第三話【人攫い】
本来であれば今日限りで退役し、軍部から完全に離れる予定であったが、事態を鑑みてソフィアと俺は数日の滞留を認められた。もっとも、彼女は優秀な救護兵として懇願され引き留められる形だったが、俺は怪我人として静養するためという、何とも格好のつかない理由だ。
「今度こそ死んだと思ったのに、ぴんぴんしてるじゃねえかクソ」
悪態すれすれの軽口を叩きながら病室を訪れたのは、同僚のウィルであった。候補生時代からの一番古い付き合いで、こんな物言いも慣れっこである。若い頃ある任務中に怪我を負って左目を失明し、以降常に眼帯を付けている。もともとの不愛想な顔つきに加え、野生動物のような眼光をぎらりと隻眼にたたえているので、新兵などは震えて縮み上がる。彼はその右目で室内をさっと見渡し、「ソフィアは」と短く尋ねる。
「きっとまだ救護棟だ。夜が明けてすぐに出ていったきり戻ってきていない」
すっかり日は真上に上り、昨夜の喧騒が嘘のように、うららかな日差しが差し込んでいる。ウィルは返事の代わりに鼻を鳴らし、どっかりとベッド脇の椅子に座り込んだ。どうやらただの見舞いではないらしい。彼の眉間にはいつにも増して深い溝が刻まれていた。
「火事の詳しい被害は聞いているか」
おれは首を横に振る。ウィルは唸るように答えた。
「見てきたが酷ェもんだった。旧市街の半分以上は焼けちまったらしい。まだ調査中だが、出火場所は旧聖堂じゃねえかとあたりをつけてる」
お前が馬鹿みたいに突っ込んでいった場所な、という丁寧なご指摘を無視して、おれは身を乗り出した。
「たしか旧聖堂は老朽化が原因で、立ち入り禁止区域になっていたよな? 封鎖される前に中のものはほとんど撤去されてがらんどう。あんな大規模な火事が起きるような場所とは思えないが」
「そのあたりも謎だが、問題はそこじゃない」ウィルの隻眼がぎらりと光る。
「中でかなり死体を見たろ。旧聖堂だけで四十余り出た。おそらくまだ出てくるだろう。周辺の建物の死傷者数と比べて桁違いに多いそうだ。そしてもう一つ」
ウィルは声を一層低めた。
「旧聖堂から運び出された中に一人だけ、辛うじて息がある者がいて、妙なことを言っていたそうだ」
たすけてください、ぼくはしょうひんです。と。
「商品だと?」
「恐らく文字通りな。残念ながら、詳しく聞き出す前に死んだらしい」
拳を固く握りしめるおれを一瞥し、ウィルは椅子に深く腰かけ直した。
「近頃は騒ぎが少なかったが、連中が絡んでいると思って間違いない。」
「〝人攫い〟か」
ウィルは首肯した。
十年ほど前、隣国パレジョールがとある海上貿易国家と急激に親交を深め、貿易条約を結んだ。その頃から誘拐・失踪事件が相次いで耳に届くようになり、魔の手は自国、クヴェルタにも及ぶようになっていた。攫われた人間は奴隷として海を渡って売買されているとか、どこかで戦争に駆り出されているとか、憶測はあちこちで飛び交っているが、被害者が戻ってきた事例はほとんどなく、また何の目的で、誰が糸を引いているのかも未だ掴めていない。現状、噂は噂のままだった。そんな最中、自らを商品といい助けを求める人間が現れた。おれもウィルも、考え至るところは同じらしく、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「恐らく旧聖堂の地下空間を使って、奴隷売買のオークションが行われたんだろう。そして何らかの原因で火事が起き、商品として繋がれていた人々の多くが犠牲になった…」
「現場の規模と死体の集中具合から見て、まァ、そんなとこだろうな」
ウィルはがしがしと頭を掻いた。
事の発端である貿易条約が結ばれた日、おれは隣国で開かれた祝賀パーティーに護衛として同行し、貿易相手のトップの顔も見た。その時から、なんとなく胸がざわついたのを今でも覚えている。本能的な何かが、奴を信用してはいけないと告げていた。
(奴隷売買の現場だとするなら、あの子も…)
抱き上げた子供の軽さを思い出し、目の前が暗くなっていくような感覚になる。
きな臭い相手との国交など閉ざしてしまえば話は早いが、できない理由が山のようにある。クヴェルタは北と東を険しい山々に、南は荒れる海に囲まれた天然の城塞国家で、大河を挟んだ西のパレジョールは貴重な貿易相手であった。自国より遥かに広大で肥沃な土地からもたらされる恩恵は、この国の生命線と言っても過言ではない。国防の面から見ても、絶対に喧嘩を売ってはいけない相手だ。他のどんな国と親交を深めようが、クヴェルタに口を出す余地はなかった。黒い噂に目をつむりながら、火の粉が飛んで来たら振り払うしかないのである。
男二人むっつりと黙り込んでいると、扉が勢いよく開いた。ドアノブを握った姿勢のままソフィアが目を丸くしていた。
「びっくりした、来てたのねウィル」
ソフィアを一瞥するやウィルはさっと立ち上がって「邪魔したな」と大股に部屋から出て行ってしまった。ソフィアはぽかんとそれを見送っている。
「なにか大事な話でもしてた?」
「ちょうど済んだところだ、気にするな。それより救護棟はもういいのか」
「一区切りってとこね。それより、行きたいところがあるんでしょ。話は付けてきたから、休憩がてら付き添ってあげるわよ」
「本当か! それは助かるが…。大丈夫か?」
ソフィアは一瞬逡巡したのち「大丈夫よ」と答えた。彼女の手を借りて、おれは寝具からゆっくりと下りた。軽度とはいえ火傷を足にも負い、引きつれたような痛みがあるのだ。
救護棟を過ぎた先に、殉職した者を鎮魂するための礼拝堂がある。敷地の隅にあるそれは木立に囲まれていて、昼過ぎの明るい陽光の元でもなんとなくひっそりとして見える。中に入ると、石造り特有の冷気がひんやりと這い上がってくる。おれ達はさらに地下へ向かって階段を下りて行った。
「……こんなに」
礼拝堂の地下は広々としていて、入口よりもさらに冷たい空気が漂っている。そこは遺体の安置所としてしばしば使われていた。白い布がかけられた遺体が、一定の間隔で視界いっぱいに並んでいる。真冬なのが幸いしいて、匂いはあまり気にならない。
「あっちの列だそうよ」
ソフィアが白い息を吐きながら、堂内の奥を指さす。列の中でひときわ小柄なそれを目にした時、彼女がおれの手をきゅ、と握った。人の死を何度も間近で見てきた彼女だが、子供の死は一層胸に迫るものがある。かつて子を失ったおれ達には余計にだ。
「守ってやれなくて、すまなかった」
短く詫び、軍式の最高礼を贈る。ソフィアもそれに倣った。
しばしその小さな体を見つめて、ふと、違和感に気付く。薄暗い室内を照らすランタンの加減か、充満する冷気の悪戯か、その布がわずかに上下しているように見えたのだ。
(「火傷が酷くて顔の判別もつかないから、身元を探してあげるのも難しいみたい」…)
妻の言葉が思い出される。
(まさか、な)
心臓が早鐘を打ち出す。おれは子供にかかる布に手を伸ばし、そっとめくり上げた。
「…ソフィア」
俺の声に異常を察したのか、俯いていたソフィアが顔を上げた。
「見てみろ。これが判別できないような状態か?」
一歩近づいたソフィアは、驚愕のあまり言葉を失った。唇がわなわなと震えている。
少年の顔には一切の傷もなく、そしてその胸はわずかに、だが確かに、上下していたのだ。
「この子の死亡判断をしたのは、誰だ」