第二話【少年と夢】
耳元でパチパチと火花が爆ぜる。俺はまだあの火事の只中にいて、子供を抱えて走っている。目の前を行く女を追いかけて、転げそうになりながら必死で。
夢だ、とすぐに分かった。
ぐっと引っ張られる感触がして見下ろすと、外套の中から手が伸びていて、俺の襟元をぎゅっと握りしめている。その手が、爪も、皮膚も、真っ黒になっていた。
周りの黒焦げの死体たちが、ひしゃげた腕でこちらを指さし非難する。
どうして助けてくれなかったの。どうしてその子も救えなかったのと。
嘘だ、この子はさっき息があったじゃないか。いや、こんな姿になっているなんて。もしかして、もう…。
叶うなら皆助けたかった。俺の指揮がもっと早ければ、もっと早く辿り付いていたら。間に合わなくてすまない。無念だったろう、苦しかったろう。すまない。すまない。すまなかった…!
どんどん呼吸が浅くなって、思わず足が止まりそうになった時、前を行く女が振り返った。
『その方は、生きています』
女はまっすぐに腕の中の子供を見ていた。女の姿は揺らぎ、炎と混ざり合うようにして一体化すると、俺の周りを囲って死者の幻影を退けていった。煌々と白熱した瞳が、今度は俺の目をしかと覗き込んだ。
『どうかその方を守って。どうか、どうか……』
目が覚めた時、俺はびっしょりと汗をかいていた。呼吸が荒い。
ぼんやりと薄暗いが見慣れた天井が見えた。間もなく夜明けか、と認識すると同時に、視界にぬっと人影が入り込んできて、
「あたッ」
俺はぺちっと額をはたかれた。
「最後の最後まで無茶して。このバカ」
「ソ…ソフィア? なんでここに」
自邸で寝ているはずの妻がなぜか軍の官舎にいて、テキパキと俺の世話をしている。部屋の隅で暖炉の火がパチパチと爆ぜていて、部屋は心地よく暖かい。色々と追いついていないのが顔に出ていたのだろう、暖炉に薪を足しながらソフィアは話し始めた。
「怪我人が多くて人手が足りないからって、夜中に叩き起こされたのよ。最後の日に大火事だなんて、本当、ついているのかいないのか」
ため息交じりのソフィアの台詞に、頭が一気に冴えていく。炎のうねりが鮮烈に脳裏に蘇った。
「状況はどうなった。怪我人の数は?部下たちは無事か?あの子は、」
「ちょっとぐらい自分の心配をして頂戴」
ぴしゃりと叱られた俺は、乗り出しかけていた身体をそそくさと寝具に戻して「すまん」と詫びた。
「…教えてあげるから落ち着きなさい」
話によると、増援部隊が到着してから一気に消火と救助が進み、火災はすでに鎮火したという。幸い部下たちは軽い火傷などで済んだものの、旧市街の市民の死傷者が多く出ており、軍の救護棟に次々と運び込まれていた。ただでさえ人手不足の救護兵では手が足らず、非番の者も招集された結果、市街の自邸に引っ込んでいたソフィアもこうして駆り出されたのだという。夜勤明けで眠いだろうに、そんな気配を微塵も見せない彼女には、相変わらず頭が上がらない。
「ベッドも足りないから、空いている官舎の部屋も借りているの。優雅に個室よ、隊長さん」
設備の整った救護室は重傷者を優先して入れたので、軽度の火傷で済んだ俺はベッドだけの部屋でも問題なかったというわけだ。
「…納得いってない顔だな」
処置を終えたあとも俺の腕をじっと見つめるソフィア。
「当たり前でしょう。単身火に飛び込んだら、普通もっとぐちゃぐちゃよ」
「そもそもなんでばれたんだ? 誰も見てないと思ったのに」
「真面目な新兵君が教えてくれたわ。ほらあの、ちょっとぽっちゃりした」
「あのやろう…」
じゃあ怒れねえなァ、と嘆息したところで、ソフィアは伏せていた顔を上げ俺をまっすぐ見据えた。少し身構えたが、その瞳に怒りはなかった。
「セド。皆がみんな、あなたみたいに頑丈なわけじゃない」
ソフィアは静かに言葉を続けた。
「あなたが助けた子ね、さっき亡くなったと連絡があったわ」
夢で見た真っ黒な腕がまだ襟元を締め付けているようで、俺は吸った息を吐けずにいた。彼女はあくまで淡々と言う。
「救護室に来た時には、もう息がなかったそうよ。火傷が酷くて顔の判別もつかないから、身元を探してあげるのも難しいみたい。縁者からの申し出がなければ、王都の共同墓地に…」
「ち、ちょっと待ってくれ」
彼女の言葉の一つに引っ掛かり、鈍磨していた頭がじわじわと巡り始めた。
「あの子の顔なら見たぞ。痩せこけていたが火傷なんてどこにもなかったし、息も…」
言いかけて、妻の気の毒そうな顔を見て口を噤んだ。
俺は確かにあの時、炎のぼんやりした灯りの下ではあったが子供の目鼻を確認した。見間違えるほど自分の頭はおかしくなっていないと信じたい。それに、そもそもあの子は火傷を負うような状況ではなかった。なにせ炎があの子を避けていたのだから…。と、ここまで思考して、やはり口にしなくて正解だったと内心苦笑した。こんな話、誰が聞いても俺を精神病棟へ引っ張って行くだろう。黙りこんだ俺の腕を、ソフィアは優しくさすってくれた。
「気が動転してたのよ。無理もないわ」
窓から仄白い光が入り込んで、彼女の泣きぼくろまではっきりと照らし出した。夜明けが近い。彼女は眩しそうに眼を細め、そろそろ救護棟の様子も見に行かないと、と腰を上げた。
「なぁ、あの子に身寄りがなかったら、共同墓地へ埋葬されるんだよな」
怪訝な顔で振り返る妻に、俺は言葉を濁した。
「もし、…いや、何でもない。せめてあの子の魂に祈りを捧げたいんだが、外出許可をいただけないだろうか、救護婦長殿?」