第七話【ぼくの名前】
——時は戻り、現在。
「………分からない、です」
出身はおろか、名前すらおぼろげだという少年は、小さな拳を握りしめ、不安そうに瞳を揺らしている。
(ソフィアの予想が当たっちまったな)
妻いわく、人は強い衝撃を受けると、記憶に影響を及ぼすことがあるらしい。体に残る傷に限らず、精神的な傷でも可能性があるという。少年は手足の“黒”以外、目立った傷はなかったが、あれだけの火事に巻き込まれていたのだ、何かしらの精神的ダメージを負っていても不思議はない。詳しいことは定かでないが、もしウィルの言う通り、奴隷オークションなどが関わっていれば、それこそ忘れてしまいたいような光景がそこにあったかもしれないのだ。
「自分の手や髪のことは何か知っているみたいだが、生まれつきなのか?」
セドリックの問いに、少年は曖昧に首を傾げた。
「分かりません。ただ…これに触ったらだめ、ということだけ、はっきり覚えてます」
険しい顔で、その小さな手を見下ろす少年。ソフィアがおずおずと口を開いた。
「触ると、どうなるの?」
「…分かりません。でも、だめなんです」
きっぱりと言い、少年はぎゅっと膝元を握る。
少年の黒髪は肩口まで伸びていて、毛量が多く、つむじの辺りからもさもさと広がって鳥の巣のようだ。セドリックはそこへわざと手を突っ込んで、わしゃわしゃと大きく少年の頭を掻きまわした。慌てて少年が抵抗してくるが手は止めてやらない。
「子供がそんな顔するな! 残念ながらお前さんが止める前に、風呂も入れたし着替えもさせた。俺たちはさんざん触っちまったわけだが、見ろ、何ともねえ」
ようやく手を止めたセドリックを、ぼさぼさになった前髪の隙間から見る少年。ソフィアがセドリックの頭をぺちりとはたいたところだった。
「ほんと子供みたいなやり方しかできないんだから…。でもこの人の言う通り、私達なら何ともないわ。安心してちょうだい」
微笑むソフィアと、その横でセドリックも白い歯を見せている。無意識に詰めていた息を、ようやくきちんと吸えた気がした。セドリックは仕切り直すようにぱんと手を打った。
「よし少年、今度は俺たちの番だ。風呂と着替えのこと以外にも、色々伝えてやらなきゃな」
夫妻は少年に、ここに至るまでの経緯を教えた。ただし不安を煽らぬよう、不審な女のことや仮死状態にあったことは伏せ、辻褄の合うようにぼかして、だ。
夫妻が元々、王都の軍に勤める人間であったこと。六日前に起きた大火事で、気を失っていた少年をセドリックが保護したこと。その後、親族や縁者の申し出がなかったため、退役間近だった夫妻が少年の引き取りを希望したこと。王都から離れたこの家に来るまで、少年がずっと眠り続けていたこと。話して聞かせることで少年の記憶の呼び水になればと思っていたが、残念ながら少年は火事のことも一切覚えていなかった。
「で、ここからなんだが…っと、長々と喋っちまったな、続きは明日にしようか?」
「いいえ、大丈夫です。おしえてください」
少年は驚きこそすれ、取り乱したりせず、じっとセドリック達の話に耳を傾けていた。見たところ六つかそこらに見えるが、先ほどからの話し振りと言い、飲み込みの早さと言い、妙に大人びたところがある。セドリックは咳払いをした。
「二つ、大事なことがある」
セドリックはこれまでとは違う、なぜか申し訳ななそうな面持ちで、少年の目をまっすぐに見据えた。
「一つ。お前さんを引き取った、と言ったが、正しくはお前さんを養子に取ったんだ。赤の他人のままじゃ引き取れないと言われてな。つまり、今はおれ達がお前さんの父ちゃん母ちゃん、お前さんはおれ達の子供、ということになっている。眠っていたとはいえ、勝手に事を進めて悪かった」
頭を下げるセドリックに、少年はおろおろと手をさまよわせた。感謝こそすれ、そこに文句を言う気など毛頭なかった。ソフィアに促され、セドリックが続ける。
「問題は、お前さんの本当の家族がどこかにいるってことだ」
いるかもしれない、が正しいが、セドリックはあえて付け足さなかった。話が見えないのだろう、少年は黒い目をきょとんと丸くしている。
「ぼくの家族がいないから、セドリックさんたちが引き取ってくれたんですよね?」
「そうだ。だが何か事情があって、来られなかっただけかもしれないだろ? だからもし今後、お前さんの家族が現れたら、きちんと返してやりたいと思ってる。もちろん探す努力も惜しまないつもりだ。約束する」
セドリックの緑の目が強く輝いていた。その光に気圧されるようにこくり、と頷くと、「ありがとうな」と彼は目を細めた。
「それで、二つ目だが…」
そこでなぜか彼はソフィアの方をちらりと見た。彼女の表情は読めなかったが、静かに頷き、彼に一枚の紙を手渡した。
「…引き取りの手続きの時に、お前さんの名前が分からなかったんで、その…付けさせてもらった」
セドリックは紙を広げ、見やすいように少年の前に広げた。細かい文字がびっしり並んでいる。目を凝らす少年に、セドリックはぎょっとした。
「これ、全部読めるのか?」
少年はすぐに首を横に振った。
「むずかしい言葉ばかりで、ちょっとしか分かりません」
「ちょっとでも大したもんだ。これは養子の契約書だよ。難しい約束事がびっしり書いてある。…これ、読めるか」
セドリックが指さした文字を、声に出して追う。
「“ クロード ”?」
「あぁ。おれ達が決めた、お前さんの名前だ」
かっこいい名前だろ、と呟く横顔があまりに寂しそうで、少年は言葉に詰まった。セドリックはぱっと顔から陰りを消し、白い歯を見せた。
「本名を聞いたらすぐに手続きし直そうと思ってたんだが、覚えてないなら、どうだ、しばらくこの名前で過ごしてみないか。ずっと“お前さん”だと、よそよそしいだろ?」
クロード。口の中で小さく反芻してみる。聞きなれない、言いなれない、でも寄り添ってくるような不思議な響き…。
じっと固まっているのを見かねてか、ソフィアがおもむろに立ち上がった。
「無理して今すぐ決めることないわ。もしかしたら、明日にも自分の名前を思い出すかもしれないし」
「そ、それもそうだな! それに急におれ達が父ちゃん母ちゃんだとか、色々詰め込まれてこんがらがってるだろうし、今日はこのあたりにしよう。また聞きたいことがあったら、遠慮なく聞いてくれ」
ふと窓の外を見ると、すっかり日が暮れている。半端な時間に食事をしたせいか空腹感はないが、頭の中を行き交っていた色んな言葉が、気が抜けた途端にどっと疲れとして押し寄せてきた。まぶたが重い。セドリックも大きなあくびをしていた。
「私達は下の居間か、部屋を出て右の寝室にいるから、何かあったら言うのよ。厠は部屋を出て左ね」
室内の灯りを落とし、部屋を後にしようとする夫妻を「あの」と呼び止める。
「ぼく、この名前すきです。とても」
夫妻は顔を見合わせ、セドリックはにっこり笑った。
「明日は髪を切ろうな、クロード。男前が台無しだぜ」
クロードがこくんと頷いたのを認めて、夫妻は今度こそ部屋を後にした。扉の向こうで、ソフィアが鼻を啜ったような気がした。
寝具に包まって、とろとろと睡魔が忍び寄ってくるのを感じながら、クロードは何も思い出せない自分の両親について考えていた。自分はひどい火事の中にいたという。もしかしたら、両親も近くにいたのだろうか。怪我をしていませんようにと心から願いつつ、もし無事なら、なぜ自分を探しに来てくれなかったのだろう、と胸の奥に暗いもやが広がる。
(これのせい、なのかな)
月明かりだけの室内で、天井に向けて手をかざしてみる。闇とすっかり同化してしまって、肘から先が無いように見える。さっと寝具にしまい込んで、もやもやを追い出すように目をぎゅっとつむった。