序 別れの前に蕾を見よう
和国・桜花。
極東に位置するその島国では、代々、天子と呼ばれる者が国の統治者となり、天子は、選りすぐりの優秀な臣下と協力しながら、日々、政務に励むもの。
なの、だが……。
当代の天子である冬雨は、あまり政治に興味のない男であった。
もう中老と言われるような年齢であるにも関わらず、女の尻ばかり追い掛けており、臣下達はそんな天子を諦め、最後に書類に承認印を押させるだけにし、ほとんど全て自分達だけで政をしている。
今上天子は本当に優秀な臣下に恵まれた。即位して十七年──和暦・冬雨十七年、年が明けて三月となる花見月、拾伍ノ日となった本日も、変わらず国は存在していた。
最近では国中の桜の木に、うっすらと蕾が見られるようになった。それは、国の北に位置する北黒の地の、最奥にある奥楽冬という領地でも同じことで、領主の娘である雪月院花霞も、朝起きた時に庭の桜の木を眺めるのを毎朝の楽しみにしていた。
まず窓越しに桜を眺め、身支度を済ませて食堂に向かう途中にも、侍女に断りを入れて桜の木の近くまで寄り、すぐ傍から見上げる。
毎年毎年、桜が咲く頃の朝は、何かと行動が遅くなる。花霞自身も──彼女の両親も。
「おはよう、花霞」
「……お、おはようございます、花霞」
桜の木の傍には既に、花霞の両親が寄り添って桜を見上げていた。
母である桜子の肩に腕を回していた、父である冬雫は、花霞の存在に気付くと慌てて腕を引っ込めようとしたが、桜子がすぐに冬雫の腕をそっと掴んだ。
「いいじゃないですの、娘相手に恥ずかしがらないでくださいな」
「ですが、こんな、年甲斐もないですし……」
「私は、冬雫様がいくつになろうと愛おしいです。そんな冬雫様にされることは、何も恥ずかしいことなどありませんから」
「桜子……」
中老と呼ばれる年齢の冬雫と、四十を間近に控える桜子。
彼らの相思相愛ぶりは、年々増しているように、娘の花霞には感じられる。
自分が邪魔者のように感じ、その場を離れようとしたが、それを察した桜子に呼び止められた。
「来たばかりじゃないですの、あなたもこちらにいらっしゃい」
「……僕は邪魔かと」
一応、花霞は領主の娘として、人前での一人称は『わたし』にしているが、両親や気の許せる相手の前では、昔ながらの『僕』を使っている。
「最愛の娘が邪魔だなんて、そんなこと、あるわけないでしょう? それに……もう明日からは、一緒に桜が咲くのを見届けられないのだから」
ほら、おいでと言われ、それ以上抵抗することなく花霞は桜子の隣へ寄った。すると、桜子は自分と冬雫の間に花霞を立たせ、桜子は空いた手で花霞の癖っ毛気味の長い黒髪を優しく撫でた。
「早いものね。こないだ生まれたばかりのあなたが、十七歳でもうお嫁に行ってしまうなんて」
「桜子の言うとおりです。ずっと一緒にいられるような気がしていました」
「……」
明日、花霞は嫁に行く。
今日はこの後、まとめた荷物を業者に引き渡し、その後は侍女と共に結婚後に住む土地へと移動する。そこは飛行機を使わないといけなかった。容易に実家に帰れる距離ではないし、嫁ぎ先は里帰りを許してくれるような所ではない。
生きている内に、何度会えるのかは分からない。両親としては今の内に、娘と触れ合っていたいのだろう。花霞としても、嫁ぐ不安がある。彼らの優しさにしばし甘えた。
「お嫁に行っても、あなたは私と冬雫様の娘。耐えられなくなったら我慢しないで。どんな手を使っても助けますから」
「立場を失うことになっても、国を出ることになっても、必ず助けますから」
両親の力強い言葉に、花霞の不安な心が少しだけ和らぐ。
「ありがとうございます……」
別れを惜しむように、時間の許す限り、三人は桜を見上げた。
◆◆◆
当代の天子には六人の子供がいたが、四人が成人することなく亡くなった。
生き残った二人の子供は双子の兄弟であり、こないだ揃って、成人となる十五歳となり、国中で彼らの成人を祝った。
天子の子供は神子と呼ばれ、成人を迎えた神子は、正室を迎えなければいけない。
双子の神子にはそれぞれ、幼き頃より許嫁がおり、明日、合同で婚姻の儀を執り行うことになっている。
今上天子第三神子・春霧。
今上天子第四神子・春露。
花霞は──春霧の許嫁であり、明日、彼の花嫁となる。
彼は、次代の天子となることを約束された世継なのだが、父譲りのぼんくら・女好きと、悪い噂は北の地にまで届いている。
桜子と冬雫としてはこの婚姻を拒みたかったが、天子の命令であることと、抵抗するごとに疲弊していく両親の姿に、幼き花霞が折れ、この話は進んでしまった。
幼き頃に一度だけ、顔を合わせたことがあるが……あまり良い思い出は、少なくとも、春霧との間にはない。
それ以後、一度も会うことなく、噂話ばかり耳にして、婚姻の日が近付くにつれて不安は増していくが、もう決まったことなのだと諦め、戦に臨む気持ちで花霞は嫁ぐ。
幸せには、なれないかもしれない。
だが両親と、それから弟妹達、領民の幸せは続いていくはずだ。──自分一人の犠牲で、大切な人達が幸せになるなら、それでいい。
花霞は、確かに、不幸になる覚悟をしていたのだった。




