第五話【不幸の目覚め】
また、同じ夢を見ていた。
眩いほど明るいところから、下へ下へ落ちていく夢。自分から生える黒くて大きな翼が燃え尽きていって、二度と上へは戻れないことを悟る。
『あぁ、いま少し、救いたかった……』
徐々に円を狭めていく白い光に向かって手を伸ばす。黒く染まった己の手が見える。そうしていつものように真っ黒な闇に飲まれていくと思ったその時、
誰かが、その手を取った。
「大丈夫だ、ここにいるぞ」
その声の方へ向かって、ゆっくりと意識が浮上する——。
遠くで誰かの話し声が聞こえる。音がぼやけてよく聞こえない。
「セド、まだ原因が分からないんだから、あまり触れない方が…」
「心配するなソフィア。何か起きるなら、とっくに起きてるさ」
だんだんと意識がはっきりしてきたが、体が気だるくてたまらない。辛うじてまぶたを持ち上げると、白い光が目に染みてうめき声が漏れた。
「…お! 目が覚めたか」
嬉しそうな男の声がして、瞬きを繰り返すと、その輪郭が鮮明になっていった。
四十路くらいであろうか、日に焼けた肌をしていて、明るい茶の髪を首の後ろで結っている。高い鼻を横切るように顔に大きな傷があり、ともすればいかつい風貌だが、明るい緑の目が少年のように輝いていて、彼を人懐っこく、どこか幼く見せていた。
彼が両手で握っているものが、自分の手だということに気付いて、一気に意識が覚醒する。半ば振り払うように慌てて手を引っ込めた。
「だ…だめです。触ったらだめなんです」
男はきょとんとしていたが、すぐに両手を上げて見せた。
「悪い悪い、びっくりさせたな、少年」
少しおどけて見せた後、男は居住まいを正した。
「おれはセドリックという。で、こっちはおれの嫁さんのソフィアだ。美人だろ?」
白い歯を見せる彼に戸惑っていると、ソフィアと呼ばれた女性が呆れ顔で一歩進み出た。淡い金髪を一つにまとめ、小ざっぱりとした服を着ている。凛々しい切れ長の目の下に、泣きぼくろが印象的だ。
「この人いつもこうだから、気にしないでね。体はどう? 痛むところはない?」
こくり、と頷くと、「良かった」と彼女は柔らかく笑った。かすかに目元に笑い皺が寄るが、確かにきれいな人だ、と思った。
「…あの、ここはどこで——」
突然ぎゅるるるるぅ…と大きな音が自分の声を遮って、それが自分の腹の音だと気付いた瞬間、かっと顔に熱が集まった。セドリックがそれを吹き飛ばすように呵々大笑する。
「そりゃそうだよな、まず飯にしよう!」
食事を温めてくると言い、ソフィアが部屋を出た。階段を下りていく音がする。
「お前さん、この五日間、ずっと眠ってたんだぞ」
セドリックは大きな手をぱ、と目の前で広げた。
「五日…」
「そう。ちなみに、ここはおれの家だ。おれとソフィアの他には誰もいないから、そのことは心配しなくていい」
やさしくそう言われ、寝具の下に隠した手をぎゅっと握りしめる。
「知らん場所で知らん奴に囲まれて、落ち着かないだろ。飯が済んだら、ここ数日のことを教えさせてくれ」
ほどなくしてソフィアが、二人分の食事を盆に載せて戻ってきた。ほんのりと香ばしく甘い香りが漂ってきて、口の中に唾液があふれてくる。ぎゅるる…とまた腹の虫が騒いだと思ったら、今度の出どころは自分ではない。セドリックが腹をさすって笑っていた。
「あなたの分も持ってきて正解だったわね」
セドリックに支えられながら上体を起こし、ソフィアが差し出す盆を受け取る。大きな椀にとろりと煮込まれた穀物の粥が入っていて、甘い湯気が立ち上っている。横の皿には干し肉も盛られていて、ごくりと喉が鳴る。
「ミルク粥と、干し肉を炙ったものよ。空っぽのお腹がびっくりするから、ゆっくり食べるのよ」
ちらりと横を見ると、早くもセドリックが椀を片手に、はふはふと粥を頬張っていた。その顔を見て、匙を取り、掬った粥を口に運ぶ。乳のほんのりした甘さと柔らかい穀物の触感が口いっぱいに広がり、体の芯から満ちていく心地がする。炙った干し肉も塩気が効いていて、粥と交互に口に運ぶ手が止まらない。セドリック達がその様を微笑んで見守っていたことに気付かないほど、はふはふと夢中になって食べていた。
窓から漏れる光はだんだんと傾き、粥を食べ終える頃には夕暮れがそこまで迫っていた
「良い顔色になったな」
食後の茶をすすりながら満足げなセドリック。たしかに腹いっぱい食べたおかげで、指先までじんと力がみなぎっている気がする。頭が回り出すと急にいたたまれなくなって、起き上がってしゃんと背筋を伸ばした。
「…あの、セドリック、さん」
「ん?」
「ぼく、お金もってないです」
言うや否や、セドリックは茶を噴き出して盛大にむせ込んだ。慌ててその背をさするソフィアも、目を丸くしてこちらを見ていた。
「あほう、子供から金なんか取るか! 全く、深刻な顔して何を言うかと思えば…。こう見えてちゃーんと稼いでたんでな、食べ盛りの子供の一人や二人、屁でもねぇ。余計な心配するな」
セドリックは身を乗り出して、いたずらっぽく笑った。
「むしろこういう時は、ありがとうって言うもんだぜ」
ほれ、と視線で促されて、慌ててソフィアに向き直る。
「あ…ありがとうございます。ご飯、とてもおいしかったです」
「よぉーし。それでいい」
セドリックが眦を下げ、頭を撫でようと手を伸ばす。が、咄嗟に頭に両手をやって彼の手を阻んだ。
「だめです、セドリックさん、不幸になります」
夫妻は顔を見合わせた。ソフィアがそっと口を開く。
「…きっと、誰かにそう言われてきたのでしょうけど、そんなの迷信よ。ここでは大丈夫だから気にしないで」
じっと頭を抱えたままでいる自分に、「なぁ少年」と今度はセドリックが声をかけた。
「ここに来るまでのことを色々教えてやりたいんだが、お前さんのことも教えてくれないか。お前さんが嫌がることはしたくないんだ。そうだな、とりあえず、名前だけでも教えてくれねえか?」
セドリックの問いかけに、はた、と思考が止まる。名前。自分の名前。
「………分からない、です」
思いがけない返答に、夫妻は言葉を詰まらせた。
「それは…覚えてないってことか?」
頷く自分に、セドリックは唸って腕を組んだ。
「他に覚えていることはある? あなたの家族のこととか、住んでいた所とか」
思い出そうとして、やはり首を横に振った。頭に白くもやがかかったようになって、断片すらも掴めない。
代わりにただ一つ、心に強い確信があった。
(この手に、この髪に、触れさせてはならない)
そうして自分の手を、指先から肘のあたりまで、練った炭のように黒く染まった不気味な手を、静かに見下ろした。