
私は黒葉さんにあやまった。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ずっと言いたかった自分の名前を告げた。
兄に全てを打ち明けてしまい、黒葉さんの名も知られてしまったのだと告げた。
『……そうか』
黒葉さんの声が遠いものになっていく。
『昔の儂ならば、このような小細工、痛くも痒くもなかったのだが……』
「黒葉さんは神様なんでしょ!? 神様だから人間の術なんて効かないんでしょ!? ねえっ! そうだよねっ、ねえっ!?」
『……そう呼ばれた時もあった……だが、今は……』
黒葉さんの輪郭が溶けだし、私は細い悲鳴を上げた。
「私も一緒に連れていって! 何もなくていいの、黒葉さんといれるならそれでいい、だから!」
『――もとよりそのつもりだったのだ』
黒葉さんは笑っていた。
『――まつだ、儂が嫁取りを決めたのは、力が欲しかったからだ。
惚れさせた人間の娘の、生き血を啜り肉を味わう。そうすれば儂は力がみなぎり回復する。
だから、お前を選んだ。
従順で大人しそうな、孤独に飯を食うていたお前をな』
黒葉さんの姿は、今ではもうおぼろげに淡い光を保つだけになっていた。
『情けを……過ぎた。
儂はもともと……神にも……にも、むいていな……だ。
だから……別れ……』
「や、やだあっ、やだよおおおおっ!
はっ、初めて好きになったのはっ、くっ、黒葉さんだったっ、のっ!
ひいっく! せっ、せきに、とっ……」
顔をぐしゃぐしゃにしながら駄々をこねる私の前で、淡い光がだんだんと小さくなる。
『………』
全てが消えて無くなる前に、私は確かに名前を呼ばれた。
会社近くの森林公園の、誰にも見つかりそうにないベンチの上で、今日も私はお弁当箱を広げる。
箸でちまちまと中身をつつきながら最後の最後まで食べないのは、手作りをして冷凍保存しているハンバーグだ。
お弁当を食べきってしまうと、お茶を飲み、口元を拭った後にポーチから小さなリップクリームを取り出す。
それは外国製の、元々匂いの強いものが苦手な私なら敬遠するようなダークチェリーの味と香り付きで。
あの夜、黒葉さんとラーメンを食べた後、ティッシュで口元を押さえた私はリップクリームを取り出した。乾燥するとすぐに唇が切れてしまうので、保湿はこまめに行うようにしている。
いつものシンプルなリップを切らしてしまい、その夜は気まぐれで買って失敗した外国製のそのクリームを使っていた。
ひび割れにならないよう、ゆっくりとリップを塗り重ねる私の顔を黒葉さんはじいっと見ていた。かと思うと、いきなり顔を近づけて、ぱくっ、と私は唇をついばまれてしまった。
「!?!?!?」
顔を引き、真っ赤になって口元を押えていると、
「――まつだのそのうまそうな唇がいかんのだ。儂をたぶらかす」
と嬉し気に黒葉さんに言われしまった
「まつだの唇は甘いのう」
私はリップクリームを塗り直し、パクトを取り出して確認した。
特筆するような形の良さもなければピンク色でもない、ごくごく普通の私の唇。
「まつだはかわいいのう、かわいいのう」
どんな姿の黒葉さんでも、そんな、聞いている方が恥ずかしくなる台詞をたくさん私に浴びせてくれた。
だから、今の私は……。
パクトを閉じて、立ち上がる。
スカートの皺を伸ばすと、私は職場へと戻っていった。