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その15

お題:彼が愛した負傷   制限時間:2時間

「松田さぁん、この資料コピーして閉じてもらってもいーですかぁ?」

 きらきら光るジェルネイルの指先で、データを水沢さんに頼まれた。また終業時間間際だ。

 あれから私が係長に近付かなくなったせいで、水沢さん達によるちょっとした嫌がらせのようなものは収まった。けれど私が断れない性格だと分かってしまったせいで、こうして男性社員に頼んでいた仕事を時々私が担当する羽目になっていた。

「あの……今日はちょっと……」

「えぇ~? 何か用事でもあるんですかぁ?

 あ、もしかしてぇ、デートとか」

「……いえ、特には」

「ですよねー、じゃ、よろしくお願いしまーす♡」

 水沢さんは手をひらひらさせてさっさとフロアを出ていった。香水の甘い香りがふわりと残る。

(美人って……いいなあ)

 デスクに戻りデータを確認しながら思う。利用されているだけと分かっていても、甘い声で頼まれると嫌とは言い難い。以前のような刺々しさが減った分、むしろほんのりどきどきしたりもする。

 人を見た目で判断しない、なんていうけれど、やっぱり見た目の影響って大きい。

(こう……もう少し、鼻が高かったらな。あと、まつ毛が長かったら……あとあと……)

 ぼーっとそんな事を考えながら画面に目を通していく。

(……そしたら、今よりずっと、自分に自信が持てたんだろうな)

 見ないようにと思っていたのに、ついまた窓際を見てしまう。

 係長が若い男性社員と何か話している。打ち合わせか何かだろうか、熱心な表情でペンを走らせ製図のラフを描いている。

 時間にして僅か数十秒。それでも、いつこちらに気付かれるかひやひやしつつジッと見てしまう自分が嫌だった。

 我に返り、画面に目を戻す。

 いっそ部署が離れてしまえたらいいのにな、と我ながら我儘な事を思う。係長も同じことを思っているかもしれない。いや、きっと……そう思っているだろう。


 前回ほどデータの量が無かったので意外とすんなり終われそうだった。原本分の原稿を出力し、コピー機へ向かう。コピーを開始しようとしたらA4サイズの用紙が切れかかっていた。

 仕方なく別階まで用紙を取りに行き、セットする。新品の用紙を取り出す瞬間は好きだ。つるりとした美しい紙がぴっしり揃って顔を出す。うん、やっぱり美しいものは気分がいい。

 コピーの途中でピーッ、ピーツとアラームが鳴った。トナー切れの表示だ。再び別階まで取りに行き、コピー機を開きトナー交換をする。

(こういう事って、たぶん水沢さんなら他の人に頼むんだろうなあ……)

 彼女の綺麗な巻き毛とジェルネイルを思い出す。

 羨ましいとは思わない。こういう些末な処置ができない自分が想像できないから。


 すぐに終わると思っていたのに、そうこうしていたため意外と時間がかかってしまった。外はもう真っ暗だ。フロアにも人はまばらにしか残っていない。

(早く終わらせないと……)

 家に帰れば、きっと外で黒葉さんが待っている。

 今夜は味噌ラーメンを作ってあげる約束なのだ。コーンをたっぷり、バターを落とすと美味しいんですよって教えてあげたらぽとりと涎を落としていた――人間姿の時に。

(味噌ラーメンって、他に何を入れたら美味しいのかなあ)

 とりあえずたっぷりのねぎ、チャーシューって合うのかしら。野菜はさっぱりとした……。

 そんな事を考えながら、私は小ぶりの裁断機を使っていた。コピーも終わり、ホチキスで止め、後は手動の裁断機で端を切り落とせば済むだけになっていた。

 裁断機は金属製の台に力を入れ分厚い刃を当て降ろしながら使う。最近買い替えのあったばかりのこれは、いちどきに大量の裁断はできないものの、持ち運びしやすいためデスクで作業するのに便利なのだ。

 ザクリ……ッ

(あ、そっか。具は、袋に書いてあるイラストや写真を真似ればいいんだ)

 ザクリ……ッ

(バターはどうせならちょっといいものを買って……)


 ザ


「あっ」


 思わず声が漏れた。

 さっと右手を押さえる。見れない。見るのが怖い。

 痛い。

 人差し指の先が、どくんどくんと脈打つ音と共に痺れたように痙攣する。

 ぽた、ぽた。

 落ちる血がカットしたばかりのコピー冊子の上に落ちていく。

 いけない。

 慌てて拭こうとデスクの上に置いていたプラスティックのポケットティッシュボックスを引き寄せる。その間にもぱたぱたぱたととめどなく血は落ち続け。

(どうしよう、書類が駄目になっちゃう!)

(ど、どどうしよう、どうしよう……)

「松田君っ!!!」

 絶叫に、思わず肩がびくりとすくむ。

「あ……」

 顔を上げると係長が走ってくるところだった。

「す、すみません、書類、が……」

 震えながら血を拭おうとしていると、

「何言ってる!」

 大声で怒鳴られた。ヒッ、と目を閉じうつむくと、

「おい、もう医務室終わってるよな!? 松田を急患センターに連れていくから後を頼む。

 誰か綺麗なタオルかハンカチ持ってないか!」

 係長は白いタオルを持ってこさせると、それを私の右手に巻きつけた。それからバタバタと自分の鞄を取ってくると、私の左手を引っ張りフロアを出た。


 タクシーを捕まえ二人で乗り込む。

「急患センターお願いします、急ぎで」

「あの……そんな、普通の病院で……」

「病院はどこも開いていない時間だろ。だから急患センターに行く」

 係長は厳しい声で言った。

「はい」

 うつむき、うなだれて私は自身の右手を見た。赤い血が滲みだしている。

 係長は私から拳三つ分ほど離れて座っていた。

「……頼むから」

 絞り出すような声で前を向いたまま、係長が言う。

「頼むから、しっかりしてくれ……」

 ずん、と冷たい炭酸水が身体に流れ込んだような感覚に陥る。


 会社にも、係長にも迷惑をかけて。

 私がぼんやりしていたから。


「……みま、せん」

 声を乱しては駄目だ。だって、叱られて当然のミスなのだから。

「あの、一人で、行けます。

 係長、仕事に戻ってくだ……」

「馬鹿か」

 その台詞に、心が凍り付く。

 

 急患センターに辿り着くまで、互いに無言だった。




 結果的に、私はさほどたいした怪我をしていなかった。

 右手人差し指の先端を少しだけ肉も一緒にそぎ落としてしまっただけだ。

 応急処置をしてもらい、礼を言う。暫くは病院通いになりそうだ。

 支払いを済ませて病院を出る。係長は会社に電話で報告をしていた。

「――このまま帰りなさい」

 タクシーに乗り込んだ私に係長はそう言った。

「はい。あのっ、ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」

「――うん」

 係長は私の右手を見ながら頷いた。そして、ためらいがちに手を伸ばすと私の右手を取った。

「大事にならなくて良かった」

「はい、すみま」

 言葉を最後まで言えなかったのは、係長の眼差しに気付いたからだ。

「本当に……しっかりしてくれよ」

 するり、と右手を離すと係長は背を向けた。

 動き出したタクシーの後部座席から、私は係長が別のタクシーに乗り込む姿を見ていた。どんどん小さくなる横顔は、もうどんな表情をしているのかも分からなくて。




『まつだぁ、遅かったなぁ』

 タクシーが走り去ると、カラス姿の黒葉さんがぴょんぴょんと跳ねてきた。

「すみません、ちょっと会社で怪我してしちゃって」

 私が右手人差し指の包帯を見せると、黒葉さんの羽根がピヤァアアア……! と広がった。

『なななななななななな……!』

「あのっ、大丈夫ですから、全然、大丈夫ですっ」

 なだめて落ち着かせると、黒葉さんは私の足元に身体を寄せてきた。

「どうしたんですか?」

 しゃがみ込むと、身をすり寄せたまま、

『まぁつだぁ、しっかりせい』

 と黒葉さんがしゃがれ声で言った。

『お前は、何というか、時々危なっかしくてハラハラするのだ。儂は守ってやりたいとお前の傍におった。

 だが、お前はそれを すとーかあ だと言って腹を立てる。

 故に、こうして大人しく待っておるというのに。

 お前がしっかりしてくれんと、儂はまた すとーかあ になるぞ』

「え、それ困ります」

『そんなら怪我してはならん! いいか、絶対にならんったらならーん!』

 ばっさばっさと羽根を広げて黒葉さんは叫んだ。

「はい。気を付けます」

 微笑んで答えながら、やり取りの端々に聞き覚えがある気がしたのは、気のせいだろうか。


 そうだ。


 きっと、気のせいだ。

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