とぶ。
*
もう飛びたくないと、金網の上で僕は思った。
でも、飛ばなければならないことを、僕はちゃんと知っていた。そうでないと死んでしまうから。
冷たい夜に、冷たい粒が降りそそぐ。雪だ。
ぶるっと身を震わせると、身体に積もって重なっていた雪が、細かな粒に戻りながら、固い地面へと落ちていった。コンクリートの上で、粒は溶けずにまた固まっていく。
本当なら、もっとあったかいところに居るはずだったのだ。なのに、こんなにも寒い町の上で、僕は寒さに身を縮ませている。
仕方ない、仕方ない。だって僕は高く飛べないんだ。飛べない僕は、だから皆に置き去られて、冷たいここで震えているのだ。
それでも懸命に、皆について飛んでいたのは何時までだったろう。諦めて、追いかけてくる冬に背を向け続けられなくなったのは何時だったろう。
かしゃり、金網が鳴った。
ふと見下ろすと、さっきまでは無かった人の姿が、コンクリートの上にあった。
女の子だ。とても真っ白な、女の子。
雪みたいに真っ白な。雪よりも真っ白な。
雪に紛れない白の中で、黒い髪だけが夜に溶けて靡いていた。月明かりを映す眼には、冷たい光が宿っている。
もう一度寒さに身を震わすと、また小さな粒が不規則に落ちて、それで女の子は僕に気づいた。
「……君、そんなとこにいたら、死んじゃうよ。寒いでしょ」
見上げてくる瞳にとらわれて、僕は小さく首を縦に振った。彼女はそれには気付かなかったけれど。
「君は飛べるんだから、あったかいところに行けばいいのに」
――――今度は横に数回、首を振る。積もり始めていた少量の雪が、また落ちる。落ちた粒のおかげで、今度は僕のこたえに、女の子は気付いたようだった。
「どうして? 死ぬの、嫌じゃないの? 寒いのはつらいでしょ?」
ううん。うん。死ぬのはちょっといやだ。寒いのだって苦手だ。届かない返事を僕はする。
けど、
「もしかして、飛べないの」
――うん。
僕の頷きが届いたとは思えないけれど、それから女の子は、不思議な顔をして、言った。
「私も。飛べないんだよ」
あたり前だと、僕は思った。だって、彼女は人間だ。風を受ける羽根が無いのに、空を飛ぶなんて無理な話である。
最初から。
なら、どれだけ良かったか。
「ここに来たら飛べるかなって思ったんだけど、だめだ。私の力じゃこの網も越えられないからね」
おかしなことを言う。彼女は。
この網を越えてしまったら、彼女はそれこそ、死んでしまうだろうに。
「飛びたいな」
――僕は飛びたくない。
「寒いね」
――そうだね。
「死にたいな」
――――僕もだよ。ちょっと、恐いけど。
*
結局、女の子は飛べないまま、そこからいなくなった。気付けば月は沈んでいて、僕は朝を迎えても、まだ生きていた。寒さに凍えて、でも死ななかった。
あんなに飛びたくなかったのに、死にたいとも思っていたのに、それでも僕は、空腹を感じると、食事を獲りに動いていた。ちょっとあきれる。
それで僕は、どうしたいんだろう。
「ちっこいの。お前、なんでこんな町にいるんだ」
木陰で休憩していると、不意に声をかけられた。僕より二回り以上も大きい、真っ黒い姿。
「あぁ、そう警戒すんなって、ちっこいの。取って食ったりしないからよ。食事はさっき済んだんだ」
僕が黙ったままでいると、彼はもう一度、最初の質問を繰り返した。
「それで、なんでこの町にいるんだ? これからまだ、寒くなるぜ」
「……僕は飛べないから」
「何言ってんだ、さっき見たぜ。ちっこいくせに中々素早いじゃねぇの」
「でも、僕は高く飛べないから」
「あぁ、そいつぁどういう言い訳だ? あのなぁ、陸続きでも、南下は出来るんだぜ」
道なりに行きゃあ良いだろうがよ、あぁ?
彼は少し怒った風に言う。というか、怒っているみたいだった。
僕に対して。僕の言い訳に対して。
「僕、死にたいんだ」
「あぁ、なんだそりゃ」
「ちょっと恐いけど、でも死にたいんだ。死んじゃったら楽だよ。もう凍えなくて済むし、誰にも馬鹿にされない」
「馬鹿野郎」
「……ほら、馬鹿にした」
「あぁ? ちげぇ、おれが馬鹿にしたんじゃねぇ、お前が馬鹿なんだ。死ぬって、ちょっと恐いけどって、じゃあなんで死にてぇんだよ。それの何処が死にてぇんだよ。恐ぇんじゃねぇか」
「……でも」
「でもじゃねぇよ、ちっこいの。おれぁさっきまで、その辺の地べたに這って回って、飯をかき集めてたんだ。お前らみたいなのから見れば、大層みじめな光景だろうよ。おれたちの食事ってなぁそういうのだ。でもよ、おれぁ、それでも死にてぇなんて、思ったことは無いぜ、あぁ?」
威嚇するみたいに、彼は僕の眼を覗きこむ。睨むみたいに。
「飯食うってなぁそういうことだろうがよ、あぁ? それによ、留まってる方が多いおれから見れば、お前だって充分、高く飛んでんだぞ。比べるのも馬鹿馬鹿しいけどな」
「……励ましてくれてるの」
「あぁ? 馬鹿言うなよ、おれぁそんな暇じゃねぇよ。ただこの時季には珍しいちっこいのがいたから話しかけてみて、そしたらそいつがむかつくからよ、腹減るの待って、食ってやろうかと思ってんだよ」
ありがとう。言ってみると、彼はとても怪訝そうな、不本意そうな顔をして、
「あぁ?」
と言った。
精一杯飛んでみると、死にたがってた僕が嘘だったみたいに、溶けて居なくなってしまった。変わらず、皆みたいに高くは飛べないけれど。
お腹が空くんだからしょうがないよね、とは、思った。
*
夜になると、僕はまたあの金網の上に立っていた。
すぐにでも南を目指したほうが良いって、分かってはいたけれど。死にたい女の子に、もう一度会いたかったのだ。僕の言葉は彼女に届かないけれど、彼女もきっとお腹は空くだろうから、死んじゃだめだ。
夜は今日も冷たいけれど、雪が降っていない分、いくぶんかはましだった。
暫く待って、来ないかもしれないと思いかけていた女の子が、昨日と同じように、金網を鳴らした。細い指が振れた振動が、弱く、張り巡らされた何枚もを伝っていく。
振動が止むと、空を見上げた女の子の眼が僕を捉えた。粒を落とすまでもなく、昨日と同じように。
「まだいたんだ、君」
また来たんだよ。声は届かないけど、僕は言う。
「馬鹿だね、私。どうせ飛べやしないのに、こんな網一つ越えられないのに、またこんなとこに来てさ。でも仕方ないんだよ、ほら、この足じゃ、まともに地面も歩けないからさ」
言って、女の子は少し身体を傾げる。白い服から伸びる、負けないくらい白い足。その色は、素肌のそれではなかった。何かを足に巻き付けているらしい。
怪我をしてるのか。
「このくらいの網なら、棒一本で越えらるはずなのに。歩くだけでも、棒がなきゃ難しくなっちゃった」
掲げられるそれは、へんてこな形をした棒だ。松の葉を模したような、大きな棒。
良く見ると、彼女は最初から、体重のほとんどをその棒に預けるようにして立っているのが分かった。人間は僕たちより遥かに速く歩くけれど、この足では、それもかなわないだろう。
「助走をつけてね、こんなのよりもっとずっと長い棒を、思いきりしならせて飛ぶの。すごく高く。あの瞬間は、ほんとに一瞬だけだけど、空を飛んでる気分になるんだ。全部投げ出して、地面に帰るのを待つ」
――――でも、私には羽根がないから。
ずっとは飛んでられないんだよなぁ、と、その言葉は、どうやら本当は、僕に向けられているものじゃなくて。
「本当に空を飛べたなら、こんな怪我なんてしなかったはずなのに」
自分の、白に包まれた足を見つめて、女の子は呟いた。何を話しているのか、僕には理解できなかったけれど、それでも、彼女が何かを失ったということだけは、感じとることができた。
生まれたばかりの頃、落ちて羽根を傷つけた僕のように。
「治るんだって、これ。でも、他でも無い私が、前のようには飛べないって、そう思ってるんだ」
それは何かに打ち勝ちたくて、発せられている言葉に思えた。
「恐い」
――こわい。
「失くしちゃうのが恐い。一番好きな時間だったから」
疲れた、と、女の子は突然言って、支えにしていた棒を地面に横たえると、そのままコンクリートに――――その上に敷き詰められた雪に、座りこんだ。その表情には、確かに少し、疲労の色が窺える。
「つめた。あーあ、濡れちゃうなぁこれ。無断外出ばれちゃうかも。ねぇ、君、君はどうしてこんなところにいるの? どうして飛べなくなったの? やっぱり、怪我かな。落ちちゃった、とか?」
今度ははっきりと、僕に話しかけてくる。彼女の口にした想像は、勿論それを伝えることはできないけど、正解だった。小さくうなずいてみる。やっぱり気付かない。
「ねぇ、飛ぶのって、恐いね」
――――うん、ちょっと。
「でも、気持ち良いんだよ」
――――そうだね。
知っている。あたたかい頃、兄弟たちとふざけてでたらめに遊び回った時は、出来るだけ高く飛んで、いっぱい速く飛んで、とても楽しかったのだ。もう二度と、彼らには会えないけれど。
あたたかくなって、北上する時、もしかしたら、また会えるかもしれないと、今は思う。だから今は、南に飛ばなければならない。死なずに、生きるために。いつか恐くなくなって、嫌じゃなくなって、高く飛べるようになった時のために。
だから大丈夫。生き続けられるうちは、大丈夫。
「……そろそろ帰ろうかな」
やっぱ飛べそうにないな、と、女の子は昨日みたいに、不思議な顔をして言った。笑ってるのに、寂しそうな変な顔。
――――かちゃり、と。
彼女は金網を掴んで、棒を突きながら、立ち上がろうとする。
――――同時に、何かが外れるような金属音がして、僕は咄嗟に、なにか良くない予感がした。
金網の、丁度女の子の掴んだ繋ぎの部分の金具が緩んで、外れて、落ちた。
支えを失った網が、彼女の体重を受け止めずに向こう側へ――――遠い底の方の地面の側へ傾いでいく。
「きゃっ」
ガシャリ、大きく軋む音に遅れて、彼女の短い悲鳴が届く。
すとん、と、何かが軽く落下した音が続いた。
――――軽く、尻餅をついた音。
危なかった。僕の背で、外れた金網が床のない虚空をゆらついている。
飛ぶことを、彼女は望んでいたけれど。こんなのは、ただの落下だ。僕も彼女も経験した、ただの恐いことだ。
「……なぁんだ、君、飛べたんだ」
今までで一番間近で、拍子抜けしたような、女の子の声が聞こえた。急に飛び込んできた僕に、驚いたらしい顔。
「助けてくれた、のかな?」
今度は金網を掴むことなく、変な棒だけを支えに立ちあがりながら、彼女は言った。
苦戦しながらも、ちゃんと立ち上がって。
支えなくして。
「やっぱり、こんなとこから飛んでも駄目だな。飛ぶのなら、下から上に、高く上がらなきゃ」
馬鹿なこと考えたなぁ、なんて、おかしそうに笑いながら、女の子はゆっくりと、元来た道をたどっていく。
「実は階段登るのもちょっとつらいから、屋上来るのは控える。さっさと治して、杖なんて無くても歩けるようになってから、高いとこには自分で飛び上がる事にするよ。君は、もしかしたら、私を助けるために、ここに居てくれたのかな」
――――ありがとね。
彼女の姿が完全に見えなくなってから、暗い空を見上げた。言葉は伝えられなかったけれど、心の中で思う。
こちらこそ。
彼女は人間で、僕は違うけれど、違う僕たちは、同じ何かを、だからこそ一緒に乗り越えられたのだろう。
高い壁を。
彼女は棒をしならせて、僕は羽根を広げて飛び越えられるのだ。
破れた金網の上をつたう。
南へ向かって、生き続ける為に、僕は飛ぶ。
深読みしようと思えばいくらでも出来るような。それでいて、そこまで深読みしなくても何か考えられるような、想えるような、そういうものを目指して書きました。
はい、この結果です。悪しからず。
全体どのあたりが童話なのかという疑念はどうしようもなく沸き上がってきますが、僕はプロでないですし、自由に書きたいものを表現できる場所だと思ってここで書いているので、やっぱりそれも、悪しからず。
下手をすると長くなってしまう可能性がありますが、ちょっとだけ説明をば。
高く飛べない渡り鳥(燕あたりかな)と、怪我人の女の子のお話です。お伝えできているか心配なので明記しておくと、棒高跳びやってる女の子です。でもって、中盤の黒いのはカラスになっております。「あぁ」「あぁ」って、鳴き声を模してみたり。
何はともあれ、物語というのは、受け手がどう感じてくれるかが一番重要だと思うので、蛇足はこのくらいにしておきまして。
ここまで拙作を読んでいただき、ありがとうございました。
あ、よろしければ感想・評価など、よろしくお願いします。
草々。