第六話【重ね見る】
時は五日前、軍部の礼拝堂地下。
「セドリック、待って。この子、妙だわ…」
謎の女が現れたあの日、ソフィアが少年に見つけたのは、肌の異常だった。少年は指先から肘にかけて、足もつま先から膝に及ぶまで、炭でできたように真っ黒だった。肌だけではなく、彼の髪も同様に、闇を溶かしたような黒であった。何かで汚れているわけではないようで、少年にかかっていた布には何も付着していない。
(火傷の痕か? それとも刺青の類か…)
少年に触れようとする夫を、ソフィアは止めた。医術者としてまず肌の病を疑い、感染の可能性を危惧したのはもちろんだが、そんな理屈よりも前に、本能的な恐怖が彼女を突き動かした。まるで深い渓谷の淵に立たされているような、言いようのない恐怖がぞわぞわと這い上がっていたのだ。
セドリックは妻の様子を見て、やるせなさが胸を占めた。
(この子の存在を、この国は許さないだろう)
この国に、いやこの世界に、黒い髪の人間など存在しない。正確には、何百年も前にそういった民族がいたらしいが、迫害の歴史の末に滅んだとされている。迫害の理由は単純で、世界に浸透しているアイル聖教が黒色を禁忌の色としているからだ。誰が言い始めたか、黒髪の人々は「悪魔の子」などと蔑まれ、不和をもたらす存在として恐れられたらしい。今でこそ史実に残る大虐殺のような事件はないものの、「悪魔の子」に対する偏見は未だ根深い。敬虔な信者ではない夫妻ですら、少年を一目見て不気味さを覚えてしまうほど、その観念は世の中に浸透しきっていた。
このまま放置すれば、彼は生きたまま王都の共同墓地に埋葬されてしまう。しかし少年の生存を報告すれば、その容姿も明らかになってしまう。禁忌の存在に軍部が黙っているはずがない。秘密裏に殺されるか、最悪、研究施設に送られて、人間らしい扱いをされないまま一生を終えるだろう。それまでに少年が目覚めれば話は別だが、ソフィアの見立てとしては、少なくとも二、三日で目覚めることはないとの事だった。息はあるが、仮死状態に近いのだといい、見たことのない症例にソフィアも首を傾げていた。
そんな少年の処遇について、セドリックは思いもよらない提案を妻に持ちかけた。
「この子を、おれ達で引き取らないか」
始めは驚愕したソフィアであったが、夫が少年に何を重ね見ているのか、彼女自身も痛いほど分かってしまった。子を喪う悲しみは、風化したようでいて、ささいなことで鮮烈に蘇ってくる。
「…だからって、そう簡単にはいかないわ。仮にも死体を運び出すなんて、ばれたら軍法会議ものよ」
「もちろん、正規の手順を踏んであの子を連れ出すさ。無論、生きていることは伏せたままな」
「それって正規の手順って言うのかしら…」
セドリックの作戦を聞いた時、ウィルも頭を抱えて「聞くんじゃなかった…」と本気で悔いていた。
「絶対に縁者が見つからない、ってのはそういうことか。そんなガキの為に、のこのこ現れる馬鹿はいねェわな」
ウィルはがしがしと頭を掻いてセドリックを睨んだ。
「というか、作戦というより泣き落としじゃねェか。俺にどうしろってんだよ」
「泣き落とす相手が、お前の直属の上官なんだよ。礼拝堂の管理責任者はあの人だ。特に可愛がってるお前の口添えがあれば、話も聞いてくれるはずだ」
全幅の信頼を向けるその目が癪に障り、思わず舌打ちする。
「もしてめェが失敗した時は、迷わず見捨てるからな」
「あぁ。ソフィアだけよろしく頼む」
ややあって、ウィルは鼻を鳴らした。
***
「最後までウィルには迷惑をかけっぱなしだったなあ」
田舎道に揺られる荷馬車の荷台で、セドリックは王都の方角を見つめて目を細めた。その膝には未だ眠り続ける少年を、外套に包んで抱えている。隣に座るソフィアはその光景を何とも言えない顔で見つめていた。
「まだ信じられないわ。この子も私たちも、無事に軍を出てこられたなんて」
御者に聞きつけられないよう、ソフィアは声を落として言った。
「話の分かる人でな。新居を無駄にせずに済んで助かった」
セドリックは冗談めかして白い歯を見せたが、実際、話の分かる人であった。見ず知らずの子供の葬儀を自分たちに上げさせてほしい、と頼んだ時はさすがに目を丸くしていたが。
『自分が半端な善意を振り回したせいで、結局、少年を死なせてしまいました。もう軍部に残ってお役に立てない以上、何とかあの子に報いてやりたいのです』
『志は結構だが、アイルズ君、彼に縁者が現れた場合はどうするね?』
『もちろんその際は、自分の出る幕ではないと心得ております。しかしながら、少年は顔から全身にかけてひどい火傷を負っており、縁者が正しくその子と認識するのは、いささか困難かと』
上官は思案顔で顎ひげを弄る。
『旧市街は流れ者の集まり…そもそも縁者らしい縁者がいる者の方が珍しかろう。現に今のところ、身内の安否を尋ねてきた者はおらん。こちらとしても何日も待っているわけにもいかない。なにしろ遺体が多くて困る』
『心中お察しします』
『ところでアイルズ君』
『は』
『あれから、何年経つかね?』
『……五年と少しになります』
『そうか。早いものだな』
上官は得心した様子で執務席に腰かけると、いくつか書類を取り出した。
『ご子息のこともあろうが、罪滅ぼしなど際限がない。ほどほどにしたまえよ』
『…お気遣い、痛み入ります』
そうして、拍子抜けするほどあっさりと手続きが進んだ。セドリックとソフィアに関しては、そもそも例外的に留め置かれていただけなので大した処理はない。ウィルが他にも根回しをしてくれたおかげで、三人の他に少年の姿を見る者もなく、出立の日を迎えることができた。口も悪いし強面だなんだと怖がられている男だが、昔からそういうところが好きなのだ。
(心配すべきはむしろ、これからだな)
腕の中では、毛糸の帽子を被った少年の頭が、荷馬車の振動でゆらゆらと揺れている。抱え直すように、ぎゅっとその体を抱きしめた。
「じきにフースの村に着きますぜ。それにしても坊ちゃん、ぐっすりですな」
御者が笑って振り返った。
もともと、退役後は王都の私邸を引き払い、クヴェルタ北東の田舎町フースに夫婦で引っ越す予定だった。先の大火事のせいで延期になっていたが、既に新居を構えており、荷物も先に着いている手筈だ。
村の中心地で村長宅に寄って挨拶を済ませた。挨拶に行ったのはセドリックだけで、子供を理由にソフィアは荷馬車に残った。またしばらく荷馬車に揺られ、村の外れにある新居に着く頃には、王都を出て実に丸一日が経っていた。辺りはとっぷりと暮れている。
二階に少年を寝かせ、一階の居間で簡単な食事を済ませると、やっとひと心地ついた気分になった。どちらからともなくふう、と息が漏れる。
「ソフィア」
机の向かいに座るセドリックが、神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「いつもすまんな」
「なあに、珍しい。今さら怖くなった?」
言い返そうとした夫の額を、ソフィアは軽く指ではじいた。
「あなたが突っ走るのなんか慣れっこよ。謝るくらいなら、軍部にあの子を返してきなさい」
妻は時々、その辺の男よりも豪気なところがある。セドリックは声を出して笑った。
「ありがとう、ソフィア」
瞳に元気を取り戻した彼はおもむろに立ち上がり、二階へ向かい始めた。夫妻の寝室は一階に設えてあったので引き留めると、
「目覚めた時に真っ暗で一人ぼっちじゃ、可哀そうだろ」
と言い残し、足音を殺して上がっていった。ここ数日、引っ越しのやりとりや軍の手続きで奔走し、ろくに眠れていないはずのに、相変わらずの突っ走りようである。やれやれとため息をついて、夫の寝間着を抱えてソフィアも後を追うのだった。
そして翌日、少年が目を覚ました。
いつも『あがないの鴉』をご覧いただきありがとうございます。玖留ナヅナです。
4/30から、各話にサブタイトルを付けることにしました。管理しやすいかな~と思ったのと、なんとなくそれらしく見えるからです。なのであまり深い意味はありません(笑)
投稿頻度はまちまちですが、引き続きよろしくお願いします(ペコリ)