第八話【小さな帽子】
耳のそばで、ショキ、ショキと鳴る鋏の気配がこそばゆい。
「うーーん…ソフィアに任せるべきだったかな」
唸りながら、セドリックはぎこちなく鋏を動かしていた。ソフィアは朝から村の市場へ買い出しに出かけており不在である。大の大人がうんうん悩む様子はなんだか奇妙だなあ、と他人事のように考えていたら、セドリックの声が後ろから降って来た。
「昨日はよく眠れたか、クロード」
「…はい」
昨日もらったばかりの名前は、まだ自分の周りをふわふわ浮いているようで馴染まない。
セドリックはクロードの前に回ると、おもむろに大きな手でクロードの前髪を上げた。じっと覗き込んでいたかと思うと、おぉ、と緑の目をきらりと輝かせる。
「額を出すのも似合うなぁ。おれとおそろいにするか?」
にかっと笑う顔が眩しくて、クロードはもごもごと、このままがいい、と答えた。
クロードは瞳も真っ黒で、近づいても虹彩すら見えない。それを縁取る長いまつ毛も同様だった。そのあどけなく大きな目に見上げられると、神々しいような不気味なような、うっかり吸い込まれてしまいそうな感覚になる。この子なりに隠したいのだろうか、とセドリックは何とも言えない気持ちでクロードの後ろに戻った。
(それにしても、隈が消えねえなぁ。可哀そうに)
クロードは眠っていた間も、目覚めてからも、ずっと目の下にくっきりと隈をこしらえていた。髪や瞳と対照的に肌が白いものだから、余計に病的に見える。少なくとも目覚めてからはソフィアの監督のもと、滋養に富んだものを食しているが、それはしぶとく少年に刻まれているのだった。
「———よし、こんなもんでいいか」
セドリックは満足げに額を拭った。今日は冬にしては暖かく、庭先にいると降り注ぐ太陽光が目に眩しい。クロードが座っていた椅子の周りには今しがた切ったばかりの黒髪が散らばって、焚火の跡のようだ。軽くなった頭をふるふると振ると、犬みたいだなと笑われた。
「あ」
不意に声を上げたクロードに釣られ、セドリックも視線の先を追う。村の中心からぽつんと離れたこの家は小高い丘の上に位置していて、村からの一本道を見下ろすことができる。一台の荷馬車がその道を帰ってくるのを認めた二人は、手早く毛を払い落として出迎えに歩き出した。
「ただいま。ずいぶんさっぱりしたわね」
ソフィアはクロードの頭を見て目を細めた。さっそく荷下ろしに取り掛かったセドリックが首を傾げる。
「なぁ、この帽子、ソフィアのか?」
「それはこの子へのお土産。これから畑のこととか、外の作業も増えるでしょ」
ソフィアは帽子を受け取り、クロードの頭にぽんと被せた。つばが広く、確かにソフィアには小さすぎるが、クロードにはまだ若干大きくて、少しずり落ちそうになる。
「…この前、お金がどうとか言っていたでしょう」
ソフィアの声に帽子ごと顔を上げる。
「それよりも、家のことを手伝ってくれた方が何倍も助かるわ。畑も作りたいし、春にはお庭にお花も植えたいの。これから一緒に手伝ってくれる?」
ソフィアにまっすぐ問われ、クロードは一も二もなく頷いた。お手伝いできる、誰かの為になる、という言葉で、不思議なほど体がやる気に満ち満ちていったのだった。
「あんまり慌てるなよ、転ぶぞ」
荷下ろしで軽いものしか持てない分、クロードはせっせと家と荷馬車を往復していた。彼はあまり表情豊かな子ではないが、決して感情に乏しいわけではない。お手伝いと聞いてからいきいきと動き出す、そのいじらしさが眩しくてたまらなかった。ソフィアもそんなクロードを目で追っていたが、ふっと目を逸らした。
「言い訳付けて帽子なんか買ってきて、嫌な大人よね」
「いいや違う。あの子を守るために必要なことだ」
妻を自責の念から遮るように、セドリックは彼女の肩を抱いて優しくさすった。
田舎の町や村は世界が狭い。噂が回るのも早い。中心地から離れているとはいえ、村の人間がクロードの〝黒〟に気付いて騒ぎ立てたら、あっという間にこの平穏は崩れ去るだろう。あの帽子は彼らの目をごまかすためのお守りなのだ。いつまでも隠せはしないし、隠して生きることなど教えるつもりもない。が、いまあの幼い彼を、醜い大人の悪意に晒すのはあまりに酷だ。
「すまない。おれが思いつくべきことだった。…そんな顔しないでくれソフィア。大丈夫だ。一番いい道を、おれ達で一緒に探していこう」
「…そうね」
ソフィアはすんと鼻を鳴らして頷き、ふと口元を緩めた。ちょうど家の玄関から、ずり落ちた帽子を直しながら、クロードが駆け寄ってくるところだった。