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第一話【冬の大火】

 あの子と出会ったのは、今から三年前の冬。その日はちょうど、俺が軍人としての務めを終える最後の日だった。夕方には雪がちらつき始めており、これを着るのも最後か、と妙な感慨に耽りながら、国章が刻まれた外套に袖を通す。十歳で国の盾となる道を選び、早や三十年。夜半の巡回が終われば、あとは軍部に諸々を返上して帰路につくだけ。早く妻の寝顔が見たい。最後ぐらい何事もなく平和に終わりますように、と歩き慣れた街並みを進む。

 そんなささやかな願いも空しく、鋭い警笛が閑静な町を切り裂いた。俺は音の方へぐるりと視線を巡らせる。

(西区の旧市街か)

 軍部の人間が持つ警笛は、手のひらに収まるほど小型だが、ひとたび吹けば驚くほど高く鋭く響き渡って異常を知らせて救援を求めることができる。当然、よほどのことでない限り使用は禁じられていた。

 日没後の西の空が、煌々と赤く染まっていた。

 市街地から森を突っ切って近づくにつれ、漂っていた焦げ臭さは一層濃くなり、煙で息苦しさが増す。ぱっと森を抜けた途端、炎が凄まじい勢いで建物から躍り上がって家々を飲み込んでいるのが見えた。逃げ遅れた人々か、悲鳴と叫び声が木霊している。まずい、火の手が早い。熱波が容赦なく吹きつけてきて、この距離でも皮膚が爛れてしまいそうだ。

「アイルズ隊長!」

 俺の姿を認め、若い部下が息せき切って駆け寄ってきた。首から下げた銀の警笛が揺れている。こわばった顔は煤まみれで軍服も所どころ焦げていた。

「状況は」

「怪我人が多く、避難が難航しています。消火もあたっておりますが追いつかず…」

 彼の警笛を聞きつけたのであろう他の部下たちは、少ないながら手分けして怪我人を担ぎ、近くの水路から汲んだ水を家々にぶっかけている。が、あまりにも多勢に無勢だった。このままでは増援が来る前に無駄死にが出る。

「よし、よく耐えた。あとは俺が何とかする。お前は今すぐ詰所に戻って、全員叩き起こしてこい」

 部下は即座に走り出した。

「消火は間に合わん、避難最優先だ‼ 水は救護者にかけろ‼」

 他の部下たちにも指示を飛ばして回る。ここにいるのは王都の市街地から流れた貧民層がほとんどで、身体に難を抱えている者も多い。手助けなしにこの火から逃れるのは不可能だ。

 炎の間を駆けまわっていると、ふと目の端に人影を捉えた。女だ。顔はよく見えないが、大きな館の前に立ってこちらを向いている。

「大丈夫か!今そっちに…」

 言いかけて俺は、全身の血の気が引いた。女は館の中を指さして、じっとこちらを見たかと思うと、なんとそのまま炎の中へ駆けて行ったのだ。

「おい、よせ‼」

 怒号は炎の轟音で搔き消える。

 一瞬のことに理解が追いつかなかったが、俺は納得するより早く、消火用の水を頭から勢いよくかぶった。

『あなたは、どうして自分を大事にしないの』

 俺が無茶をする度、妻はいつもより強めに包帯を巻きながら、俺を責める。

『そりゃあ、人間がみんな、誰かの大切な誰かだからさ』

 俺は決まってこう答える。

 俺はな、ソフィア。自分の命が軽いとも、ましてやお前を悲しませたいなんてこれっぽっちも思ってない。こうやって俺がお前を思うように、目の前の人間も誰かを思って、思われている。そう考えたら、多少危なくても、見捨てるような真似できないじゃないか。

『もう、言い訳ばっかり』

 死んだら許さないから。と睨むその目すら、たまらなく愛おしいんだ。

(絶対、死んでも生きて帰る)

 俺は燃え盛る館に向き直り、水の神へ加護の祈りを口早に唱えて、炎の中へ飛び込んだ。


 まさに地獄絵図だ。

 見渡す限り炎に包まれ、黒焦げになった死体があちこちに転がっている。心の中で舌打ちしながら、必死に目の前の女を追った。館に飛び込んですぐ、彼女はいた。彼女は俺を先導するようにつかず離れずの位置を保って、苦しむ様子もなく火の中を駆けていく。

 もしかして俺は幻覚を見ているのか?と一抹の不安がよぎる。人助けの熱に浮かされてこんな幻を見ているとしたらいよいよ末期だ。しかしそんな不安も霧消してしまうほど、時々振り返る彼女の顔は真剣だった。

 ほどなくしてぽっかりと開いた空間に出た。大きな講堂のような形をしている。炎が天井まで舐め上げており、焼け崩れるまで一刻の猶予もないだろう。すり鉢状の構造だが中央だけ舞台のように一段高くなっていて、その真ん中に、何かある。それを中心に一定の範囲が、まるで炎が意思を持って避けているかのように、延焼が及んでいなかった。駆け寄ると、それはローブのようなもので包まれていて、やはり焦げひとつついていない。

 その隙間から、小さな手足が覗いていた。

(子供か——!)

 一も二もなく抱き上げたその体は、驚くほど軽かった。薄いローブだけでは心もとなく、着ていた外套を脱いで子供をすっぽりと包み直す。体つきからして5、6歳くらいだろうか。さっきの女はこの子の母親なのか? ここに入ってから、急に姿が見えなくなっていた。

「誰かいるか‼」

 怒鳴ると熱風が喉を舐め、一気に涙目になって咽る。返事の代わりに、先ほど来た道がドォッと音を立てて崩れ落ちてきた。退路を塞がれた。いよいよまずい…‼

『こっちよ』

 はっと声の方を振り返ると、さっきの女だ。別の通路らしきところに佇んでいる。俺が子供を腕に抱えているのを見て笑った気がした。彼女はまたしても指をさし、その通路の奥へ消えた。この灼熱の中、なぜ火傷ひとつせず平然としていられるのか。全くもっておかしな事ばかりだが、今はどうでもいい。ここまで導いたのは彼女だ。たとえ幻覚だろうが幽霊だろうが、腹を括って信じるしかない。

 炎を上げる瓦礫の間を縫うように無我夢中で駆け戻り、転がり出たのはまっさらな雪の上だった。頬に触れた雪がじゅう…と溶けていく。

(つめたい…)

 無意識に身体を寄せようとして、ハッと腕の中の存在を思い出す。もどかしく外套を外すと、炎の橙色に照らされて、痩せた子供の顔が見えた。目立った怪我はなさそうだ。そっとその首筋に手をやる。

とく、とく、とく…と、弱いが確かに、あたたかく脈を打っていた。

(……生きてる………)

 俺はようやく、肺の底から長く長く息を吐きだした。一気に安堵が押し寄せてきて、身体のこわばりが解けていく。

 ぼんやりと霞んでいく視界に、いくつものランタンの灯りと、隊長、と口々に呼ぶ声もする。いくつもの軍靴が駆け寄ってくるのが見えて、安心しきった俺は、情けないことにそのままふっと意識を手放してしまった。



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