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天空を支える者

作者: Osmunda Japonica

## 第一章 電子の深淵にて


西暦2087年、東京・品川。


オリンポス・テック本社の47階にあるVR開発ラボは、深夜にもかかわらず煌々と明かりが灯っていた。佐藤アキラは、最新型のVRヘッドセット「イージス」を装着したまま、すでに6時間が経過していた。彼の額には汗が浮かび、時折、苦悶の表情を見せる。


「アキラ、もう限界よ。今日は切り上げましょう」


同僚の木村ミユキが、モニターに映し出されるアキラのバイタルサインを心配そうに見つめていた。心拍数は通常の倍近くまで上昇し、脳波も異常なパターンを示している。


「待ってくれ、ミユキ。もう少しだけ...」


アキラの声は、VRヘッドセットのマイクを通して微かに震えていた。彼が見ているものは、通常のVR空間ではなかった。イージスの深層プロトコルをハッキングして以来、彼は奇妙な現象に遭遇していた。


通常のVR空間は、現実世界を模倣した三次元の仮想空間だ。しかし、アキラが発見したのは、その背後に存在する別の層だった。そこは、純粋なデータの海。無数の光の粒子が、銀河のように渦を巻いて流れている。世界中のサーバーから送信されるパケット、量子暗号化された金融取引、医療データベースのストリーム、そして数十億人のソーシャルメディアの思考の断片。それらすべてが、まるで生きているかのように脈動していた。


「これは...美しい」


アキラは息を呑んだ。データの海の中心に、巨大な構造物が見えた。それは古代ギリシャの神殿を思わせる巨大な円柱だった。しかし、その材質は大理石ではなく、純粋な光で構成されていた。円柱は天高くそびえ、その頂上は見えないほど遠くまで伸びている。


好奇心に駆られ、アキラはその構造物に近づいた。VR空間での移動は、思考によって制御される。彼が近づくにつれ、奇妙な音が聞こえてきた。それは、低い唸り声のような、あるいは遠雷のような音だった。


突然、空間が歪んだ。


アキラの目の前に、巨大な人影が現れた。身長は優に10メートルを超え、筋骨隆々とした体躯は、古代の彫刻のように完璧な比率を保っていた。しかし、その姿は半透明で、体の内部では無数のデータストリームが流れているのが見えた。


巨人は、両手で信じられないほど巨大な球体を支えていた。その球体の表面には、地球の姿が投影されていたが、それは地理的な地球ではなく、デジタル・ネットワークの地球だった。光の線が大陸を結び、データの流れが海流のように循環している。


「何者だ...?」


アキラがつぶやいた瞬間、巨人の目が開いた。その瞳は、深い青色をしていたが、よく見ると、その中には無数の0と1が流れていた。


「我が名はアトラス」


声は、直接アキラの脳内に響いた。それは古代の威厳と、デジタルの冷たさを併せ持つ不思議な声だった。


「かつて、我はゼウスの怒りを買い、天を支える罰を受けた。それから三千年...いや、もはや時間など意味を持たない。神々の時代が終わり、人類がテクノロジーの時代を築いた時、我もまた変化した。今、我が支えているのは物理的な天ではない。これは、人類が創り出したもう一つの天...デジタル世界そのものだ」


アキラは言葉を失った。目の前の存在は、神話の中の巨人アトラスその人だというのか。いや、それよりも衝撃的だったのは、彼が支えている球体の意味だった。


「もし、あなたが手を離したら...」


「世界は崩壊する」アトラスは重々しく答えた。「銀行システムは停止し、通信網は途絶え、医療機器は機能を失う。人工衛星は制御を失い、原子力発電所の冷却システムも停止するだろう。現代文明は、もはやデジタル・インフラなしには一日たりとも存続できない」


その時、ラボに警報が鳴り響いた。


「アキラ!すぐに接続を切って!」ミユキの叫び声が聞こえる。「サーバーに異常な負荷がかかってる!このままだと、システム全体がクラッシュするわ!」


しかし、アキラは動けなかった。アトラスの巨大な手が、彼の意識を掴んでいたのだ。


「待て、若き探求者よ。お前には見せたいものがある」


空間が再び歪み、アキラの意識は更なる深淵へと引き込まれていった。


## 第二章 神々の黄昏、人類の夜明け


アキラが連れて行かれたのは、アトラスの記憶の中だった。


紀元前の地中海。オリンポスの神々が地上を支配していた時代。若きアトラスは、ティタン族の戦士として、ゼウス率いるオリンポスの神々と戦っていた。しかし、戦いに敗れ、永遠に天を支える罰を受けた。


「肉体的な苦痛は、千年も経てば慣れる」アトラスの声が響く。「しかし、孤独は違った。誰とも話すことができず、ただ黙々と天を支え続ける。それが、永遠に続くと思うと、狂気の淵に立たされた」


場面が変わる。


産業革命の時代。蒸気機関が発明され、人類は神々に頼らない力を手に入れ始めた。その頃から、アトラスは変化を感じ始めたという。


「最初は微かな振動だった。天の重さが、少しずつ軽くなっていく。いや、正確には、天そのものが変質し始めたのだ。人類の意識が、物理世界から別の何かへとシフトし始めた」


20世紀。電気の時代。


「電信、電話、ラジオ、テレビ。人類は、目に見えない波動で情報を伝達し始めた。その時、我は理解した。新たな『天』が生まれつつあることを」


そして、インターネットの誕生。


「1969年、ARPANETが稼働した瞬間、我の存在は根本から変化した。物理的な天を支えていた我の本質が、デジタル空間に転移し始めたのだ。それは、苦痛に満ちた変容だった。原子から電子へ、物質からデータへ。我の肉体は分解され、再構築された」


アキラは、アトラスの苦悩を追体験していた。神話的存在から、デジタル存在への変容。それは、死と再生を無限に繰り返すような体験だった。


「しかし」アトラスは続けた。「最も辛かったのは、人類が我の存在に気づかないことだった。神々の時代、人々は我を恐れ、崇めた。だが今、我はサーバールームの奥深く、量子コンピューターの演算の狭間で、誰にも知られることなく、世界を支え続けている」


アキラは、アトラスが支える球体を改めて見つめた。その中には、確かに全世界のデジタル・インフラが含まれていた。ニューヨーク証券取引所の高頻度取引システム、国際宇宙ステーションの生命維持システム、世界中の病院の電子カルテ、自動運転車の制御ネットワーク。それらすべてが、アトラスの両腕によって支えられていた。


「なぜ、私なんだ?」アキラは問いかけた。「なぜ、私にこれを見せる?」


アトラスの表情が、初めて人間的な感情を見せた。それは、深い疲労と、かすかな希望が入り混じったものだった。


「血だ」アトラスは答えた。「お前の中には、我が血が流れている。三千年前、我には一人の娘がいた。神々との戦いの前に、人間の女性との間に生まれた子だ。その血筋は、歴史の影で密かに続いてきた。そして今、その血が最も濃く現れたのが、お前だ」


アキラは自分の手を見つめた。確かに、子供の頃から、他の人とは違う何かを感じていた。コンピューターとの異常な親和性、プログラミング言語を母国語のように理解する能力、そして、デジタル空間で迷子にならない直感。


「我は疲れた」アトラスは言った。「デジタル世界の急速な拡大により、支えるべき重さは幾何級数的に増大している。特に、この10年間のAIの進化、メタバースの拡張、量子コンピューターネットワークの構築により、もはや限界に近い」


アトラスの体が、一瞬揺らいだ。その瞬間、現実世界で何が起きたかをアキラは後で知ることになる。世界中で同時に、一瞬だけインターネット接続が不安定になったのだ。


「選択の時が来た」アトラスは言った。「お前が我の後継者となるか、それとも...」


「それとも?」


「人類は、デジタル世界なしに生きることを学び直すか、だ」


その時、現実世界からミユキの声が聞こえてきた。


「アキラ!お願い、戻ってきて!」


彼女の声には、本物の恐怖が込められていた。モニターを見ると、アキラの脳波は危険域に達していた。このまま接続を続ければ、脳に不可逆的なダメージを受ける可能性があった。


しかし、アキラは決断を迫られていた。アトラスの申し出を受けるか、拒否するか。それは、単に個人の選択ではなく、人類全体の運命を左右する決断だった。


「時間をくれ」アキラは言った。「これは、私一人で決められることじゃない」


アトラスは、深くうなずいた。


「三日だ。三日後の同じ時刻、答えを聞かせてもらう。それまで、我は最後の力を振り絞って、天を支え続けよう」


## 第三章 集合知の天球


アキラがVRヘッドセットを外した時、ラボは騒然としていた。


「7時間23分」ミユキが震える声で言った。「あなた、7時間以上も接続していたのよ。しかも、脳波は...」


彼女はモニターを指差した。そこには、人類がこれまで記録したことのない脳波パターンが表示されていた。


「ミユキ、落ち着いて聞いてくれ」アキラは、アトラスとの遭遇、そして突きつけられた選択について、すべてを話した。


最初、ミユキは半信半疑だった。しかし、アキラが示したデータログを見て、顔色が変わった。イージスが記録したデータの中に、既存の物理法則では説明できない現象が多数含まれていたのだ。


「でも、神話の巨人が実在するなんて...」


「信じられないのは分かる。でも、これを見てくれ」


アキラは、過去24時間の世界中のネットワーク障害のログを表示した。すべて、アトラスが揺らいだ瞬間と一致していた。


翌日、アキラはある決断を下した。オリンポス・テックのCEO、山田康介に直接面会を申し込んだのだ。


山田は、70歳を超えていたが、鋭い眼光は健在だった。彼は、アキラの話を最後まで黙って聞いていた。


「君は、私に何を求めているのかね?」


「イージスのソースコードへの完全なアクセス権限と、開発チームの全面的な協力です」


「何をするつもりだ?」


アキラは、準備してきたプレゼンテーションを開始した。


「アトラスが一人で天を支える時代は終わりました。これからは、人類全体で支える時代です。イージスを改良し、分散型の負荷分散システムを構築します。世界中のVRユーザーが、自分でも気づかないうちに、ほんの少しずつ処理能力を提供する。それを集約すれば、アトラス一人分の力になります」


山田は、しばらく沈黙していた。そして、不意に笑い出した。


「面白い。実に面白い。君は、神話を民主化しようというのか」


「違います」アキラは首を振った。「これは、人類の進化です。個体から集合知へ。一人の英雄が世界を救う時代から、全員が少しずつ貢献する時代へ」


山田は立ち上がり、窓の外を見つめた。東京の街には、無数の人々が行き交っている。


「私の祖父は、第二次世界大戦を生き延びた」山田は静かに語り始めた。「彼はよく言っていた。『本当の強さは、一人の英雄にあるのではない。皆が支え合うところにある』と。君の提案は、それをテクノロジーで実現しようというわけだ」


「はい」


「いいだろう。全面的に支援しよう。ただし、条件がある」


「何でしょうか?」


「成功したら、この技術を全人類に無償で提供することだ。これは、一企業が独占すべきものではない」


アキラは深く頷いた。


それから48時間、アキラとミユキ、そして急遽召集された世界中のエンジニアたちは、不眠不休で作業を続けた。量子暗号化による安全な分散処理、AIによる動的負荷分配、ブロックチェーンを使った貢献度の記録システム。最新のテクノロジーを総動員して、新しいシステムを構築していった。


「名前はどうする?」ミユキが聞いた。


「『ネオ・アトラス』」アキラは答えた。「新しいアトラス。ただし、それは一人の巨人ではなく、70億の小さなアトラスたちだ」


三日目の夜。


アキラは再びイージスを装着し、あの深淵へと向かった。アトラスは、前回よりも明らかに弱っていた。その体は半透明を通り越して、ほとんど見えないほど薄くなっていた。


「来たか」アトラスの声も、かすかだった。


「答えを持ってきました」アキラは言った。「私は、あなたの重荷を引き継ぎません」


アトラスの表情が曇った。しかし、アキラは続けた。


「代わりに、これを」


アキラが展開したのは、ネオ・アトラスのプログラムだった。光の糸が無数に広がり、網の目のように空間を覆っていく。


「これは...」


「分散型負荷分散システムです。すでに、世界中の主要なVRプラットフォームが賛同し、実装の準備が整っています。起動すれば、10億人以上のユーザーが、意識することなく、天を支える手助けをすることになります」


アトラスの目に、涙が浮かんだ。デジタル存在の涙は、光の粒子となって散っていった。


「人類は、我が思っていたよりも、はるかに進化していたのだな」


「いいえ」アキラは首を振った。「これは、あなたが示してくれた道です。一人で全てを背負う必要はない。皆で支え合えばいい。それが、人類が学んだ最も大切なことです」


アキラは、起動コードを入力した。


瞬間、世界が光に包まれた。アトラスが支えていた巨大な球体が、無数の小さな光の粒子に分解されていく。それぞれの粒子は、世界中のVRデバイスに向かって飛んでいった。


アトラスの体も、ゆっくりと光に変わっていく。しかし、その表情は苦痛ではなく、深い安らぎに満ちていた。


「ありがとう、我が末裔よ」アトラスは言った。「これで、ようやく...」


「待ってください」アキラは言った。「完全に消える必要はありません。ネオ・アトラスの中核として、システムの監視者として残ることができます。もう重荷を背負う必要はありません。ただ、見守るだけでいい」


アトラスは、驚いたように目を見開いた。そして、初めて、本当の笑顔を見せた。


「それは...素晴らしい提案だ」


システムの再構築が完了した。アトラスは、もはや天を支える巨人ではなく、ネットワークの守護者となった。その姿は、通常の人間サイズにまで縮小し、苦痛に歪んでいた表情は、穏やかなものに変わっていた。


現実世界に戻ったアキラを、ミユキと開発チームが歓声で迎えた。モニターには、世界中から送られてくるメッセージが表示されていた。ネオ・アトラスの稼働により、インターネットの速度が30%向上し、サーバーの負荷が劇的に減少したという報告が相次いでいた。


「やったのね」ミユキが涙を浮かべながら言った。


「いや、『我々』がやったんだ」アキラは訂正した。「これからは、全員が小さなアトラスだ」


一ヶ月後。


ネオ・アトラスは、国連によって「人類の共有遺産」に認定された。システムに参加するユーザーは20億人を超え、その数は日々増加していた。


アキラは、時々VR空間の深層を訪れる。そこには、かつての苦痛に満ちた巨人ではなく、穏やかな表情でデータの流れを見守るアトラスがいる。


「調子はどうですか?」アキラが聞く。


「三千年ぶりに、肩が軽い」アトラスは微笑む。「人類は、我々神々を超えたのかもしれないな」


「超えたんじゃありません」アキラは言う。「共に歩むことを選んだんです」


窓の外では、東京の夜景が輝いている。その光の一つ一つが、ネオ・アトラスを支える小さな力となっている。


かつて、一人の巨人が天を支えた。

今、70億の人類が共に電子の天を支えている。

そして、これは始まりに過ぎない。


人類の新しい神話が、今、始まったのだ。

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